消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 45 松岡火薬製造所跡

2006-11-09 23:26:55 | 路(みち)(福井日記)
 幕末の天保から弘化・嘉永にかけて、英・仏・露・米などの欧米列強が、日本沿岸にしきりに艦船を出没させていた。アヘン戦争が勃発し、天保13年南京条約によって、清国が強力な英軍の近代兵器の前に屈服させられた経緯は、いち早く福井へも伝えられた。そのため城下の蘭方医笠原白翁が、嘉永3年正月13日付で大坂の蘭学者緒方洪庵に宛てた書状(笠原家文書)の中に、「此節忌むべき、嫌ふべき、悪むべき、罵しるべき英夷」と記して、そうした英国に対する憎悪をむき出しにしたように、心ある人々は武力を背景とした欧米の野心を洞察して、警戒心を高めていた。

 福井藩は、弘化四年春、砲術師範西尾源太左衛門父子を江戸の高島流砲術家下曽根金三郎に入門させ、洋式砲術と銃陣調練の研究に当たらせた。また、翌嘉永元年8月には三国の富商三国与五郎の献金を得て、江戸から洋式大砲鋳師安五郎を招き、三国道実島の鋳物師浅田新右衛門の工場で、西洋砲13寸カルロンナーデ、15寸ホーウイッスル、15寸モルチールなどを製造し、その技術を新右衛門に習得させる。これが、福井藩における洋式砲術の導入と洋式砲鋳造の発端であり、全国諸藩に比して極めて早かった。



 嘉永6年には洋式小銃の製造も着手される。この年9月、江戸霊岸嶋藩邸内に鉄砲師松屋斧太郎を招き、ゲベール銃の製作を命じ、翌安政元年には、福井泉水邸内に製銃工場を設置したが、製法の未熟と資金不足から、3か年にようやく10挺を生産するに過ぎなかった。そこで安政4年正月に至り、佐々木権六、三岡八郎(由利公正)を製造所正・副の頭取に任命し、本格的な兵器生産を推進させることとなる。2人は種々研究を重ね、志比口に鉄砲製造所を、松岡に火薬製造所を建設し、工程を分業して職工の熟練を図るなど増産に成功した。他藩の注文にも応じて、維新後製造所閉鎖までに7000挺の洋式銃を製造したと伝えられる。

 このような洋式砲術や調練の導入と洋式兵器の製造は、当然刀・槍・弓矢を中心に編成された従来の軍制の改革へと発展する。まず嘉永3年12月には、西尾源太左衛門を中心に「御家流砲術」を制定し、一藩の射撃術を実用に重点を置いた洋法に統一した。とはいえ、その時点では藩の所有する洋銃も少数で、内実が伴わなかったから、藩の斡旋により代価を2、3年の年賦とするなど、藩士の小銃新調を奨励し、徐々に洋式銃の充足を図っている。さらに、諸隊の弓組や長柄槍組を順次洋式銃隊に編成替えし、仏式鼓吹笛による部隊教練を実施しながら、嘉永5年・安政元年・同4年と3次にわたる軍制改革を断行した(『福井県史』通史4近世2を参照した)。



 平成18年11月3日から11月26日まで福井県立歴史博物館で由利公正展が開かれている。5箇条のご誓文成立の裏話が説明されていて勉強になる。入場料はなんとわずか100円。私は10数メートルの強風と豪雨の下、大学から徒歩2時間かけて会場に行った。福井県の人は車で移動するが、私は頑固に自転車と徒歩の文化だけは死守しようとがんばっている。市内ならほとんど徒歩で行く。

 製造所跡は、松岡の神明にある。安政4年(1857年)4月27日と5年3月11日の2回爆発し犠牲者を出した。火薬の製造は、明治4、5年(1871、1872年)頃まで続いた。

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