海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍
大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ
=巻18-4094 大伴家持=
大伴家の遠い祖先の神、その名を大来目主よ呼ばれてお仕えしてきた職であるため、海に行くなら水に浸かる屍となり、山を行くなら草むす屍となっても、大君のお側で死のう、自らを顧みるようなことはするまいと誓いを立て、立派な男として潔いその名を昔から今まで伝えてきた、その祖先の末なのだ。・・・という意味。
高岡市、小矢部川の河口、伏木港の近くにある浄土真宗本願寺派勝興寺が往時の越中国府址と伝えられる。大伴家持は養老2年(718)大伴旅人の子として奈良に生まれ、聖武天皇に仕え、天平18年(746)越中守としてここに赴任した。
歌碑は勝興寺の境内にある。万葉歌人大伴家持が越中国の任地でこの歌を詠んだのは749年、昇進の喜びをうたったもの。
陸奥の国より金を出せる詔書を賀(ほ)く長歌の一節。歌碑には昭和十二年、日支事変中、北京攻略を記念して建立したものと記されている。
昭和12年にこの歌に信時潔が作曲をした。これがなかなかの名曲で、出征した軍人が美しい日本のためにいつ死んでもいいという気持ちになったものだ。ところが、戦後この歌は戦争中の軍国主義をたたえる歌だと危険視されていたのである。
しかし万葉集の題詞をみると、この歌は戦争を謳歌するような歌ではなく、わか国で初めて金が陸奥の国から大量に出てきたことを天皇が喜んだ時に家持が歌った歌なのである。
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