それでも僕はテレビを見る

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爆笑問題・太田が語った「芸と感受性」:分からないものを全否定する反知性主義に抗する話芸

2016-09-29 10:01:31 | テレビとラジオ
 9月27日に爆笑問題のラジオ番組「爆笑問題カーボーイ」で、太田が語った「芸と感受性」の話があまりにも素晴らしくて、胸が熱くなった。



 太田は、言葉や感情表現の根本に立ち返れば、生まれたての赤ん坊の泣き声にたどり着く、と語り始める。

 悲しみや喜びや不安、怒り、何もかもがあの泣き声に含まれているのであり、すべての表現はそこに立ち返ることができないがゆえに模索をし続けるのだ、と。

 敬愛する文芸評論家で作家の小林秀雄が紹介する柳田國男の話を語る。

 柳田はある日、自然のなかで美しい星々を見つける。それは真昼の青空のなかだったという。小林(そして太田)は、その美しさを見て取ることができる柳田の感受性に注目する。

 太田は言う。学問が単なる学問だけのものであれば、何も面白くない。

 柳田のような感受性があってこそ、日本の民俗学は学問として誕生できたし、柳田以上に面白い研究がそこから生まれなかったのも、感受性があるかないかで学問の面白さが決まるからだ、と小林秀雄の言葉を借りて論じる。



 さらに続けて、相模原の障害者施設で起きた殺傷事件に言及する。

 太田は言う。あの犯人は、タトゥーから政治家への手紙から、何から何までわめき散らしていたが、そのメッセージはまったく誰にも届いていない。

 犯人は、施設で働いていた人が他者とコミュニケーションできないと勝手に思い込んでいたが、実際のところはまったく逆だ、と。

 施設で働いていた人のことを思う人たちが彼らの周りにいて、そこには沢山のコミュニケーションがあった。

 コミュニケーションで大事なのは、一方的に決めつけ、わめき散らすことでない。

 そうではなくて、受け取り手が意思の発信者に対して、どのような思いで寄り添うのか、である、と。

 聞き手が感受性を総動員して、相手のメッセージを受け取ろうとする。その関係性こそが本当に大事なことなのだ、と。

 その究極的関係は赤ん坊に戻る。つまり、赤ん坊は言葉をまだまったく持たない。

 ところが、赤ん坊の泣き声を周りの人間は懸命に受け止めようとし、その意味するところを懸命に感じ取ろうとする。

 そこのコミュニケーションの本質があるのだ、と。

 それでは「お笑い」とは何か。

 太田は考える。一般の人でも、そこらへんにいる高校生でも、友人同士で笑い転げている話には、本質的な面白さがあるはずである。

 もちろん、そこに技術、テクニックというものはないかもしれない。

 しかし、沢山笑うという結果がある以上は、面白さの本質がそこにあるはずだ、と。

 ネタを作っているときは、技術やテクニックというものを超えて、日々、そこに縛られることなく、その笑いの本質にたどり着こうとしている、と太田は語る。



 そこから、落語の話に向かう。

 落語はすごい。例えば、立川談志は落語の最中に消えるのだ、という。聞き手は話に引き込まれ、話し手である談志の存在を完全に忘れてしまうのだ、と。

 そして、話しは三遊亭圓朝へ。

 圓朝は江戸落語を集大成した人物で、彼の新作が現在の古典になっていると言われる。

 その彼が話芸を突き詰め、突き詰めすぎた結果、まったく面白くないシンプルすぎる話し方にたどり着き、誰も寄席に来なくなった、のだという。
 
 ところが、ある日、関西へ行く用事があって、そこでもっとずっとベタな笑いに接したという。

 そこで開眼し、客に媚びるということを嫌うあまり、笑いの本質を見逃していたことに気が付いたのだという。

 客に媚びたい自分も認めることが、実は重要であることを理解する。

 また、ある時、剣豪で禅と書の達人であった山岡鉄舟と知り合い、彼の前で話しを披露した。ところが、山岡は「舌で話しをしてはいけない」と説く。

 圓朝は悩み続けるが、ある日、ぱっと開けたという。そして、山岡に会ったとき、分かったか?と聞かれ、圓朝は「はい」と言って舌をペロッと出したという。

 その意味はおそらく、舌で話していることそのものを受け入れること、そうして初めて、その先に行けるのだ、と太田は考える。



 そして、話題はお笑いをネット上で批評する、ある一般人の親子に至る。

 この親子の評判はすごぶる悪い。

 父親は元放送作家だと言って、今のお笑いをああだ、こうだ権威主義的に語る人で有名で、

 息子の方は、様々な芸人の芸をああしたらいい、こうしたらいい、と物知り顔で説く。

 言うまでもなく、こんな人たちは無視すればいい。ブログをつけているらしいが、そんなものを読まなければいい。

 しかし、太田は彼らの言葉にずっとこだわり続けてきた。

 それはおそらく、彼らの多くの勘違いや誤解、無理解が、決して彼らだけのものではないだろうと思ってのことだと思う。

 ことによれば、テレビ局のなかにも、メディア全体のなかにも、こうした無理解や誤解は存在するのではないか。

 そのうえで、親子が評したENGEIグランドスラムの話をする。

 この親子は、番組のトリを務めた三遊亭円楽を批判する。

 しかし、太田は言う。それはあまりにも的外れだ、と。

 この親子は確かに落語に関する知識はあるのだろう。しかし、落語のことをまったく知らない人たちだ、と。

 それは落語の本質が分かっていない。つまり、ひとりで何役もやること、そして最終的にそれが劇団のような形態の芸を超越して、聴衆を引き込んでしまうこと。

 そこに落語の本質があり、名人の芸はそこに至るものなのだ、と。

 けれど、それは受動的に怠惰に見れば分かるとは限らない。

 やはり、聞き手の感受性が非常に重要になるのだ、と太田はいう。

 落語の批評とは、そうした感受性の欠如を棚に上げて、落語家を批判することではまったく成立しないのである。

 感受性をもとに、行われた落語のすべてを受け止め、そのうえで何を語るのかが批評する者に求められる。

 特に、この批評家ぶる息子は、お笑いそのものを誤解している、と太田は嘆く。

 この人物は、芸の肉体性、官能性をすべてマニュアル化してどうにかしようという浅はかな考えに取りつかれているのだ、と。

 芸の肉体性、官能性を本当に理解したければ、舞台に上がるのが一番早い。

 本当に知りたければ、舞台に一度上がってみた方がいい、と太田はその似非批評家の親子に向けて語る。


 
 私も大学で研究をし、テレビやラジオで見たことについてブログを書いている身として、太田の言葉は身につまされる。
 
 私が発している言葉に感受性はあるのか?

 私の言葉は誰かに届いているのか?

 ブログはともかく、研究については深く考えさせられるところがある。

 太田が感じている知性と官能性の往来の世界は、誰の言葉よりも「学問的」だった。