消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(361) 韓国併合100年(39) 朝鮮総督府と鉄道問題(7)

2010-12-21 18:53:17 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 

(1) 一八六八(明治元)年一二月、日本使節・対馬藩家老・樋口鉄四郎らが、明治新政府の樹立を通告するために、当時、鎖国をしていた朝鮮の釜山浦に入港した。しかし、興宣大院君(Heungseon Daewongun)政権下の李朝は、日本使節が持参した国書の受け取りを拒否した。文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていることが理由であった。「皇」は中国皇帝のみに許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していると、当時の朝鮮王は理解していた。そして、朝鮮王は中国皇帝の臣下ではあるが、日本王の臣下ではないとの立場を朝鮮王は取っていた。その点で日本の国書は、傲慢かつ無礼なものであると談じられたのである。

 その八年後の、一八七五(明治八)年、日本政府は砲艦外交に出た。小砲艦を釜山に派遣して、発砲演習を行うという示威行動をした。次いで沿海測量の名目で砲艦「雲揚号」を江華島(Ganghwa-do)に向かわせ、沿岸各所に要塞や砲台のある内国河川にボートで無断侵入した。そして、「雲揚号」は仁川沖の江華島から砲撃を受けた。これを口実に日本政府が江華島攻撃を開始し、日本政府は、一八七六(明治九)年、日朝修好条約(江華島条約)を朝鮮に押し付けた(本稿、注(2)に解説)。この条約には釜山の他二港を開港する約束が盛り込まれた。一八七九(明治一二)年に釜山が開港され、翌一八八〇(明治一三)年、元山(Wonsan)、一八八二(明治一五)年が開港された(http://w01.tp1.jp/~a076379471/genzan/histry.html)。

 釜山は、それまでは、小さな一漁村に過ぎなかった。徳川幕府時代に対馬藩の出先が駐留していた倭館に代わって、釜山港が、日本の朝鮮半島進出の拠点になった。釜山は日本にもっとも近い良港であった。今日では韓国のソウルに次ぐ第二の都市に繁栄している。

 開港した釜山に日本人が陸続として上陸し、居留地を造った。最初は商人や実業家の進出が目覚しかったが、その後、一般人たちも加わった。日本人は、釜山港から四方四キロメートル以内の区域での活動が許されていた。

 逆に、朝鮮人の日本渡航は、当時、許されていなかった。日本側からだけの一方通行の開港であった(http://blogs.dion.ne.jp/rekishinootoshimono/archives/9266564.html)。

(2) 一八七六(明治九)年に締結された「日朝修好条規」は、「江華条約」・「丙子(Byeong
ja)」条約共呼ばれている。日本は条規中に、朝鮮国の自主独立、釜山等三港の開港、日本の韓国に対する無関税特権、貿易規制品目、日本貨幣の使用、朝鮮銅貨の輸出入の自由、朝鮮沿海測量の自由、自治居留地(日本の領事裁判権)が定められた。とてつもない不平等条約であった。

 以下に日本分の原文を記す。

 大朝鮮國ト素ヨリ友誼ニ敦ク年所ヲ歴有セリ今兩國ノ情意未タ洽ネカラサルヲ視ルニ因テ重テ舊好ヲ修メ親睦ヲ固フセント欲ス是ヲ以テ日本國政府ハ特命全權辨理大臣陸軍中將兼參議開拓長官黒田清隆特命副全權辨理大臣議官井上馨ヲ簡ミ朝鮮國江華府ニ詣リ朝鮮國政府ハ判中樞府事申櫶都府副管尹滋承ヲ簡ミ各奉スル所ノ諭旨ニ遵ヒ議立セル條款ヲ左ニ開列ス

 第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ嗣後兩國和親ノ實ヲ表セント欲スルニハ彼此互ニ同等ノ禮義ヲ以テ相接待シ毫モ侵越猜嫌スル事アルヘカラス先ツ從前交情阻塞ノ患ヲ爲セシ諸例規ヲ悉ク革除シ務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開擴シ以テ雙方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ

 第二款 日本國政府ハ今ヨリ十五個月ノ後時ニ隨ヒ使臣ヲ派出シ朝鮮國京城ニ到リ禮曹判書ニ親接シ交際ノ事務ヲ商議スルヲ得ヘシ該使臣或ハ留滯シ或ハ直ニ歸國スルモ共ニ其時宜ニ任スヘシ朝鮮國政府ハ何時ニテモ使臣ヲ派出シ日本國東京ニ至リ外務卿ニ親接シ交際事務ヲ商議スルヲ得ヘシ該使臣或ハ留滯シ或ハ直ニ歸國スルモ亦其時宜ニ任スヘシ
 第三款 嗣後兩國相往復スル公用文ハ日本ハ其國文ヲ用ヒ今ヨリ十年間ハ添フルニ譯漢文ヲ以テシ朝鮮ハ眞文ヲ用ユヘシ

 第四款 朝鮮國釜山ノ草梁項ニハ日本公館アリテ年來兩國人民通商ノ地タリ今ヨリ從前ノ慣例及歳遣船等ノ事ヲ改革シ今般新立セル條款ヲ憑準トナシ貿易事務ヲ措辨スヘシ且又朝鮮國政府ハ第五款ニ載スル所ノ二口ヲ開キ日本人民ノ往來通商スルヲ准聽スヘシ右ノ場所ニ就キ地面ヲ賃借シ家屋ヲ造營シ又ハ所在朝鮮人民ノ屋宅ヲ賃借スルモ各其隨意ニ任スヘシ
 第五款 京圻忠清全羅慶尚咸鏡五道ノ沿海ニテ通商ニ便利ナル港口二箇所ヲ見立タル後地名ヲ指定スヘシ開港ノ期ハ日本暦明治九年二月ヨリ朝鮮暦丙子年正月ヨリ共ニ數ヘテ二十個月ニ當ルヲ期トスヘシ

 第六款 嗣後日本國船隻朝鮮國沿海ニアリテ或ハ大風ニ遭ヒ又ハ薪粮ニ窮竭シ指定シタル港口ニ達スル能ハサル時ハ何レノ港灣ニテモ船隻ヲ寄泊シ風波ノ險ヲ避ケ要用品ヲ買入レ船具ヲ修繕シ柴炭類ヲ買求ムルヲ得ヘシ勿論其供給費用ハ總テ船主ヨリ賠償スヘシト雖モ是等ノ事ニ就テハ地方官人民トモニ其困難ヲ體察シ眞實ニ憐恤ヲ加ヘ救援至ラサルナク補給敢テ吝惜スル無ルヘシ倘又兩國ノ船隻大洋中ニテ破壞シ乘組人員何レノ地方ニテモ漂着スル時ハ其地ノ人民ヨリ即刻救助ノ手續ヲ施シ各人ノ性命ヲ保全セシメ地方官ニ届出該官ヨリ各其本國ヘ護送スルカ又ハ其近傍ニ在留セル本國ノ官員ヘ引渡スヘシ

 第七款 朝鮮國ノ沿海島嶼岩礁從前審撿ヲ經サレハ極メテ危險トナスニ因リ日本國ノ航海者自由ニ海岸ヲ測量スルヲ准シ其位置淺深ヲ審ニシ圖誌ヲ編製シ兩國船客ヲシテ危險ヲ避ケ安穏ニ航通スルヲ得セシムヘシ

 第八款 嗣後日本國政府ヨリ朝鮮國指定各口ヘ時宜ニ隨ヒ日本商民ヲ管理スルノ官ヲ設ケ置クヘシ若シ兩國ニ交渉スル事件アル時ハ該官ヨリ其所ノ地方長官ニ會商シテ辨理セン
 第九款 兩國既ニ通好ヲ經タリ彼此ノ人民各自己ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ兩國官吏毫モ之レニ關係スルコトナシ又貿易ノ制限ヲ立テ或ハ禁沮スルヲ得ス倘シ兩國ノ商民欺罔衒賣又ハ貸借償ハサルコトアル時ハ兩國ノ官吏嚴重ニ該逋商民ヲ取糺シ債缺ヲ追辨セシムヘシ但シ兩國ノ政府ハ之ヲ代償スルノ理ナシ

 第十款 日本國人民朝鮮國指定ノ各口ニ在留中若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ若シ朝鮮國人民罪科ヲ犯シ日本國人民ニ交渉スル事件ハ均シク朝鮮國官員ノ査辨ニ歸スヘシ尤雙方トモ各其國律ニ據リ裁判シ毫モ回護袒庇スルコトナク務メテ公平允當ノ裁判ヲ示スヘシ

 第十一款 兩國既ニ通好ヲ經タレハ另ニ通商章程ヲ設立シ兩國商民ノ便利ヲ與フヘシ且現今議立セル各款中更ニ細目ヲ補添シテ以テ遵照ニ便ニスヘキ條件共自今六個月ヲ過スシテ兩國另ニ委員ヲ命シ朝鮮國京城又ハ江華府ニ會シテ商議定立セン

 第十二款 右議定セル十一款ノ條約此日ヨリ兩國信守遵行ノ始トス兩國政府復之レヲ變革スルヲ得ス以テ永遠ニ及ホシ兩國ノ和親ヲ固フスヘシ之レカ爲ニ此約書二本ヲ作リ兩國委任ノ大臣各印シ相互ニ交付シ以テ憑信ヲ昭ニスルモノナリ

 大日本國紀元二千五百三十六年明治九年二月二十六日
 大日本國特命全權辨理大臣
 陸軍中將兼參議開拓長官
  黒田清隆 (印)
 大日本國特命副全權辨理大臣議官
  井上馨 (印)


 大朝鮮國開國四百八十五年丙子二月初二日
 大朝鮮國大官判中樞府事
  申櫶 (印)
 大朝鮮國副官都府副管
  尹滋承 (印)
(外務省[二〇〇七]より、http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/kaisetsu/other/niccho_shukojoki.html