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飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):吉野、象の小川

2009年07月19日 | 万葉アルバム(奈良)

昔見し象(きさ)の小川を今見れば
いよよさやけくなりにけるかも  
   =巻3-316 大伴旅人=


昔見た象の小川を今再び見ると、ますます冴え冴えと美しくなった。という意味。

聖武天皇が吉野に行幸した際、宮廷歌人である大伴旅人が作った歌である。
吉野山を水源に象山のふもと喜佐谷の杉木立のなかを流れる渓流で吉野川に流れ落ちる川が「象の小川」(喜佐谷川)である。

大伴旅人はこの歌を詠んだのち、大宰府の長官として赴任するため奈良を去っている。 赴任先で吉野を懐かしんで詠んだ歌がある。
「我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため」(3-332)
(私の命も、いつまでもあってはくれないか。。。。。昔に見た象の小川を見に行くために。)
吉野に対する強い愛着が感じられる。

万葉アルバム(奈良):吉野、象山

2009年07月12日 | 万葉アルバム(奈良)

み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)には
ここだもさわく鳥の声かも
   =巻6-924 山部赤人=


吉野の象山、山中の木々の梢では、あたり一面に鳴き騒ぐ鳥の声の何とにぎやかなことか。という意味。

聖武天皇が即位してまもなく、吉野に行幸した際、山部赤人はお供をしていた宮廷歌人である。

「み吉野の 象山の際の 木末には……」 山深い風景の中から、「の」、「の」、「の」の律動にのって、絞っていったところに、鳥がにぎやかにさえずっている。
静中の動、あるいは動中の静を体感できる歌である。

「象山」は奈良県吉野郡吉野町宮滝の下流南岸に見える山で、象山の谷間を流れる喜佐谷川(象の小川)を少し上流に行ったところに桜木神社がある。その境内に、この歌の歌碑がたっている。静寂とした境内はまさに歌にぴったりの場所である。

万葉アルバム(奈良):奈良、田原の里

2009年07月09日 | 万葉アルバム(奈良)

むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの
山の猟夫(さつお)にあひにけるかも
   =巻3-267 志貴皇子=


むささびは、梢(こずえ)をさがしているうちに、山の猟師(りょうし)に出会ってしまったのだなぁ。という意味。
木末つまり権力をめざした末に没落する者たちを多く見てきたであろう人の述懐のようでもある。大津皇子の謀反のことをむささびに喩(たと)えて詠んだともいえる。

志貴皇子は天智天皇が釆女とのあいだにできた皇子であった。
673年の壬申の乱で、天智から天武の世となり、天智の皇子である志貴皇子はわずか14歳、のち火葬設備の造営をつかさどるなどの閑職にじっと耐えて60歳の人生を全うした。
その後、称徳天皇亡き後、志貴皇子の息子である62歳の白壁王が即位し光仁天皇となった。皇統は天武系から天智系に交代して今に至るが、志貴皇子はそのリングをつなぐ役を果たしたのである。

奈良高円山のすそ野を東へ越えると田原の里である。志貴皇子が葬られた田原西陵の約2km東に田原東陵があり、息子の光仁天皇が葬られている。
静かな田園風景の明るい日差しの中を田原の里を歩いていると、耐えたのちに結果を出した志貴皇子親子の穏やかで暖かい絆を感じるようである。

万葉アルバム(奈良):桜井、海石榴市

2009年06月18日 | 万葉アルバム(奈良)

紫は灰さすものぞ海石榴市(つばいち)の
八十(やそ)の街(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ
   =巻12-3101 作者未詳=


海石榴市の、多くの道が行き交う辻で出逢ったあなたは一体誰か、名を名乗りなさい。という意味。
「紫は 灰さすものそ」は海石榴市にかかる序詞。紫草の汁には、椿(海石榴)の灰を入れて染めるという。

 「海石榴市」は奈良県桜井市金屋にあったとされる。
“名を問う”というのは求愛の意思表示だという。昔は市は”歌垣の場”でもあり男性が行きずりの女性を、ナンパしていたようだ。

この歌の返歌に、女の方から、
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さねど
道行き人を 誰と知りてか
   =巻12-3102 作者未詳=


いま会ったばかりの道行き人、どこの誰ともわからない人に、私の名前を教えることができますかと反発する。
この二首は実際に特定の二人で交わされたものなどではなく、
長いあいだ歌垣の場に伝えられて皆が歌い合った歌なのだろう。

難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地が初瀬川の港であった金屋で、
仏教伝来の百済の使節がこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされている。ここから北へ伸びる道が山辺の道である。
ここ海石榴市は仏教伝来の地でもあり、街道が交差し賑わう市として栄えたのである。

万葉アルバム(奈良):奈良、元興寺跡

2009年05月22日 | 万葉アルバム(奈良)

故郷の明日香はあれど青丹よし
奈良の明日香を見らくしよしも
   =巻6-992 大伴坂上郎女=


古い飛鳥の里もよいけれど、今が盛りの奈良の明日香を見るのはすばらしいものです、という意味。

元興寺の里を詠んだ歌。「元興寺」は、蘇我馬子が建てた飛鳥の法興寺を平城京遷都後に移転した。そのため「奈良の明日香」と呼ばれた。

この歌の歌碑は元興寺跡の近くの瑜伽神社にもある。

万葉アルバム(奈良):奈良、奈良の明日香 を参照

万葉アルバム(奈良):奈良、元興寺

2009年04月25日 | 万葉アルバム(奈良)

白珠(しらたま)は人に知らえず知らずともよし
知らずともわれし知れらば知らずともよし
   =巻6-1018 元興寺の僧=


真珠は、その真の価値を人に知られない。しかし、世の人が知らなくてもよい。たとえ世の人が知らなくても、自分さえ知っていれば構わない。という意味。

この歌は、五七七・五七七という旋頭歌体。左注には、ある人が言うには「元興寺の僧は独り悟得して智恵も多かったが、それが世間に知られず、人々は侮り軽んじていた。それで、その僧はこの歌を作って自分の才能を嘆じた」ということだ、とある。真珠に託して、自分の真価を正当に評価されない嘆きを歌ったもの。

元興寺は、初め蘇我氏が飛鳥に法興寺という寺を建て、それが後に元興寺と呼ばれるようになり、さらに平城京遷都後に都に移された寺である。

万葉アルバム(奈良):山の辺、石上神宮

2009年04月12日 | 万葉アルバム(奈良)

未通女(をとめ)らが袖(そで)布留(ふる)山の瑞垣(みづかき)の
久しき時ゆ思ひき我(われ)は
   =巻4-501 柿本人麻呂=


少女たちが袖を振る布留の石上(いそのかみ)神宮の垣、その古い垣のように昔から変わらず、ずっとあなたを思っていた、という意味。

自分を思う妻への感謝の気持ちを込めた歌。娘子らが袖を振る、布留の山とかけている。「布留」はいまの奈良県天理市布留町で、石上神宮の周辺をさす。
瑞垣(みづかき)は、神社の垣根のことだが、この歌では神代からの遠い昔からをたとえている。

未通女(をとめ)は万葉仮名らしい表現で、万葉時代に少女のことを「おとめ」と呼んでいた証しであり、それを万葉仮名として当て字で表現したのが「未通女」であり、それが後の代に「乙女」となった。
万葉時代は文字は未文化で、圧倒的に話し言葉であり、語り伝えた歌が多い。
万葉の語源は、万(よろず)の言(こと)の葉からきているというが、まさにその通りと思う。


石上神宮 拝殿
鎌倉時代初期の建立とされ、拝殿としては現存する最古のもので国宝に指定されている。(写真は2010/12 以下同様)


参道のたもとにみえる万葉歌碑
この万葉歌碑は石上神宮の参道向かって左手に建っている。


万葉歌碑
昭和43年4月の建立で、石材は旧内山永久寺の北門跡にあった敷石が用いられているとのこと。高さ2.3メートル、横巾は1.4メートル。刻まれる文字は、『元暦校本万葉集』から採られている。



万葉アルバム(奈良):山の辺、引手の山

2009年04月11日 | 万葉アルバム(奈良)

衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて
山道(やまぢ)を行けば生けりともなし
   =巻2-212 柿本人麻呂=


衾道(ふすまぢ)の引手の山に、妻を置き去りにして山道を行くと、自分が生きているとは思われない、という意味。

柿本人麻呂が妻が亡くなったのを悲しんで詠んだ晩歌が長歌3首・短歌7首連続して巻2に収録されている。前書きに「泣血哀慟(きょうけつあいどう)して作る歌」とある。妻が死んでも日常は繰り返され、それがいっそう妻への思いを深めてしまうと、切々と詠っている。

衾道(ふすまぢ)の引手の山は、山辺の道ぞいにそびえる龍王山のことで、
その山麓に亡き妻が葬られている。
天理市中山町から東北の丘陵地一帯を古代から衾田(ふすまだ)と呼び、古代王族の埋葬地であった。通る道を衾道(ふすまじ)と呼んだ。衾とは古代、神事などで使われた白い布のことで、貴族はこの衾で棺を覆い、引手の山(龍王山)へ向かったのであろう。

 <クリックで拡大>
現在は山辺の道のハイキングコースになっており、万葉時代の道とは明暗の格差が大きく、当時の雰囲気を掴むのは難しいが、そこに建っている歌碑が、いにしえの風を感じさせるようだ。。(写真は2010/12)


万葉アルバム(奈良):桜井、多武峰

2009年04月09日 | 万葉アルバム(奈良)

ふさ手折り多武の山霧繁みかも
細川の瀬に波の騒ける
   =巻9-1704 人麻呂歌集=


 多武の山の霧が深いからでしょうか、細川の瀬に波が騒いでいます、という意味。
細川は多武峰に端を発し飛鳥川に注ぐ小川だが、上流で雨が降れば直ぐ増水するような急斜面を流れている。

この歌からは、自然の変化を敏感に感じとって川の瀬音や波の様子を観察している様子がうかがえる。
遠くの山にかかる霧の変化と、すぐそばの川瀬の波模様という、奥行きのある風景をあざやかに歌に取り入れており、まさに遠近法による万葉歌である。

万葉アルバム(奈良):奈良、白毫寺

2009年04月04日 | 万葉アルバム(奈良)

高円(たかまと)の野辺(のべ)の秋萩いたづらに
咲きか散るらむ見る人無しに
   =巻2-231 笠金村=


 高円山の野のほとりの秋萩は、空しく咲いて散っているらしい。もう見る人もいないのに、という意味。

「梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて・・」と葬列のたいまつの送り火を切々と歌う野辺送りの長歌(巻2-232)につづく反歌で、万葉集を代表する晩歌のひとつである。
霊亀(れいき)元年(715)に志貴皇子が亡くなったのを悲しんで詠んだ歌の一つ。

白毫寺は志貴皇子の屋敷があったところとみられ、石段わきに咲きこぼれる秋萩は見事だ。
現代の萩の寺の名所のひとつである。

 

万葉アルバム(奈良):山の辺、巻向川

2009年03月06日 | 万葉アルバム(奈良)

ぬばたまの夜さり来れば巻向(まきむく)の
川音(かはと)高しも嵐かも疾(と)き
    =巻7-1101 柿本人麿歌集=


暗闇の夜がやってくると、巻向川の川音が高くなった。嵐が来ているのだろうか。という意味。

「巻向」は、奈良県桜井市の穴師(あなし)・巻向を中心とした一帯。「巻向川」は、巻向山の主峰「弓月が岳」と穴師山の間から車谷の村落に沿って西に流れ下る小さな谷川である。
「ぬばたまの」は夜にかかる枕詞で真っ黒という意。
人麻呂が妻の家で一夜を明かした時の歌なのだろうか。
電灯のない時代、ぬばたまの漆黒の闇があたりを包み、川音だけが谷間に響いている。
闇の中で川音に耳をそばだたせている人麻呂。
「巻向川の川音が昼間に比べて高くなってきている。上流の巻向山は今はもう嵐かもしれん。これは激しいぞ!」
漆黒の闇に、響き流れる川の音というのが実に印象深く、また近くの川音から遠くの山の嵐を想像するという遠近感のある歌で、私の大好きな歌のひとつである。

 この万葉歌碑は山の辺の道、桜井穴師の里の巻向川の近くに建っている。

万葉アルバム(奈良):桜井、出雲

2009年03月04日 | 万葉アルバム(奈良)



籠(こ)もよ み籠持ち
ふ串もよ みふ串持ち
この岳(おか)に 菜摘ます児(こ)
家(いえ)告(の)らせ 名告らさね
そらみつ 大和の国は
おしなべて 吾こそ居れ
敷きなべて 吾こそ座(ま)せ
われこそは 告らめ 家をも名をも

    =巻1-1 雄略天皇=


良いかごを持って、良い串を持って、この丘で菜(な)を摘むお嬢さん。君の家はどこかな、教えてくれないかな。私は大和の国を治めているものです。だから私には教えてくれるでしょうね、君の家も君の名前も。という意味。

万葉集の開巻第一ページの冒頭を飾る長歌。
天皇と娘子との聖なる結婚によって、国土の繁栄が約束されることを歌った歌。
籠(こ)は摘んだ若菜を入れるカゴ、掘串(ふくし)は土を掘るヘラのこと。
「み籠」「み掘串」の「み」は相手の持ち物を讃(たた)える接頭語。
早春に娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式だったらしい。
「児(こ)」は女性を親しんで呼ぶ語。「そらみつ」は「大和」にかかる枕詞。

古代は名告りは重要なこととされ、男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは相手の意のままになることを意味していた。
作者は5世紀後半の第21代雄略天皇(412~479年)。『古事記』下巻に登場する英雄的な君主。
歌をよくし、その霊力によって女性や国を獲得したという伝説を持つ。
権勢は全国に及んだようで、埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から、雄略天皇をしめすと思われる「ワカタケル」の銘のある鉄剣が出土している。ただ、万葉の当時から約200年も前の天皇のため、この歌は天皇の実作ではなく伝承された歌謡と考えられている。

桜井市出雲黒崎の白山神社に「万葉歌碑」が建っている。
宇陀野へつづく狛峠を登ると、桜井市出雲の陽当たりのよい南向きの丘が望まれ、下に初瀬川の清流が初瀬街道と並行して流れ、山並みの緑に包まれた風景は、1500年前のロマンの世界に私たちを誘ってくれる。


万葉アルバム(奈良):桜井、談山神社

2009年02月26日 | 万葉アルバム(奈良)

吾はもや安見児(やすみこ)得たり皆人(みなひと)の
得がてにすとふ安見児得たり
   =巻2-95 藤原鎌足=


私は今まさに、美しい安見児を娶(めと)った。世の人々が容易には得られない、美しい安見児を娶ったぞ!という意味。

内大臣・藤原鎌足が、采女(うねめ)の安見児を娶ったときに詠んだ歌。
采女というのは、天皇の食事に奉仕した女官のことで、自由の身ではない。
天智天皇から鎌足へ采女のプレゼントがあったが、普通あり得ない事だ。
鎌足が、安身児という采女を我がものにでき、
あり得ないと思っていたことが実現した時の感極まった喜びの歌だが、
大化改新を断行した怖いイメージの藤原鎌足に、こんな天真爛漫な一面もあったのだ。

談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰で行なったことによる。談山神社の祭神は藤原鎌足である。

万葉アルバム(奈良):宇陀、かぎろいの丘

2009年02月19日 | 万葉アルバム(奈良)

東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて
かへり見すれば月傾きぬ
   =巻1-48 柿本人麻呂=


東の野にあけぼのの茜色が見え始め、振り返ってみると、もう月が傾きかけている、という意味。

ご来光がさす明け方の壮大な景観を歌っているが、実際の宇陀安騎野にある丘陵地は、
小高い丘に過ぎず、歌のような壮大にはとても見えない。
持統天皇の孫である軽皇子が、亡き父草壁皇子追悼の狩猟に出掛けた際、
同行した柿本人麻呂が皇子の気持ちを代弁して歌ったものだが、
11月下旬の寒く眠れない夜明けに気持ちを奮い立たせようとしたのではないかと想像される。


万葉アルバム(奈良):奈良の明日香

2009年02月12日 | 万葉アルバム(奈良)

故郷の明日香はあれど青丹よし
奈良の明日香を見らくしよしも
   =巻6-992 大伴坂上郎女=


古い飛鳥の里もよいけれど、今が盛りの奈良の明日香を見るのはすばらしいものです、という意味。

元興寺の里を詠んだ歌。「元興寺」は、蘇我馬子が建てた飛鳥の法興寺を平城京遷都後に移転した。そのため「奈良の明日香」と呼ばれた。
元興寺のある奈良町の高台にある瑜伽(ゆか)神社にこの歌碑があるが、
神社から、遠くかすかに大和三山を望むことができる。

今の奈良の都が素晴らしいと言っている裏に、昔の飛鳥の都への望郷の念がこめられているようにも思う。