飛鳥への旅

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中将姫伝説の広がり4:神奈川県鎌倉市光明寺

2009年09月18日 | 中将姫伝説を訪ねて

 光明寺(こうみょうじ)は神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗関東大本山の寺院である。
鎌倉幕府4代執権北条経時が法然の流れを汲む浄土宗の高僧・然阿良忠(1199-1287)を開山として、仁治元年(1240年)、鎌倉の佐助ヶ谷(さすけがやつ、鎌倉市佐助2丁目)に開創した蓮華寺が当寺の起源とされる。
近世には、浄土宗の関東十八檀林の第一位の寺として栄えた。「関東十八檀林」とは、浄土宗に帰依していた徳川家康が定めた、浄土宗の学問所18か寺のことで、光明寺はその筆頭であった。

 「当麻曼荼羅縁起」(紙本著色当麻曼荼羅縁起 2巻-鎌倉時代制作の絵巻物で国宝、上下2巻に分かれる)がここ光明寺に伝わる(現在は鎌倉国宝館に寄託され特別展などで公開されている)。
 この絵巻は奈良・当麻寺に伝わる著名な当麻曼荼羅と中将姫の説話を絵解きしたもので、奈良時代、藤原豊成の姫が極楽往生を祈念し、蓮糸で曼荼羅を織りあげ、やがて阿弥陀如来に迎えられ、極楽へ旅立ったという物語。延宝三年(1675)、光明寺の大檀越であった内藤義概(ないとう よしむね)により寄進されたものといわれている。


 「当麻曼荼羅縁起」の一部
 横佩大臣家の一角、りっぱな四脚門は檜皮葺き。
 右:蓮糸を紡ぐ姫君たち、左:蓮茎を運び込む人々

 右:出来上がった曼荼羅の前で往生を待つ姫君。
 左:二十五菩薩の来迎。

 いかにして「当麻曼荼羅縁起」が鎌倉の光明寺にもたらされたのであろうか。
仁治三年(1242)、当麻寺の大曼荼羅堂の修理工事の際し、当麻曼荼羅を掛ける大厨子の改修が行なわれた。この厨子修理における結縁歴名の中に鎌倉幕府第4代将軍の藤原頼経(よりつね)(九条頼経)の名が見られるのである。源実朝(さねとも)が暗殺された後に実朝の弟・頼家の娘婿に迎えられたのである。頼経の父・九条道家の母が頼朝の縁戚に当たることからであった。
 厨子の改修には、将軍頼経を中心としての結縁にささえられており、父方の九条家一族と母方の藤原家一族の名が見られ、さらにこの時期にあわせて作成された「当麻曼荼羅縁起」の詞書は母方の叔父にあたる西園寺実によって書かれているという。

 第2代将軍頼家は伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。さらに第3代将軍実朝は鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。子は無く、源氏将軍は三代で絶えた。第4代将軍藤原頼経が北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍となったのは、わずか8才であった。 
 暗殺が絶えなかったことから、将軍頼経に強い信仰心が芽生え、母方の結縁の藤原家に相応しい鎮魂の寺である当麻寺の縁起を作成するに至ったのであろう、と私は考える。鎌倉にもたらされた「縁起」がその後に鎌倉一の浄土宗の光明寺に寄進されたのは自然の流れであろうと思う。
 その後の頼経は28才で将軍職を解かれ出家。しばらく鎌倉に留まったがのち京都へ送還させられ39才で死去している。

 (関連ブログ)→鎌倉ドライブ 光明寺-鶴岡八幡宮-長谷寺

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