消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

御影日記(7) 金融盛衰史(2)─1. 金融の実績と倫理との相克(2)

2013-09-18 15:02:07 | 御影日記

                         本山美彦(京都大学名誉教授)

 2. 倫理と現実


 A.K.セン(Amartya Kumar Sen)は、次のような問題を提出した。金融が、社会の進歩に果たした非常に大きな貢献にもかかわらず、長い歴史を通して罵倒され続けてきたのはなぜなのだろうかと(Sen, Amartya[1991], p.27)。

 確かに、「歴史的にみて、産業革命だけでなく、ルネッサンスも、金融の手助けがなければ、極めておぼつかないものとなっただろうし、おそらくは不可能であっただろう」。「現代の豊かさの多くは、世界がポロニウス(Polonius)の忠告(1)に従っていたとすれば、あり得なかっただろう。また文化と科学という問題においても、金融の創造的な役割は、十分に強力なものである」(ibid., p.27)。

 社会的にも不可欠な存在であり、歴史的にも目覚ましい成果を挙げて社会に貢献してきた金融が、道徳的にいかがわしいものであると、どうして断罪されてきたのだろうか?センは、このような問いを発した。
 実際、金融には、否定できない負の側面がある。新しい価値を生まず、一方の利益は他方の損失からなるというゼロサム・ゲームの手段を、金融機関は次々と開発してきた。ゲームの手段とは新しいギャンブルを金持ちに提供することである。各種ギャンブルを開発して多くの顧客を集めることに成功すれば、金融機関は、莫大な利益を稼ぐことができる。しかし、ギャンブルは所詮ギャンブルであり、失敗者が必ず続出する。

 そもそも、なんらの新しい価値を生むことのない状況の下で、金融機関が莫大な利益を生むということは、膨大な数の投機家たちが没落することを意味する。金融機関の莫大な儲けの裏で、破産者たちが累積した。

 こうした金融機関による金融に関する素人を収奪してきた歴史を憂う人たちが、人間の尊厳性を踏みにじるギャンブル的金融活動は強く取り締まるべきであると主張し続けてきたのは当然である。しかし、このことから、金融機関そのものを悪の巣窟として排除しようとする過激な倫理観もしばしば登場してきた。しかし、この過激な倫理は、「角を矯めて牛を殺す」ことにもなりかねない。金融に勢いがなくなれば、企業は資金繰りに困り、失業が続出してしまう危険性がある。人間として守らなければならない倫理は、結果と無関係に絶対的なものであるとする倫理絶対主義が、社会を混乱させてきたのは確かである。規制を基本とする倫理は、人間活動を妨害しかねないという主張が出てくるのも、また自然なことである。

 経済学には、学派間の様々の哲学の対立がある。対立とは、まさに倫理か結果かという対立である。
 このことは、戦争を否定し、軍需生産拒否論になぞらえることができる。

 人を殺戮する戦争は絶対的に悪である。いかなる場合でも戦争をしてはならない。戦争に政治家を追い立てる軍産複合体は悪である。軍需生産は即刻止めねばならない。これが、軍需生産否定論者の主張である。
 こうした主張は、総論的には崇高である。そして、戦争拒否論は世界の人々の共通の認識になっている。これは、歴史の進歩として受け止めるべきではある。しかし、世界の各地で戦火はいまだに消えていない。殺戮武器は、天文学的数値で増大し続けている。

 金融も同じである。金融には倫理こそが重要であると声高に叫ばれる一方で、金融の肥大化は止まるところがない。
 ちなみに、戦争と金融との関係を糾弾した哲学者にカントがいる(Kant, Immanuel[1795])。国家をして戦争を起こさせないためにも、戦費調達を目的とした国債発行は禁止されるべきであるという有名な提案をカントは行った。このZum Ewigen Frieden(『永遠平和のために』)が「バーゼル和約」(Peace of Basel)の直後にケーニヒスベルク(Königsberg)で書かれたことは、後世のEC(Europian Community)結成に繋がった点で、歴史的に非常に大きな意味をもつ。このことについては、注(2)で詳述する(2)。

 注
(1) ポロニウスは、シェイクスピア(William Shakespeare)の戯曲『ハムレット』(Hamlet)に登場するハムレットの父でデンマーク王のクラウディウス(Claudius)の右腕である右大臣。彼は、自分の息子のレアティーズ(Laertes)に、「借り手にも貸し手にもなってはならぬ」("Neither a borrower, nor a lender be")と諭した。これは、『ハムレット』の第1幕、第3場(ポロニウスの館、その一室)での台詞である。この場面は、金言の宝庫である。

 「誰に対しても良く耳を働かせろ。ただし、お前の声は聞かせるな」("Give every man thine ear, but few thy voice")、「服装は往々にしてその男の正体を暴露するものだ」("The apparel oft proclaims the man")(金沢学院大学文学部国際文化学科、リック・ブローダウェイ教授のホームページを参照。http://kg.kanazawa-gu.ac.jp/kokusaibunka/?p=2198)。
 『ハムレット』は、シェイクスピアの4大悲劇の1つ。5幕から成り、1600年から1602年頃に書かれたと推定される。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)である。シェイクスピアの戯曲の中ではもっとも長編である(http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/03/3065.pdf)。

 「借り手にも貸し手にもなってはならぬ」というクラウディウスの言葉を、単純に、シェイクスピアの金融への嫌悪を示唆するものと受け取ってはならないだろう。シェイクスピアの真骨頂は、一面的な哲学に拘泥せず、現実社会の複雑な多様性を直視した点にあるからである。まさに、「こう有りたい」という倫理と、あくどい所業が「積極的な大きな功績を残す」ことがよくある現実との相克を描いたのが、シェイクスピアではなかろうか?
 『ハムレット』の第1幕、第5場でハムレットは、親友のホレイショ(Horatio)に次のように語った。この言葉がシェイクスピアの真髄を示している。
 「ホレイショ君。天地の間には、君たちの哲学が夢想したもの以上のものがあるのだよ」(There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy)。
 この言葉に強く反応したのが、齋藤勇であり、島崎浩である。
 「(シェイクスピアは)宇宙の大問題に対する人間の解釈のいかにはかないものであるかを認め、そして組織たった解決や系統的な学説も結局頼むに足りないことを考え」た(齋藤勇[1975]、456-57ページ)。
 [シェイクスピアはこの世界を余すところなく忠実に描き、・・・この世界における苦しみからの救済の可能性については、自己の意見を押し付けることを」しない(島崎浩[2004], 64ページ)。

(2) フランス革命に干渉するために、1792年にプロイセン(Preußen)が、1793年にはスペインが、フランス革命政府に対して宣戦布告をした。しかし、フランス側の軍事的圧勝によって、情勢は両国に不利になった。そして、1795年、プロイセンはフランス側と和約した。和約によって、プロイセンはフランスによるラインラント(Rheinland)併合を認め、それと引き替えにライン川以東のフランス軍占領地域がプロイセンに返還された。同年、スペインもフランス軍に占領されていた自国領土の返還を条件にフランス革命政府を承認し、地中海における自国領土のサント・ドミンゴ(Santo Domingo)をフランスに割譲した(http://global.britannica.com/EBchecked/topic/54819/Peace-of-Basel)。

 「バーゼル和約」は、領土割譲の交渉に見られたように、戦争の防止を目的とした和約ではなく、戦争の成果を調整するだけのものでしかなかった。カントが『永遠平和のために』を発表したのは、この和約の刹那性を批判したかったからであろう。

 カントがケーニヒスベルクでこの書を発表したことも重要である。この地こそ、戦争によって支配国が頻繁に代わり、運命に翻弄されてきた歴史をもつ。『永遠平和のために』は、このことへのカントの怒りの表現であると断定しても誤りではないだろう。
 ケーニヒスベルクは、「王の山」という意味である。第二次世界大戦でドイツが敗戦するまでは、ドイツの東北辺境の軍事的に重要な地であった。現在は、ポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの飛び地領で、カリーニングラード(Калининград, Kaliningrad)と呼ばれている。

 ケーニヒスベルクは、ドイツ騎士団(Deutscher Orden)によって1255年に建設され、ハンザ同盟(Hanseatic League, Hansa)に属し、バルト海(Baltic Sea)に面した貿易都市であった。1410年にポーランド王国(Królestwo Polskie, Königreich Pole)に割譲され、1466年から1660年までの期間、ポーランド国王より住民に自治権が与えられていたが、1660年にプロイセン公国(Herzogtum Preußen, Duchy of Prussia)に併合された。1701年にプロイセン王国(Königreich Preußen)になり、ケーニヒスベルク大学などを要する学術都市となった。この大学はカントをはじめとして多くの学者を輩出している。しかし、この地の支配者が次々と交代し、品物のごとく権力者間でやり取りされた過酷な歴史を経験してきたことには変わりはない(http://www.konigsberg.ru/eng/kaliningrad/history-of-konigsberg)。

 『永遠平和のために』をカントが書いた背景には、上述のような事情があった。その書の第1章は、6つの条項からなる「予備的条項」(Präliminarartikel)で構成されている。それは、「永遠平和」を実現させるための前提条件を意味する。第2章は、3つの条項からなる「確定条項」(Definitivartikel)である。それは、理念としての望ましい政治体制を提唱したものである。

 第1章は、以下の項目からなる。
1. 将来の戦争になる火種を消す努力を表明する平和条約でなく、単なる休戦を意図する平和条約は無意味である。
2. 国家は、大小の如何を問わず、売買や贈与の対象にされてはならない。
3. 常備軍を維持してはならない。それは、全廃されなければならない。常備軍を維持することは、諸国を絶えざる戦争の脅威にさらし、軍事費の重荷の原因となるものである。軍事費の重圧から逃れたい国は、他国の常備軍を叩き潰したい誘惑に駆られる。
4. 国家が戦争に踏み切る土台となっている国債の発行は禁止されるべきである。この種の借款は、戦争遂行の宝庫であり、すぐに返済しなくても済む性格から、国の財貨の総量を上回り、際限なく増大する。
5. いかなる国家も、暴力でもって他国に干渉してはならない。そのような国家の行為は自国民にも災害をもたらす。
6. 他国への敵対意識こそが永遠の平和の到来を妨害する。
 以上の予備的条項の後、第2章でカントは3つの確定条項を提唱する。
1. 社会の構成員に自由を保証し、遵法精神に従い、それに基づく市民的体制=共和制を樹立しなければならない。
2. 自由な諸国家の連合制度に基礎を置く国際法が形成されなければならない。
3. 諸民族が安全かつ自由に他国の領土に足を踏み入れる権利を保証する世界市民法が創り出されなければならない。
 ジェレミー・ベンサムは、カントのこの提言を実現させるべく、軍隊の廃絶、国際紛争の仲裁機関の設置、植民地の解放を目的とした国際法の作成が、「永遠平和」を実現させるために必要であると提唱した(Bentham, Jeremy[1843], Essay 4)。

 引用文献
Bentham, Jeremy[1843], "A Plan for an Universal and Perpetual Peace," The Principle of International Law, Essay 4. (http://www.laits.utexas.sdu/poltheory/bentham/pil/pil/pil.e04.html)。
   本書は、1786~89年に書かれたとされているが、1843年になってやっと公刊され た。
Kant, Immanuel[1795], Zum ewigen Frieden, Ein philosophischer Entwurf, Königsberg. 邦訳
Sen, Amartya[1991], Money and Value, on the Ethics and Economics of Finance, The First Baffi  Lecture. Rome, Bank of Italy.
齋藤勇[1975]、『齋藤勇著作集、第3巻「シェイクスピア」』研究社。
島崎浩[2004]、「仏教思想に基づく『ハムレット』の解釈に関する試論」『融合文化研究』 (日本大学)第3号。


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