それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

すべての男性がマツコ・デラックスになる日:男女の支配と従属に関するメモ

2011-06-16 18:23:23 | コラム的な何か
秋葉原の事件について、最近犯人に関する本が出たり、NHKで上野先生が言及したり、この時期になって少しだけ思いだされている。

区別すべきなのは、①犯人を支配していた言説が一体何だったのかということと、②「犯人を支配していた言説が一体何だったか」について社会がどのように議論してきたか、ということである。

ここではそのギャップについては議論しない。

今はそこにあまり関心がもてない。

そもそも犯人を支配していた言説など、今イギリスにいて分かるわけがない。

ここでは男・女に関する言説に関して少し考えたことを書きたい。



それでも冒頭であの事件について言及したのは、あの犯人の孤独が日本の下流男子の象徴のようだったからだ。
僕も含め共感を禁じ得ない孤独がそこにあったように思う。

その孤独の正体はアプリオリなものではない。つまり生まれた瞬間にもう決まっていたことではなく、社会が存在する前から決まっていたことでもない。

すなわち、社会の多様な規範・ルールが孤独を作っていた。

社会には理想的な人間のモデルが曖昧な形で存在する。

個人はそれぞれの環境・文脈のなかで各々異なった理想を持っているが、しかしその理想はえてして自分が接触している社会との相互作用のなかで形成される。

その理想と自分個人のギャップが「孤独」につながる。

「僕は、私はなんてダメな人間なんだ・・・、だからひとりぼっちなんだ。」

自分がダメだと思うから、コミュニケーションできない。だからいよいよ孤独になる。孤独になると、いよいよコミュニケーションの能力が涵養されず、いよいよダメな人間になる。

負のスパイラルだ。

人間はその社会のなかに存在する「モデル」が一体どこから生まれてきたものなのか知らないまま、まるでそれがアプリオリであるかのように崇拝する。

例えば、「高い身長で、スポーツが得意で、高学歴の男性」について考えてみたい。

この高い身長とは何だろう?

何と比較して「高い」なのか。日本人の平均身長よりも「高い」だろうか?

否、おそらく「女性よりも高い身長」のことではないか。この理想を語る女性よりも高い背丈のことを「高い身長」と呼ぶのではあるまいか?

スポーツが得意は一体どれほど得意なのか?高学歴はどこまで高い学歴なのか?言うまでもなく、これらに決まったルールはない。あたかも実際に存在する基準のように思えるが、実際にははっきりしない。

しかしこの言説は、「男性」について語る以上、「女性」を無意識の基準にしている。



興味深いのはここからだ。

もしも女性が男性に自分よりも「高い条件」を求めるとすれば、それは「自分が劣っていたい」さらに言えば「支配されたい」ということを示すことになる。

ところが、その瞬間、その「高い条件」から振り落とされる男性は、その語り手の女性の言説において「不適格な男性」「劣った男性」という烙印を押される。

つまり支配されたがっている女性によって、逆に支配される男性が出現するという、なんだかこんがらがった話になるのである。

女性は理想的な男性の言説によって、自分が永続的に従属的地位に置かれる。

もし女性の社会的地位が向上したにもかかわらず、あるいは肉体的にも男性との差異が縮まったにもかかわらず、それでも従属的な地位を求めた場合、大半の男性がそこから振り落とされて、結果的に男性は女性が再生産し続ける言説に支配され、どうしようもない孤独と立ち向かわなくてはならなくなる。

つまり、支配しているものが従属しているものであり、従属しているものが支配しているもの、というハイブリッドな状態になるのである。

犯人がこの孤独に悩んでいたなどと言うつもりはない。

しかし私はこう言いたいのだ。

日本の男性諸君はこれからいよいよ孤独になるだろう、と。

そしていよいよ男性性を捨てて、みんながマツコデラックスになるのだ、と。

そうすることで、男性諸君は強制された男性性からの解放と、女性の理想という拘束から解放されるだろうと。

女性は言うだろう、「われわれは君たちが求める理想にいかに支配され、そこからいかに逆襲するかを学んできたのだ!」と。

そして男性は言うだろう、「確かに。しかし支配していた我々も、実際には支配されてきたのです。そしてそれはもう限界にきました。さようなら」と。