英国の初期の競馬のスタイルは、一対一の勝負であった。馬主の貴族が自ら騎乗して、相手と競走するというもので、「マッチ・レース」と呼ばれた。
1377年、ニューマーケット競馬場で、リチャード2世が、まだプリンス・オブ・ウェールズという皇太子時代に自ら騎乗して、同じく自ら騎乗するアランデル伯という貴族と一騎打ちの勝負をしたという記録が残っている(http://homepage3.nifty.com/hr-univ/class/history/race.htm)。
このマッチ・レースを行うさいに、先述のように、馬主(この場合、2人)が供出する出馬登録料が「ステークス・マネー」と呼ばれていた。勝った方が、供出されていた登録料を頂くのである。マッチ・レースは1回勝負である。
このマッチ・レースが、複数の出場馬に次第に取って代わられる。 ただし、1回勝負であることには変わりはない。
出場馬数が多くなると、1頭当たりの出馬登録料を安くすることができるし、優勝場の馬主が登録料のすべてを獲得するという決まりを変えなければ、優勝場の馬主の取り分は、マッチ・レースよりもはるかに大きくなる。
登録料を賞金として優勝馬主が独り占めすることを認めたレースは、「スウィープ・ステークス」(sweep stakes)という。
この言葉が転じて、現在でも使われている、複数の馬が1回限りの勝負を行う競争スタイルを、単に「ステークス」と呼ぶようになったのである。つまり、ステークスとは、競走のスタイル名であると同時に、賭け金の分配方法を表す競馬用語だったのである。
賭け金の話からは横道に逸れるが、「ヒート制」という競走スタイルもあった。同じ条件、同じ出場馬で数回競走し、一位の回数の多い馬を優勝とするものである。スタミナを競う、文字通り「ヒート」(heat=熱い)な戦いだった。
国王が、優秀な馬を育成する目的で、優勝馬に優勝盾(plate=プレート)を贈る場合もあった。現在の「キングズ・プレート」、「クイーンズ・プレート」はその名残である。
競馬が人気を得るようになるにつれて、競馬に関係するルールを整備すべく、誕生したのが、「ジョッキー・クラブ」であった。これは、他の群小のクラブと違って、非常に人気と権威のあるクラブであった。1750年頃のことである。
競馬を行う施設の整備、検量、勝負服の指定、公正さを確保するための規則の整備、競走馬の育成、競走馬のセリ市の開催、血統登録書の発行、成績の記録、等々が、クラブの事業であった。
以後、このクラブの関係者が主催するクラシック・レースといわれる5つのレースが行われるようになった。すべて、ステークス方式である。
古い順に列挙すると、1776年のポイントレジャー・ステークス、1779年のオークス・ステークス、1780年のダービー・ステークス、1809年の2000ギニー・ステークス、そして1814年の1000ギニー・ステークスである。
セントレジャーは、ドンカスター競馬場の馬主グループが行ったもので、馬齢面で画期的なものであった。出走を3歳馬にしたのである。3歳馬レースいまでは普通のものだが、当時としては珍しかった。
当時は、出走馬は6~8歳程度の年齢であった。競技馬の完成が9歳程度とみなされていたので、競走馬も同じであろうと理解されていたのである。それを一挙に3歳に引き下げた。実力が不確定な若駒を競わすという試みは、実力が確定しない分、ギャンブル性が大きく、人気は沸騰した。
セントレジャーというのは、馬主グループの人気者、セントレンジャー中将の名前にちなんだものである。
セントレジャー・ステークスは、牡馬に重量2ポンドのハンディを背負わせる形で公平さを考慮した牡・牝両方の出馬が認められた。
セントレンジャー・ステークスの成功に刺激された第12代ダービー卿が、3歳牝馬だけのスウィープ・ステークスをエプソン競馬場で企画した。これが、オークス・ステークスである。
この名前は、この地のダービー卿の別荘「オークス邸」にちなんでつけられた。これも成功した。
ダービー卿は、この成功に気をよくして、今度は、牡・牝両者が参加する3歳馬のステークスを開催した。上記、2つのクラシック・レースが2マイルであったが、今度は、当時としては異例の短距離である1マイルにした。これがダービー・ステークスである。もちろん、ダービー卿名前にちなむレースである。競馬場は、同じくエプソンであった。
ニューマーケット競馬場でも、3歳馬のスイープ・ステークスが開催された。2000ギニー・ステークスである。
最初のレースの出馬登録料は100ギニー、登録馬23頭、勝ち馬の持ち主が獲得するステークス・マネーが2000ギニーであることから、このレース名がつけられた。牡・牝両者の参加であった。
そして最後に、牝馬だけの3歳馬のスィープ・ステークスが、ニューマーケットで開催される。最初の出馬登録料が100ギニー、出走10頭であった。ステークス・マネーが1000ギニーであったことから、このレース名となった。
産業革命後、これらレースに庶民も賭けてよいことになった。庶民を惹きつけるべく、規則、免許制等々の整備が進行した。
レース参加者たちの裾野も広がり、レースを面白くする工夫が重ねられ、庶民もギャンブルとして競馬を楽しむようになった。
ギャンブルとして競馬が盛んになるにつれて、勝ち馬予想を専門に行う「ブック・メーカー」という民間会社が設立された。この予想屋はあまでも活躍している。
競馬協会も創設され、「トータリーゼ」という機構も作られた。これは競馬協会が直接運営するものである。競馬観戦者から賭け金を集め、競馬レース開催の必要経費、賞金を払ったのち、馬券を的中させた人に報酬を払うということを行う機構である。
この方式は、現在の配当システムとほぼ同じであるが、フランス人のJ.オラーによって考案されたものである。このシステムを「パリ・ミュチェル(mutuel)方式」という。
なんと現在の投資信託「ミューチュアル(mutual)・ファンド」と同じ名称である。
ステークといい、ミューチュアルといい、現在世界で猛威をふるっている投資ファンドの用語が、英国競馬のクラシックレースの時代から使われていたのである。アングロサクソンのギャンブル嗜好の強さをこれは物語るものである。
エリートたちが画策し、庶民の射幸心を刺激して、ちゃっかり儲けるという現在の投資ファンドの姿にクラシック・レースはダブって見えるのである。