消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(367) 韓国併合100年(45) 韓国併合と米国(3)

2010-12-25 23:02:44 | 野崎日記(新しい世界秩序)
 この決議は当時の日本領事・珍田捨巳(ちんだ・すてみ)らの運動によって取り消されたが、日本人排斥の動きはその後も活発になった。一九〇一年、カリフォルニア州とネバダ州の州議会が「日系移民を制限せよ」との建議書を連邦議会に送った。一九〇五年にはサンフランシスコに「日韓人排斥協会」(Japanese and Korean Exclusion League、後にアジア人排斥協会、Asiatic Exclusion Leagueに改名)が組織された。

 一九〇六年、またしてもサンフランシスコ学務局で以前と同じ決議が下された。日本人生徒を公立小学校から隔離し、中国人学校に編入させるという決定である。今度の理由は、同年起こったサンフランシスコ大地震の被害で学校のスペースが足りなくなっからというものだった。しかし、当時公立学校に通っていた日本人学生の数は、わずか、九三名であり、うち、二三名は米国生まれであった。残る六八名のうち、一五歳以下が三六名であった(Wilson & Hosokawa[1980], p. 53)。その意味で、一七歳以上の日本人生徒が多すぎるという当局の主張は言い掛かりでしかなかったのである。

 日系移民たちは、直ちに抗議運動を展開した。日本本国のマスコミに、この事件と、各地で頻発していた日本人経営レストランへのボイコット、日系人襲撃事件などが知らされた。

 日本贔屓のセオドア・ローズベルトは、迅速に行動した。公立学校から日本人を締め出すという行為は、日米通商航海条約に抵触するとして、サンフランシスコ市に学童隔離の撤回を命じ、一九〇七年、日本人生徒は復学を許された。
 しかし、その一方で、ローズベルトは、一九〇七年三月、大統領令(Executive Order)を出し、ハワイ、メキシコ、カナダからの日本人の転航移民を禁止した。サンフランシスコの学童隔離問題は、結局、移民制限という形で決着させられたのである。

 日本政府は、このような移民排斥に強硬に抗議しなかった。それどころか、移民排出を自主的に制限してしまったのである。日本政府は、一九〇八年、「日米紳士協約」(Gentleman's Agreement)なる取り決めを米政府と結んだ。これは、一般の観光旅行者や留学生以外の日本人に米国行き旅券を日本政府は発行しないというものであった(http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/shinshi.html、2010年7月14日アクセス)。この紳士協定による自主規制の結果、以後一〇年ほどは、日本人移民の純増はほとんどなくなった。

 当時の駐米・日本大使は、埴原正直(はにはら・まさなお)であった。埴原は、一八九八年、外交官試験に合格し、同年、東京専門学校(現在の早稲田大学)内で、日本で最初の外交専門誌『外交時報』を創刊した。翌年領事館補となり、廈門 (Amoy)領事館に赴任。一九〇二年、駐米日本大使館の外務書記官補となりワシントンに赴任。五年後二等書記官となる。米国内の反日感情が高まりつつあった一九〇九年、埴原はコロラド、ワイオミング、ユタ、アイダホ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、テキサスの八州を回って日本人居留地を視察した。日本人町が排日論者たちの目にどう映っているのかを探るもためであった。視察は二か月以上にわたった。自らの足で日本人町を歩き、時には変装までして売春宿に潜入した埴原は、調査結果を「埴原報告」と呼ばれるレポートにまとめ、外務大臣の小村寿太郎宛に送った。これを読んだ外務省は、その内容に衝撃を受け、この「埴原報告」を機密文書扱いにして封印した。埴原のレポートには、日本人町の不衛生さ、下賤さ、卑猥さを赤裸々に綴られていたからである。

 日米紳士協定に話を戻す。紳士協定には「米国既在留者の家族は渡航可能」という条文があった。これが後に問題になった。当時の日本人は見合い結婚が一般的であった。親や親戚の薦めで、日本人の独身者たちは、写真を見ただけで結婚をしていた。花嫁が旅券発給を受けて入国していたのであるが、これが、米国人には「写真結婚」という擬制によって、日本人が不法移民をしているというように映った。見合結婚の習慣のない米国人にとってこの形態は奇異であり、非道徳的なものであった。カリフォルニア州を中心としてこの形態が攻撃された。米国で出生すれば、子供は、自動的に米国市民権を得ることができるので、日系人コミュニティーがより一層発展定着することへの危機感があった。結局、写真結婚による渡米は日本政府によって一九二〇年に禁止されることになった。また、一九二一年には、土地法改正により、外国人による土地取得が完全に禁止された。

 この一九二一年には、米国で「移民割当法」(Quota Immigration Act)が成立している。国勢調査に基づく出身国別居住者数に比例した数でのみ各国からの移民数を割り当てるとしたのである。認められるとしていた。
 そして、一九二四年、日本人移民の排斥を目指す法案が議会で審議されることになった。反日意識の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第一三条C項を「一八七〇年帰化法」(Naturalization Act of 1870)に追加する提案がなされたのである。一九七〇年帰化法には、自由な白人、アフリカ系黒人の子孫のみが米国人に帰化でき、他の外国人は帰化できない「帰化不能外国人」(Aliens Ineligible to Citizenship)という定義がなされ、、帰化不能外国人の移民は制限されていた。しかし、一九二〇年代には、日本人を除いて全面禁止になっていた。第一三条C項は、移民制限の徹底化であるが、当時、帰化不能外国人でありながら移民を認められていたのは、日本人のみであったから、実質的にはこの条項は日本人を対象としたものであった。

 米国務長官・ヒューズ(Hughes)が、こうした議会の動きを牽制するために、日本政府は日米紳士協定によって、対米移民を制限しているという事実を議会に説明すればよいと植原

野崎日記(366) 韓国併合100年(44) 韓国併合と米国(2)

2010-12-25 22:53:34 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 パナマ運河の領有権の取得も、セオドアの武断外交の事例であった。

 一八一九年、コロンビア共和国がスペインから独立したが、内戦が絶えず、二〇世紀に入っても政情は安定しなかった。当時のコロンビア共和国は、現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマのすべてと、ペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家であったために、広大な領土の各地で分離を求める紛争が発生し、幾多の国家の離合集散が繰り返されていた。

 そして、一八九九年から一九〇二年にかけて、パナマのコロンビアからの分離独立を巡る、いわゆる千日戦争が勃発した。この内戦での戦死者は一〇万人に達したとされている(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/andes/colomb2.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

 この内戦で、一九〇〇年一一月、米海兵隊が米国市民の保護とパナマ鉄道会社の運行確保のためパナマに上陸.二週間にわたり、コロンビア領に属していたパナマを占拠した。一九〇二年九月にも米海兵隊が派遣され、二か月にわたり占拠を続けた。同年一二月、フランス政府がパナマ運河会社を米国に譲渡することを決定。一九〇三年、パナマがコロンビアから独立。同年一月、コロンビアと米国との間でヘイ・エルラン条約(Hay-Herran Treaty)が調印され、一〇〇〇万ドルの一時金と年二五万ドルの使用料で、一〇〇年にわたる運河建設権、運河地帯の排他的管理権を米国が得た。条約更新の優先権は米国にあり、コロンビアは、米国以外の国に運河を譲渡できないなど、この条約は、コロンビアにとっては、屈辱的な内容であった。この内容に怒った正式のコロンビア大使は交渉を打ち切り、コロンビアに帰国してしまったが、大使に同行していていたトーマス・エルラン(Dr. Tomás Herrán)が代理大使として条約に調印してしまったのである。米国側の交渉責任者は、国務長官のジョン・ヘイ(John M. Hay, 1898~1905)であった。

 一九〇三年八月、コロンビア政府が議会にヘイ・エルラン条約の批准を求めたが、すべての議員がこの条約に反対し、一〇月には、条約批准を拒否した。
 同年一一月、セオドア・ローズベルトは、コロンビアを「腐敗した虐殺者の猿ども」と罵り、コロンビア政府の許可なしでも運河建設を強行すると述べた。それに呼応して、コロンビアからの独立を求めるパナマ革命委員会が反乱を開始し、セオドアも、軍艦四隻をパナマに派遣して革命委員会を支援した。反乱は成功し、臨時評議会政府が、パナマ共和国の独立宣言。同年一一月五日、米政府は直ちに新政府を暫定承認し、コロン市とパナマ市に軍艦九隻を配置してコロンビアを威圧、さらに海兵隊がパナマに上陸。六日、コロンビア軍が米軍の圧力に屈してパナマから撤退。同日、米政府は正式にパナマ新政府を承認した。

 一九〇三年一一月一八日、パナマ運河条約(Panama Canal Treaty=Hay/Bunau-Varilla Treaty)締結。ただし、この交渉にはパナマの革命委員会は排除され、レセップスの下で働いていたフランス人のビュノー・バリーヤ(Bunau-Varilla)だったのである。米国とフランスとの密約であり、パナマ人はあずかり知らぬことであった(5)。

 米国はパナマ政府から運河建設・運営権、幅一六キロ・メートルの運河地帯の一〇〇年間にわたる使用・占有・支配する権利を獲得。米国はパナマの独立を保障し、国内に混乱が生じた際には介入する義務を負うという内容であった。また、「パナマの完全な独立は米国により保障されるため、独自の軍を持つ必要はない」とされた。

 一九〇四年二月、パナマ議会が運河条約を批准.米上院もまもなく運河条約を批准.バリーヤはただちに全権大使を辞任しフランスに去った。ジョン・モルガン(John T. Morgan)上院議員や、 ウィリアム・マックドゥー(William MacAdoo)下院議員などは、パナマ「独立」は、セオドアの陰謀であると非難した(         http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/mesoam/panama.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。
 ただし、セオドアは典型的な武断外交の展開者ではあったが、バランス・オブ・パワー論者でもあった(Parker, Tom, "The Realistic Roosvelt, " The National Interest, Fall 2004, http://www.theodoreroosvelt.org/life/foreignpol.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

 例えば、彼は、日本とロシアとの間に適切なバランスが必要であると認識していた。一九〇四年に旅順港(Port Arthur)を陥落させた日本軍の勝利を喜びつつも、共和党上院銀のヘンリー・ロッジ(Henry Cabot Lodge)宛の書簡で、「ロシアが勝利していたら、文明にとって打撃であったが、ロシアが東アジアにおける列強の地位を失ってしまっても、不幸なことであると私は思います。ロシアが日本と正面からぶつかるよりは、相互に穏やかな関係を保つのがもっともよいのです」と語った(上記ウエブサイトより)。ロシアが領土を放棄し、日本も賠償を求めないという和平条約を結ばせたことで、セオドアが米国人初のノーベル平和賞(Nobel Pease Prize)を受賞したのも、アジアにおけるバランス・オブ・パワーを維持したからであると、このサイトでトム・パーカー(Tom Parker)は指摘した。

 ちなみに、日露戦争時のセオドアは、ハーバード大学の同窓生であった金子堅太郎の影響もあって、かなりの日本贔屓であったらしい(6)。

 二 高まっていた米国の反日感情

 セオドアは別にして、一九世紀末の米国では、排日気運が高まっていた。本土に流入する日本人が増加していたことへの米国人の嫌悪感があった。統計的には、日本から米国本土に直接に渡航する日本人移民の数は、多くはなかったのだが、ハワイやメキシコを経由して米国本土に入国する転航移民が多かったのである。一八八五年に日本政府がハワイへの契約移民を正式に認めてから、ハワイへの移民は増えていた。

 米国政府は、一八八二年の排華移民法(Chinese Exclusion Act of 1882)によって中国人の移民を停止させた。その後に、日本人移民排斥運動が起こったのである。

 一八九三年、サンフランシスコの市教育委員会が、市内の公立学校への日本人生徒の入学を拒否する決定をした。「日本人生徒の年齢が他の生徒より高い」というのがその理由であった。学校に入学する日本人移民は、英語を学ぶために、実際の年齢よりも低いクラスに入る。当時一七歳以下の児童には一人当たり九ドルの補助が政府から下りていたが、一七歳以上の日本人生徒が多い学校は補助を得られなかった(伊藤[一九六九]一五ページ)。