machaの浅学妄想

今、感じたことや想うことを書いておく。

世界の便所

2013-07-15 | Weblog
安倍さん世界中に原発の売り込みに言ってるけど契約ではその放射性廃棄物は日本が引き受ける事になってるそうじゃないですか。

原発は便所の無いマンション。マンション作って売る条件が便所は日本列島ですということ。

日本列島は世界の廃棄物が捨てられる太平洋の夢の島。

原発やめよう。

原発なんて百年もできる訳がないんだから、循環型エネルギーに方向転換するなら、今でしょ。

核兵器がほしいから原発をやめられないのなら、核兵器に変わる驚異的な兵器を作ればいいじゃないか。

一般大衆を殺さないで支配者だけを確実に殺す、それが誘導装置付きピンポイント型通常ミサイル。それなら三菱あたりの日本の技術で十分開発できる。

原発を売り歩く姿は中国包囲網を作り中国政府に十分なおどし効果があったから、これくらいでもういいでしょう。
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遠い夏の日

2013-07-15 | Weblog
良くあるタイトルだが、

スマホのグーグルマップが新しくなったが、地図上のある位置から別の位置までの距離が測りづらくなってしまった。どうしても測りたい距離を思いついてしまったから。それは昭和35年頃、7歳だった私が叔父と5歳の弟で祖母の家から歩いて帰ってきた時の歩いた距離を知りたかったからだ。

調べてみると歩いた距離は11から12kmだった。

祖母の家の仏壇には戦死した息子(私の伯父)からの茶色い手紙が置かれていた。便箋は折り目が離れそうだった。数知れず涙で読んだんだなと思った。

母と十八も離れた末の妹(叔母)と祖母は暮らしていた。定時制に通う叔母が土間でくるりと回るとセーラー服のスカートのプリーツがふわりと開いて笑顔がうれしそうで誇らしげだった。

私の家から祖母の家まではバスに乗って隣町の終点まで行き、別のバスに乗り継いで更に隣の村に入りバス停で降りて店屋の脇を通って田んぼの中を歩いて行った。

帰りもバスで帰るつもりがバス停まであと200mくらいの所で左から右に変な色使いのボンネットバスはゆっくり走っていってしまった。

叔父はバス停で時刻表を見て歩いて帰ることにした。土の道を歩いていると後ろから荷台に乗れそうなトラックが追い抜いて行った、乗せてくれれば良いのにと思いながら右に曲がるトラックは田んぼに落ちるだろうと思ったら落ちた。

弟がぐずり出したのか叔父がおんぶしている内に大切にしていた四角いフィルムの二眼レフカメラの部品を無くしてしまったが引き返すこともしなかった。カメラに未練はないのかな惜しいだろうなと思った。

途中、親戚の自転車屋で自転車を借りて弟を荷台に乗せて叔父が引いて、後ろで弟を見上げるように歩いた。

バス通りを行かずに海岸に近い鉄鋼スラグの石を敷いた産業道路を歩いた。

町の境に入ると海側の砂丘の下に粗末な家があって運動神経は良いが勉強の出来ない同級生が顔を出した。こんなに軒の低い家に住んでいるんだ。「我は海の子」の苫屋(とまや)とはこういう家のことだそうだ。遠くから歩いて帰ってきた自分が少し恥ずかしいと思いながら手を振った。

子供には隣町は遠い。その後、二三年して近所の6年生くらいの上級生をリーダーに仲間五六人で隣町に歩いて行った。上級生の親戚の家に寄ったら彼の親戚の小父さんは何故子供だけでこんな遠くに来たと言って彼を怒って坊主頭を拳骨で殴ったものだから、出来物から血がふき出して血まみれで帰ってきた。地図アプリで調べるとそこまでは5km。

祖母の家から遠く遠く歩いたことは子供心に記憶されて今も時々思い出す。
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