飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 山の上碑への分岐点/吾が恋は・・・

2013年07月01日 | 万葉アルバム(関東)


吾が恋は まさかも悲し 草枕
多胡の入野の おくも悲しも
   =巻14-3403 作者未詳=


 私の恋は今も切ない。多胡の入野の奥ではないがオク(将来)もつらい悲しい思いがずっと続いていくのでしょう。という意味。

まさか・・・現在
草枕・・・旅
多胡の入野・・・地名、今の群馬県多野郡吉井町(群馬県の中南部にある)
奥…文字通りの「奥」という意味に加え、「オク」には将来という意味もある。

まさかもかなし、おくもかなしもと「かなし」の繰り返しが、いちずな成就しない恋の悲しさを切々と伝えている。万葉歌あるいは東歌の中でもこれほど心に響く歌は多くない。作者未詳と、地元の若い男性が歌ったものか、あるいは女性が歌ったものか不明だが、おそらくは女性がいちずに男性を思って歌ったのだろう。


万葉歌碑 碑文<クリックで拡大>
  安我古非波麻左香毛
  可奈思久佐麻久良多
  胡能伊利野乃於久母
  可奈思母


山の上碑への分岐点
写真は分岐点入口右折しすこし上がったところより(歌碑は左側木立付近にあり)

 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、山の上碑への分岐点入口右折したところに建っている。右折して急階段を上ると山の上碑に至り、左折して直進すると山名貯水池に至る。

山の上碑への石段右に見える掲示板には、
この上の山の上古墳の中に馬頭観音が祀られ、窟堂と呼ばれる観音堂が建てられ、石段が積まれ、
明和六年(1769)には三郡(多胡郡・緑野郡・北甘楽郡)の坂東四番札所に選ばれたが、
時は流れ、お堂は失せ、札所の伝えも忘れられて、あたかも史跡への石段であるかのような、錯覚のみが残っている。
と記されている。
江戸時代の観音札所めぐりにあやかりたい地元人のかすかな楽しみだったようだ。 

万葉アルバム(関東):茨城県、石岡市 万葉の森 筑波嶺に・・・

2013年06月24日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも
愛しき子ろが 布乾さるかも
   =巻14-3351 防人の歌=


 白く見えるのは筑波山の峰に雪が降っているのかな、いや違うのかな。私の愛しいあの娘が布を乾しているのかな。という意味。
 
「降らる」は「降れる」、「にの」は「ぬの」の東北方言。

 この万葉歌碑は石岡市小幡湯袋の万葉の森、ライオンズ広場にある。
平成元年に八郷ライオンズクラブが建てたもの。
ここの場所は市内からクルマで行くと、右手入口がちょっと見えづらく行き過ぎてしまった。
行き過ぎて戻ると左手に案内表示を見つけることができた。
万葉の森といっても広大な森のイメージはなく、広場を中心に木々が植えられ、万葉の歌札が掛けられている。


碑陰に万葉仮名が記されている。
 筑波祢尓 由伎可母布良留
 伊奈乎可母 加奈思吉児呂我
 尓努保佐流可母
八郷ライオンズクラブ創立二十周年記念事業としてこの歌碑を建立するものなり
  平成元年六月吉日辰 八郷ライオンズクラブ


 


万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 山名八幡宮/佐野山に・・・

2013年06月17日 | 万葉アルバム(関東)


佐野山に 打つや斧音(おのと)の 遠かども
寝もとがころが おもに見えつる
   =巻14-3473 作者未詳=


 佐野の山に打つ斧の音のように遠いけれども、寝ようというのであろうか、おとめが面影に見えました。という意味。

佐野山:高崎市山名町から吉井町にかけての山名丘陵を古くは佐野山と呼ばれていた。


万葉歌碑 碑文<クリックで拡大>
歌碑は、山名八幡宮西側の坂道を登りつめた林の中にある。
碑文:左努夜麻尓宇都也乎能等
   乃等抱可騰母彌毛等可児
   呂賀於母爾美要都留
     さぬやま尓う津やを能と
     乃登ほ可ともねもと可こ
     ろか於もにみえ津る

 群馬県高崎市、高崎駅から上信電鉄に乗り換えて山名駅下車すぐ山名八幡宮が鎮座している。
ここから根小屋駅にかけての一帯が山名丘陵で、鎌倉時代から鎌倉街道として行き来し、今は高崎自然歩道としてハイキングコースになっている。その起点が山名八幡宮で、境内に「石碑(いしぶみ)之路」の碑がある。
高崎自然歩道の一部に上野国を詠んだ万葉の歌を刻んだ石碑が道々24碑置かれており、「石碑(いしぶみ)之路」として呼ばれている。


 山名八幡宮は、安元年中(1175~1177)に、新田氏の祖の新田義範による創建といふ。新田氏からは山名の地名を苗字にした山名氏が出て、南北朝のころは足利氏に従ひ、山名宗全は応仁の乱の西の雄となった。


 この万葉歌碑は群馬県高崎市山名町の山名八幡宮の裏、東に600mくらいの丘上に建っている。
丘上に大きな山名御野立所跡碑が建っており、万葉歌碑はその片隅にひっそりと佇んでいる。
山名御野立所跡碑は、昭和9年秋、陸軍特別大演習の時昭和天皇が御野立になり、眼下烏川付近の野戦演習を御覧になった処という。

万葉アルバム(関東):茨城県、石岡市 万葉の森 草枕・・・

2013年06月10日 | 万葉アルバム(関東)


草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと 筑波嶺に 登りて見れば
尾花散る 師付(しつく)の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治の 鳥羽の淡(あふ)海(み)も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の よけくを見れば 長き日(け)に 思ひ積み来し 憂へは止みぬ
   =巻9-1757 高橋虫麻呂=

筑波嶺の 裾廻(すそみ)の田居に 秋田刈る
妹がり遣らむ 黄葉(もみち)手(た)折(を)らな
   =巻9-1758 高橋虫麻呂=


(現代訳)巻9-1757
 旅の悲しみを慰めることもあろうかと、筑波山に登って見ると、芒(ススキ)が散る師付の田に、雁も寒々と飛んで来て鳴いている新治の鳥羽の湖も、秋風に白波が立っている。筑波山の美しい景色を見ていると、長い間思い悩んできた憂えも止んだことである。
     巻9-1758
筑波山の麓の廻りの田で秋田を刈る、あの乙女にやろうと思う黄葉を手折ろう。

師付=筑波山東麓の地。常陸国府のあった石岡市の西郊。
新治=筑波山西北の郡名。今の新治郡とは異なる。
鳥羽の淡海=今の真壁郡の南部、小貝川と鬼怒川の間の、下妻市付近にあった沼沢。

 この万葉歌碑は石岡市小幡湯袋の万葉の森、ライオンズ広場にある。
平成元年に八郷ライオンズクラブが建てたもの。
ここの場所は市内からクルマで行くと、右手入口がちょっと見えづらく行き過ぎてしまった。
行き過ぎて戻ると左手に案内表示を見つけることができた。
万葉の森といっても広大な森のイメージはなく、広場を中心に木々が植えられ、万葉の歌札が掛けられている。


万葉歌碑碑文


万葉アルバム(関東):茨城県、石岡市 国民宿舎つくばね

2013年06月02日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺に そがひに見ゆる 葦穂山
悪しかるとがも さね見えなくに
   =巻14-3391 作者未詳=


 筑波山にソッポを向いた葦穂山みたいになったんだよな、あしき欠点が目立つわけでもなんだけど 。という意味。

これは筑波山で行われた歌垣に、彼女にふられた青年の心情を歌ったものか。筑波山は男体山と女体山がよりそうように見えるが、その北側にソッポを向いたように見える葦穂山(あしほやま)を失恋した男に見立てているようだ。

葦穂山(あしほやま)は筑波山の北、現在の足尾山。
新治台地の方から見ると、足尾山は筑波山の北側にそりかえるように葦の穂のような山容を見せ、それで「葦穂山」と書かれたようだ。
「そがひ(背向)」、後方・背後の意。


筑波山(左)、連なる北方に足尾山(右)、途中のくぼみが湯袋峠<クリックで拡大>
筑波山と比べて、足尾山は特徴もなく見栄えもいまいちなようである。

 この万葉歌碑は、湯袋峠付近にある国民宿舎つくばね(石岡市小幡湯袋)の玄関脇に建っている。


国民宿舎つくばねの駐車場奥にある万葉の滝
万葉のイメージが湧きにくい?人工の滝だ。わざわざ見に来る程のものではないだろう。


国民宿舎つくばねがある湯袋峠付近は道路沿いにヤマフジがみごとに咲いているのがみられる。
ドライブするのに気持ちの良いコースだ。(2012/5/10)

万葉アルバム(関東):茨城県、石岡市 フラワーパーク

2013年05月27日 | 万葉アルバム(関東)


筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも
愛(かな)しけ妹ぞ 昼も愛しけ
   =巻20-4369 作者未詳=


 筑波山の小百合の花の夜床、そこでも愛しい妻は、昼でも愛しいよ。という意味。

防人として出発した男が後に残した妻を思慕する歌。夜の床のいとしい妻を思い出し、昼は昼でいとしいと感情を高ぶらせている。大らかな愛に溢れた歌で、その夜床を筑波山に咲く百合の花のようだと回想し妻のいとしい姿を重ねている。

万葉集には「かなし」という言葉が114語あり、悲哀、愛(かな)し=いとしい、懐古 、孤独、孤愁 と言った意味に使われているが、
この歌のように「愛(かな)し=いとしい」として用いられているのが一般的のようだ。

 この万葉歌碑は茨城県石岡市フラワーパーク内のふれあいの森の頂上に建っている。
高さ3.5mにおよぶ白みかげの自然石で、なんと現存する万葉歌碑の中で日本一大きいとされるものだ。


万葉歌碑碑文
碑の説明板に次のように記されている。
”常陸国那賀郡(なかのこほり)上丁(かみつよぼろ)、大舎人部千文(おほとねりべのちふみ)の歌である。天平勝宝七年(755)常陸国の部領防人使(ことりさきもりのつかい)の手を経て、大伴家持の許に集められた防人たちの歌の中の一首である。・・・その妻を残して、遠く離れた地に連れて行かれた防人の、妻を恋い、故郷を思う飾り気のない歌である。
大舎人部千文はもう一首「霰降り鹿島の神を祈りつつ 皇御軍士にわれは来にしを」と詠んでいる。こちらは天皇の兵士として、雄々しく、高揚した気持ちを歌いあげており、同一人物の心の中に、公私両面の感動があったことを知ることができる。大伴家持は万葉集の編纂にあたり、この二首を並べて採り上げている。
大舎人部千文その人については、伝わっていない。 平成六年 八郷町、ふれあいの森”


 石岡市にある茨城県フラワーパークは、約30ヘクタールの広大な花と緑の公園。園内には、世界のバラ500品種30,000株、ボタン3,500株、大温室には熱帯花木3,000本が植栽されている。


 7月下旬からは、この万葉歌を彷彿とさせるヤマユリが12,000株開花するというが、今回は見ることができず、その代りふれあいの森の散策路に連なる日本最大級のみごとなシャガの群落を見ることができた。


ふれあいの森の頂上にある展望台から眺めた筑波山(2013/5/10)
<クリックで拡大>

万葉アルバム(関東):茨城県、かすみがうら市 師付の田井

2013年05月19日 | 万葉アルバム(関東)


草枕 旅の憂いを 慰もる 事もあらんと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付(しづく)の田井(たい)に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治(にひばり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の よけくを見れば 長き日(け)に
おもひ積み来(こ)し 憂いはやみぬ
   =巻9-1757 高橋虫麻呂=


(現代訳)
 旅の悲しみを慰めることもあろうかと、筑波山に登って見ると、芒(ススキ)が散る師付の田に、雁も寒々と飛んで来て鳴いている新治の鳥羽の湖も、秋風に白波が立っている。筑波山の美しい景色を見ていると、長い間思い悩んできた憂えも止んだことである。

歌にある師付の田井とは、この辺一帯の水田を指したのではないかと思われる。
碑のある付近は、昭和四十八年まで鹿島やわらと称し、湿原の中央に底知れずの井戸があり、日本武尊や鹿島の神にまつわる伝説のあるところで、土地の人は、昔から「しづくの田井」と呼び、しめ飾りをして守ってきたところでもある。(平成四年一月 かすみがうら市教育委員会)


師付の田井全景<クリックで拡大>

 師付の田井の場所について
かすみがうら市中志筑(なかしづく)。万葉の師付(しづく)の読みが志筑(しづく)という地名で残っている。
国道138号線の池の下交差点から北へ500m程進んだところの「師付の田井入口」の案内板を左折し、細い道を700mほど進むと駐車場に着く。そこから舗装された畦道を北に100m余り行ったところの、水田に囲まれた中の畦道の突き当りに位置している。
畔道の両側にかれんな野草が咲いており、春風が心地よく感じる。ここからは筑波山は山陰になっており、畦道の先まで行かないと望めないようだ。


 師付の田井の碑の裏側に今でもこんこんと湧き出る水源があった。これが伝説にある井戸なのだろう。万葉時代から現代まで止まることなく湧き出ていることで、伝説の身近さを感じた。

 師付(志筑)の田井に伝わる昔話
師付の田井のあたりは戦前まで湿地帯でもあり、不断に泉の湧く井戸があった。この井戸は、弘法大師(空海)が巡錫の途中、この地に来られ、錫杖を使って地面を突くと清烈な水が湧き出し、長らく付近の稲作におおいに役立ち、村人にたいへん喜ばれているそうである。またこの志筑の田井は遠く鹿島神宮の御手洗池と地下でつながっているという。このように弘法大師によって湧き出した泉の例は、弘法井とか、御大師様水とかいわれ、全国いたるところに見ることができる。この他、弘法大師の足跡として近くの閑居山では金堀穴の前面にある大石の上に静座され瞑想にふけっていると、妙な音楽とともに阿弥陀如来のお姿が現れ、立派な経巻を残されて姿を消した。、大師はこれは如来の賜物であると、前面が平滑で数メートルの高さの岩の下部にある穴に納めて、石で蓋をして後世の人の手にふれないようにした。この大岩を聖教石といった。また、高倉の湯ケ作山に、阿弥陀宝蔵寺の跡があるが、弘法大師がここを通りかかった時に、大変疲れており、手にした杖を大地に突き立てると、その杖の下から温泉が湧き出し、この温泉で疲れを癒したと言い伝えられている。 (千代田村の昔ばなし 仲田安夫著 ふるさと文庫より)


万葉アルバム(関東):茨城県、石岡市 石岡民俗資料館(常陸国府跡)

2013年05月12日 | 万葉アルバム(関東)


庭に立つ 麻手(あさて)刈り干し 布さらす
東女(あづまをみな)を 忘れたまふな
   =巻4-521 常陸娘子=


 庭に植えた麻を刈って干したり、それを織って布にして曝したるする東国の女だからと言って、決してお忘れ下さいますな。という意味。

 藤原宇合大夫(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)の遷任して京(みやこ)に上りし時に、常陸娘子(ひたちのをとめ)の贈れる歌一首とある。

「藤原宇合」は、藤原不比等の子。
「常陸娘子」の「常陸」は、常陸国(茨城県)。「娘子」は、女性に対する呼称。直訳すれば、「茨城県の娘さん」。国名を冠した「常陸娘子」のような呼び方は、その土地(国)を代表する意味が込められているという。したがって、ここでは、今で言うところの「ミス常陸」のような存在だったようだ。

「麻手」は、麻。麻布。
「布さらす」は、麻を織って布にして、それを曝(さら)す。

 中央の役人に対峙して純朴な娘が、地元の特産品を作るのに精一杯働いているんです、と胸を張って言っている。
万葉時代の地方の娘に純朴だが芯の強さがあったと歌に残されていることが、
あらためて万葉集のすばらしいところであると思う。

 この万葉歌碑は茨城県石岡市総社1丁目石岡小学校内にある民俗資料館の玄関脇に建っている。
このあたりは、常陸国の国府の役所、つまり、常陸国衙(こくが)が置かれていたところといわれており、石岡小学校の地から、多数の遺跡が発掘されている。
常陸の国は、古くは高、久自、仲、新治、筑波、茨城の六国が独立していたが、大化の改新の際、六国が統合されて誕生した。国府は石岡に置かれ、また国分寺、国分尼寺なども建てられた。


写真は、万葉歌碑と大きな榎(エノキ)
大きな木が往時の一里塚であったことを物語っている。
国府として栄え、そののちは一里塚として地元に愛されていた場所だったのであろうか。


石岡小学校校庭にかつての国府の遺跡が埋め戻されている。

万葉アルバム(関東):茨城県、竜ヶ崎市 行部内公園 萩の花・・・

2013年04月01日 | 万葉アルバム(関東)

萩の花 尾花葛花 なでしこの花
をみなへし また藤袴 朝顔の花
   =巻8-1538 山上憶良=


 秋の七草を読み上げた有名な歌。
それぞれ、萩の花=ハギ、尾花=ススキ、葛花=クズ、なでしこが花=ナデシコ、をみなえし=オミナエシ、藤袴=フジバカマ、朝顔が花=キキョウ。尾花と朝顔以外の呼び名は今も変わらないようだ。


 この万葉歌碑は、茨城県竜ヶ崎市の行部内公園(龍ヶ崎市久保台1丁目17)
民家が並ぶわきに、公園につづく遊歩道が整備され、所々に3基の万葉歌碑が置かれている。
この歌碑は遊歩道の中ほどに建っている。


行部内公園の中央には石組オブジェが置かれていた。



万葉アルバム(関東):茨城県、竜ヶ崎市 行部内公園 帰り来て・・・

2013年03月09日 | 万葉アルバム(関東)

帰り来て 見むと思ひし 我がやどの
秋萩すすき 散りにけむかも
   =巻15-3681 秦田麻呂=


 帰ったら見ようと思っている、家の庭の秋萩・すすきは、もう散ってしまったのだろうか。という意味。

天平8年、遣新羅使(けんしらぎし)の一人である秦田麻呂(はたのまろ)が肥前国(ひぜんのくに)松浦郡(まつらぐん)の狛島(こましま)の港で詠んだ歌。

遣新羅使の中に病気にかかる人が出て旅が遅れて、役目を終えて帰ることができない。その不安を詠んだもの。


行部内公園(遊歩道奥の小山あたり)
 この万葉歌碑は、茨城県竜ヶ崎市の行部内公園(龍ヶ崎市久保台1丁目17)
民家が並ぶわきに、公園につづく遊歩道が整備され、所々に3基の万葉歌碑が置かれている。
この歌碑は遊歩道の奥の方に建っている。






万葉アルバム(関東):栃木県、下野市 天平の丘公園 下野国分尼寺跡

2013年02月19日 | 万葉アルバム(関東)

あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
   =巻1-20 額田王=


 茜色の あの紫草の野を行き その御料地の野を歩いてるとき 野の番人は見ていないかしら ああ あなたそんなに袖を振ふらないでよ。という意味。

「天皇(天智天皇のこと)が蒲生野(がもうの)で遊猟(みかり)された時に額田王が作った歌」。実は宴席での戯れ言の応酬歌だそうだ。

天智天皇七年(668年)の夏、蒲生野(今の滋賀県近江八幡市や八日市付近一帯)の禁野(きんや)で天皇が宮中の人々を大勢従えて狩をして遊んだとき、大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に袖を振って恋しい心を表した場面を歌ったものである。
現代人が手を振るような軽い意味ではなく、この時代では明らかな求愛の仕草だ。
しかも、額田王はこの時点では天智天皇の妻だが、実は以前はこの歌で袖を振っている大海人皇子(天智天皇の弟)の妻でもあって一女をもうけていたのである。

天平の丘公園の下野国分尼寺跡付近の道路わきに、この万葉歌碑が建てられている。

この近くの紫草塚には大海人皇子の「紫の…」の万葉歌碑が建っている。


下野国分尼寺跡は主要伽藍の基壇と礎石が復元表示され、史跡公園として人々の憩いの場として活用されており、また岐阜県旧根尾村の薄墨桜が植えられており、開花期は花見客で賑わっている。

万葉アルバム(関東):栃木県、下野市 天平の丘公園 花広場

2013年01月07日 | 万葉アルバム(関東)

紫草の にほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも
   =巻1-21 天武天皇=


 紫草のように香れる君がもし憎かったなら いまは兄の妻の君を どうして恋い慕うことがあるものか。という意味。

この歌は額田王の「あかねさす…」の歌に答えて大海人皇子(後の天武天皇)が詠んだ歌。
この二首はセットになっているので、一緒に紹介されている場合が多い。

 この万葉歌碑は、天平の丘公園の花広場に建っている。


花広場には、日本各地の桜の名花が移植されて、開花時は「花まつり」で賑わっている。

この近くの下野国分尼寺跡付近には額田王の「あかねさす…」の万葉歌碑が建っている。




万葉アルバム(関東):千葉県、佐倉市 西印旛沼畔

2012年12月03日 | 万葉アルバム(関東)

潮船の 舳越(へこ)そ白波 にはしくも
負ふせたまほか 思はへなくに
   =巻20-4389 丈部直大麻呂=


 潮船の舳先を越して白波が急に来るように、にわかに命じなさるものだなあ。思いもかけなかったのに。という意味。

註に、右一首印波郡(いにはのこほり)の丈部直大麻呂(はせつかべのあたひおほまろ) とあり、地元印旛沼付近に住んでいて防人として出立するときに作ったものである。「直」という身分は防人の庶民たちをまとめる地位にあった上司である。上からの命に従わなければならない辛さが垣間見える。


 この万葉歌碑は、千葉県佐倉市西印旛沼畔(佐倉市臼井)のサイクリングロード上で、
舟戸大橋から東へ1Km程歩いたところに建っている。(写真右奥の白いのが歌碑)


歌碑の右に大麻呂の歌を解説した石盤があり、解説には以下のように記されている。
”印旛郡出身の防人(古代に唐・新羅の侵攻を防ぐために九州地方に配備された兵士で主に東国から徴発された)の歌です。万葉集は日本最古の歌集」ですが、全四千五百余の中で佐倉市周辺の出身の人の歌はこの一首だけです。そこで郷土の先人の心を伝えるために、公益信託佐倉街づくり文化振興臼井基金の助成を得て、歌碑を建立しました。
 平成四年三月 佐倉万葉の□□の会”

万葉アルバム(関東):茨城県、竜ヶ崎市 行部内公園 朝ごとに・・・

2012年11月30日 | 万葉アルバム(関東)

朝ごとに 我が見るやどの なでしこの
花にも君は ありこせぬかも
   =巻8-1616 笠郎女=


 毎朝見る私の家のなでしこの花みたいに、あなたがこの花であってくれたらいいのに。
 すなわち、あなたが逢ってくれたらいいのに。という意味。

「ありこせ」=有りこせ。そうあってほしい。「こせ」は「こす」の未然形で・・してほしいの意。
「ぬかも」=・・してくれないかなあ。

笠郎女が大伴家持へ贈った歌で、男を愛する女の気持が素直に表れていて、すばらしい歌といえる。
笠郎女は一説には笠金村の娘。大伴家持とかかわりのあった十余人の女性のひとりで、同時代では大伴坂上郎女とならび称される女性歌人である。

 この万葉歌碑は、茨城県竜ヶ崎市の行部内公園(龍ヶ崎市久保台1丁目17)
民家が並ぶわきに、公園につづく遊歩道が整備され、所々に3基の万葉歌碑が置かれている。
この歌碑は遊歩道の入口付近、「かっぱの像」のそばに建っている。


遊歩道の入口右手につづく、童謡の小路


童謡「とんぼのめがね」の碑
他に、「うみ」・「たなばたさま」・「背くらべ」の碑と、全部で4基あった。






万葉アルバム(関東):栃木県、下野市 天平の丘公園 紫草塚

2012年11月22日 | 万葉アルバム(関東)

東の 野にかぎろひの 立つ見えて
かへり見すれば 月かたぶきぬ
   =巻1-48 柿本人麻呂=


 東の野の果てに曙光がさしそめて、振り返ると西の空には低く下弦の月が見えている。という意味。

柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつで、人麿の歌としてはもっとも有名なもののひとつ。
炎(かぎろひ)とは輝く光のこと、つまり朝陽によって真っ赤に染まった空のこと。東の野原を見れば空を真っ赤に染めていままさに朝陽が昇ろうとしている。振り返って西の空を見ればまだ月が沈まずに残っている。
この自然の輪廻に譬えて、いままさに沈もうとしている月を亡くなった父の草壁皇子、のぼる朝陽に軽皇子とした、なんとも壮大な一首なのである。


紫草塚
 この万葉歌碑は下野市天平の丘公園の入口に近く、薄墨街道沿いの紫草塚に建っている。

 天平の丘公園は、美しい自然林と貴重な史跡が調和された面積11ヘクタールの公園。木立の中を小川が流れ、園内には造成中に発見された古銭をまつる銭石や万葉植物、万葉集の歌碑などがある。
隣接する下野国分寺跡・国分尼寺跡も公園として整備されており、古代下野国の風情を偲ばせるところだ。
花の広場には日本各地の桜の銘木や約450本の八重桜が植えられており、4月中旬から4月下旬にかけて開催される天平の花まつりは多くの花見客で賑わうようだ。