消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(263) オバマ現象の解剖(11) オバマ現象(3)

2010-01-29 22:02:21 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 二 バラク・オバマの経歴と閣僚人事のもたつき


 オバマは、一九六一年八月四日に、ハワイ州ホノルルで出生。実父のバラク・オバマ・シニア(Barack Obama, Sr.)(一九三六~八二年)はケニア出身。母親はカンザス州ウィチタ(Wichita)出身の白人、アン・ダナム(Stanley Ann Dunham)。上記の演説にもあるが、父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。二人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、一九六一年二月二日に結婚。

 息子のオバマ自身は現在プロテスタントのキリスト合同教会(United Church of Christ)に属していた(大統領選中に離脱)が、父はムスリム。ただし、ほとんど無宗教に近かった。

 両親は、一九六四年に離婚。ハワイ大学とハーバード大学を出た父は一九六五年にケニアに帰国し、政府のエコノミストとなる。一九八二年に自動車事故で亡くなった。四六歳であった。

 母は、離婚後に人類学者となり、その後ハワイ大学で知り合ったインドネシア人の留学生(のちに地質学者となったロロ・ソエトロ(Lolo Soetoro)と再婚する。

 一九六七年に、ソエトロの母国であるインドネシアで、スハルト(Suharto、一九二一~二〇〇八年)による軍事クーデター(九月三〇日)が勃発し、海外留学していたインドネシア人は、母国に呼び戻され、一家はジャカルタに住むことになった。子オバマは六歳から一〇歳までジャカルタで育った。一九七一年、子オバマは、母方の祖父母と暮らすためにホノルルに戻り、地元の有名私立小中高一貫のプナホウ・スクール(Punahou Schoo)に編入学し、一九七九年の卒業まで五年間の教育を受けた。

 一九七二年に、母のアンがソエトロと一時的に別居し、実家のあるハワイ、ホノルルに帰国、一九七七年まで滞在。同年、母は子オバマをハワイの両親に預け、人類学者としての仕事をするためにインドネシアに移住し、一九九四年まで現地に滞在した。一九八〇年、アンとソエトロとの離婚が成立。母のアンはハワイに戻り、一九九五年に卵巣癌で亡くなった。

 子オバマは、高校を卒業後、カリフォルニア州ロサンゼルスの私立オクシデンタル・カレジ(Occidental College)に入学。二年後、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入。、政治学、とくに国際関係論を専攻。一九八三年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社やNPOのビジネス・インターナショナル(Business International Corporation)、ニューヨーク・パブリック・インタレスト・リサーチ・グループ(New York Public Interest Research Group)に勤務。四年間のニューヨーク生活のあと、イリノイ州のシカゴに転居。一九八五年六月から八八年五月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP=Developing Communities Project )の管理者として勤務。一九八八年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。一九九一年、同ロースクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(voter registration drive)に関わったのち、弁護士として法律事務所に勤務。一九九二年に、シカゴの弁護士事務所で知り合ったミシェル・ロビンソン(Michelle Robinson)と結婚。二人の娘をもうけた。

 一九九五年には、自伝(Obama[1995]を出す。シカゴ大学ロースクール講師として米国憲法を一九九二~二〇〇四年まで講じた。

 貧困層救済の草の根社会活動で頭角を現し、一九九六年、イリノイ州議会上院議員に選出され、二〇〇四年一月まで務めた。二〇〇〇年には連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。

 二〇〇三年一月、イリノイ州上院議員選挙に民主党から出馬表明、二〇〇四年三月に七人が出馬した予備選挙で五三%を獲得し、同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、二〇〇四年一一月には、共和党候補を得票率七〇%対二七%の大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上五人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上三人目)であったが、この時点で現職アフリカ系上院議員はオバマ以外にいなかった。

 二〇〇四年の米国大統領選挙では、上院議員のジョン・ケリーを大統領候補として選出した〇四年民主党党大会(マサチューセッツ州ボストン)の二日目(七月二七日)に上記で説明した基調演説をおこなった。この時点では、オバマは、イリノイ州議会上院議員の席を持っていたが、まだ米国上院議員ではなく、単なる民主党指名候補であった。「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じ米国に忠誠を誓う『米合衆国人』なのだ」と語った上記演説模様は、全米にテレビ中継され、長年の人種によるコミュニティの分断、二〇〇〇年大統領選挙の開票トラブル、イラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立、等々を憂慮する米国人によりこの演説は高い評価を受けた。

 二〇〇四年以降、二〇〇八年の米大統領選挙の候補として推す声が、地元イリノイ州の上院議員や新聞などを中心に高まっていた。そして、〇六年一〇月、NBCテレビのインタビューに「出馬を検討する」と発言。翌〇七年一月に、連邦選挙委員会に大統領選出馬へ向けた準備委員会設立届を提出(出馬表明)。米上院議員の一期目でまだ二年しか経っていなかった。まったくの新人が大統領指名候補に名乗り出たのである。正式立候補声明は、〇七年二月一〇日、地元のスプリングフィールド(Springfield)にて出された。

 出馬の演説で、オバマは、医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度を取り組みが必要な課題として挙げ、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけた(Full Text of Senator Barack Obama's Announcement for President, Springfield, IL, February
 10, 2007; http://www.barackobama.com/2007/02/10/remarks_of_senator_barack_obam_11.php)。

 オバマは、グローバル資本主義に懐疑的であった。グローバル資本主義こそが、米国内にブルーカラーを中心に大量の失業者を生んだ原因であると認識し、新自由主義経済政策の象徴である北米自由貿易協定(NAFTA)に反対し、国内労働者の保護を訴えるなど、主な対立候補となったヒラリー・クリントンよりもリベラルな政治姿勢を示していた。選挙選の最中、オバマが頼みとするトリニティ・ユナイテッド教会(Trinity United Church of Christ)の牧師たちによる相次ぐ失言(政敵ヒラリーを人種差別主義者だとして糾弾)に失望したオバマは、二〇年間在籍していた同教会から、〇八年五月三一日に、「私は教会を非難しないし、教会を非難させたがる人々にも関心がない」が、「選挙運動によって教会が関心に晒され過ぎている」として、教会から脱退した(Sweet[2008])。二〇〇八年一一月四日におこなわれた米大統領選挙で勝利したのちになって、オバマは、同月一六日、上院議員(イリノイ州選出)を辞任した(http://www.biography.com/articles/Barack-Obama
-12782369)。

 しかし、政権発足後、オバマが指名したスタッフらによる不祥事の発覚が相次いだ。財務長官(U.S. Secretary of the Treasury)候補のティモシー・フランツ・ガイトナー(Timothy Franz Geithner)、保健福祉長官(U.S. Secretary of Health & Human Services)候補のトム・ダシュル(Thomas Andrew Daschle)、行政監督官(Head of U.S. Government Accountability Office (GAO)候補のナンシー・キルファー((Nancy Killefer)に納税漏れが発覚した。ダシュルに至っては、支持者からのリムジン提供も批判された。議会から糾弾されたダシュルとキルファーは指名を相次いで辞退した。批判を浴びたオバマは、ダシュル指名を「大失敗」だったと認めて謝罪した(『朝日新聞』二〇〇九年二月五日付)。ガイトナーは時間がかかったが、議会の承認を得た。

 商務長官(U.S. Secretary of Commerce)候補も、指名者が次々に辞退するという失態劇が繰り返された。最初に指名されたビル・リチャードソン(William Blaine "Bill" Richardson III)は、献金を受けた企業が捜査対象となり、連邦議会での承認手続き前に指名を辞退した(産経デジタル、二〇〇九年一月五日)。

 次に指名された共和党員のジャド・アラン・グレッグ(Judd Alan Gregg)は、オバマとの政策的な対立が解消せず、指名を辞退した(産経デジタル、二〇〇九年二月一三日)。

 また、国家経済会議議長(Director of the National Economic Council)のローレンス・サマーズ(Lawrence H. Summers)が、米国のヘッジファンド大手のD・E・ショウ(Shaw)から顧問料として年間五二〇万ドル超の収入を得ており、さらにリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)やシティグループ(Citigroup)から講演料との名目で年間約二七七万ドルを受領していたことが、ホワイトハウスによる資産公開で明らかにされた(米山雄介「米経済会議サマーズ氏、ファンドから五億円、政権入り前、政策へ影響懸念も」『日本経済新聞』二〇〇九年四月五日付)。

 大統領選挙中、オバマは、子ブッシュ政権の外交官(特命全権大使)(11)人事に対して「政治利用しすぎる」(古森義久「オバマ論功人事?、新大使候補六割外交経験なし、大口献金者多く」『産経新聞』二〇〇九年七月六日付)と強く批判していた。しかし、オバマも同じであった。オバマが指名した特命全権大使のうち、職業外交官以外が占める割合は、子ブッシュ政権では三割程度に過ぎなかったのに対し、オバマ政権では六割を占めている(上記、古森記事)。過去の歴代政権と比較しても、その割合は突出している。実際、オバマに対する大口献金者が主要国大使に指名された。以下に紹介する各国駐在大使はすべて五〇万ドル以上を選挙資金として集めた人達である。

 駐日大使のジョン・ルース(John Victor Roos)は、その代表的な人物。上院議員になったばかりのオバマは、二〇〇五年初め、「バラク・オバマと会ってみませんか」という会合を始めた。サンフランシスコでの会合には、二〇〇四年の大統領選挙で敗れたケリー候補の大口献金者二〇人が集まった。ジョン・ルースもそのひとりだった。二年後の二〇〇七年、大統領選挙出馬を決めたオバマを応援するため、ルースは自宅にシリコンバレーの実業家ら一〇〇人を招き、一晩で三〇万ドルを集めた。カリフォルニア州北部の資金調達責任者となった。カリフォルニア州は全米で最多の資金を集めたといわれている(http://
www.zimbio.com/John+Roos)。

 弁護士のルースは、一九八五年に、当時は小規模だった法律事務所ウィルソン・ソンシニ・グッドリッチ&ロサティ(Wilson Sonsini Goodrich & Rosati=WSGR)入りした。ルースは、IT(情報技術)、電機、バイオ分野に強い企業金融の専門家として頭角を現した。グーグル(Google)やアップル(Apple)など大手企業だけでなく、ユーチューブ(Youtube)などベンチャー企業も顧客として開拓した。WSGRを有力事務所に成長させた同氏は、二〇〇五年には最高経営責任者(CEO)に就いた。同社は、五〇社以上の日本企業とも契約している(『日本経済新聞』二〇〇九年五月二一日付)。
 フランス大使は、ジム・ヘンソン・カンパニー(Jim Henson Company)という有名なプロダクション社長のチャールズ・リブキン(Charles Rivkin)。ソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)出身(http://diplopundit.blogspot.com/2009/05/officially-in-charles-rivkin-to-
paris.html)。

 英国大使は、シティグループ・グローバル・マーケット(Citigroup Global Markets)元副社長のルイス・サスマン(Louis Susman)。「電機掃除機」と称されるほど、04年のケリー陣営で莫大な資金を集めた達人である(http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/
northamerica/usa/barackobama/5401840/Profile-Louis-Susman-the-new-US-ambassador-to-Britain.
html)。

 英紙『タイムズ』(Times)は、「クローニー資本主義を批判してきたオバマが、大口献金者のトップ一〇人を各国大使に指名した」と痛烈に批判した(http://www.timesonline.co.uk/
tol/news/world/us_and_americas/article6376633.ece)。

 スイス大使は、米国外国車ディーラー連盟(American International Automobile Dealers Association)会長で、ボルボやローバーの販売店を経営しているドナルド・バイヤー(Donald  Beyer)。ボルボを扱っているので、スウェーデン大使にすればよかったのにと、新聞で揶揄された(http://www.washingtoncitypaper.com/blogs/citydesk/2009/04/07/don-beyer
-also-not-named-ambassador-to-swedenyet/)。

 そのスウエーデン大使には、著名インターネット企業、ブリックパス(Brickpath)代表のマシュー・バーザン(Matthew  Barzun)(http://thevillevoice.com/2009/06/19/just-announced
-ambassador-matthew-barzun/)。

 ベルギー大使のハワード・ガットマン(Howard Gutman)は、巨大法律事務所、ウィリアムズ&コノリー(Williams & Connolly)のパートナー(http://www.huffingtonpost.com/
howard-gutman)であった。