それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「あの花」:痛みの仕舞い方

2016-02-02 21:26:24 | テレビとラジオ
 大仕事が一段落した日、僕は「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」を朝から晩まで見た。

 溜りに溜まったストレスを吐き出す方法がその日は他に見当たらなくて、それでこのアニメを一気に見た。

 この物語のストーリーは、よくできている。

 主人公は、引きこもりの高校生の男の子。そこに小さい頃に死んでしまった幼馴染の女の子が幽霊として現れる。

 彼女の姿は主人公にしか見えないのだが、とにかく、彼は彼女を成仏させようと奔走を始める。

 その過程で、昔一緒に遊んでいた仲間たちともう一度再会し、色々なことが巻き起こる。



 引きこもりの主人公の痛々しさがいい。引きこもりなったきっかけが、物語の展開とともに丁寧に描かれる。

 そこに加えて、昔の仲間たちの抱える悩みや痛みが明かされていき、物語の大きな推進力になっていく。

 自分にだけ見える可愛い幽霊、という設定はファンタジーだが、それ以外の部分が非常に地に足が着いている。

 お金を得るには一生懸命アルバイトをしなければいけないし、引きこもりを打ち破ろうとするにも、なかなか上手くいかない。

 現実の厳しさがしっかりアニメの中に存在するからこそ、「幽霊」という存在そのものの切なさが、じわっと見ているものに浸透していく。



 先にアニメを見ていた友人に感想を聞いたところ、「まあ、ああいう青春があったらいいなあ、っていう、そういうアニメ。」と答えてくれた。

 アニメを見終わってみると、どうしてそういう感想になったのか、まったく理解できない。

 あのアニメの世界について、何一つ羨ましいところはなかった。

 主人公の立場になってみれば、好きだった幼馴染は死んでしまっているし、引きこもりだし、他にも色々大変だし、友人たちもそれぞれに、もがいている。



 ただ、唯一羨ましいと思ったことがある。

 それは、最後のクライマックスで、幼馴染の仲間たちが一堂に会して、それぞれの見たあの過去と、それぞれの抱えていたものを一気にぶちまけるところだ。

 現実の世界では、ぶちまけられない。

 モヤモヤした過去の解釈は、うまく言葉にならないし、それを本人に言うこともできない。

 自分の痛みがどういうもので、自分が何を背負ってしまっているのかとか、すべて自分のなかに仕舞いこんでいる。

 このアニメの登場人物同様、誰もがそれを忘れようとして、今を懸命に生きている。

 もう放っておいてくれ、と皆が口にする。思い出したくない、と。

 その痛みが見ている僕の心に残る。

 現実にはあんなカタルシスのあるクライマックスにもフィナーレにもならない。

 色々なことは心の奥に仕舞って、それで風化するまで埋没させておくものだ。

 大人になるにつれて、そういう痛みが分かるから、だから、他人を放っておくタイミングというのも少しずつ自分なりに作られていく。



 アニメを見たのはもうずっと前だが、急に思い出したので、思わず感想を書いてしまった。