消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(364) 韓国併合100年(42) 朝鮮総督府と鉄道問題(10)

2010-12-22 19:01:48 | 野崎日記(新しい世界秩序)

  引用文献

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野崎日記(363) 韓国併合100年(41) 朝鮮総督府と鉄道問題(9)

2010-12-22 18:59:47 | 野崎日記(新しい世界秩序)
(9) 「満蒙四鉄道協定」とは、一九一三年に日中両政府によって交わされた協定で、将来、満蒙の地で日中合弁で四つの鉄道を建設するという約束で、中国政府に日本興業銀行、台湾銀行、朝鮮銀行が借款を与えるというものである。四つの鉄道とは、①淘南(Taonan)
より熱河(Rèhe)に至る淘熱鉄道、②長春(Changchun)より淘満(Taoman)に達する長淘鉄道、③吉林より海竜を経て開原に至る吉開(Jikai)鉄道、④淘熱鉄道の一地点より海港に達する臨海鉄道である(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00100617&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA)。

(10) 「安徽派」は、袁世凱の北洋軍閥の分派の一つである。袁世凱の武将であった段祺瑞(Duan Chíruei)が率いる。名称の由来は、段祺瑞が安徽省の出身だからである。一九一六年六月に袁世凱が病死して以降、中央政界に位置して権力を保ったのが、日本の支持を得ていた段祺瑞の安徽派であった。一九一七年九月、孫文(Sun Chung-shan)が広東軍政府を組織して中華民国からの独立を宣言すると、段祺瑞は、袁世凱死後の東北地方をまとめていた張作霖率いる奉天派(奉系)と連合して南征を強行、さらに一九一八年の新国会(安福国会)での多数派工作にも成功して、政権を掌握した。安徽派は日本からの借款を通じて国力の増進に努めたが、五四運動などの反日感情の高まりと共に国内の支持率は低下していった。これを好機として、反対派の直隷派が、一九二〇年七月、英米の支援を受けて、仇敵である奉天派と連合して安直戦争(直皖戦争)を起こす。安徽派は戦いに敗れ、政治の表部隊から去る。日英同盟はここでは無力であった。中国の反日運動に英国は梃子入れしたのである(http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/anchoku.html)。

(11) 第一次世界大戦に連合国として日本は参戦したが、人口の多い中国をも連合国側に立たすことが、日本軍部の戦略になった。しかし。、当時の大隈重信内閣の基本政策は中国については無関心であった。これに、後藤新平、西原亀三、山縣有朋が反発し、倒閣運動を起こして倒閣に成功し、長州閥の寺内正毅を首相に推挙した。寺内は閣議に諮ることなく蔵相の勝田主計、西原亀三と組んで、秘密裏に北京政権安徽派の段祺瑞と結託することにし、西原借款と呼ばれる巨額の貸付を安徽派に与えた。日本側の窓口は大蔵省(勝田主計大臣・広瀬豊作次官・大内兵衛理財局員)と興銀(土方久徴)、台銀(桜井鉄太郎)、朝銀(美濃部俊吉)らであった。この借款は失敗し、日本人関係者は一九二五年までに責任をとらされ、全員退職している。外務省と横浜正金銀行はこの借款に反対した。横浜正金はこの結果、満州と華北の政府出先との取引からの撤退を余儀なくされた。

 内容は現金供与一億四五〇〇万円、武器供与三二〇〇万円、合計一億七七〇〇万円であった。日清戦争の賠償金が二億三〇〇〇万円であったことからすれば、いかに巨額の借款であったことが分かる(http://ww1.m78.com/topix-2/nishihara.html)。

(12) 一九〇九年の「間島協定」とは、この年の九月四日、清との間に締結された協約。もと
もと、間島地方(現在の中国延辺朝鮮族自治州と長白朝鮮族自治県)の問題は朝鮮と清の国境問題であったが、第二次日韓協約(韓国保護条約)によってこの問題は日清間の外交問題となった。結局、清での鉄道敷設権を日本が得るのと引き換えに、間島地方は清領と認めるという内容であった(http://www.jacar.go.jp/nichiro/incident.htm)。
 二〇〇四年、高句麗問題が浮上し、韓国民を怒らせた。

 高句麗は、紀元前三七年から紀元六六八年まで、現在の中国と北朝鮮の国境を流れる鴨緑江流域付近で栄えた国である。中国の隋や唐と戦争した後、唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた。現在の中国・遼寧省桓仁県にいた一族であったが、建国後、二〇四年に吉林省集安(Jían)市へ移り、四二七年からは北朝鮮の平壌。最盛期の好太王(三九一~四一二年)の碑は、集安市にある。

 韓国の報道によると、中国では二〇〇二年頃から、学会やメディアなどで高句麗を「中国の地方政権」などとする主張が出始めた。中国政府は公式的にこうした発言をしたことはないが、中韓間の摩擦になっていた。二〇〇四年二月、王毅(Wang Yì)外務次官が訪韓した際、高句麗問題を外交問題化せず、学術レベルで協議することで一致した。

 しかし、中国外務省ホームページが韓国史を紹介した部分で、新羅、百済、高句麗の三国史記述から高句麗を削除したことが二〇〇四年七月に発覚。韓国政府が抗議し、復活を求めた。中国はこれを拒否し、八月初め、現代史以前の記述をすべて削除し、対立が本格化した(『毎日新聞』二〇〇四年八月一九日付、東京朝刊)。

 この論争で、間島協定が取り上げられた。
 韓国の『中央日報』(二〇〇四年八月八日付)は、「国会『間島協約の根本的無効』決議案を準備」という見出しで次のように伝えた。

 「国会が中国による高句麗(Goguryeo)史歪曲への反撃を開始した。 開かれたウリ党(ウリ党)の金元雄(Kim Won Wun)議員とハンナラ党の高鎮和(Ko Jin Fa)議員ら八人の与野党議員は、一九〇九年の清日間で締結された間島協約の無効を主張する『間島協約の根本的無効確認に関する決議案』を準備し、同僚議員への署名作業に取りかかった。
 彼らは決議案で『清日間の間島協約は、日帝が我が領土である間島を清国に譲渡する代わりに、満州での鉄道敷設権や石炭採堀権など、各種利権を手に入れたものだ』とし『一九〇五年に日帝が大韓帝国の外交権を剥奪した乙巳(Ul-sa)条約が根本的に無効であるゆえ、間島協約も当然無効だ』と主張した。

 乙巳条約無効の根拠には、国連国際法委員会の『条約法に関する空の協約』が『強制・脅迫によって締結された条約は無効』と明示している点にある。また、議員らは『中国の高句麗史歪曲には、我が国の領土である間島に対する領有権を固着化せんという意図が見え隠れする』とし『五二年に中日間で締結された平和条約によって、両国が四一年一二月九日以前に締結したあらゆる条約・協約・協定が無効になっている』と主張した。

 間島協約の無効決議案は、今年二月の国会会期中にも与野党議員一九人の署名で提出されたが、本会議の議題に上がることなく、廃棄されている」(金善河(Kim Son Ha)記者)(odinelec@joongang.co.kr)。

野崎日記(362) 韓国併合100年(40) 朝鮮総督府と鉄道問題(8)

2010-12-22 18:56:13 | 野崎日記(新しい世界秩序)
(3) 壬午事変は、一八八二(明治一五)年七月二三日に、興宣大院君(Heungseon Daewongun)が当時の韓国の首都の漢城(Hanson、後のソウル)で起こした軍の大規模な反乱である。政権を担当していた閔妃(Minpi)一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害された。大院君の乱とも言われている。

 宮中では政治の実権を巡って、第二六代朝鮮国王の高宗(Gojong)の実父である興宣大院君らと、高宗の妃である閔妃らとが、激しく対立していた。朝鮮軍の近代化を目指す改革派として閔妃一族は、開国させられて五年目の一八八一年五月、日本から、軍事顧問を招き、旧軍とは別に、新式の装備を持つ「別技軍」を組織した。それに対して、清に傾斜していた守旧派(事大党)の旧軍は、開化派の新軍との待遇が違うことに不満があった。給料支払いの遅延、俸給米の不正等々で、旧軍が反乱、攻撃の矛先が開化派や日本に向けられた。守旧派の筆頭が大院君であった。多くの日本人が殺害された。

 閔妃は、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱(Yuan Shikai)の陣に逃げ込んだ。大院君側は、高宗から政権を奪取したが、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が反乱軍を鎮圧、大院君を軟禁、閔妃一族を政権に復帰させて事変を終息させた。大院君は清に連行され、天津に幽閉された。大院君の幽閉は三年間におよび、帰国は袁世凱と伴 日本政府は、軍艦五隻、歩兵第一一連隊の一個歩兵大隊および海軍陸戦隊を朝鮮に派遣した。日本側は、当初、巨済島(Geoje-do)か鬱陵島(Ulleung-do)かのいずれかの島の割譲を要求し、拒否されたが、朝鮮と「済物浦条約」を結び、日本軍の朝鮮駐留を認めさせた(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100233700、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E5%8D%88%E4%BA%8B%E5%A4%89、申[二〇〇〇]、市川[一九七九]、参照)。

(4) 便利さを期して、一八六四年から一九二三年までの六〇年間の客年の干支の一覧を記しておこう。一八六四年(甲子)、六五年(乙丑)、六六年(丙寅)、六七年(丁卯)、六八年(戊辰)、六九年(己巳)、七〇年(庚午)、七一年(辛未)、七二年(壬申)、七三年(癸酉)、七四年(甲戌)、七五年(乙亥)、七六年(丙子)、七七年(丁丑)、七八年(戊寅)、七九年(己卯)、八〇年(庚辰)、 八一年(辛巳)、八二年(壬午)、八三年(癸未)、八四年(甲申)、八五年(乙酉)、八六年(丙戌)、八七年(丁亥)、八八年(戊子)、八九年(己丑)、九〇年(庚寅)、九一年(辛卯)、九二年(壬辰)、九三年(癸巳)、九四年(甲午)、九五年(乙未)、九六年(丙申)、九七年(丁酉)、九八年(戊戌)、九九年(己亥)、一九〇〇年(庚子)、〇一年(辛丑)、〇二年(壬寅)、〇三年(癸卯)、〇四年(甲辰)、〇五年(乙巳)、〇六年(丙午)、〇七年(丁未)、〇八年(戊申)、〇九年(己酉)、一〇年(庚戌)、一一年(辛亥)、一二年(壬子)、一三年(癸丑)、一四年(甲寅)、一五年(乙卯)、一六年(丙辰)、一七年(丁巳)、一八年(戊午)、 一九年(己未)、二〇年(庚申)、二一年(辛酉)、二二年(壬戌)、二三年(癸亥)。

(5) 自動車、バイク、腕時計、置時計、音楽機器などの贅沢品に三三%の課税をしたもの。時の大蔵大臣(Chancellor of the Exchequer)・レジナルド・マッケナ(Reginald McKenna)によって導入されたもの(http://www.answers.com/topic/reginald-mckenna)。

(6) シフは一八四七年フランクフルト・アン・メイン(Frankfurt am Main)のユダヤ人家庭に生まれる。一家はラビ(rabbi)の家系であった。米南北戦争後の一八六五年、にシフは米国に渡る。金融ブローカーとして生計を立てていた。一八七〇年米国籍取得。一八七三年に父の死で一時フランクフルトに帰郷していたが、七四年、アブラハム・クーン(Abraham Kuhn)の招きで、クーン・レーブ商会( Kuhn, Loeb & Company)に参加。一九七五年同商会経営者のソロモン・レーブ(Solomon Loeb)お娘テレサ・レーブ(Therese Loeb)と結婚。一八八五年同商会代表となる。鉄道建設、電信施設建設、電機施設建設に積極的に融資し、同商会を大きく成長させた。義弟がポ-ル・ウォーバーグ(Paul Warburg)。ウォーバーグがFRB(Federal Reserve Board.)設立に参加したことにともない、彼が経営していたウェルズ・ファーゴ(Wells Fargo & Company)を一九一四年に引き継ぐ。世界のユダヤ人、とくにロシア在住のユダヤ人支援に積極的に関わっていた。日露戦争時に日本の軍事公債を購入したのも、ユダヤ人救出の意図があった。第一次世界大戦時には、ウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領に早期の停戦を要請していた。ドイツに残してきた家族が心配だったからであると言われている。彼は、シオニズム(Zionism)には反対であった。民族としてでなく、ユダヤ教徒としての結束を重視していたからである。一九二〇年ニューヨークで死去(      http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/USAschiff.htm)。

(7)  一九三一年、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件(Liutiaohu Incident)が発生した。これを口実に関東軍は満州全土を軍事占領した。一九三二年、関東軍は清朝の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(Aixinjueluo Puyí)を執政として満州国を建国した。蒋介石(Chiang Kai-shek)の中華民国はこの事件を国際連盟に提訴し、英国のリットン卿を中心とした多国籍のリットン調査団が組織された。リットン調査団は、満州国を列強の共同管理下に置くよう提案した。一九三三年三月の国際連盟総会にて、このリットン調査団による報告書が賛成四二、反対一(日本)、棄権一(タイ)で採択された。その場で松岡洋右(まつおか・ようすけ)は国際連盟脱退通告文を読み上げ、日本は国際連盟を脱退した。

 調査団のメンバーには以下の五名の委員であった。リットン卿(Victor Alexander George Robert Bulwar- Lytton, 2nd Earl of Lytton、英国人)、クローデル将軍(Henri Claudel、フランス人)、マッコイ将軍(Frank Ross McCoy、米国人)、アルドロバンディ伯爵(H. E. conte Aldrovandi、イタリア人)、ハインリヒ・シュネー博士(Heinrich Schne、ドイツ人)(http://hansard.millbanksystems.com/lords/1932/nov/02/manchuria-report-of-the-lytton-commission)。

(8) 一九一五年、第一次世界大戦中、日本はドイツと交戦を口実に、山東支配の確立と、従来の権益の拡大を求めて、中華民国の袁世凱(Yuan Shikai)政権に五号二一か条の要求を行った。鉄道関係については、次のような内容であった。

 ①芝罘(Zhifu)または竜口(Lonkou)と膠州(Jiaozhou)湾から済南(Jinan)に至る膠済(Jiaoji)鉄道に連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと。
 ②満鉄・安奉(AnHo)鉄道の権益期限を九九年に延長すること(旅順・大連は一九九七年まで、満鉄・安奉鉄道は二〇〇四年まで)。
 ③他国人に鉄道敷設権を与える時、鉄道敷設のために他国から資金援助を受ける時、また諸税を担保として借款を受ける時は日本政府の同意を得ること。
 ④吉長(JíCháng)鉄道の管理・経営を九九年間、日本に委任すること。
 ⑤武昌(Wuchang)と九江(Jiujang)に連絡する鉄道、および南昌(Nanchang)・杭州(Hangzhou)間、南昌・潮州(Chaozhou)間の鉄道敷設権を日本に与えること。
 ⑥福建(Fújian)省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、外国資本を必要とする場合はまず日本と協議すること(http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/kyoukasyo/sub-taika.html)。

野崎日記(361) 韓国併合100年(39) 朝鮮総督府と鉄道問題(7)

2010-12-21 18:53:17 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 

(1) 一八六八(明治元)年一二月、日本使節・対馬藩家老・樋口鉄四郎らが、明治新政府の樹立を通告するために、当時、鎖国をしていた朝鮮の釜山浦に入港した。しかし、興宣大院君(Heungseon Daewongun)政権下の李朝は、日本使節が持参した国書の受け取りを拒否した。文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていることが理由であった。「皇」は中国皇帝のみに許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していると、当時の朝鮮王は理解していた。そして、朝鮮王は中国皇帝の臣下ではあるが、日本王の臣下ではないとの立場を朝鮮王は取っていた。その点で日本の国書は、傲慢かつ無礼なものであると談じられたのである。

 その八年後の、一八七五(明治八)年、日本政府は砲艦外交に出た。小砲艦を釜山に派遣して、発砲演習を行うという示威行動をした。次いで沿海測量の名目で砲艦「雲揚号」を江華島(Ganghwa-do)に向かわせ、沿岸各所に要塞や砲台のある内国河川にボートで無断侵入した。そして、「雲揚号」は仁川沖の江華島から砲撃を受けた。これを口実に日本政府が江華島攻撃を開始し、日本政府は、一八七六(明治九)年、日朝修好条約(江華島条約)を朝鮮に押し付けた(本稿、注(2)に解説)。この条約には釜山の他二港を開港する約束が盛り込まれた。一八七九(明治一二)年に釜山が開港され、翌一八八〇(明治一三)年、元山(Wonsan)、一八八二(明治一五)年が開港された(http://w01.tp1.jp/~a076379471/genzan/histry.html)。

 釜山は、それまでは、小さな一漁村に過ぎなかった。徳川幕府時代に対馬藩の出先が駐留していた倭館に代わって、釜山港が、日本の朝鮮半島進出の拠点になった。釜山は日本にもっとも近い良港であった。今日では韓国のソウルに次ぐ第二の都市に繁栄している。

 開港した釜山に日本人が陸続として上陸し、居留地を造った。最初は商人や実業家の進出が目覚しかったが、その後、一般人たちも加わった。日本人は、釜山港から四方四キロメートル以内の区域での活動が許されていた。

 逆に、朝鮮人の日本渡航は、当時、許されていなかった。日本側からだけの一方通行の開港であった(http://blogs.dion.ne.jp/rekishinootoshimono/archives/9266564.html)。

(2) 一八七六(明治九)年に締結された「日朝修好条規」は、「江華条約」・「丙子(Byeong
ja)」条約共呼ばれている。日本は条規中に、朝鮮国の自主独立、釜山等三港の開港、日本の韓国に対する無関税特権、貿易規制品目、日本貨幣の使用、朝鮮銅貨の輸出入の自由、朝鮮沿海測量の自由、自治居留地(日本の領事裁判権)が定められた。とてつもない不平等条約であった。

 以下に日本分の原文を記す。

 大朝鮮國ト素ヨリ友誼ニ敦ク年所ヲ歴有セリ今兩國ノ情意未タ洽ネカラサルヲ視ルニ因テ重テ舊好ヲ修メ親睦ヲ固フセント欲ス是ヲ以テ日本國政府ハ特命全權辨理大臣陸軍中將兼參議開拓長官黒田清隆特命副全權辨理大臣議官井上馨ヲ簡ミ朝鮮國江華府ニ詣リ朝鮮國政府ハ判中樞府事申櫶都府副管尹滋承ヲ簡ミ各奉スル所ノ諭旨ニ遵ヒ議立セル條款ヲ左ニ開列ス

 第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ嗣後兩國和親ノ實ヲ表セント欲スルニハ彼此互ニ同等ノ禮義ヲ以テ相接待シ毫モ侵越猜嫌スル事アルヘカラス先ツ從前交情阻塞ノ患ヲ爲セシ諸例規ヲ悉ク革除シ務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開擴シ以テ雙方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ

 第二款 日本國政府ハ今ヨリ十五個月ノ後時ニ隨ヒ使臣ヲ派出シ朝鮮國京城ニ到リ禮曹判書ニ親接シ交際ノ事務ヲ商議スルヲ得ヘシ該使臣或ハ留滯シ或ハ直ニ歸國スルモ共ニ其時宜ニ任スヘシ朝鮮國政府ハ何時ニテモ使臣ヲ派出シ日本國東京ニ至リ外務卿ニ親接シ交際事務ヲ商議スルヲ得ヘシ該使臣或ハ留滯シ或ハ直ニ歸國スルモ亦其時宜ニ任スヘシ
 第三款 嗣後兩國相往復スル公用文ハ日本ハ其國文ヲ用ヒ今ヨリ十年間ハ添フルニ譯漢文ヲ以テシ朝鮮ハ眞文ヲ用ユヘシ

 第四款 朝鮮國釜山ノ草梁項ニハ日本公館アリテ年來兩國人民通商ノ地タリ今ヨリ從前ノ慣例及歳遣船等ノ事ヲ改革シ今般新立セル條款ヲ憑準トナシ貿易事務ヲ措辨スヘシ且又朝鮮國政府ハ第五款ニ載スル所ノ二口ヲ開キ日本人民ノ往來通商スルヲ准聽スヘシ右ノ場所ニ就キ地面ヲ賃借シ家屋ヲ造營シ又ハ所在朝鮮人民ノ屋宅ヲ賃借スルモ各其隨意ニ任スヘシ
 第五款 京圻忠清全羅慶尚咸鏡五道ノ沿海ニテ通商ニ便利ナル港口二箇所ヲ見立タル後地名ヲ指定スヘシ開港ノ期ハ日本暦明治九年二月ヨリ朝鮮暦丙子年正月ヨリ共ニ數ヘテ二十個月ニ當ルヲ期トスヘシ

 第六款 嗣後日本國船隻朝鮮國沿海ニアリテ或ハ大風ニ遭ヒ又ハ薪粮ニ窮竭シ指定シタル港口ニ達スル能ハサル時ハ何レノ港灣ニテモ船隻ヲ寄泊シ風波ノ險ヲ避ケ要用品ヲ買入レ船具ヲ修繕シ柴炭類ヲ買求ムルヲ得ヘシ勿論其供給費用ハ總テ船主ヨリ賠償スヘシト雖モ是等ノ事ニ就テハ地方官人民トモニ其困難ヲ體察シ眞實ニ憐恤ヲ加ヘ救援至ラサルナク補給敢テ吝惜スル無ルヘシ倘又兩國ノ船隻大洋中ニテ破壞シ乘組人員何レノ地方ニテモ漂着スル時ハ其地ノ人民ヨリ即刻救助ノ手續ヲ施シ各人ノ性命ヲ保全セシメ地方官ニ届出該官ヨリ各其本國ヘ護送スルカ又ハ其近傍ニ在留セル本國ノ官員ヘ引渡スヘシ

 第七款 朝鮮國ノ沿海島嶼岩礁從前審撿ヲ經サレハ極メテ危險トナスニ因リ日本國ノ航海者自由ニ海岸ヲ測量スルヲ准シ其位置淺深ヲ審ニシ圖誌ヲ編製シ兩國船客ヲシテ危險ヲ避ケ安穏ニ航通スルヲ得セシムヘシ

 第八款 嗣後日本國政府ヨリ朝鮮國指定各口ヘ時宜ニ隨ヒ日本商民ヲ管理スルノ官ヲ設ケ置クヘシ若シ兩國ニ交渉スル事件アル時ハ該官ヨリ其所ノ地方長官ニ會商シテ辨理セン
 第九款 兩國既ニ通好ヲ經タリ彼此ノ人民各自己ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ兩國官吏毫モ之レニ關係スルコトナシ又貿易ノ制限ヲ立テ或ハ禁沮スルヲ得ス倘シ兩國ノ商民欺罔衒賣又ハ貸借償ハサルコトアル時ハ兩國ノ官吏嚴重ニ該逋商民ヲ取糺シ債缺ヲ追辨セシムヘシ但シ兩國ノ政府ハ之ヲ代償スルノ理ナシ

 第十款 日本國人民朝鮮國指定ノ各口ニ在留中若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ若シ朝鮮國人民罪科ヲ犯シ日本國人民ニ交渉スル事件ハ均シク朝鮮國官員ノ査辨ニ歸スヘシ尤雙方トモ各其國律ニ據リ裁判シ毫モ回護袒庇スルコトナク務メテ公平允當ノ裁判ヲ示スヘシ

 第十一款 兩國既ニ通好ヲ經タレハ另ニ通商章程ヲ設立シ兩國商民ノ便利ヲ與フヘシ且現今議立セル各款中更ニ細目ヲ補添シテ以テ遵照ニ便ニスヘキ條件共自今六個月ヲ過スシテ兩國另ニ委員ヲ命シ朝鮮國京城又ハ江華府ニ會シテ商議定立セン

 第十二款 右議定セル十一款ノ條約此日ヨリ兩國信守遵行ノ始トス兩國政府復之レヲ變革スルヲ得ス以テ永遠ニ及ホシ兩國ノ和親ヲ固フスヘシ之レカ爲ニ此約書二本ヲ作リ兩國委任ノ大臣各印シ相互ニ交付シ以テ憑信ヲ昭ニスルモノナリ

 大日本國紀元二千五百三十六年明治九年二月二十六日
 大日本國特命全權辨理大臣
 陸軍中將兼參議開拓長官
  黒田清隆 (印)
 大日本國特命副全權辨理大臣議官
  井上馨 (印)


 大朝鮮國開國四百八十五年丙子二月初二日
 大朝鮮國大官判中樞府事
  申櫶 (印)
 大朝鮮國副官都府副管
  尹滋承 (印)
(外務省[二〇〇七]より、http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/kaisetsu/other/niccho_shukojoki.html


野崎日記(360) 韓国併合100年(38) 朝鮮総督府と鉄道問題(6)

2010-12-18 14:27:45 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 四 南満州鉄道平行線建設問題

 日英同盟の存在にもかかわらず、清政府は、一九〇七年、英国のボウリング商会(Bowling & Co.)との間で、南満州鉄道と対立する新鉄道を建設する契約を交わした。新民屯(Hsinmintun)―法庫門(Fakumen)間に南満州鉄道に平行した鉄道がそれである。これが建設されれば、日本が支配する南満州鉄道による大連(Dairen)に物資を運ばなくても、中国がmかだ支配権を持っている天津(Tianjin)に物資を運ぶことができる。これは、南満州鉄道への日本の排他的権益を認めるという一九〇五年の日中秘密協定を侵犯するものであるとして日本政府は清政府と英国政府に強く抗議した。しかし、英国側の反応は鈍かった。日本が満州の権益を独占することへの反発があったからである。日本も英国勢のそうした反発を意識せざるを得なかった(Franke[1923], ss. 290-91)。

 辛亥革命(the Revolution)の進行時、日本政府は一九一一年に北京・奉天(Mukden)間の京奉鉄道への排他的管理権を主張したが、英国政府はそれを認めようとはしなかった(http://202.112.150.129/mt/mtyj/mtyj2009No3.pdf)。

 この間の経緯について、『リットン調査団報告』(The Lytton report; Sokolsky[1932])(7)の第三章第三節「満州に於ける日支鉄道問題」が簡潔に叙述している。以下、その内容を要約する。

 満州の権益争いのほとんどは鉄道に関するものである。利権のみで鉄道が意識され、この地域をどう発展させるかの意識は中国側にも日本側にもない。関連する諸国への公文書による協定も一切ないまま、鉄道が建設され続けた。

 満州に於ける鉄道の建設は、ロシアによる東支鉄道(East China Railway)が最初である。これは、日露戦争後南部で日本が管理する南満州鉄道に引き継がれた。満鉄は、経済的利益よりも、政治的な機能を優先するものである。

 これが中国人の憤激を買っていた。とくに、中国側が自力で鉄道建設に乗り出そうとして、日中間の軋轢が大きくなった。例えば打虎山(Dafushan)・通遼(Ttongliao)線の建設がそれであった。これは、張作霖(Zhang Zuolín)が日本を牽制するたえに建設したものである。張学良(Zhang Xuéliáng)もまた父の日本敵視政策を踏襲した。これらすべては、南満州鉄道をめぐるものであった。

 日本は、一九〇五年一一月、清政府に対して、南満州鉄道の存在を脅かす競合鉄道の建設をしないことを約束させていたのである。

 日本政府がこの約束を清政府が破ったとして攻撃した最初の競合鉄道建設は、一九〇七年の新民屯・法庫門鉄道である。中国側は、日本政府の度重なる抗議を無視して競合路線を建設し続けた。

 利権争いだけではない。満州の鉄道問題を複雑にしているいま一つの要因は鉄道建設資金を日本が中国に貸し付けたことにもある。柳条湖事件が発生した一九三一年九月時点での日本の貸付は延滞利子を含めて一億五〇〇〇万円あった。これは、南満州鉄道とは競合しない狭軌の線路建設資金であった。しかし、中国側は、新線が日本の政治的・軍事的目的に合わせるように意図されたものであり、新線建設が中国の利益なっていないことを理由に、借り入れの支払いを渋っていた。しかも、南満州鉄道の意向に沿う線路であって、正当な審査手続きを踏まえた貸付ではないとの抗議をも中国側は行っていた。中国側からすれば南満州鉄道によって新設建設を強引に押し付けられたことになる。償還の見込みが立たない時にすら、満鉄は中国への借款供与を縮小しなかった。

 南満州鉄道は当初支線を持っていなかった。そのために扱う旅客も過密も大きくは伸びなかった。これを中国側に建設させようとしていたのである。

 これに反抗した中国側が、南満州鉄道ではなく、自国の独自の鉄道、つまり、南満州鉄道と競合する線路建設に日本側からの借款を投じる行動に出たために、日本側との衝突が生じたのである。これが、一九三一年前後に集中的に発生したのである。

 対華二一か条要求に見られるように、鉄道利権に関するかぎり、日本の対中要求は、非常に露骨なものであった(8)。この要求によって、例えば、吉林(Jílín)と長春(Chángchun)を結ぶ吉長鉄道が南満州鉄道会社の支配下に置かれることになった。さらに、同線が負う未済の負債が一九四七満期の長期借款に借り換えられた。

 また、「満蒙四鉄道協定」(9)によって、一九一八年、二〇〇〇万円がいわゆる「安徽(Anhui)派」(10)軍閥政府に対して前渡しされた。しかも、使途は指定されなかった。これが有名な「西原借款」(11)の一つとなった。そもそも、「満蒙四鉄道協定」では、鉄道建設を促進させるための日本側からの借款供与だったはずなのに、西原借款は、安徽派への梃子入れを狙った政治献金以外の何物でもなかったのである。

 新しい西原借款は別として、鉄道新線を中国が建設するという過去の合意を履行しないと日本側は非難し続けた。

 最大の焦点は、満州の中部から朝鮮半島の港まで新線を建設して、満州の物資を日本に運びやすくするという日本側の要求を中国が無視したという事件である。一九〇九年九月の「間島協定」(Jiandao (Kando) Agreement)(12)で中国側が新線建設に同意したのに、まったく着手しようとしていないというのが日本側の批判点であった。

 その一つが、吉林・延辺の敦化(Dunhua)より朝鮮北部の会寧(Hoeryŏng)に至る鉄道建設に関する問題である。日本は、この鉄道建設に中国が協力するのは、間島協定で合意を得たことなので、日本側が資金供与をするから建設に着手しろと迫っていた。協定に基づき、一九一八年に一〇〇〇万円を中国政府に前渡ししははずだと主張していた。しかし、当時の内乱状態であった中国、しかも、安徽派支援の西原借款への反感が、日本側の要求を中国が素直に受け入れることは困難であった。

 以上が、『リットン調査団報告書』の鉄道に関する個所の要約である。

 おわりに

 日本は、北京撤退前の張作霖に新線建設契約への署名を迫った。署名しなければ、張作霖・張学良(Jang Shiueliáng)親子の北京撤退を阻止すると強迫を加えていた。張作霖は結局、署名を拒否した。張作霖は爆死した。奉天に退いた張学良も同じく拒否した。強迫された契約は無効であると日本側の要求を一蹴したのである。一九二八年五月のことであった。敦会線建設に中国側が抵抗したのは、新線に託す日本の軍事戦略目的を恐れたからである。日本に対抗すべく、中国側は南満州鉄道に依拠しない独自の鉄道建設を続けていた。これが満鉄に競合する線路だとして、中国側は、日本側の激高を買っていたのである。

 そして、一九三一年九月一八日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路爆破事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州全土の占領を経て、一九三三年五月三一日の塘沽(Tánggu)協定に至る、日本と中華民国との間の満州事変となったのである。。関東軍はわずか五か月の間に満州全土を占領した。

 南満州鉄道の運賃は、日本人貨物を差別的に優遇し、日本製品輸入にも無関税であった。つまり、日本の支配地域では日本企業の独占的権益が定着することになった(British Chamber of Commerce[1916], p. 98)。加えて、一九一五年一月一八日の対華二一か条である。これは、日本の権益が満州に限定されず、中国の他の地域、とくに、英国が権益を確保していた揚子江デルタ(Yangzi)への拡大を要求したものであった。当然、英国人のみならず、アジア人の日本政府への憤激は高まった(Hyndman[1919], pp. 278-79)。

 日露戦争後、東アジアにおける英国の権益が著しく縮小されたことへの英国人の怒りは大きく、国内に日英同盟破棄の気運が高まったのである。日英同盟が英国の対日貿易を増進させるという初期の期待が完全に裏切られたからである(Lawton[1912], vol. 2, p. 1114)。


野崎日記(359) 韓国併合100年(37) 朝鮮総督府と鉄道問題(5)

2010-12-17 14:21:29 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 三 日英同盟と英連邦の白人至上主義


 一九世紀末から二〇世紀初頭にかけての年代は、一大移民の時代であった。蒸気汽船や電信の発達により、人間の移動が容易になったためである。日本人移民も多かった。一八八五~一九〇七年の期間で、五〇万人以上の日本人が移民した。一九〇八~一九二四年の期間ではさらに加速した。この期間の移民は、六四万三〇〇〇人であった。ハワイ、米国が主たる移民先であったが、次第に南米はもとより、朝鮮半島や満州への移民も多くなって行った(Kenwood & Lougheed[1992],  pp. 56-58)。

 初期の海外流出者の多くは、年季契約者で、契約年が終わると帰国していたが、次第に現地に留まる移民となり、白人至上主義の英自治国にも多くの移民が流入するようになった。

 英国は、一八九四年の日英通商航海条約(Treaty of Commerce and Navigation)を日本と結んだ。これは、オーストラリアには衝撃であった。この条約が、移住の自由を含んでいたきあらである。クイーンズランド州以外のオーストラリアの各州は、条約への加入を拒否した。

 元々、オーストラリアのクィーンズランド州には、真珠貝採取産業があり、日本人潜水夫が雇用されていた。真珠貝は、ボタンの材料で、北オーストラリアの木曜島(Thursday Island)が拠点であった。一八八三年、真珠貝産業への日本人移民がオーストラリア政府によって正式に認められた。木曜島には、一八九二年、一〇〇人の日本人が住み、一八九四年には、七〇〇人を超えた。一九〇九年には同じく真珠貝産業の盛んなブルーム(Broome)の人口、約二〇〇〇人のうち、一〇〇〇人弱が日本人であった。一九一〇年が、オーストラリアの真珠貝採取産業のピークであった(http://opinion.nucba.ac.jp/~kamada/H21Australia/australia21-4.html )。

 オーストラリアでは、白豪主義(White Australia policy)があった。一九〇一年の移住制限法(Immigration Restriction Act)制定から一九七三年の移民法(Immigration Act of 1973)までこの政策方針が維持された。一八六三年、ノーザンテリトリーが南オーストラリア植民地として編入されると、南オーストラリアは当初日本人を入植させる計画を採り、日本からも真珠貝採取や砂糖農園における技術系労働者が流入した。一八九八年のクイーンズランドで就労していた日本人は三二〇〇人を超えた。しかし、日本の移住希望者にも「ヨーロッパ言語による書き取りテスト」を課して、実質的に流入を阻んできた。

 一九〇一年、オーストラリアは連邦制になった。この年に、移住制限法、帰化法、太平洋諸島労働者法等を成立させ、白豪主義政策を目指すようになった。完成していく。連邦政府の最大の問題が移民労働者問題であった。しかし一九〇二年の日英同盟によって、豪連邦初代首相のエドモンド・バートン(Edmund Barton)は、日本に対して格別の配慮をするように、当時の英植民地相のジョセフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain、1836~1914)によって要請された。バートンは、その要請を受け入れた。バートンは、日英同盟がオーストラリアにも対日貿易を増進させるし、英連邦(Commonwealth)の北部地域の安全保障にもなると説明した。しかし、二代豪首相のアルフレッド・ディーキン(Alfred William Deakin)になると、「日本人は優秀であるがゆえに危険であり、排除されねばならない」として、バートンの対日宥和政策は撤回させられた(http://www.nla.gov.au/barton)。貿易や地域安全保障よりも白人の優位性が優先されたのである(Walker[1999], pp. 68-76)。

/ 同じようなことが、カナダでも生じた。カナダのブリティッシュ・コロンビアには、一九〇〇年まではほぼ五〇〇〇人の日本人がいた。一九〇〇年以降、ハワイから日本人がこの地に流入するようになった。とくに鉄道建設が進むカナダには低賃金労働者の需要が高まっていた。一九〇〇~一五年の間に一万六〇〇〇人の日本人の入国がカナダ政府によって認められ、うち、八〇%がブリティッシュ・コロンビアに向かった。ただし、その多くは定住を許されなかった(Kelley & Trebilcock[1998], p. 143)。定住が許されて、国籍を得ても、日本人移民への差別は大きかった(ibid., pp. 143-44)。ついには、バンクーバー(Vancouver)で日本人を排斥する暴動が起こった。一九〇七年のことである。

 一九〇五年、アジア排斥同盟(Asiatic Exclusion League=AFL)が米国とカナダで結成された。これは、アジア系移民を排斥委する同盟である。

 まず、サンフランシスコで、六七の労働組合によって結成された。この組織は、反アジア、とくに、日本人、中国人、韓国人が標的になった。

 この同盟は、一九〇七年九月八日、にバンクーバーの中華街を襲撃した。カナダのアジア排斥同盟は、一九〇七年に結成され、「東洋人をブリティッシュ・コロンビアに入れるな」(to keep Oriental immigrants out of British Columbia)であった。九〇〇〇人もの白人が暴れまくった。群集は日本人街にも乱入し、日本人は棍棒で反撃したと言われている(http://ja-jp.facebook.com/pages/Asiatic-Exclusion-League/134719629893800)。一九二二年にはカナダ政府と日本政府との間で紳士協定(Gentlemen's Agreement)が成立し、日本からのカナダへの移民を自主的に日本政府が抑制することになった(Sugimoto[1972], pp. 95-96)。

 そして、一九二三年には、中国系移民を実質的に排斥する華人移民法(Chinese Immigration Act)がカナダで成立した。この法案の成立にアジア排斥同盟は四万人のメンバーを擁して圧力をかけた(Kay[1995], p. 128)。

 いずれにせよ、日本人移民排斥の白人市民の意識が、つねに日英同盟廃棄の圧力として働き続けたのである(Lowe[1969], pp. 267-92)。


野崎日記(358) 韓国併合100年(36) 朝鮮総督府と鉄道問題(4)

2010-12-16 14:40:11 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 当時、政府の戦費見積もりは四億五〇〇〇万円であった。日清戦争時、戦費の三分の一が海外に流失したので、日露戦争でも一億五〇〇〇万円の外貨調達が必要と推計された。当時の日銀保有の正貨は五二〇〇万円しかなく、約一億円を外貨で調達しなければならなかった。発行額一億円の外貨起債の担保には、関税収入を当てることとし、一〇年据え置きで、満期四五年、金利五%以下との条件で、高橋是清が外債発行団主席として外国の銀行と交渉することになった。

 しかし、開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンド(一億円)の外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断していたためである。

 最初は米国の銀行と交渉していたが、まったく相手にされず、一九〇五年四月にロンドンに渡り、額面一〇〇ポンドに対して発行価格を九三・五5ポンドまで値下げし、一か月以上交渉の末、ようやくロンドンでの五〇〇万ポンドの外債発行の成算を得た。しかし、予定の一〇〇〇万ポンドにはまだ五〇〇万ポンド足りなかった。

 この時、たまたまロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視する米国のユダヤ人銀行家、ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街として残額五〇〇万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。

 第一回は一九〇四年五月に仮調印した。シフの応援によって、当初の調達金利を上回る七年償還、七%の好条件で、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約二六倍、ニューヨークで三倍となった。一九〇四年五月に日本軍の優勢が明らかになると、第二次以降、日本の外債発行は順調に推移し、結局日本は一九〇四年から一九〇六年にかけ合計六次の外債発行により、借り換え調達を含め総額一万三〇〇〇ポンド(約一三億円弱)の外貨公債を発行した。この内最初の四回、八二〇〇万ポンド(八億二〇〇〇万円)の起債が実質的な戦費調達資金であり、後の二回は好条件への切り替え発行であった。なお日露戦争開戦前年の一九〇三年の一般会計歳入は二億六〇〇〇万円であった。いかに巨額の起債がなされたかが分かる。ちなみに、日露戦争の戦費総額は、一八億二六〇〇万円強であった(http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/finance/zaisei07.pdf; http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/finance/monogatari.htm)。一九〇六年三月八日、シフは日本政府に招聘され、三月二八日、明治天皇より最高勲章の旭日大綬章を贈られた(6)。

 ロンドンだけに限定すると、一九〇〇~一三年までの日本政府の起債額は六五〇〇万ポンド(六億五〇〇〇万円)強であった。これは、全世界の政府のロンドン起債総額の二〇%も占めていた。ただし、一九一四年から日英同盟が解消される一九二三年までは、日本政府起債はない(Suzuki[1994」p. 11)。つまり、ロンドンでの日本の政府起債は、日露戦費調達によるものであった。

 一九〇二年から第一世界大戦までの日本の地方自治体によるロンドンでの起債額は、一億七七〇〇万円であった。日本の民間会社の起債は二億円であった。民間会社による起債といっても、その三分の二は南満州鉄道によるものであった。国策会社の東洋拓殖会社は二〇〇〇万円を起債している(Suzuki[1994], pp. 200-3)。

 同盟の存在にもかかわらず、英国企業と日本企業との合弁は、非常に少なかった。一九〇二~二三年の同盟期間内で、日英合弁会社は五つしかなかった。米国が七、ドイツが四つあった。フランスは一つであった(Udagawa[1990], pp. 6-10)。

 事実、一九二〇年以降は、日本にとって米国の方が英国よりも重要な経済パートナーであった。一九三一年の製造業における直接投資件数は、英国の二一件に対して三六件あったという調査結果が出ている(Mason[1992], p. 44)。

 しかし、日本政府は、第一次世界大戦中に英国の戦費を補助すべく、一九一六~一九年に二億八三〇〇万円の英国債を購入している(Moulton[1931], p. 395)。

野崎日記(357) 韓国併合100年(35) 朝鮮総督府と鉄道問題(3)

2010-12-15 14:14:09 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 日本の不平等条約改正の足取りを整理しておこう。明治政府にとっての重要な外交課題は、幕末に締結された安政の仮条約が不平等条約の改正、つまり、治外法権の撤廃、関税自主権の回復であった。

 まず、一八七一年、岩倉遣外使節団を派遣し、条約改正予備交渉に着手したが失敗した。
 欧米諸国を相手にしての正式の関税自主権の回復交渉は、一八七八年、寺島宗則外務卿の時に開始された。この時、米国が賛成したが、英国、ドイツの反対で交渉は不成功に終わった。

 一八八六年、第一次伊藤内閣の外務大臣・井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行う。しかし、その提案には外国人判事の任用などの譲歩を欧米に示したため、小村寿太郎、鳥尾小弥太、法律顧問・ボアソナードがこれに反対意見を提出し、民権派による抗議・爆弾テロで負傷し、一八八七年に辞任、改正交渉は失敗。

 一八八八年、外務大臣・大隈重信が、治外法権廃止を第一に交渉に臨み、米国、ドイツ、ロシアの賛意を得たが、交渉に際して、大審院に限定したとはいえ、外国人判事を任用するとしたために、憲法違反であるとの反対をうけ、彼も爆弾テロで負傷して、一八八九年辞職した。
 一八九一年、外務大臣・青木周蔵が、六年後に治外法権撤廃・関税自主権回復させるという交渉に臨み、治外法権については、英国の同意は得たものの、大津事件のために同年辞職を余儀なくされ、交渉は中断することになった。

 一八九四年、第二次伊藤内閣の外相・陸奥宗光が、治外法権撤廃に照準を定め、各国別に交渉し、日清戦争直前に治外法権を完全に撤廃した日英通商航海条約の調印に成功した。さらに関税率の一部引き上げにも成功し、居留地の廃止と外国人の内地雑居が実現した。
 陸奥外相の条約改正後は、残された関税自主権の回復が改正の眼目となったが、一九一一年、第二次桂内閣の外相の小村寿太郎が、日露戦争後の国際的地位の向上を利用して、関税自主権回復に成功した(http://note.masm.jp/%C9%D4%CA%BF%C5%F9%BE%F2%CC%F3/、二〇一〇年八月一六日アクセス)。

 一八九四年の通商条約では、欧米からの輸入品にかける日本の関税水準は、まだ日本に不利なものであった。しかし、一九〇九年二月、日本政府は英国製品の輸入関税を五〇〇%に引き上げるという法外な提案を英国に対して行った(Hotta-Lister[1999], p. 43)。これは、日本政府が関税自主権の回復に英国の政治力を使おうとしたからであろう。

 当時は、内外で保護主義が高まり、自由貿易を国是とする英国は大きな岐路に立っていた。ドイツ、米国の保護主義によって、英国製品は世界市場から駆逐されるという恐怖を英国産業界は抱いていた。関税率交渉をめぐる大議論が英国内で沸騰しているまさにその局面で日本政府が英国に対して居丈高な要求をしたのである。そもそも関税の自主権がなく、それまでの交渉がことごとく失敗してきたのに、一九〇九年に五〇〇%課税という法外な要求をしたのは、日本側に勝算があったのだろう。

 日本との関税改革交渉は、英国にとって非常に重要な課題であった。後に保守党で首相になったアンドリュー・ロー(Andrew Bonar Law)が、一九一〇年一一月、マンチェスター・自由貿易・ホール(Manchester's Free Trade Hall)で保護主義の導入を呼びかける講演をした。そして彼は、日本の工業力の台頭への恐れを表明した。日本のよく組織された安価な労働力が日本の綿産業を支えている。いまは目立たないがいずれは、インド市場などで日本の綿製品が溢れるようになり、英国製品は強力な厳しい競争にさらされることになるだろう。こうした事態の到来を避けるためにも、特恵を供与できる体制を作っておく必要があると訴えたのである(Law[1910])。

 英国が実際に自由貿易原則を棄てるのは、第一次世界大戦中の一九一五年のマッケナ関税(McKenna duties)(5)まで待たねばならないが、少なくとも二〇世紀に入ってからの関税論議は英国経済の斜陽化を示すものであった(Hunter[2003], p. 16)。

 幼稚産業を保護しなければならなかった日本が関税自主権を回復することが至上命令であったことは当然である。

 ちなみに、一八七〇年から第一次世界大戦勃発前の一九一三年にかけての世界の輸出額は、年平均で三・四%ののびを示していた。ところが、英国の輸出の伸びは小さかった。同期間の英国の輸出額は年率二・八%の伸びにすぎなかった。日本は八・五%であった(Maddison[2001], p. 362)。

  貿易だけではない。一八九〇年代から一九〇〇年代には、成熟国から新興国への国際的な資本移動も活発であった。日本について言えば、一八九七年に金本位制を採用した効果が大きかった。金の裏付けのある円は、投資家の信用を得る強い武器であった。

 日英同盟下で、日本は、中央政府はもとより、地方自治体、公共団体が積極的にロンドンで起債した。ただし、規模から言えば、日本への英国資本の流入は他地域に比べてまだまだ小さかった。

 日英同盟によって、国際金融市場であるロンドンから資金を呼び込もうとする意図が日本政府にあったのは当然であろう。しかし、日本の期待に反して、国際資金の日本への流入は芳しくなかった(Nish[1966], p. pp. 253-55)。日本政府も日本企業もロンドン金融市場からの借入には困難を覚えていたのである。

 一九一四年の国際資本移動に占める英国資本のシェアは四三%もあった。しかし、そのほとんどは米国、ラテンアメリカ、英国自治領、英領植民地に向かい、非英連邦域には、二%前後でしかなかった(Kenwood & Lougheed[1994], pp. 27-29)。例え、日英同盟が結ばれていても、ロンドンの金融界は日本に魅力を感じていなかったのである。

 それでも、日露戦争の軍事費調達にあたっては、よく知られているように、クーン・レーブ商会(Kuhn Loeb & Co.)のジェイコブ・シフ(Jacob Henry Schiff, 1847-1920)(6)の貢献が大きかった。当時の日本銀行副総裁・高橋是清による起債活動をユダヤ人のシフが応援し、第一回起債予定額一〇〇〇万ポンドのうち、五〇〇万ポンドをシフが引き受けたのである。

野崎日記(356) 韓国併合100年(34) 朝鮮総督府と鉄道問題(2)

2010-12-13 22:23:14 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 1 韓国税関長、マックレービ・ブラウン


 マッケンジーは、日本の急激な膨張ぶりにまず驚嘆した。日本の人口は、明治維新以後の二〇年間で、三六〇〇万人から四八〇〇万人へと二五%も増加した。わずか二〇年間で一二〇〇万人も増えた人口を養うべく、日本は、海外に移住地を探し求めざるを得なかった。マッケンジーによれば、最大の移住候補地は満州であった。満州の各地に日本人社会が形成された。遠からずして、満州人と中国人を合わせた数よりも多くの日本人が居住するようになるだろうとマッケンジーは予測していた(ibid., p. 2)。

 すでに、韓国は、一九〇四年二月から事実上、日本の支配下に入っていた。鎖国時代の朝鮮は、「隠者王国」(Hermit Kingdom)と呼ばれていた。この王国が、一八七六年に日本の手によって開国され、英米がそれに続いた。

 こうした経緯を説明した後、マッケンジーは、韓国の税関長のマックレービ・ブラウン(McLeavy Brown)のことに触れている。

 一八九五年の閔妃暗殺事件(乙未事変)の後、反日運動の高まりで、当時の穏健派の首相、金弘集(Kin Hong Jip)は民衆によって虐殺され、皇帝の高宗は、一八九六年二月にロシア公使館に逃げ込み、李完用(Lee, Wan-yong)が親露派政権を樹立した。ロシア政府は、韓国への介入を強固にすべく、それまでの公使、カール・ウェーバー(Karl Ivanovich Weber)を一八九七年九月に更迭し、アレクセy・スペイヤー(Alexei Nikolaevich Speyer)を後任者に据えた。慎重な性格であったウェーバーは、ニコライ二世z(Nicholai II, Nicholai Aleksandrovich Romanov)に疎んじられていたのである。後任のスペイヤーは、事実、性急に事を運ぼうとした。

 スペイヤーは、李完用政権に命令して、ブラウンを解任させた。この時、英国海軍が軍艦を済物浦(Chemulpho、現在の仁川)港に入港し、ロシアに軍事的圧力をかけたことによって、ブラウンを復帰させたとの記述がある。ブラウンの指揮下でヨーロッパ人たちが税関業務を担っていたというのである(ibid., pp. 4-5)。単なる顧問ではなく、税関長であるということは、非常に大きな歴史的意味を持っている。

 英国人が税関長のポストを確保できるようになったのは、アヘン戦争の勝利による。この戦争によって、英国は香港租借以外に、清の多くの茂名とを開港させたばかりでなく、清から関税自主権を奪い、税関業務を英国が掌握したのである。韓国開港とともに、英国は韓国の関税業務をも掌握したのである。

 ロバート・ハート(Robert Hart)というブラウンの上司がいた。ハートは、太平天国の乱(Taiping Rebellion、一八五二~六四年)が燃え上がっていた一八五三年に、一九歳の時に駐清英国領事館の助手兼通訳として、中国の地を踏み、後、義和団事変(Boxer rising、一九〇〇年)、清王朝の崩壊を目撃している。香港、寧波(Ningbo)、広東(Guangzhou、Canton)の英国領事館勤務を経験した、一八五九年に領事館を辞め、広東税関の副長官になる。一八六三年には清政府税関長(Inspector General of the Chinese Imperial Maritime Customs Service)に抜擢され、一九一一年の死去まで四八年間も税関長を務めた。

 税関長官という重要ポストが外国人に委ねられたのは、貿易港が、外国人による治外法権地域であったことと、関税率が外国人の話し合いによって決められていたからである。中国人に発言力はなかったのである。

 しかも、海関税収入を集める権限を英国が持つということは、それが清政府収入になるので、税関長官は清政府の財政顧問とおいう役割をも担っていた。関税収入は、郡の近代化、鉄道敷設、郵便システムの構築などに投じられた。そして、税関の管理は完全にハートの手に握られていたのである。清に与えるハートの影響力の大きさがここからも分かる(http://www.sacu.org/hart.html)。

 そして、ブラウンが韓国の税関長になったのは、ハートの推薦による。ブラウンは、一八三五年、アイルランドのリスボンに生まれた。一八七三年清の税関に入り、翌七四年広東税関副長官になった。朝鮮の開港とともに、韓国税関部長、皇帝、高宗の財政顧問となり、一八九三年に税関長になる。日本政府もこの人事を承認した。しかし、一八九五年閔妃殺害事件があてから、皇帝はロシア公館に逃亡するが、その際、辛うじて、ブラウンに条約締結の全権限を与えるという書面に署名できた。ロシアにとってこれは痛手であった。皇帝を掌中にしたのだから、韓国はロシアの支配下に入るはずであった。事実、親露政権もできた。しかし、皇帝の勅許状を持つブラウンの存在は、ロシアにとって邪魔であり、ロシアはブラウンを一九〇一年に排除した。しかし、上述のように、英国海軍の圧力によって、ブラウンはいったんは税関長の地位を保全されたが、日露戦争で勝利した日本が本格的に韓国を支配するようになって、一九〇五年八月、ブラウンは韓国を去った。一九一三年、ブラウンは駐ロンドン中国公使の顧問となり、一九二六年の死まで、その職に留まり続けた(http://www.worldlingo.com/ma/enwiki/en/John_McLeavy_Brown)。


 二 日英同盟と関税自主権の完全回復


 義和団事変以後、中国大陸からなかなか撤兵しないロシアを巡って日本の指導者たちは二つに分かれていた。立憲政友会の伊藤博文や「三井の大番頭」の井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていた。他方、山縣有朋、桂太郎、「三菱の大番頭」の加藤高明らはロシアとの対立は避けられないとの立場から、英国との同盟論に傾斜していた。結果的に、日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎の交渉により日英同盟が締結された。

 第一次日英同盟における内容は、交戦時の中立条件を決めたものであり、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針を伝え、英国は好意的中立を約束した。

 一九〇五年の第二次日英同盟では、英国のインドにおける特権と日本の韓国に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに、互いに戦争で助け合うとした攻守同盟を定めた。

 一九一一年の第三次日英同盟では、米国を交戦相手国の対象から外した。これは日本、英国、ロシアのを強く警戒する米国への配慮を示したものであった。また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。

 一九二三年、いわゆる四か国条約で、米国の強い要請で日英同盟は解消させられた。この年、一八九四年改訂以来の通商条約改定がなされた(http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist2_4_7.htm)。


野崎日記(355) 韓国併合100年(33) 朝鮮総督府と鉄道問題(1)

2010-12-13 00:23:54 | 野崎日記(新しい世界秩序)


はじめに


  英国陸軍中将のエドウィン・コレン(Sir Edwin Collen, Lietenant-General)が、カナダ人ジャーナリストのF・A・マッケンジー(F. A. McKenzie)の文書、『韓国における日本の植民地支配』(McKenzie[1906])を紹介している。

 マッケンジーは、『デイリー・メール』(Daily Mail)のアジア特派員であり、一九〇三年に日本と韓国を訪れた。韓国訪問は日露戦争勃発の数日前であった。韓国滞在中に、日露海戦に遭遇した。仁川(Inchon)沖海戦がそれである。マッケンジーの文書では、この海戦は、済物浦の戦い(Battle of Chemulpho)と表記されている。済物浦とは、仁川の港の名前であり、日本統治下前の仁川の旧称である(1)。

 日清戦争によって大韓帝国ができた。それまでの朝鮮国は、一八七五(明治八)年の江華島(Ganghwa-do)事件により、翌一八七六(明治九)年に日本の圧力で「日朝修好条規」(2)を結ばされた。それはひどい不平等条約であった。一八八二(明治一五)年、壬午事変(Im-Ogunran)(3)が起こり、日本と清の両国はこれを鎮圧することを理由として出兵、日本と清が対立し、一八九四(明治二七)年に日清戦争が勃発した。一八九五(明治二八)年に日本の勝利で下関条約が締結した。この条約により、日本は清国に対する貢・献上・典礼等を廃止させた。朝鮮国王の高宗は、一八九七年、国号を大韓帝国と改め、自らをそれまでの国王ではなく皇帝と名乗ることになった。

 当時、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島にも利権を拡大していた。閔妃は、ロシアに、鍾城(Chongsŏng)の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税取得権などを売り払った。あわてた日本政府がこれを買い戻したが、日露は対立し続けた。

 ロシアは、一八九八年に旅順・大連を清から租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置した。

 一九〇〇年、義和団事変を契機にロシアは満洲の全土を占領下に置いた。日英米がこれに抗議し、ロシアは撤兵を約束したが、撤兵の履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図った。ロシアの南下に危機感を募らせていた英国は、ボーア戦争で財政難に陥っていて、対ロシアの軍事行動を起こせなかった。そこで、英国は、一九〇二年に日英同盟を結ぶことになった。日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。

 一九〇三年四月二一日、山縣の京都の別荘・無鄰庵(むりんあん)で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が行われ、戦争も辞さないとの合意が成立したとされている(徳富[一九六九]、一三九~四一ページ)。

 一九〇三年八月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、ロシアは、韓国における利権を確保しようとしていたロシアはそれを拒否、一九〇四年二月六日、外務大臣・小村寿太郎がロシアの公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。

 日露戦争勃発が不可避と判断した韓国は、「局外中立宣言」を出した。これに対して、一九〇四年二月二三日、韓国における軍事行動を可能にすべく、日本政府は韓国に日韓議定書を押し付けた。開戦後の八月には第一次日韓協約を締結し、韓国の財政、外交に顧問を置き、条約締結には日本政府の許可を必要とさせた。

 日露戦争は、一九〇四年二月八日、旅順(Lu sun)港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。さらに、日本海軍・第三艦隊の巡洋艦群が、仁川港外でロシアの巡洋艦を砲撃し(仁川沖海戦)、二月一〇日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。

 マッケンジーは、黒木為(くろき・ためもと)大将率いる日本陸軍の第一軍と行動を共にしたMcKenzie[1906], p. 1)。この軍は、朝鮮半島に上陸し、一九〇四年四月三〇日、安東(Andon、現・丹東、Dandon)近郊の鴨緑江(Yalujiang)岸でロシア軍を破り(鴨緑江会戦)、そのまま進軍を続けて、八月には満州の拠点、瀋陽(Shenyang)を落としている。

 一九〇五年に、マッケンジーは一度英国に帰国したが、その年、再度、極東に来て、日本、韓国、中国北部を旅行している。韓国情報を提供したのは、伊藤博文を統監とする韓国統監府であった(ibid.)。

 韓国統監府は、大韓帝国を日本の保護国にすることを定めた、一九〇五(明治三七)年一一月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって設置されたものである。