日中越境EC雑感

2008年に上海でたおばおに店を作るところから始めて、早もうすぐ10年。余りの変化に驚きの連続

戦艦大和

2009-04-10 | その他
 2月に大阪から蘇州号で上海に戻った時、大阪から上海までまる2日航海があり、かつ拘束時間を含めると日中ほぼ3日つぶされるという状態でした。雑誌や本が於いてあるのでそれを眺めたりしていたのですが、ロビーではテレビを使って映画が放送されており、時々除いていました。そして、何故か解らないのですが最後の放送が「男達の大和」でした。

 まぁ、日本の戦争映画を放送する事事態に何かいみがあるのかわかりませんでしたが、少なくとも中国人乗客は全く関心が無かったようです。

 今の玩具屋に行ってもゲームが中心の商品で、私の世代が子供の頃に流行ったプラモデルもガンダムが主流になっているようで、お店で見かけることはめっきりなくなったのですが、系私自身が子供の頃は日本海軍の軍艦や、ドイツ陸軍の戦車などのプラモデル(タミヤ製が中心でしたね)が流行っていて、友達と一緒に大和や武蔵のプラモデルを作って近所の池に行って爆竹飛ばして戦争の真似事をしていました。戦後30年位経っていたのですけど親がその悲惨さを経験していましたし、まだ身近な存在だったのかもしれませんね。

 ということで、丸という軍事雑誌?を買っては日本海軍の記事を色々読んでいて、ちょっとオタクだったと思います。

 たまたま蘇州号で大和の映画が流されて違和感を感じた事もあり、グーぐるを検索してみたのですが、大和が沈んだのは4/7だそうです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

 太平洋戦争って、1941年の12月に始まり、1945年の8月に終了と約3年半掛かっていますが、日本が郵政だったのはミッドウェーまでの半年間、その後は防戦一方だったというのが実態ですね。1945年の3月といえば硫黄島も落ち、東京大空襲が行われていますが、上のWikによれば、広島と呉に1000個もの機雷を飛行機から落とされて動けなくなったとか。

 それにしても、大和の沖縄出撃が片道の燃料だけいれた特攻隊だった事は有名ですけど、その段階では実は戦艦は他にも沢山いた事を始めて知りました。戦艦長門は戦後アメリカに接収されて原爆実験に使われて沈んだ事はしっていましたけど、他にも、戦艦伊勢、日向、榛名、航空母艦 隼鷹 葛城 鳳翔 龍鳳 天城、その他巡洋艦も結構残っていたようです。最終的に終戦間際の7月の空襲で大半の軍艦が沈没して、戦後引き上げられたうえでスクラップにされて戦後の復興の材料に使われたそうです。

 他の艦艇が一緒に出撃しても全部撃沈されてしまったでしょうが、戦艦4隻、空母5隻という、表面的にはそこそこの規模の艦隊を国内に残して何で大和だけ出撃したかといえば、結局のところ燃料が本当に無かったようですね。空母に関しては燃料に加えて搭載する飛行機と、熟練した搭乗員もいなかった(これは戦争中盤以降ずっとそうだったみたいですが。まぁ、武器の優秀さや物量で徹底的に負けたのですが、1944年にさっさと敗戦を受け入れていれば原爆やソ連抑留、空襲も無く当時の戦争で死んだ300万人のうち半数以上は救えたでしょう。後半の日本は唯サンドバック状態だったという事が良く解ります。

 日本の対外戦争は秀吉の朝鮮侵略当時から、日中戦争、太平洋戦争にいたるまでロジスティック等の後方支援に対する考え方が無い、そしてそれは現代の企業経営においても似たような企業が多く(営業だけ考えて、その他の機能を軽視して失敗する)、特に中国に関わらず海外進出に失敗する最大の原因と考えています。

 まぁ、当時の経済力で対米戦を行う事自体が狂った行動というのは今では一般常識ですが、日本が将来的(決して近い将来ではなく)に対外戦争にまきこまれる可能性は決してゼロではなく、その場合はやはり自国領土内に資源が無いというのが致命的な弱点になってしまうということですね。如何に資源を使わずにに国を守っていくか。。

 それにしても、今の若い世代は太平洋戦争なんて興味ないでしょうけど、比較的年輩の方でも是だけの軍艦が日本に残っていた事って知っていましたか?
コメント
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