一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

空也上人

2006年01月23日 | 禅・仏教
「一たびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし」

――いかなる人であろうと、一たび南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず蓮の上にのぼらないものはいない(極楽往生できないものはない)――

この和歌を書いた石塔婆を、平安京の囚獄でもあった東市の市門に建てた僧。

その名を「空也(くうや)(903―972)」と言う。

私が憧憬を抱く仏祖の一人である。

わが国ではじめて、貴賎上下を問わず念仏往生を唱導した人。

わが国ではじめて上人(しょうにん)と呼ばれた人。

京の都を行乞をして、得るものがあれば病人貧者に施し、己を捨て去り、ひたすらに易行念仏を説いて庶民を勧化し、京の人々に「阿弥陀聖(あみだひじり)」、「市聖(いちのひじり)」と敬慕されて止まなかった人である。

上の和歌が書かれた石塔婆を読んだ、罪人の心中はいかばかりであったろうか・・・
地獄に落ちるは必定であろう我が身でさえ、一たびの念仏で極楽往生できるのだ。
それが京の市民の宗教的、精神的な支えであった空也上人の言葉であれば尚のこと、罪人が激しく感涙にむせんだであろうことは想像に難くない。


空也上人の生涯は多く謎に包まれており、また上人本人の著作も伝わらず、その教えは思想としての結実を見ることはなかった。

だが、法然上人より200年も先駆けて、口称念仏という究極の易行道を他者救済(利他)の一念で推進した空也上人は、「日本浄土教の祖」と言っても過言ではないであろう。
空也上人の市井における口称念仏による万人救済の菩薩道の発露が、歴史(人々)に潜在力(唯識の言葉を借りれば、種子として)として蓄えられたために、鎌倉時代に至り法然上人において専修念仏の教えとして見事に花開くことができたのではなかろうか。
また、時宗の祖一遍上人は、念仏者、空也上人の「捨ててこそ」の境涯に自己の宗教的アイデンティティーを求め、空也の「文」という念仏聖としての所懐を護持していたという。

さて、ここに空也上人のエピソードを紹介したい(孫引きです)。

 昔、神泉苑の水門外にひとりの病女があった。年たけ容色衰えているのを、上人 はあわれんで朝夕これを見舞い、袖の中に籠を隠し、その好みに応じて生臭物な ども買い与えて養生させた。ふた月して病女はようやく元気を取り戻し、何か取 り乱してものも言えぬ風情である。上人は女に何を思っているのか問うと、女は 精気が内のこもって、上人と交接したいのです、と答えた。上人はしばらく考え ておられたが、遂にこの女と交わってよいとの気色を示された。病女は嘆息し  て、われは神泉苑の老狐、上人は真の聖人、といいおわって、忽然として姿を消 した。その臥(ね)ていた薦席(こもむしろ)もたちまち消えてしまった。(堀 一郎『空也』)(引用:松本史朗『仏教への道』東書選書)

 長くなるが、このエピソードに対する松本史朗氏の優れた述懐を以下引用する。
 
 これは、とくにドラマティックな話ではない。ここには、自己の手や足を切断したり、高所から身を投じたりといったような捨身の外的な要素はまったく含まれていない。しかしはっきりいって、これほど恐ろしく、また深い話はない。このエピソードにおいては、空也はすでに京都の市井において、「市聖」、「阿弥陀聖」と呼ばれ、民衆の絶対の信頼を得ている。口にはつねに南無阿弥陀仏と唱えながら、もし布施を受ければみずからそれを用いることなく、貧者や病人に施し、また水の乏しいところには新しく井戸を掘ったりなどしたので、人はみな空也を敬わざるをなかったのである。空也は、このような慈悲の行為のひとつとして年老いた病女の世話にあたっていたものであろう。病を治すために生臭物なども買い与えたと言うところに、例えば戒律と言うような外面的なきはんなどにとらわれずに、ただ相手の苦しみを救おうとする空也の慈悲の深さが現れている。しかるに、病が癒えた老女が望んだことはなんと空也と性的な関係がもちたいということであった。自己というものをまったく捨てて念仏に没入し、ただ利他の行ひとすじに生きてきた空也にとっても、これは驚きであったであろう。空也が生涯女性を知らなかったことは、京都六波羅蜜寺にある彼の木像からもじゅうぶんにうかがい知ることができるし、第一、彼は生まれ落ちて以来、性的なことなど心に思ったことさえなかったであろう。彼はそれほどまでに聖人だったのである。また、かりに空也が老女の頼みを聞き入れて彼女と交わったりしたら、どのようなことになるのか、考えてみるといい。聖人の堕落の話ほど、人々を喜ばせるものはない。彼の名声は一夜にして消えうせ、ごうごうたる非難と軽侮の声がわき起こって、いままで人々に敬われていた彼は、反対に、人々に石をもって追われるようにになるであろう。そして彼のおかげで、せっかく京都の人々の間に根付いたと思われた念仏の習慣もたちまちに消えて、ただ嫌悪の対象となるであろう。こういうことを空也が考えたかどうか。伝記にはただ「しばらく考えた」というところが、おそらくもっとも尊いところなのであろう。空也もまた人間である。迷いがないといえば嘘になる。おそらくは暗い小部屋のかたすみで、笑っている醜い老婆を前に、美しい子どものような顔をうつむけてじっと考え込んでいる空也の姿を想像すると、何かぞっとするようなすごさにとらわれる。しかし、空也はついに決意する。彼は勝ったのである。彼は他人への愛ゆえに自己のすべてを完全に捨て去ったのである。自己の名声をも、そしてまた、自己の清らかさをも。いわば彼は、自己を十字架にかけ、そして殺したのである。それゆえにこそ、初めて「上人は真の聖人」といわれることができたのである。私は、これほどまでに深い愛の話を、あまり聞いたことはない。これほど徹底的な自己放棄、これほど無私の愛がどこにあるであろうか。私はこの話を読んで初めて、彼の像のあの「恍惚」と評される不思議な表情の謎が一部解けたような気がしたのである。

 以上の松本史朗氏の文章は、一エピソードに対して、あまりにドラマティックで空想的な美化をしていると捉える向きもあるだろう。しかし、私はこの文章を読み、氏の捉えた空也上人像の美しさに大きな感動と深い共感を覚えた。(※ただし、氏の思索における断定的で原理主義的な仏教理解にはいささかの疑念を感じざるを得ないのだが…本書は同じ著者が書いた本とは思えない)

私は、歴史のテキストを客観的史料に基づいて、正確に判断するという作業の妥当性をあまり信用しないし、そのことに重きを置かない。なぜならテキストを解釈する時には、少なからず読み取る側の主観なり価値観が含まれてしまうからである。さらに言えば、論拠とするその史料すら、その作者の主観による読み取りが行われているともいうことができるのだ。
ならば、史料に示された事実に反した解釈でなければ、一見素朴に感じられるテキストの内容から、自由にイメージを飛翔させ、躍動する宗教的な“命”にまで昇華させることの方が、むしろ自己・他者の「生」にとって、価値があると考るからである。

さて、空也上人のかほどに強烈な慈悲心はいずこから生じたものだろうか。

私は、それは間違いなく空観に基づいた智慧から生じたものであると考える。
上人は二十歳で尾張(愛知県)国分寺において出家して沙弥(しゃみ)となり、自ら「空也」の名を称したとされる。詳しくは後述するが空也という名前は『十二門論』のなかの「大乗の深義は空なり」という言葉に由来すると考えられる。
空也上人と仏教の根本思想「空」との関係。これは従来省察されることは少なかったようだが、着目すべき事柄であるように思う。
鎌倉時代以降の浄土宗・時宗の中には、空也は最初に三論宗を学んだという説が繰り返し伝えられている。法然から弁長・良忠と続く浄土宗の第三祖良忠は、その著『浄土宗要集』の中で、空也は『発心求道集』という書物を遺し、そこには空也が「三論宗吉蔵を常に礼拝し、浄土宗の善導にも常に随順すべきである」と書いていると述べている。以後、空也が三論系の念仏者であったとする伝承は江戸時代の浄土系学者にまで繰り返して論じられている。三論宗はインドの龍樹の『中論』と『十二門論』、弟子の提婆の『百論』の三つの論書を拠りどころとした、般若経の空の思想に基づいた教義を信奉する宗派で、わが国では奈良時代までもっとも有力な宗派であったとされる。また、空也の出家した尾張の国分寺が三論教学の寺、元興寺の系統であったことから考えても、空也が出家の前後に三論を学んだ可能性はきわめて高いといえよう。(引用、参照:『阿弥陀聖 空也 石井義長 講談社選書メチエ』)

以上のように、空也上人の念仏は、大乗仏教の根幹、「空」思想に裏付けられたものであるということができるのではないであろうか。ここで「空」について詳しく論じる余裕はないが、簡潔に言えば「空」とはからっぽ、虚しいということではなく、すべての現象は関係性の中で生起しており、それ自体の力で成立する固有の実体はないとする真理である。
この世界(全宇宙)が空なることを全身心で体現していけば、自我への執着はなくなり、他者の救済がそのまま自利となる。そこに菩薩の自利利他行が現成するのである。

空也上人はまさにその名の通り、口称念仏を通して「空」なることを全身心で体現した稀有な上人である。
そして、その念仏の行は「空」であるがゆえに必然「慈悲」の行であった。
「空」を覚ることは、そのまま智慧と慈悲の一如を示すのである。

私たちの祖先にこれほどまでに「美しい人間」がいたことに驚嘆する。
また私は、「空」を体現することがこれほどまでに「美しい人間像」を現出せしめたことに大いなる救いを覚えてならない。

『空也上人誄(るい)』では空也上人についてこう語っている。
「尋常(つね)の時、南無阿弥陀仏と称えて、間髪を容れず。天下また呼んで、阿弥陀聖となせり」と。

京都東山、六波羅蜜寺の空也上人像(運慶四男、康勝作:鎌倉時代)は、そんな上人像を見事に表している。
己を捨て去った恍惚とした空也上人像の口元からは、六体の阿弥陀仏が出現している。これはもとより、上人の発した南無阿弥陀仏の六文字の名号が、阿弥陀仏となって現れたものである。
南無阿弥陀仏、すなわち永遠のいのちと一如になった空也上人がそこにいる。

ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる『道元禅師「正法眼蔵 生死巻」』

京の人々にとって、阿弥陀聖・空也上人の称える念仏の姿は、阿弥陀仏の具現化として自然に感得されたのかもしれない。

最後に道元禅師の言葉でこの記事を終わりたい。

菩提心をおこすというは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。『道元禅師「正法眼蔵 発菩提心巻」』

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9 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2006-01-24 06:20:14
> 管理人様



こうや上人は色々と伝説のある方ですが、この辺が専修念仏以前の時代性を良く表現したものでありますね。拙僧も拙ブログにて念仏者について色々と考えておりますが、こうや上人もその一人であります。



とりあえず、管理人様がこの後、どのようにまとめられるのか気になるところです。続編を楽しみにしております。合唱じゃなくて合掌。
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tenjin95さん、コメント・TBありがとうございます (りょう)
2006-01-24 12:13:30
>tenjin95さん

そうですね。

空也上人についての史料は限定されていますし、伝説的な伝承も多いですね。

空也上人のハッキリしない生涯と思想は、学問の対象にはなりにくいのですが、それを逆手に取って、イメージを膨らませることで、躍動する宗教的な“命”を汲み取ることができるのではないかと考えております。

なお、空也を「くうや」と読むか「こうや」と読むかは、分かれるところですが、私は、「阿弥陀聖 空也 石井義長著 講談社選書メチエ」の中の論証を鑑みて「くうや」の読みの方を支持したいと考えております。もちろん氏の論証も完璧とは言いがたいのですが・・・。氏はこの読みの違いについての考察に一項を設けておりますが、これを引用すると長くなりますのでお赦しください。

端的に言えば、著者は「鎌倉時代ごろから、空也の念仏を受け継いだ空也念仏聖と高野聖は同類の念仏者として交流しており、そのような推移から「くうや」→「こうや」の俗称が生まれてきたと考えられる」と述べております。

tenjinさんのように論証的、かつ知的な分析はできないのですが、得意のロマンティシズムにのっとり、空也上人像を通して、少しでも読者のみなさんに「美しい人間像」を感じていただければ幸いかと思います。

貴ブログには、いつも勉強させていただいております。

有り難うございました。

返信する
他意はなかったのです (tenjin95)
2006-01-24 13:47:30
> 管理人様



スミマセン。

他意はなかったのです。

拙僧の用いている書物では古来「弘也」と書かれたと在り、そこから「こうや」とするのが正しいとありましたので、それを用いているだけのことなのです。



でないと、拙僧自身が「くうや」と読んでしまいそうなので。。。高野聖云々は全く意図しておりませんでした。ただ、勉強不足の面もありますので、それは当方にて追々反駁していく予定です。
返信する
いいんですよ。 (りょう)
2006-01-25 18:50:30
>tenji95さん

ご指摘、反駁は勉強にもなりますし、張り合いになりますので、歓迎致します。

「空也」の読みについては、本書を読むまでは、わたしも「こうや」が正しいと思っておりましたので、お気持ちは分かります。



さて、「弘也」とあるのは、慶滋保胤の『日本往生極楽記』のことでしょうか。

石井氏によれば、「弘也」と書いてあるのは、『日本往生極楽記』の多くの伝本のうち、内閣文庫に伝わる江戸時代の写本と、江戸時代初期の二種の板本であって、鎌倉時代初期に書写された最古の前田本等の古写本は、いずれも「空也」と書かれている、と述べています。

また「元亨釈書」に書かれている「コウヤ」の振り仮名は、南北朝の五山版初刊本に、後にこれを読んだ人が記入した例と、江戸時代初期の寛永本であり、著者の虎関師錬自筆本等の古本には振り仮名はないとしてします。

もとより、これは私の考察ではなく、石井氏の受け売りですので、またご意見、反駁がありましたらお願いします。

心情的には、「空なり」の「くうや」と呼びたいんですけどね(笑)その方が自然な感じがするし・・・



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なるほど (tenjin95)
2006-01-26 04:57:29
> 管理人様



良く分かりました。

最近、そういった書誌学的研究は大いに尊重されねばならないことでございます。そういうことであれば、拙僧の方が撤回せねばなりません。拙僧が依拠していた宮元啓一先生は、そこまでの論証をしておりませんでした。いくつかの例を挙げて、こうやが正しいとあるだけでございます。



しかし、管理人様がご呈示された状況を見る限り、くうやなのでしょう。



以降は両方を併記する可能性を検討してみたいと思います。正直、拙僧、今日降誕会の道元禅師の実父が誰か?とか、読み方とか、あまり拘らないようにしていたんでした。。。



この度は大変に勉強になりました。

ありがとうございました。
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感動しました。 (夕顔絵夢二郎)
2006-02-18 09:50:10
 本記事に感動し、TBも貼らせていただきました。

 私が読んだのは、大橋先生の、一遍聖ですが、このほかに、入門的な、空也上人や一遍聖の本があったら、紹介してください。

 これからも、少しずつですが、仏教の勉強をしていきたいと考えております。
返信する
コメント・TBありがとうございます (りょう)
2006-02-18 19:49:21
>夕顔絵夢二郎さん

拙記事に共感くださいまして嬉しいです。

ありがとうございます。

空也上人については、入門書ではありませんが、本記事の参照文献『阿弥陀聖 空也 石井義長著 講談社選書メチエ』がかなり突っ込んだ内容です。

一遍上人については、講談社現代新書の『捨聖・一遍上人』はいかがでしょうか。

TBの記事、大変興味深く拝読しました。
返信する
Unknown (夕顔絵夢二郎)
2006-02-18 22:12:12
 紹介有難うございます。

 早速読んでみます。

 仏教の深い教えに、これからも、私自身、深く邁進していきたいと思います。

 これからもご指導よろしくお願いします。
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Unknown (りょう)
2006-02-19 19:01:43
>夕顔絵夢二郎さん



指導するなんて、僭越です。



これからも一緒に仏教を学んでいきましょう!



このスタンスでよろしくお願い致します。
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