消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(373) 韓国併合100年(51) 日英同盟(2)

2010-12-30 14:42:06 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 大隈が伊藤博文がまだ外遊中から帰国しないうちにいち早く祝賀会を開いたのも、政友会(立憲政友会)への対抗意識からである。当時の衆議院での第一党は伊藤博文を党首とする政友会であった。衆議院議員二九七名中、政友会は一五五名を占めていた。それに対して憲政本党は六九名しかなかった。しかも、政友会の伊藤は日英同盟に懐疑的であったために、街湯中の伊藤の真意を確かめることのできない政友会は身動きが取れなかった。大隈はこれを利用したのである(片山[二〇〇三]、七六九ページ)(3)。

 伊藤博文が日英同盟への批判者であるというのは、政党間の対立から作り出された捏造であろう。伊藤は、ロシア、ドイツ、英国という複数の国との協調路線を目指していたのであり、英国との単独同盟だけでは、満州、韓国における日本の権益を護ることが困難であるという全方位外交を目指していたのであろう。しかし、彼が携わっていた日露協商は秘密交渉であり、国民には途中経過は知らされてなかったし、伊藤の母体である政友会自体でさへ、伊藤の真意は分からなかった。伊藤が受けたロンドンでの厚遇ぶりが知らされてやっと、伊藤は日英同盟反対論ではないことに気付いてはいたが、それでも、伊藤自身の口から真意を聞かないかぎり、軽々に同盟成立祝賀会を開けなかった。そうしたこともあって、日英同盟直後の世間の伊藤評価は厳しかった(「伊藤侯と日英同盟」、『日本』一九〇二年二月一四日付。片山[二〇〇三]、七七一ぺージ)。日英同盟成立による天皇陛下万歳の声が全国にこだまするようになった情況では、伊藤は苦しい立場に追いやられていた。

 ロシアとの協調を訴えていた伊藤は、「恐露病」と揶揄されていたという(片山[二〇〇三]、七七一ページ)。事実誤認であるが、『都新聞』(一九〇二年二月一六日付)は、「日英同盟と伊藤侯」というタイトルで、伊藤が第四次政権時に、英国からの同盟の申し入れに二度も断ったと報じている。しかし、そうした事実はないと片山慶雄はいう(片山[二〇〇三]、七七二ページ)。伊藤が日英同盟に反対していたという、こうした決めつけは、東大医学部教授であったベルツまでが共有していた。親露派の伊藤が、ロンドンで日英同盟を推進したとはありえないことであると断じたのである(一九〇二年二月一七日付ベルツの日記、ベルツ[一九七九]、二四六ぺージ)。

 上記で指摘したように、大国英国を日本に振り向かせたという歓喜が、稚戯に等しい飲食を伴う万歳三唱の渦を全国に蔓延させたのであるが、それに立腹する人たちも中にはいた。幸徳秋水は日本人の外交感覚の幼さを嘆いた(「国民の対外思想」、『長野日々新聞』一九〇二年三月二八日付。片山[二〇〇三]、七七六ページ)。

 伊藤博文の関与があるのではないかと片山慶雄が推測する(片山[二〇〇三]、七八三ページ)『二六新報』は、ロシアやフランスとの協商を容易にする手段として日英同盟を結ぶのならいいが、ロシアを牽制するだけの日英同盟への懐疑論を展開した(「日英同盟と英露同盟」、『二六新報』一九〇二年一月七日付。片山[二〇〇三]、七八二ページ)。

 『万朝報』の日英同盟批判は激しかった。匿名記事ではあるが、幸徳秋水の死筆であろうと片山慶雄は推測している(片山[二〇〇三]、七八四ページ)。同新聞は以下のような批判を打ち出した。英国は、これまでの栄光ある孤立政策を維持できなくなったから日英同盟を結んだのである。英国を攻撃する可能性のある複数の国が出てきたからである。つまり、同盟を結んでしまったことによって、日本は自国の権益を保証されるどころか、英国の戦争に巻き込まれる可能性が高くなったのである。英国の方が日本よりも同盟利益は大きい。また、同盟が締結されたことで、将来日本の軍備が増強し、増税につながる流れができるであろうと批判した(「日英同盟条約(上・下)」、『万朝報』一九〇二年二月一四、一五日付。片山[二〇〇三]、七八四~八五ページ)。 

 『万朝報』は、内村鑑三の日英同盟批判も掲載している。内村は英国を信頼でき9ない国として切って棄てる。ボーア戦争を見ても、英国は弱小国を利用し尽くして結局裏切る。英国は利益のみを求め、義理も人情も持たない。「弱国に対する英国の措置は無情愧恥傀恥の連続である。そうして日本人が同盟条約を締結したとて喜ぶ国は此無情極る英国である」(「日英同盟に関する所感(上)」、『万朝報』一九〇二年二月一七日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 内村は、日本の軍事侵略的体質を、日英同盟がさらに推し進めてしまうという。日本は、すでに朝鮮、遼東、台湾で大罪悪を犯しているのに、「今や英国と同盟して罪悪の上に更に罪悪を加えた」ことになる。そして、日英同盟は「罪悪であることを明言する」と内村は断言した(「日英同盟に関する所感(下)」、『万朝報』一九〇二年二月一九日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。ボーア戦争の経緯を見ても、英国は小国を利用し尽くして棄て去る国であり、最終的には、世界は、二、三の「強国の専有する所」となる帝国主義に突入するという危機感を訴えた(「杜軍の大勝利」、『万朝報』一九〇二年三月一六日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 一九〇二年四月八日、ロシアは清との間で「露清満州還付条約」を結んだ(4)。この条約は、半年ずつ、三回に分けて満州からロシア軍を撤退させるという密約であった。これは、露仏条約の延長でしかないが、当時の日本人は、この条約が日英同盟の成果と受け取ったのである。『日本』(一九〇二年四月一一日付)は、「満州問題の落着」と題した記事で、日英同盟が満州問題の解決を促したと日英同盟の存在を絶賛したし、『東京朝日新聞』(「満州還付条約調印」一九〇二年四月一一日付)、『毎日新聞』(「満州条約の調印、東洋平和の確保」一九〇二年四月一一日付)、『東京日日新聞』(「満州還付」一九〇二年四月一〇日付)等々、多くの新聞が同様の見解を表明した(片山[二〇〇三]、七八八ページ)。日英同盟批判の論陣を張っていた『二六新報』ですらロシアのバルチック艦隊が日本を襲撃しようとしても、スエズ以東の港は英国の許可なしに利用できないので、艦隊は補給面で日本攻撃が困難になるだろうとの理由で日英同盟を肯定的に評価するようになった(「海軍拡張」一九〇二年八月二五日付。片山[二〇〇三]、七九一ページ)。

 本稿注(1)に見られるように、日英同盟の全文に「極東全局の平和」が謳われ、第一条で日本が韓国において格段の利益を持つことが明記されたことは、「極東の平和」のために、韓国を侵略することの正当性を与えられたものと日本政府と軍部は解釈したがっていた。『万朝報』などがその論陣を張った(「清韓の経営」一九〇二年四月九日付、「韓国電線と日露」一九〇二年五月二六日付。片山[二〇〇三]、七九二ページ)。

 『毎日新聞』は、露骨に朝鮮人は無能なので、彼の地を発展させるためには、日本人の経営に委ねるべきであると主張した(「日韓間の経済的関係」一九〇二年六月八日付)。日英同盟は、日本の韓国進出を促したものであるとの解釈を示したのが『国民新聞』であった(「日英同盟及其将来(二)」一九〇二年四月一二日。片山[二〇〇三]、七九三ページ)。