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AXNミステリー「英国男優のすべて」:イギリスのプロフェッショナリズム、日本のアマチュアリズム

2016-09-15 11:18:59 | テレビとラジオ
 AXNミステリーの「英国男優のすべて」というオリジナル番組が非常に面白かった。

 この番組では演出家の鴻上尚史を解説に迎え、イギリスで俳優養成の「東大」にあたる「王立演劇学校(RADA)」を紹介する。

 何より鴻上の解説が素晴らしい。彼はイギリスの「ギルドホール音楽演劇学校」に留学経験があり、そこでオーランド・ブルームとクラスメイトだったという。

 RADAが東大にあたるとすれば、ギルドホールは早稲田か慶応にあたる、ということだそうだ。



 さて、そのRADAの演技指導がすごいらしいのである。

 1クラス14人、それが2クラスあり、1学年28人の学生からなる。

 そこで様々な演技のプロフェッショナルが教育を行う。教科書は存在せず、それぞれの教員がそれぞれの経験をもとに、ノウハウを叩きこんでいく。

 卒業生のひとりは、その指導は「まるで魔法のようだった」と言っている。

 つまり、どこをどうするかによって、演技の能力がまったく変わってしまう、というのである。

 RADAの卒業に際しては、プロへの登竜門となる舞台発表が行われる。

 演技において俳優を最も育てるのは舞台である、との考えに基づく。

 鴻上によれば、舞台は俳優の全身を映し出すため、演技すべてを見られるのだという。

 対して、映画やテレビドラマは編集によって、いかようにでも出来てしまうため、俳優の力量は必ずしも問われないのだ、と。

 だから、駆け出しの若手でも、映像では主演になれてしまう。日本の場合、そればかりなのである。


 
 RADAに入るのは非常に難しい。しかし、優等生ばかりをとるわけでもないし、容姿が端麗な人々を選抜しているわけでもないという。

 演劇には、様々な種類の人間が必要になる。

 物語に登場するのは、人格が複雑に歪んだ者から、ひどく醜い者、さらには天に与えられた美貌をもつ者まで様々である。

 それゆえ、俳優は多様性が重要になる。

 だからこそ、RADAに入学する人材は多様で、神学を学んできた者からオックスブリッジなどの超名門大学出身の者までいる。

 容姿が整った者から、そうでない者まで色々だ。

 教員たちは、候補生たちの人格や立ち振る舞いをつぶさに観察する。

 俳優はすべてを観客に見せるのではなく、見せない部分を持っていることもまた非常に重要だ、という。

 それゆえ、候補生たちの立ち振る舞いや人格の強さや繊細さ、複雑さを多角的に評価するのである。

 また、俳優個人で言えば、その人格に内在している様々な可能性を引出し、多様な要請に応えられる能力を身に着ける必要がある。

 卒業生のひとりは、「あなたはまだ大きな家のなかのひとつの部屋しか使っていない。まだ他にある沢山のドアを開けなさい。」と言われた、という。

 これは日本のメジャーシーンの俳優の顔ぶれとはかなり違うかもしれない。

 無論、名脇役は沢山いるが、その評価は主役を盛り上げる二番手の位置づけとされてしまいがちだ。

 

 イギリスにおいて演劇は人間が人間を究める職業のひとつとして位置づけられている。

 だからこそ、日本と違い、俳優の学歴も比較的高い傾向にあるように見える。

 イギリスの演劇が人生を賭けるに値する仕事であるとされる背景にあるのは、鴻上によれば、シェイクスピアの存在だという。

 俳優のキャリアに沿って、演じるべき役がシェイクスピアの様々な物語のなかに存在し、それを目標にして、俳優たちは成長するのだという。

 日本で言えば、歌舞伎や能、狂言に近いというが、残念ながら日本の場合、伝統芸能は基本的に世襲制である。

 それゆえ、演劇そのものがどうしても根無し草になってしまいがちだ。



 ここからは番組の内容を離れ、私が見て思ったことを書く。 

 RADAと日本の演劇学校を比べるのは難しいが、少なくとも次のことが言える。

 イギリスのように俳優養成ががっちりと制度化されたアカデミアによって固められている状況は、日本には存在しない。

 日本の場合、俳優は独自の経験、独自のキャリアパターンで偶然的にノウハウを蓄積し、上手になる。

 出身母体も大学の演劇サークルや有名な劇団、お笑いグループ、あるいは事務所にモデルとしてスカウトされた、など様々だ。

 つまり、日本ではアカデミアとしての演劇は存在せず、すべてアマチュアリズムによって成立していることになる。

 プロフェッショナリズムは非常に分散したかたちで存在するが、それにアクセスせずに映画やテレビドラマで主演になってしまうケースがよくあるわけだ。



 イギリスと日本の違いは、私にとっては、大学院での研究者養成の方法の違いを思い出させるものだった。

 イギリスの大学院での教育は、非常に制度化されている。

 例えば、学生が教育に異議申し立てできる回路を保証し、教員が独善的にならないよう副指導教官を付けるとともに、その指導割合も教員の評価につながるため、事前に書面にしておく(たとえば、主任70%と副30%など)。

 日本の大学院はこうした制度化は非常に弱い。ゆえに指導教官の良し悪しで学生の人生が大きく変わってしまう。

 その一方、イギリスは教養や経験を非常に重視する。大抵、指導教官による指導は決して機械的ではなく、相手の人格を尊重しながら対話をして指導を行う。

 それゆえ、指導のための面談の回数は非常に多い。また、日本と違い、博士課程の学生は一人前の研究者として扱われ、学生の研究プロジェクトは彼/彼女の責任において進められている、という立場をとる。日本のように、「未熟な子ども」のような扱いはしない。



 私も一応、イギリスの大学院出身の研究者ではあるが、普段、イギリスが好きだと思うことはほぼない。

 だが、こうした教育システム関してだけは、本当にイギリスが好きだ。

 それには、相応の理由がある。

 例えば、番組が取り上げたRADAのように。