一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

我等が行持に依りて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。

2006年07月09日 | 禅・仏教
表題は、道元禅師『正法眼蔵 行持巻』の言葉である。

<意訳>
「私たちの行持(行い保つこと)によって、諸仏の行持があらわれ、諸仏の成就せられた大道が実現するのである。」


では「行持」とは何か。

それは仏祖の行履そのもの、「只管打坐(しかんたざ)」にほかならない。

この只管打坐は、形象としての坐禅に留まらない。

行住坐臥、いついかなる時も工夫次第で只管打坐となる。

只管打坐とならない時はない。


この行持は尽十方世界、全宇宙を窮め尽くしあらわさずにはおれない。

そのとき私たちの行持は諸仏の行持であり、それ以外に諸仏の行持はあらわれないのだ。

行持とは、究極の意味体験。

言語を絶した「仏行」そのもの。

「仏行」を行持している自己に外部はない。

過去・現在・未来の間断なき道環である。

十方三世一切仏。


<追記>

「行持」とはかくも難しいのだ・・・

光陰矢の如し。

諸仏の行持をまねぶ努力を怠ってはならない。

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2 コメント

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Unknown (kouniti)
2007-01-29 19:29:06
私は中村宗一訳を時々読みますが、分かるような分からないような感じですね。「行持・上」の一部は、毎朝欠かさずに発音練習程度に仏前で蓮如の御文とともに読んでおります。貴ブログ時々読ませて頂き勉強したいと思います。
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kounitiさん、はじめまして (りょう)
2007-01-29 23:46:01
コメント有り難うございます。
中村宗一氏の訳、浅学なため知りませんでした。
私は、現代語訳では玉城康四郎訳を用いています。
と言っても、この記事は読経していてハッと浮かんだ直感のようなものを、言葉にしたものなので、学術的、思想的な裏付けは怪しいものです・・・。
曹洞宗の所依の経典、『修証義五章』に組み込まれているものですから、われわれにとっては馴染み深い言葉なんですよ。
水野弥穂子先生は、ここで示される「諸仏の行持見成」と「われらが行持見成」、「諸仏の大道通達」と「われらが行持通達」は同じ事実だとされています。
そして、それが証されるのは、発心・修行・菩提・涅槃の行持においてということなのでしょう。
その具体的実現となると・・・難しいものがありますが。
やはり坐禅に集約されているように思います。
いずれにしても、審細に参究していく必要がありますね・・・。

未熟者のブログですが、これからもよかったらいらしてください。
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