消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(265) オバマ現象の解剖(10) オバマ現象(2)

2010-01-28 21:56:40 | 野崎日記(新しい世界秩序)



 一 オバマ現象の発端となった〇四年七月の演説


 「『国の交差点』(crossroads of a nation)であり、リンカーン大統領を生んだ(Land of Lincoln)、偉大なイリノイ州(the great state of Illinois)の代表として、私に、ここで演説する栄誉を与えて下さったことに深い感謝の念を述べたいと思います」。(中略)
 「私が今このステージの上に立てることは、本当に驚くべきことです。私の父は外国からの留学生でした。彼はケニアの小さな村で生まれ育ちました。山羊飼いをしながら育ち、ブリキ屋根の掘っ立て小屋の学校に通いました。彼の父、つまり私の祖父は、英国人家庭の召使として働いていた料理人でした。しかし祖父は、息子に大きな夢を抱いていました。一所懸命勉強し努力して、私の父は魔法の土地(magical place)、米国で学ぶ奨学金を得ました。多くの先人にとって、自由と機会の象徴(beacon of freedom and opportunity)として輝いていた米国に。留学中に父は母と出会いました。母は、ケニアから見て地球の反対側、カンザスで生まれました。母方の祖父は大恐慌時に、石油採掘場と農場で働きました。真珠湾攻撃のあと、祖父は軍隊に入隊し、パットン隊(Patton's army)(5)としてヨーロッパに進軍しました。家では祖母が赤ん坊を育てながら兵器工場で働いていました。戦後、祖父母は『復員兵援護法』(G.I. Bill)(6)のお陰で学び、連邦住宅局(FHA=Federal Housing Administration)(7)を通して家を買いました。そして、機会を求めて西のハワイへと向かいました。彼らも、娘に大きな夢を託しました。共通の夢が、二つの大陸から生まれたのです。私の両親は、奇跡的な愛を分かち合っただけでなく、この国の限りない可能性への信頼も分かち合っていました。両親は私にアフリカの『祝福』という意味である「バラク」という名前を与えました。なぜなら寛大(tolerant)な米国においては、名前が成功を邪魔するものではないと信じていたからです」。(中略)

 「慈悲深い(generous)米国では、自らの能力を発揮するのに裕福である必要はないのです」。(中略)

 「今夜、私たちは、この国の偉大さを確認するために集まっています。偉大であるのは、摩天楼の高さでも、軍隊の力でも、経済力でもありません。私たちの誇りは、とても簡単明瞭な前提、つまり二〇〇年前の独立宣言に集約されています。私たちはこれらの真実を自明のものだと考えています。すべての人が、平等に造られ、奪うことのできない権利を授かっていると。人生において自由と幸福の追求する権利があると」。(中略)

 「そして親愛なる米国民の皆さん、民主党の皆さん、共和党の皆さん、無党派(Independents)の皆さん。私は、今夜、あなた方にいいます。われわれには、もっとしなければならないことがあります。たとえば、私がイリノイ州のゲールスバーグ(Galesburg)(8)で会った労働者たちのために。彼らは、メイタグ(Maytag)工場(9)がメキシコに移転したために、職を失ってしまいました」。(中略)

 「彼は、彼の息子の薬代のために毎月四五〇〇ドルをどうやって払ったらいいのかと悩んでいます。薬がないと息子さんの健康を保てないのです」。(中略)
 「誤解しないでいただきたいのですが、私が会った人々、小さな町や大都市で、食堂やオフィス街で会った人々は、政府に彼らの問題のすべてを解決して欲しいといっているわけではないのです。彼らは、前進するのに努力しなければいけないことはよく知っていますし、そうしたいのです」。(中略)

 「彼らは知っています。両親が教えなければならないことも、子供に期待をかけ、テレビを消し、若い黒人が本を持っているとは白人のようなおこないだという誹謗中傷を撲滅しなければ、子供が成長できないことも」。(中略)

 「人々は、政府にすべての問題を解決して欲しいなどとは望んでいません。ただ、彼らは、心の奥底で、優先順位を少しだけ変えて欲しいと感じているのです。私たちは、できる(we can)はずです。米国のすべての子供がきちんとした人生を送ることができ、機会がすべての人にきちんと開いているようにすることを。彼らは、私たちがよりよくできることを知っているのです。彼らはそれを選択したいのです」。(中略)

 「ジョン・ケリー(John Forbes Kerry)(10)は信じています。厳しい労働が報いられる米国を。彼は、仕事を海外に移転する企業が税金を逃れる代わりに、企業がここで仕事を作り出すことを勧めています」。(中略)

 「ジョン・ケリーは信じています。すべての国民が、ワシントンの政治家と同じ医療保障を受けられる米国を」。(中略)

 「ジョン・ケリーは信じています。エネルギーの自立を。そして石油会社の利益や産油国の妨害行為の犠牲にならないことを」。(中略)

 「ジョン・ケリーは信じています。憲法で保証された自由を。それは、世界から羨望のまなざしを受けています。そして、彼は、絶対に基本的自由を犠牲にしたり、われわれを分かつ楔として信仰を利用しないでしょう。ジョン・ケリーは信じています。危険な世界情勢において、戦争は、時々の選択肢の一つにはなるものの、第一の選択肢であるべきではないことを」。(中略)

 「ジョン・ケリーは米国を信じています。そして彼は知っています。それは何人かが繁栄するだけでは不十分だということを。米国は個人主義で有名ですが、米国の歴史の中には、別の要素があります。私たちはすべて、一つの国民としてつながっているのです」。(中略)

 「われわれが夢を追い、一つの米国の家族として結集することを、ケリーは信じています」。(中略)

 「ケリーは信じています。ここにはリベラルの米国も保守の米国もなく、米合衆国があるだけだと。黒人の米国も白人の米国もラテン人の米国もアジア人の米国もなく、米合衆国があるだけだと」。(中略)

 「イラク戦争に反対した愛国者も、イラク戦争を支持した愛国者も、私たちはみな、星条旗に忠誠を誓っています。私たちはみな、米合衆国を守っています」。(中略)

 「私は盲目的な楽観主義に与して話しているわけではありません。失業はいつかどこかに消えてなくなると楽観したり、問題を意図的に無視するつもりは私にはありません。医療の危機は、無視することによって、解決されるものではないでしょう。私が話していることは、そんなことではないのです。私が話しているのは、もっと実質的なことです。それは、火の回りに座り自由を歌う奴隷たちの希望であり、遠い国々へ旅に出る移民の希望であり、メコンデルタを勇敢にパトロールする若い海軍大尉の希望であり、不平等に屈服しない工場労働者の息子の希望であり、米国に自分の居場所があると信じるやせこけた奇妙な名前の子供(オバマ)の希望なのです。その希望とは、困難をものともせず、不確実性をものともしない希望です。希望がもたらす大胆さ(the audacity of hope!)を、私は、語りたいのです」。(中略)

 「私は信じています。われわれが中産階級に安心を与え、労働者階級に機会を与えられると。私は信じています。私たちが無職の人に仕事を与え、家のない人に家を与えることができると。暴力と絶望にある都市の若者を更生させることができると。私は信じています。私たちは正義の追い風を受け、この歴史の転換点に、正しい選択ができることを。そしてわれわれが直面する難題に立ち向かうことができることを」(
http://www.
americanrhetoric.com/speeches/convention2004/barackobama2004dnc.html)。

 以上がオバマを有名にした〇四年七月の演説の要旨である。貧富格差に苦しみ、正義がなくなりつつある米国を、自由・機会・繁栄という共通の価値観の下に、すべての人々に開かれた国にすべく、人々は連帯しようという、非常に分かりやすい言葉で語ったオバマの演説は、聴衆を驚喜させた。この「自由・機会・繁栄」というキーワードは、建国の理念であり、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の一九五一年の議会への年次報告でも用いられたように(Truman[1951])、多くの歴代大統領が繰り返し唱えてきたものである。