飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
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万葉アルバム(奈良):当麻、二上山

2009年09月15日 | 万葉アルバム(奈良)

うつそみの人なる我や明日よりは
二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)が見む
   =巻2-165 大伯皇女=


生きて現世に残っている私は、明日からはあの二上山ををいとしい弟と思って眺めようか。という意味。

大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の御子(母は大田皇女)。大柄で容貌も男らしく人望も厚く、同じ天武天皇の御子である草壁皇子(母は大伯皇女の妹である鸕野讚良(うののさらら)皇女=のちに持統皇后)に対抗する皇位継承者とみなされていた。しかし686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして24歳の若さで処刑された。草壁の安泰を図ろうとする皇后持統の思惑がからんでいたともいわれる。
 
 この歌は、大津皇子を葛城の二上山に葬った時に、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が作った歌。二上山は奈良県と大阪府の境界をなす葛城連峰にある山で、雄岳と雌岳の二つの峰がある。大津の墓は、今も二上山の雄岳の山頂近くに、大和に背を向けるようにして建っている。

 大伯皇女は天武天皇の皇女として生れたが、十三歳で伊勢へ神に仕える斎王として赴いた。大津が処刑される直前に伊勢に行き大伯皇女に再開した。大津処刑から一ヵ月後、大伯皇女は斎王の任を解かれ十四年ぶりに都へ帰る。この時に目にした二上山に弟大津を重ねて見ていたのであろう。

 持統皇后は姉(大田皇女)の子(大津皇子)を謀反の罪におとし、自分の子(草壁皇子)を次期天皇へと目指すが、草壁の病死によりその夢は途切れたかにみえた。しかし今度は草壁の子・軽皇子が皇位に就くまでの間、自ら即位して持統天皇となったのである。
この持統女帝の波乱万丈の生涯は日本史の中でも屈指のものであろう。

 歌碑は当麻の当麻寺うらにある休養センター前に建てられている。

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