飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関東):東京都、多摩市 多摩よこやまの道・新発見の碑!

2013年12月11日 | 万葉アルバム(関東)


赤駒を 山野(やまの)に放(はか)し 捕りかにて
多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣らむ
   =巻20-4417 宇遅部黒女=


 赤駒を山野に放牧して捕らえられず、夫に多摩の横山を歩かせてしまうのだろうか。という意味。

武蔵国の民、椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)が防人に召集され、国府(現在の府中)に集合する様命ぜられ、至急出発しなければならなくなった。妻の宇遅部 黒女(うちべのくろめ)は、遠く北九州へ向かう夫を気遣って大事な馬に乗って行っ て貰おうと思い立ち、出立前に馬を野原に放して、腹一杯の草を食べさせてい た。ところが運悪く馬に逃げられてしまって、やむなく夫を徒歩で多摩丘陵を 越えさせることになってしまった。そんな妻の嘆きを詠んだものである。

東国から遠く北九州で国防の兵役につく防人は、再び故郷の土を踏むことはまずありえなかったようだ。武蔵野を眺望できる横山の尾根道で故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ防人の姿が浮かぶようだ。「よこやまの道」はこの万葉集の「横山」から名づけられたのである。

この万葉歌碑は多摩市の多摩よこやまの道、国士舘大学のそばを通過したあたりの道脇の茂みに建っている。
案内マップや他の万葉歌碑サイトにも載っていない碑であり、偶然に見つけたもの。


ややこぶりの碑で、多摩よこやまの道を示す碑であろうが、万葉歌碑として記録した。
万葉歌と共に、歌にちなんだ赤駒の姿が描かれており、ユニークで愛らしい碑であった。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 13地点

2013年12月04日 | 万葉アルバム(関東)


わが家(いは)ろに 行(ゆ)かも人もが 草枕
旅は苦しと 告(つ)げ遣(や)らまくも
   =巻20-4406 大伴部節麻呂(おほともべのふしまろ)=


我が家に行く人がいてくれるといいのだが。旅は辛いものだと伝えたいものだ。という意味。

大伴部節麻呂(おほともべのふしまろ)は上野国(かみつけののくに)の防人。
「家(いは)ろ」は家のことで、東歌に多い東国のなまり。
「行(ゆ)かも人もが」は、行クの未然形+推量ムの連体形の訛りのモ+ヒト+願望のモガ(係助詞モ+終助詞ガ)で、行ク人ガイルトイイノダガ。「遣(や)らまくも」は、ヤルの未然形+推量のムと接尾語クで作られ名詞化するマク+詠嘆のモ。

 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ13地点に建っている。
解説板には、「おれの家に行く人がいないものか、防人の旅はつらいと、言い伝えてやりたいものだ。」とある。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 12地点

2013年11月23日 | 万葉アルバム(関東)


利根川の 川瀬も知らず ただ渡り
波にあふのす 逢へる君かも
   =巻14-3413 作者未詳=


 利根川の浅瀬が、どこかもわからずただ真っ直ぐに渡っていると、思わず波しぶきにあたるように、ばったりお逢いしましたね。という意味。

「のす」は、「なす」の上代東国方言。
当時の利根川が浅瀬を探して渡らないといけないくらい大きな川だということがわかる。率直な愛を利根川の流れに託して歌った、恋人同士の不意の出会いの驚きと喜びに満ち溢れている、東歌らしい素朴でロマンチックな歌である。

 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ12地点に建っている。

万葉アルバム(関東):東京都、多摩市 多摩よこやまの道・芝生広場

2013年11月20日 | 万葉アルバム(関東)


赤駒を 山野(やまの)に放(はか)し 捕りかにて
多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣らむ
   =巻20-4417 宇遅部黒女=


 赤駒を山野に放牧して捕らえられず、夫に多摩の横山を歩かせてしまうのだろうか。という意味。

武蔵国の民、椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)が防人に召集され、国府(現在の府中)に集合する様命ぜられ、至急出発しなければならなくなった。妻の宇遅部 黒女(うちべのくろめ)は、遠く北九州へ向かう夫を気遣って大事な馬に乗って行っ て貰おうと思い立ち、出立前に馬を野原に放して、腹一杯の草を食べさせてい た。ところが運悪く馬に逃げられてしまって、やむなく夫を徒歩で多摩丘陵を 越えさせることになってしまった。そんな妻の嘆きを詠んだものである。

東国から遠く北九州で国防の兵役につく防人は、再び故郷の土を踏むことはまずありえなかったようだ。武蔵野を眺望できる横山の尾根道で故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ防人の姿が浮かぶようだ。「よこやまの道」はこの万葉集の「横山」から名づけられたのである。

この万葉歌碑は多摩市の多摩よこやまの道、芝生広場に建っている。


多摩よこやまの道の展望広場からの眺望<クリックで拡大>
多摩よこやまの道の位置する尾根筋は、古代より武蔵野と相模野の両方を眺められる高台として、また、西国と東国を結ぶさまざまな交通の要衝として活用されてきた。


万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 11地点:高崎商大分岐点手前

2013年11月13日 | 万葉アルバム(関東)


妹(いも)をこそ あひ見に来(こ)しか 眉引(まよびき)の
横山辺(へ)ろの 鹿猪(しし)なす思(おも)へる
   =巻14-3531 作者未詳=


 あの子に逢いたくて来たのに、それを家の人は私のことをあたかも横山あたりの鹿か猪のように思っているとは。という意味。

「眉引(まよびき)」は、横山に掛かる枕詞。「横山」は、多摩の横山のことと思われ、府中から八王子にかけての多摩川南岸の丘陵地帯をいう。


碑文:
  伊母乎許曽安
  比美爾許思可
  麻欲婢吉能興
  許夜麻敞呂能
  思之奈須於母
  敞流



  この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ11地点:高崎商大分岐点手前に建っている。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 10地点

2013年11月06日 | 万葉アルバム(関東)


紫の 根延(は)ふ横野の 春野には
君をかけつつ 鶯鳴くも
   =巻10-1825 作者未詳=



 紫草が根をのばす横野に春が来ると、貴女を思っているかのように鶯が鳴いている。という意味。

「根(ね)延(は)ふ」は根を伸ばすこと。
「横野(よこの)」は、横に長い野のこと。又は、地名としては大阪府生野区に式内社横野神社があり、その辺りの野という説もある。



碑文:
  紫之
  根延横野之
     春野
      庭
  君乎懸管
    鶯名雲

(碑の解説板には、<恋しくて、ついあなたのお名を口にしてしまいました。涙がとまりません>とある。)


  この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ10地点に建っている。

万葉アルバム(関東):茨城県、下妻市 大宝八幡宮/さ百合の花

2013年10月23日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも
愛(かな)しけ妹ぞ 昼も愛しけ
   =巻20-4369 防人の歌=


筑波山の小百合の花の夜床、そこでも愛しい妻は、昼でも愛しいよ。という意味。

防人として出発した男が後に残した妻を思慕する歌。夜の床のいとしい妻を思い出し、昼は昼でいとしいと感情を高ぶらせている。大らかな愛に溢れた歌で、その夜床を筑波山に咲く百合の花のようだと回想し妻のいとしい姿を重ねている。


 この万葉歌碑は茨城県下妻市の大宝八幡宮の境内、鐘楼の正面の位置に置かれている。
同じさ百合の花の万葉歌碑が境内の別の場所にある。


万葉歌碑は次の万葉仮名で刻まれている。
  都久波祢乃 佐由流能波奈能 由等許尓母 可奈之家伊母曽 比留毛可奈之祁

裏面   建立者 茨城県下妻市下妻戌431 万葉東歌研究会長 大木昇・百合子
           揮毫  文化功労者 国文学者 犬養孝
           監修  大阪府堺万葉歌碑の会代表 沢田富美子
           平成二十二年七月二十五日






万葉アルバム(関東):茨城県、下妻市 大宝八幡宮/筑波嶺の さ百合

2013年10月06日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも
愛(かな)しけ妹ぞ 昼も愛しけ
   =巻20-4369 防人の歌=


筑波山の小百合の花の夜床、そこでも愛しい妻は、昼でも愛しいよ。という意味。

防人として出発した男が後に残した妻を思慕する歌。夜の床のいとしい妻を思い出し、昼は昼でいとしいと感情を高ぶらせている。大らかな愛に溢れた歌で、その夜床を筑波山に咲く百合の花のようだと回想し妻のいとしい姿を重ねている。

万葉集には「かなし」という言葉が114語あり、悲哀、愛(かな)し=いとしい、懐古 、孤独、孤愁 と言った意味に使われているが、
この歌のように「愛(かな)し=いとしい」として用いられているのが一般的のようだ。

 この万葉歌碑は茨城県下妻市の大宝八幡宮境内の、
神楽殿と宝物殿のあいだに、巻9-1757/1758の万葉歌碑と共に置かれている。

万葉アルバム(関東):茨城県、下妻市 大宝八幡宮/草枕・・・

2013年09月23日 | 万葉アルバム(関東)


草枕 旅の憂いを 慰もる 事もあらんと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付(しづく)の田井(たい)に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治(にひばり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の よけくを見れば 長き日(け)に
おもひ積み来(こ)し 憂いはやみぬ
   =巻9-1757 高橋虫麻呂=

筑波嶺の 裾廻(すそみ)の田居に 秋田刈る
妹がり遣らむ 黄葉(もみち)手(た)折(を)らな
   =巻9-1758 高橋虫麻呂=


(現代訳)
巻9-1757
 旅の悲しみを慰めることもあろうかと、筑波山に登って見ると、芒(ススキ)が散る師付の田に、雁も寒々と飛んで来て鳴いている新治の鳥羽の湖も、秋風に白波が立っている。筑波山の美しい景色を見ていると、長い間思い悩んできた憂えも止んだことである。
巻9-1758
 筑波山の麓の廻りの田で秋田を刈る、あの乙女にやろうと思う黄葉を手折ろう。

師付=筑波山東麓の地。常陸国府のあった石岡市の西郊。
新治=筑波山西北の郡名。今の新治郡とは異なる。
鳥羽の淡海=今の真壁郡の南部、小貝川と鬼怒川の間の、下妻市付近にあった沼沢。


 この万葉歌碑は茨城県下妻市の大宝八幡宮境内に立っている。
大宝八幡宮はその名の通り大宝元年、つまり大宝律令の制定された701年の創建と言う。藤原時忠公が筑紫(つくし)の宇佐神宮を勧請創建したのがはじまりだそうだ。関東最古の八幡様といわれている。



この歌碑は神楽殿と宝物殿のあいだに立っており、
訪問した5月の際は、みごとな”なんじゃもんじゃの木”の真っ白い花が歌碑を引き立てていた。
木の下に歌碑が2基並んでおり、この歌の歌碑は右側、左側は巻20-4369の歌碑である。 

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 9地点/ささの葉は

2013年09月05日 | 万葉アルバム(関東)


ささの葉は み山もさやに さやげども
我が妹おもう わかれきぬれば
   =巻2-133 柿本人麻呂=



 ささの葉が風にそよいでざわざわと鳴っていても、私はあの人のことを思ってやみません、別れて来たあの人のことを。という意味。

解説板には、
「お前のことでいっぱいだ。哀しい別れだった。峠の笹の葉が鳴り続けていても、私の耳には、何も聞こえない」とあり、心が乱れず一筋に妻を思っている気持ちを

柿本人麻呂に石見相聞歌と呼ばれる長大な作品がある。長歌二首から成り、それぞれに反歌二首が添えられている。上の歌は、最初の長歌に付けられた反歌二首のうち、二首目の作。

国司として石見の国(現在の島根県西部)に赴任していた人麻呂は、いつしか現地の女性と知り合い、深く愛し合うようになった。当時の国司の任期は5年。やがて任期が切れて都に帰らなければならなくなった際、石見の女性を都に連れ帰ることはできず、その悲しい別れをうたったのが石見相聞歌である。


<碑文><クリックで拡大>
   さゝのはゝみ山も
   さやにさやけど
   も我は妹
   おもふわかれ
   きぬれば

  この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ9地点に建っている。


万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 山名城址分岐点手前/遠しとふ

2013年08月24日 | 万葉アルバム(関東)


遠しとふ 故奈(こな)の白峰(しらね)に あほ時(しだ)も
あはのへ時(しだ)も 汝にこそよされ
   =巻14-3478 作者未詳=


 おまえに会っている時はもちろん、 会っていない時だって。私の心はおまえから、ずっと離れないのだよ。という意味。

「遠しとふ」:枕詞説と「遠しという」の約説がある。
「故奈の白峰」は、越の白峰、白山説、 越中の立山説、 上野国吾妻郡の白根山説、その他あって定説はない。
「のへ」(助動)〔上代東国語。「なへ」の転〕打ち消しの助動詞「なふ」の連体形・已然形「なへ」に同じ。
「あほ時(しだ)」:逢う時。しだは古語か。
「あはのへ時」:逢わない時。
「よされ」:寄せられる。関係がある。


碑文<クリックで拡大>
 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、山名城址分岐点手前に建っている。


万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 7地点/あすか河

2013年08月17日 | 万葉アルバム(関東)


あすか河  塞く(せく)と知りせば あまた夜も
ゐ寝てこましを せくとしりせば
   =巻14-3545 作者未詳=



 二人の仲がひきさかれる定めだと、 それが分っていたなら、幾夜も幾夜も共寝をしたものを。 という意味。

「あすか河=明日香川」:大和を流れる川と、東国にも同名の川があったのかどうかは不明。
「塞く(せく)」:せきとめる。
「ゐ寝(ね)=卒寝」:いざなって共に寝る。

 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ7地点(山の上碑と古墳と山名城址分岐点の中間)に建っている。
碑文はカタカナで刻まれているが、カタカナはわりと珍しいようだ。

万葉アルバム(関東):茨城県、筑西市 宮山ふるさとふれあい公園

2013年08月10日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺の 新桑(にひぐは)繭(まよ)の 衣(きぬ)はあれど
君が御衣(みけし)し あやに着欲しも                
    =巻14-3350 東歌=


 筑波嶺一帯の、新桑を食べさせて育てた繭の着物は、それはそれで素晴らしいけれど、やっぱりあなたのお召し物が無性に着たい。という意味。

桑の新芽をつみながら、いとしい人を想って歌った娘さんの恋の歌という見方をするのが普通だが、
実際はそうではなく、新しい着物がどんなによくても、あなたの着物と交換したい、すなわち身を任せて共寝をしたいという思いが込められているのである。万葉ならではの恋の歌なのである。
古代の人々は、親しい男女間で別れの際に下着を交換するという習慣があったようだ。

筑波嶺(つくはね)」は筑波山。「新桑(にひぐは)」は、桑(くは)の新芽のこと。新桑(にひぐは)で育てた蚕で作られた絹の衣は高級品だった。繭(まよ)は、蚕(かいこ)のまゆのこと。


 この万葉歌碑は茨城県筑西市の宮山ふるさとふれあい公園に建っている。
宮山ふるさとふれあい公園は自然を満喫できるアウトドア施設で、万葉歌碑はキャンプ場入口付近にある。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 山の上碑と古墳/日の暮れに

2013年08月03日 | 万葉アルバム(関東)


日の暮れに 碓氷(うすい)の山を 越ゆる日は
夫(せ)なのが袖も さやに振らしつ
   =巻14-3402 作者未詳=


 日暮れ時に碓氷の山を越えていかれた日、あなたの袖もはっきりと振ってくださったのが見えましたよ。という意味。

ここの解説版には、「袖もはっきり見える程、ひどく振って峠を越えていった人、防人に旅立ったあの方の最後のお姿だった。」とある。

碓氷(うすい):古代では入山峠が「うすひのさか(碓氷坂)」であったとされている。

古代、東国から徴発されて北九州の防衛にあたる防人にとって、碓氷峠(入山峠)はふるさとを離れることを実感する場所だった。群馬県境の坂本宿から軽井沢宿に至る途中にある峠で、古代より「薄日」のさす険しい難所の山道であった。


 この万葉歌碑は、群馬県高崎市の高崎自然歩道、山の上碑と古墳がある一角に建っている。
山の上碑と古墳は万葉時代に建造されたもので、当時の万葉歌と相通じるものがあるようだ。
この歌碑から高崎自然歩道の本格的な山道が連なっていくようで、自然歩道の実質的な起点であろう。


碑文:万葉仮名で刻まれている。<クリックで拡大>
  比之暮尓薄日 
  乃山遠古由流 
  比者世奈濃賀
  袖毛沙耶尓不
  良志津


山の上碑
山の上碑は、 681年に立てられた日本最古級の石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に53字が刻まれている。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、母と自分の系譜を記して顕彰したもの。近隣の金井沢碑・多胡碑と合わせて上野三碑と呼ばれている。

碑文には、次のように記されている。
佐野(さぬ)の三家(みやけ)と定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫
黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川(にっかわ)の臣(おみ)の児
斯多々弥(したたみ)の足尼(すくね)の孫大児(おおご)の臣に娶(めあ)いて生める児、
長利の僧、母の為に記し定る文也

碑に隣接する山の上古墳は、直径約15メートルの円墳で、精緻な切石積みの石室を持ち7世紀中頃の築造と考えられ、その築造時期は、山の上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられている。




万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 山名貯水池/いにしへの・・・

2013年07月22日 | 万葉アルバム(関東)


いにしへの 古き堤は 年深み
池のなぎさに 水草生ひにけり
   =巻3-378 山部赤人=


 ずっと昔に造ったこの古い泉水は、年が深く積み重なったので、池の波打ち際に水草が生えているのだった。という意味。

山部赤人が故藤原不比等邸(現在の奈良・法華寺)の庭園を詠んだ歌。
山部赤人は不比等の生前度々招かれて歌を詠んでいたのであろう。
上の万葉歌に見える「古き堤」は、不比等邸にあった池の堤のことである。

 この万葉歌碑は高崎市、高崎自然歩道の山の上碑への分岐点からほどなく行ったところで、高崎自然歩道から外れた道沿いの山名貯水池わきに建っている。
貯水池の完成記碑(昭和57年)として建てられたもので、碑の表に大きく「山名貯水池」と刻まれており、
万葉歌はその裏面に刻まれている。歌碑の前に柵があって碑の裏が見えにくく、うっかりすると万葉歌を見損なってしまうようだ。
この歌はこの地に関する歌ではないが、揮毫した山名八幡宮の宮司、高井紫風氏の好みによるものだろう。


碑裏<クリックで万葉歌部分を別写真で拡大>
碑文:
     いにしへの古き堤は
   年深み池のなぎさに
       水草生ひにけり