飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関西):京都府宇治市、仏徳山登り口広場

2015年03月04日 | 万葉アルバム(関西)


そらみつ 倭(やまと)の国
あをによし 奈良山越えて
山城の 管木(つつき)の原
ちはやぶる 宇治の渡り
滝(たぎ)つ屋の 阿後尼(あごね)の原を
千歳(ちとせ)に かくる事無く
万世(よろづよ)に あり通はむと
山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の
すめ神に 幣帛(ぬさ)取り向けて
われは越え行く 相坂山(あふさかやま)を
   巻13-3236 作者未詳=


(意味)
 空に満ちる大和の国の
 あおによき奈良山越えて
 山城の管木(つつき)の原から
 ちはやぶる宇治の渡りを越え
 滝(たぎ)つ屋の 阿後尼(あごね)の原を通り
 千年の後にも欠けることなく
 万年の後まで通い続けようと
 山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の
 皇神(すめがみ)に 幣帛(ぬさ)手向けて
 私は越えていくことだ 相坂山を

 
 大和から近江へ向かい、相坂山を越え、「私は今後、千年も万年も継続して通い続けるぞ」という決意表明の歌。



万葉歌碑<クリックで拡大> 


この万葉歌碑は、宇治市、宇治川にかかる朝霧橋のたもとから続く「さわらびの道」をすこし行った、仏徳山登り口広場にある。

 「さわらびの道」は、宇治上神社を経て源氏物語ミュージアムに至る石畳の散策道で、道沿いに宇治十帖の「早蕨」古跡があることから通称で「さわらびの道」と呼ばれている。途中「万葉歌碑」、「与謝野晶子歌碑」を見ることができる。


万葉アルバム(関西):京都府宇治市、朝霧橋東詰

2015年01月28日 | 万葉アルバム(関西)


宇治川は 淀瀬無からし網代人(あじろびと)
舟呼ばふ声 おちこち聞こゆ
   =巻7-1135 作者未詳=


 宇治川には、流れの緩やかな川瀬がないらしい。 網代で魚を捕る人の舟を呼ぶ声があちこちで聞こえてくる、と言う意味である。
 
 川の流れがいかに激しいかを想像している歌である。



万葉歌碑<クリックで拡大> 

この万葉歌碑は、宇治市の橘島にかかる朝霧橋東詰にある。

万葉アルバム(関西):京都府宇治市、宇治公園 橘島

2015年01月21日 | 万葉アルバム(関西)


もののふの 八十宇治川の 網代木に
いさよふ波の ゆくへ知らずも
   =巻3-264 柿本人麻呂=



 宇治川の網代木で一時停滞し、やがて行方知れずとなる波のように、滅びきった、近江の都に仕えていた人達は、いったいどうなったのであろうか、と言う意味。

柿本人麻呂が、近江の国より奈良へ帰る途中に、宇治川付近で作った歌。 
網代は、秋から冬にかけて、魚を取る仕掛けのことで、杭を川の中に上流に向ってV字形に打ち、杭の間に竹等で編んだ簾をはり、氷魚(鮎の稚魚)を取るもので、この網代に用いる杭を網代木という。


宇治川の網代木の想像図


万葉歌碑<クリックで拡大> 

この万葉歌碑は、宇治市の宇治公園 橘島にある。

万葉アルバム(関西):京都府宇治市、観光センター前

2014年12月03日 | 万葉アルバム(関西)


ちはや人 宇治川波を清みかも
旅行く人の 立ちがてにする
   =巻7-1139 作者未詳=


 宇治川の川波があまりにも清らかであるからであろうか、旅人達はここから立ち去り難く思っている、と言う意味。

「ちはや人」は宇治の枕詞。
「かて‐に」[連語]《補助動詞「かつ」(下二)の未然形+打消しの助動詞「ず」の連用形古形「に」。上代語》…に耐えられずに。…することができなくて。


万葉歌碑<クリックで拡大> 

この万葉歌碑は、宇治市観光センター玄関前に建っている。
観光センター前からの宇治川は橘島が目の前に見える。宇治川の中州である塔の島と橘島が朱色の中の橋で結ばれている。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 吉井町飯玉神社

2014年11月13日 | 万葉アルバム(関東)


多胡(たご)の嶺(ね)に 寄綱(よせつな)延(は)へて 寄すれども
あにくやしづし その顔よきに
   =巻14-3411 作者未詳=


 (多胡の嶺に寄せ綱をかけて引き寄せるように)あの娘を靡かせようとしてもそ知らぬ顔をしている。その美しい顔で。という意味。

上野国(かみつけのくに)の相聞往来の歌。

「多胡(たご)の嶺(ね)」は群馬県吉井町の南西の山。
「寄綱(よせつな)」引き寄せる綱。
「延(は)へて」は、張ルの意味を持つ下二動詞、延(ハ)フの連用+接続助詞テ。
「寄すれども」は寄スの已然形寄スレ+接続助詞ドモで、引キ寄セタケレドモ。
「あにくやしづし」は不詳も、ソシラヌフリヲシテをとった。
「よきに」は、ヨシの連体形+接続助詞ニ。このニは、文脈により、順接・逆接等さまざまな用法がある。


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 この万葉歌碑は群馬県高崎市吉井町馬庭226 飯玉(いいだま)神社に建っている。
飯玉神社は上信電鉄上信線馬庭駅の西80mにある。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 29地点:金井沢碑入口

2014年10月26日 | 万葉アルバム(関東)


八隅しし わご大君 かむながら 神さびせすと
芳野川 たきつ河内に 高殿を 高知りまして 
登りたち 国見をすれば たたはなる 青垣山
山神之奉る 御調と 春べは 花かざし
持ち秋立てば 黄葉かざせり ゆきそふ川の 神も大御食に
仕え奉ると 上つ瀬に 鵜川え お立ちて下つ
瀬に小網さし 渡す山川も 依りてつかふる 神の御代かも
   =巻1-38 柿本人麻呂=


(大意) あまねく国土をお治めになるわが天皇が、さながらの神として神々しくおられるとて、吉野川の流れ激しい河内に、高い宮殿もいや高くお作りになり、登り立って国土をご覧になると、重畳する青い垣根のごとき山では、山の神が天皇に奉る御調物として、大宮人らは春には花をかざしに持ち、秋になるともみじを頭に挿している。宮居を流れる川の神も、天皇の食膳に奉仕するというので、大宮人は上流には鵜飼を催し、下流にはさで網を渡している。山も川もこぞってお仕えする神たる天皇の御世よ。(講談社文庫「万葉集」による)

 持統天皇の吉野行幸の時、従駕した人麻呂の献上した歌。
当時、呪術と政治は一体で、神祇(天の神と地の神)の祭祀をつかさどる神祇官や呪術全般を管轄する陰陽寮がおかれ、まじないや占いが大々的におこなわれた。
吉野宮に皇族や群臣が居並ぶなか、人麻呂が吉野川と吉野の山々に向かいこの万葉歌を歌う。実際にはは雨が降らず吉野川は干上がっているため、天皇みずから雨乞い行事を行ったのではないかとも想像できる。


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 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、29地点:金井沢碑入口に建っている。


金井沢碑(建屋と内部の碑)
金井沢碑は、神亀 3(726)年に立てられた石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に112字が刻まれている。山上碑・多胡碑と合わせて上野三碑と呼ばれている。古代豪族三家氏が、先祖供養のため造立したもので、三家氏は山上碑に記された「佐野三家」(ヤマト政権の地方支配拠点)を経営した豪族の末裔とみられる。

   →高崎自然歩道マップはこちらのブログを参照

万葉アルバム(奈良):奈良市、奈良市役所

2014年10月19日 | 万葉アルバム(奈良)


あをによし 奈良の都に たなびける
天の白雲 見れど飽かぬかも
   =巻15-3602 遣新羅使(けんしらぎし)の一人=


 奈良の都にたなびく白い雲は、ずっと見ていても見飽きないものですよ。都に私の愛する人がいればなおさらのことです。という意味。

 遣新羅使の一行のひとりが詠んだ歌だが、作者不明。

 天平8(736)年4月、聖武天皇により新羅派遣の命が下り、大使に阿倍継麿、副使に大伴三中が任命された。その一行は6月に難波の津を出発、瀬戸内海を西に進んだ。だが、台風に遭い、延々と日程を重ね秋が深まってもなお対馬に停泊、やっとたどり着いた新羅では接見が許されず、派遣は不首尾に終わったようだ。大使は対馬で病没した。歌の大半は行きに詠まれたようで、愛する者のいる都はいつも望郷の対象だった。

 当時、難波津から瀬戸内海へ向い、西へ西へと幾日もつづく危険な船旅だった。船旅で眺める雲に寄せて愛する人を偲ぶ、いつまで見ていても飽きないのだ。


万葉歌碑<クリックで拡大>
 (揮毫者・杉岡華邨)

この万葉歌碑は、奈良市二条大路南・奈良市役所前庭に建っている。

万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 28地点:金井沢碑への分岐点

2014年10月12日 | 万葉アルバム(関東)


吾(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの
山のしづくにならましものを
   =巻2-108 石川郎女=



 私を待って、あなたがお濡れになったというその山のしづくに、私がなれたらいいのに。という意味。

あしひきの山のしづくに妹待つと われ立ち濡れぬ山のしづくに
   =巻2-107 大津皇子=

(あなたを待って立ち続け、山の木々から落ちてくるしずくに濡れてしまいましたよ。)

の大津皇子の歌に、答えた歌が巻2-108の石川郎女の歌である。

石川郎女は草壁皇子の妻の一人であったらしい。人目につかない深夜、彼女の住んでいる山ぎわにある邸宅の塀の前まで、彼女に逢いたい近づきたい一心で行ったのであるが、それ以上入ろうとはせずに、夜露に濡れながらじっと佇んでいるのである。郎女は何か事情があったのだろう、約束の場所には行けなかった。
 しかしこれは実際に行って夜露に濡れたわけではなく、逢いたいという思いを込めた一種の恋文と解釈できる。郎女はそのあとの返歌で、山のしづくになりたくてもなれない身の上を嘆いて、丁重に断わったのでないかと思う。
 
 草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていた大津皇子の反逆事件の裏には、石川郎女をめぐる草壁皇子と大津皇子の愛憎がからんでいたようだ。


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 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、28地点:金井沢碑への分岐点に建っている。

   →高崎自然歩道マップはこちらのブログを参照

万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川堤 佐保川小学校脇

2014年10月01日 | 万葉アルバム(奈良)


佐保川の 清き河原に 鳴く千鳥
かはづと二つ 忘れかねつも
   =巻7-1123 作者未詳=


 佐保川の清らかな河原に鳴く千鳥は、カジカの声と共に忘れられない。という意味。

万葉の頃は、佐保川には、千鳥が飛び交い河蝦も鳴き、大変心に残る風情だったようだ。
今は川辺にはコンクリートの護岸が整備され、往時を忍ぶべきもないが、護岸は近くの小学校の課外学習の場所と整備されている。川辺で楽しく遊ぶ姿は往時と変わらないようだ。


万葉歌碑<クリックで拡大>

この万葉歌碑は、奈良市法連立花町佐保川小学校の南の土手に建っている。



万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 新5地点

2014年09月15日 | 万葉アルバム(関東)


あしひきの 山のしづくに 妹待つと
我れ立ち濡れし 山のしづくに
   =巻2-107 大津皇子=


 あなたを待って立ち続け、山の木々から落ちてくるしずくに濡れてしまいましたよ。という意味。

 これに石川郎女(いしかわのいらつめ)が答えた歌が、

吾(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの
山のしづくにならましものを
   =巻2-108 石川郎女=

 私を待って、あなたがお濡れになったというその山のしづくに、私がなれたらいいのに。という意味。

石川郎女は草壁皇子の妻の一人であったらしい。人目につかない深夜、彼女の住んでいる山ぎわにある邸宅の塀の前まで、彼女に逢いたい近づきたい一心で行ったのであるが、それ以上入ろうとはせずに、夜露に濡れながらじっと佇んでいるのである。郎女は何か事情があったのだろう、約束の場所には行けなかった。
 しかしこれは実際に行って夜露に濡れたわけではなく、逢いたいという思いを込めた一種の恋文と解釈できる。郎女はそのあとの返歌で、山のしづくになりたくてもなれない身の上を嘆いて、丁重に断わったのでないかと思う。
 
 草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていた大津皇子の反逆事件の裏には、石川郎女をめぐる草壁皇子と大津皇子の愛憎がからんでいたようだ。


<クリックで拡大>

 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ新4地点:金井沢川の小橋渡って川沿いに歩き、車道にぶつかったところに建っている。
(高崎自然歩道の終盤、金井沢川マップ新1地点から続く歌碑5点は、この地に放置され倒れていたものを、最近になって整備して設置されたものだという。入手した高崎自然歩道マップ上には歌碑の案内が示されておらず、私が見つけてマップ上に新1地点から新5地点として記した。

   →高崎自然歩道マップはこちらのブログを参照


万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川堤 振り放さけて・・・

2014年08月31日 | 万葉アルバム(奈良)


振り放さけて 三日月見れば 一目見し
人の眉引き 思ほゆるかも
   =巻6-994 大伴家持=


 振り仰いで三日月を見ると、ただ一目見た女(ひと)の眉引きを思い出します。という意味。

家持が16歳の時に将来の妻になる大伴坂上大嬢(おおともの さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌とされている。
今の高校生の年代だったという。もうすでに大人びた振る舞いを身に着けていたのだろう。
「眉引き」は、三日月のようなほっそりとした眉のことで、当時の流行りだったと思われる。


この万葉歌碑は、奈良市法連桜町佐保川堤に建つ。994(左)・993(右)。


万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川堤 月立ちて・・・

2014年08月24日 | 万葉アルバム(奈良)


月立ちて ただ三日月の 眉根掻き
日長く恋ひし 君に逢へるかも
   =巻6-993 大伴坂上郎女=


 三日月のような形に眉を描きながら、やがて逢えるのでは。いつかは逢えるのでは。と長く慕ってきたあなたに、今日とうとう逢うことができました。という意味。

大伴坂上郎女とその甥大伴家持が、「初月(みかづき)」を詠題とする席で歌った連作993.994のひとつ。
眉がかゆくなるのは、愛する人に逢えるしるしと言われていた。大伴一族の女主的な存在であった坂上郎女は、この頃16歳の家持に歌の手ほどきをし、やがて人生も導き娘の坂上代嬢(おおいらつめ)を家持の婚約者にした。この歌は坂上郎女が娘に成り代わって家持に呼びかけたの
だろう。

大伴家の邸宅は、佐保の地を豊かに流れるこの佐保川近く、平城京の外京にあった。


この万葉歌碑は、奈良市法連桜町佐保川堤に建つ。994(左)・993(右)



万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川堤北側 緑地公園

2014年08月10日 | 万葉アルバム(奈良)


うち上のぼる 佐保の川原の 青柳は
今は春へと なりにけるかも
   =巻8-1433 大伴坂上郎女=


 佐保の川風に打ち靡く河原の青柳は今は鮮やかに芽吹いて春の装いになっているだろう 。という意味。

「春べ(春方)」は「春のころ。春」のこと。
「にけるかも」は完了助動詞「ぬ」の連用形、+過去助動詞「けり」の連体形「ける」、+詠嘆終助詞「かも」=~なったなあ。

『万葉集』をはじめ古来歌にも詠まれた佐保川は、いまも奈良市民の憩いの場所として親しまれる。春日山中の石切峠にその源を発し、若草山の北側を流れ般若寺のあたりを経て、法蓮町や芝辻町など奈良市街北部を東西に流れ、近鉄新大宮駅の西側で南下、大和郡山市の額田部南町で大和川に合流する、総延長19kmの大和川水系の川である。土手には芝辻町から西九条町まで、約5kmにわたって1050本もの桜が植えられ、春には桜並木が美しい。

春の佐保川河畔は、柳青葉も美しく、万葉人のデートスポットでもあった。
また、当時の佐保川は河鹿のすむ清流であり、鳴く千鳥は平城京の人々に親しまれていた。
現在は、両岸を覆いつくす桜並木がとてもきれいだ。


万葉歌碑<クリックで拡大>
万葉学者の犬養孝氏の筆による歌碑である。

この万葉歌碑は、奈良市法連立花町佐保川堤北側 緑地公園内に建つ。




万葉アルバム(関東):群馬県、高崎市 高崎自然歩道 新3地点

2014年08月03日 | 万葉アルバム(関東)


難波道(なにはぢ)を 行(ゆ)きて来(く)までと 吾妹子(わぎもこ)が
付けし紐が緒 絶えにけるかも
   =巻20-4404 作者未詳=



 難波へ行って帰って来るまでといってわが妻が着けてくれた紐が切れてしまった。という意味。

「難波道(なにはぢ)」は難波への路。実際には筑紫か。「紐(ひも)が緒(を)」は紐のこと。「絶(た)えにけるかも」は、切レルの意の絶ユの連用形絶エ+完了の助動詞ヌの連用形ニ+過去・詠嘆の助動詞ケリの連体形+詠嘆の終助詞カモ。


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 この万葉歌碑は群馬県高崎市の高崎自然歩道、マップ新3地点:金井沢川の小橋渡って川沿いに、すこし行ったところに建っている。
(高崎自然歩道の終盤、金井沢川マップ新1地点から続く歌碑5点は、この地に放置され倒れていたものを、最近になって整備して設置されたものだという。入手した高崎自然歩道マップ上には歌碑の案内が示されておらず、私が見つけてマップ上に新1地点から新5地点として記した。

   →高崎自然歩道マップはこちらのブログを参照

万葉アルバム(関東):茨城県、下妻市 糸繰川堤防

2014年07月27日 | 万葉アルバム(関東)


新治(にひばり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も
秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺(つくはね)に 登りて見れば
   =巻9-1757 東歌=


(大意) 草枕の旅の憂いを慰めてくれるかと、筑波嶺に登りって見ると、ススキの穂が散る師付の田居を雁が来て寒々と鳴いていた。新治の鳥羽の湖も、秋風に白波が立っていた。筑波嶺のよい景色を見ていたら、長い日々思い悩み重ねてきた憂いが止んでいた。

「新治」は、常陸国の郡名で、茨城県真壁郡・下妻市、西茨城郡西部の地。筑波山の西北方。しかし、ここでは、新しく土地を開墾した田の意をいう。沼地であったのを田んぼに開拓したのだろう。
「鳥羽の淡海」は、筑波山の西麓にあった湖。小貝川近くの沼地を鳥羽の淡海というらしい。

 この歌碑は巻9-1757 長歌から抜粋した一部をのせている。以下に巻9-1757 長歌全文を記す。
 
筑波山(つくはのやま)に登れる歌一首 并せて短歌
 草枕(くさまくら) 旅の憂(うれ)へを
 慰(なぐさ)もる 事もありやと
 筑波嶺(つくはね)に 登りて見れば
 尾花散る 師付(しづく)の田居(たゐ)に
 雁(かり)がねも 寒く来(き)鳴きぬ
 新治(にひばり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も
 秋風に 白波立ちぬ
 筑波嶺の よけくを見れば
 長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し
 憂へは息(や)みぬ


下妻市比毛の小貝川付近から眺めた筑波山


この万葉歌碑は下妻市比毛・糸繰川堤防に立っている。


歌碑<クリックで拡大>