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飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(中部):長野県、上田市 上塩尻神社

2012年08月20日 | 万葉アルバム(中部)

唐衣(からころむ) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを
置(お)きてぞ来(き)のや 母(おも)なしにして
   =巻20-4401 他田舎人大島=


 衣の裾に取り付いて泣く子を置いて来てしまった。その子の母もいないのに。という意味。


作者は、国造(くにのみやつこ)小県(ちひさがた)の郡(こほり)の他田舎人大島(をさだのとねりおほしま)。
いわゆる防人である。防人は大陸からの攻撃を憂慮して、おもに東国の農村から徴兵された、九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵。

「小県(ちひさがた)の郡(こほり)」は長野県上田市の周辺をさす。
「唐衣」は大陸風の衣服で、当時の外行きの衣服。

男やもめの防人が、子供らを、おそらく祖父母に預けて辺境の地に赴く、けがや病気で帰れない、ましてや帰るお金も持っていかない死出の旅であったのだ。とても悲しい歌なのである。


この万葉歌碑は上田市上塩尻にある上塩尻神社に建っている。


上塩尻は養蚕が盛んだったようで、立派な土塀に囲まれた家々が狭い道沿いに立ち並んでいる。
土塀の間の脇道が神社の方角か地元の人に訪ねたら、”この狭い道を登って行くと神社がありますよ。時々歌碑を訪ねる人がお見えになりますね。道が狭く雑草が茂っているので気を付けて”と声をかけられた。山の方向に登って行くと、とたんに雑草が生い茂り石段が崩れかかった参道に出る。
これを一気に登り詰めると上塩尻神社が現れる。
神社社殿左手に小さな摂社があり、そのわきの祠の中に古びた歌碑があった。

<写真クリック拡大します>
江戸時代の建立で、今にも崩れそうな感じだが、万葉仮名の小さな文字で刻まれているのがかすかに見えた。


歌の作者はこのあたり(上田近辺)の防人だとみられる。

万葉アルバム(中部):長野県、上田市 蚕養国神社

2012年08月13日 | 万葉アルバム(中部)

たらちねの 母がその業(な)る 桑すらに
願へば衣(きぬ)に 着すとふものを 
   =巻7-1357 作者未詳=


  母が仕事で扱っている桑(くわ)でさえ、心から願えば、着物として着ることができるというのに。(かなわぬ恋も願えば実る。)という意味。

脇の説明版には、「”為せば成る 為さねば成らぬ何事も”のこころで積極的に生きたい」と添えられていた。

蚕(かいこ)は、桑の葉を食べて美しい絹を作り出すことから、古代人は蚕を神秘的な存在と考えていたようだ。
たらちねのは母の枕詞。


大星神社(上田市中央北3-2478-2)

 上信越自動車道・上田菅平ICを降りて上田市内に向かうとほどなく大星神社が見えてくる。

 この万葉歌碑は大星神社の摂社として佇んでいる蚕養国神社(こがいのくに)境内に建てられている。
上田地方は養蚕業がさかんで繊維産業に係わる人も多く、蚕糸業界の尊祟神として蚕養国神社(こがいのくに)を昭和16年に建立をした。養蚕・生糸から始まった上田市産業文化の発展を願い、平成19年に神社脇に万葉歌碑が建立された。
小さな古びた摂社に比べて万葉歌碑は大きく堂々としているような雰囲気を感じさせる。
昭和初期には盛んな養蚕業で上田市もかなり活気づいたようだ。現在は所々にそのなごりが感じられる。

 長野県歌「信濃の国」の3番後半部分には、蚕都上田の養蚕業が日本経済の命運を左右する程重要であることが歌いこまれている。
 「しかのみならず 桑とりて 蚕飼い(こがい)の業(わざ)の 打ちひらけ 細きよすがも 軽(かろ)からぬ 国の命を 繋ぐなり」

万葉アルバム(中部):長野県、千曲市 千曲川万葉公園 信濃なる・・ 佐々木信綱

2012年08月10日 | 万葉アルバム(中部)

信濃(しなの)なる 千曲(ちぐま)の川(かは)の 細石(さざれし)も
君し踏みてば 玉と拾(ひろ)はむ
   =巻14-3400 作者未詳=


 信濃の千曲川の小石でも、貴方が踏んだ石ならば玉として拾いましょう。という意味。


地元の上山田温泉に「恋しの湯伝説」がある。
昔むかし、当地の姫様の旦那さんが戦争へ行かされて、なかなか戻ってこなくて、姫様は神様にお祈りをしたら「千曲川で赤い石100個を拾ったら、恋人が戻ってくる」と。
万葉橋となりの大正橋の歩道には伝説をモチーフに99個の赤い石がはめ込まれている。100個目を見つければ恋が成就するとか…。

 この万葉歌碑は千曲市上山田温泉の千曲川堤にある千曲川万葉公園(万葉橋北側)に建っている。
この碑の揮毫者は国文学者の佐々木信綱さんで、1950年(昭和25年)に建立された、この万葉公園では最も古いもの。
佐々木信綱さんは『校本万葉集』(1924~25)等の編著で、昭和12年(1937)第1回文化勲章を受賞している。


歌碑は万葉仮名で書かれている
”信濃なる ちく万の川の ささ礼志も きミ之不みて者 玉と比ろ者舞”


万葉アルバム(中部):長野県、千曲市 千曲川万葉公園 信濃なる・・ 犬養孝 

2012年08月08日 | 万葉アルバム(中部)

信濃(しなの)なる 千曲(ちぐま)の川(かは)の 細石(さざれし)も
君し踏みてば 玉と拾(ひろ)はむ
   =巻14-3400 作者未詳=


 信濃の千曲川の小石でも、貴方が踏んだ石ならば玉として拾いましょう。という意味。

 万葉学者犬養先生の文章に、印象に残る次の名文がある。
「東歌の千曲川の歌はこの付近の庶民の間で謡われた歌でもあろう。恋人の踏んだ小石には、恋しい人の魂がついている。
この歌は恋する千曲乙女の純情の心で、彼氏の踏んだ小石を拾いあげ抱きかかえて、「玉だわ」といっているのだ。
一つの小石も彼女にとっては、なによりの珠玉でさえあるのだ。石を玉にする人間の心の厚みも深さも思われるではないか。
それは朝の曙光に輝く月見草の朝露にも増した綺麗な人間の心だ。・・・」

犬養先生はこの歌が大好きだったようで、本や講演でたびたび解説されている。
印象に残っているのは、広大な信濃から千曲川をズームインし、さらに河原の小石にズームインするといった生き生きとした映像描写を見るような歌だというようなことを言われたのを思い出す。


 万葉橋のたもとに立つと、はるか古代万葉の姿が彷彿と蘇ってくるようだ。しばし川風を感じながら川面を見入っていると、河原で円陣を組んで体操している元気な若者グループに気が付いた。万葉は遥か遠くに想うのみか。

 この万葉歌碑は千曲市上山田温泉の千曲川堤にある千曲川万葉公園(万葉橋北側)に建っている。
この碑の揮毫者は万葉学者の犬養孝さん。


歌碑は万葉仮名で書かれている
”信濃奈流 知具麻能河泊能 左射禮思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟 孝書”

この碑の裏面に、「佐久屋万葉歌碑の記」として以下の事が記されている。
「昭和六十年四月上山田温泉の新名所千曲川万葉公園竣工式が行われた。その折来賓として来町された大阪大学名誉教授文学博士犬養孝先生が当佐久屋に宿泊されこの碑の万葉歌の書をしたためられた。佐久屋ではこの書を石に刻み当温泉を訪れる文人墨客の旅情を慰めようと計画し犬養先生をお迎えしてこの碑を建立したものである。 昭和六十一年九月二十八日 上山田町長山崎尚夫書 (株)佐久屋旅館 小林茂一」

上山田温泉の佐久屋旅館の前庭に1986年(昭和61年)に建てられ、2010年にこの場所に移設されたという。
その犬養孝さんゆかりの佐久屋旅館は平成21年10月末に90年の幕を閉じ閉店したとのことである。




万葉アルバム(中部):高岡、勝興寺

2009年09月09日 | 万葉アルバム(中部)

海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍
大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ
   =巻18-4094 大伴家持=


大伴家の遠い祖先の神、その名を大来目主よ呼ばれてお仕えしてきた職であるため、海に行くなら水に浸かる屍となり、山を行くなら草むす屍となっても、大君のお側で死のう、自らを顧みるようなことはするまいと誓いを立て、立派な男として潔いその名を昔から今まで伝えてきた、その祖先の末なのだ。・・・という意味。

高岡市、小矢部川の河口、伏木港の近くにある浄土真宗本願寺派勝興寺が往時の越中国府址と伝えられる。大伴家持は養老2年(718)大伴旅人の子として奈良に生まれ、聖武天皇に仕え、天平18年(746)越中守としてここに赴任した。

歌碑は勝興寺の境内にある。万葉歌人大伴家持が越中国の任地でこの歌を詠んだのは749年、昇進の喜びをうたったもの。
陸奥の国より金を出せる詔書を賀(ほ)く長歌の一節。歌碑には昭和十二年、日支事変中、北京攻略を記念して建立したものと記されている。

昭和12年にこの歌に信時潔が作曲をした。これがなかなかの名曲で、出征した軍人が美しい日本のためにいつ死んでもいいという気持ちになったものだ。ところが、戦後この歌は戦争中の軍国主義をたたえる歌だと危険視されていたのである。
しかし万葉集の題詞をみると、この歌は戦争を謳歌するような歌ではなく、わか国で初めて金が陸奥の国から大量に出てきたことを天皇が喜んだ時に家持が歌った歌なのである。

万葉アルバム(中部):高岡、国守館跡

2009年08月17日 | 万葉アルバム(中部)

朝床(あさとこ)に聞けば遥(はる)けし射(い)水川(みづかわ)
朝漕ぎしつつ唱(うた)ふ船人
   =巻19-4150 大伴家持=


朝の床に聞けば遠いよ、射水川を朝漕ぎながら歌う船人の声は。の意味。

天平勝宝2年(750)3月2日、越中国守大伴家持が館舎の朝床からはるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌である。射水川(小矢部川)は当時この台地の下を流れていた。

 氷見線伏木駅から程ないところに、伏木特別地域気象測候所が建っているが、奈良時代には越中国守の館であった。真下に小矢部川(昔は射水川)がとうとうと流れ、眼前に有磯海、雪のいただく立山連峰を望む景勝の地である。
そこに「国守館址碑」が建っており、碑裏にこの万葉歌が刻まれている。

 測候所も今ではリニューアルされて「伏木気象資料館」として一般公開されている。写真はリニューアル前の1987年に訪ねた際の写真で、当時の測候所は風雪に耐えた風情を感じさせていた。

万葉アルバム(中部):高岡、渋渓の崎

2009年07月23日 | 万葉アルバム(中部)

馬 並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の
清き磯廻(いそま)に寄する波見に
   =巻17-3954 大伴家持=


馬を連ねて、いざ鞭打って行こう、渋谷の清らかな磯に打ち寄せる波を見に。という意味。

この歌碑がある気多神社は、富山県高岡市の伏木駅の北西2Kmほどの一ノ宮に鎮座している。
境内は樹林が多く幽寂のたたずまいにあふれており、越中国総社跡の伝承地となっている。
越中国司大伴家持も厚く崇敬し、当時は社殿も広壮であった。

天平18年(746年)、大伴家持が越中守に赴任して間もなくの作。
「渋谿」は現在の富山県高岡市渋谷の海岸で、「雨(あま)晴(はらし)海岸」といい、年間を通じ、晴れた日には、富山湾を隔てて東方に雄大な北アルプスの3000m級の立山連峰が浮かび上がり、岩礁、白い砂浜、青松がつづく景勝地である。
中世に、奥州へ落ちのびる義経・弁慶主従がここの岩陰で雨宿りしたという伝説でも有名な義経岩があり、「雨晴」の地名は、この義経伝説から由来している。

大伴家持は「渋谿」の地で何首か歌を残しているほど愛していた場所である。
現代の雨晴海岸で、万葉時代と変らないすばらしい景観を我々は目にして、万葉びとと同じ思いを共感することができるのである。





万葉アルバム(中部):長野、神坂神社

2009年06月24日 | 万葉アルバム(中部)

信濃路は今の墾(は)り道刈りばねに
足踏ましむな沓(くつ)はけ我が背
   =巻14-3399 作者未詳=


信濃路は今切り開いたばかりの道。切り株に足を踏みつけなさいますな、沓をおはきなさい、あなた。という意味。

神坂峠は、木曽山脈恵那山を越える峠道で、続日本紀に、「大宝二年、始メテ岐蘇山道ヲ開ク」、「和銅六年(702)、美濃、信濃二国ノ堺、径道険隘ニシテ往還艱難ナリ。仍テ吉蘇路ヲ通ス」とある。「今の墾道」とはこの木曽道のことであろう。

若い妻が旅に出る夫を気遣って詠んだ歌。沓は正式には革製で、ふつうは布や藁(わら)、木などで作ったが、一般庶民の多くは素足だったようだ。

神坂神社は神坂峠の直下にあり、南アルプスの赤石岳(3120㍍)、聖岳(2982㍍)を望む険しい山岳路に位置する。当時は険しい道を越えて、つらい旅を強いられる時代であった。
 中央高速道路が中央アルプスを貫き開通し、この工事の際に温泉が湧き出して、「昼神温泉郷」として誕生した。神坂神社へはこの温泉宿から車で楽に行くことが出来る。万葉当時と比べて隔世の感である。


万葉アルバム(中部):高岡、雨晴海岸

2009年06月09日 | 万葉アルバム(中部)

磯の上の都万麻(つまま)を見れば根を延(は)へて
年深からし神(かむ)さびにけり
   =巻19-4159 大伴家持=


磯の上のつまま(タブノキ)を見ると逞しく根を張っている、長い年月を経ているようだ、何と神々しいことよ。という意味。

この歌の題詞には、天平勝宝2年3月9日、澁谿埼(しぶたにのさき: 今の富山県高岡市)でつままを見て詠んだ歌とある。
雨晴海岸にこの万葉歌碑がある。
20年程前に北陸に出張した折に、この海岸を散策した思い出がある。長い海岸線から海のかなたにアルプスの山並みが連なっているのが望まれる。万葉時代も同じような雄大な景観であったのだろう。遠くの雄大な山々を目の当たりにして、つままの木が伸びる力を与えられた、と感じてこの歌を読んだのではないかと私は想像している。


都万麻(つまま)は、クスノキ科タブノキ属の常緑高木の椨(たぶのき)のことである。
高さは、30メートルくらいまでにもなり、海岸に根付いてる姿を見て感動して詠んだのであろう。

万葉アルバム(中部):高岡、二上山

2009年05月05日 | 万葉アルバム(中部)

玉くしげニ上山(ふたがみやま)に鳴く鳥の
声の恋しき時は来にけり
   =巻17-3987 大伴家持=


二上山に鳴く鶯の声が恋しくてならない時が、とうとう今年もやってきた、という意味。

二上山は越中国庁があった付近の小高い山で高岡市内から望むことができる。
「玉くしげ」は二上山にかかる枕詞。

大伴家持は29歳で越中守として単身赴任する。
一年後の30歳の時に、越中の二上山に春が近づくのを見ると、
なつかしい故郷大和から望んだ大和の二上山を思い出し、
置いてきた妻大嬢を恋しく思って歌ったのであろう。


万葉アルバム(中部):高岡、かたかごの花

2009年04月03日 | 万葉アルバム(中部)

もののふの八十(やそ)少女(をとめ)らが汲みまがふ
寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花
   =巻19-4143 大伴家持=


 大勢の少女たちが入り乱れて水を汲む、寺の井のほとりに咲いている可憐な堅香子の花よ、と解すると、大勢の少女たちと可憐な堅香子の花の対比が浮かぶ。
 大勢の少女たちが水を汲んでいるような姿で寺井の上に咲いている堅香子(かたかご)の花(のなんて可憐なことだろう、と解すると、可憐な堅香子の花が水を汲む少女に見えてくる。
解釈のしかたで浮かぶ情景が変わってくるが、私は絵画的な情景が浮かぶ上の解釈を選ぶ。

高岡の勝興寺に越中国庁跡があり、またそこに「かたかご育成地」がある。
かつて、このあたり一面にかたかご(現在のカタクリ)の花が咲き乱れていたようだ。
また気多(けた)神社に清泉があり、かたかごの寺井はこの辺りともいわれている。
近くの伏木小学校内にこの万葉歌碑が建っている。
さらに高岡駅前にはりっぱな大伴家持とかたかごの歌碑が建っている。

高岡市内に、この万葉歌にちなむ歌碑や史跡が多く見られるのは、
いかに高岡市民に大伴家持とかたかごの花の歌が愛されているかという証拠であろう。
 
 かたかご(現在のカタクリ)

万葉アルバム(中部):長野、園原の里

2009年02月03日 | 万葉アルバム(中部)

ちはやふる神の御坂(みさか)に幣(ぬさ)奉(まつ)り
斎(いは)ふ命は母父(おもちち)がため
   =巻20-4402 防人の歌=


 神の御坂に幣をささげ、わが命の無事を祈るのも、父母のためです、という意味。
防人として九州に出向く信濃国の若者が、神坂峠を越えていくときに歌ったもの。峠を越えて西国に行くことは、当時としては決死の覚悟であった。
峠神に幣をささげて身の安全と無事帰還を祈ったのは、故郷に待っている父母のためであるというのは、現代の若者にはみられない万葉びとの強い家族愛を感じる。

万葉アルバム(中部):高岡、桃の花

2009年02月01日 | 万葉アルバム(中部)

春の苑(その)紅にほふ桃の花
下照る道に出で立つ少女(をとめ)
   =巻19-4139 大伴家持=


春の園は紅色に照り輝いている。その桃の花の木陰までも輝いている道に、つと立っている少女の、なんと美しいこと!、という意味。

この歌は「にほふ」が効果的で、「にほふ」は”みずみずしい盛り”を暗示している。桃の花のみずみずしさと、少女の初々しさの両方にかけている。


題詞に、天平勝宝2年3月1日の夕暮れに、春の庭の桃と李の花を眺めて作った歌とある。
少女は、前年に越中に下向してきた家持の妻・坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)を指しているようだ。それまで四年近く越中国府(現在の高岡)として単身赴任であったが、
やっと正妻が来た嬉しさをすなおに読んだ歌である。

家持は越中に来てからの四年間、寂しさや辛さをバネにしたおかげで、すばらしい万葉歌を多く作った。
高岡の万葉山光暁寺に、この歌碑が立っている。

逆境なくしては、名歌が生れなかったという、まさに人生のお手本であろう。