消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 17 渤海使

2006-06-26 23:31:02 | 路(みち)(福井日記)
東大寺荘園や春日大社荘園が越前で拡充しだしたころ、日本の対外交流でもっとも盛んであったのは、朝鮮半島の北東の渤海であった。この地域は、後の高句麗と重なり、中国と韓国との間で、北朝鮮崩壊後の領土確定の意味もあって、高句麗の出自争いがあったことは記憶に新しい。その論争がいつの間にか沙汰止みになったことから察するに、北朝鮮崩壊後の事態に備えて中国・韓国間になんらかの合意が形成されたものと想像される。

 それはさておき、渤海が8世紀では、日本のもっとも緊密な交流相手であった。
 渤海側の正式の使節は、727年(延喜19年)であるとされている。若狭、越前がもっとも渤海人が数多く到来した地である。762年(天平宝字6年)、渤海使、王新福ほか22名が越前加賀郡に3か月滞在したという記録が残されている。776年(宝亀7年)には、187人の渤海の一行が難破し、141人が死亡、生き残った45人が越前に漂着した。彼らは3か月間、越前に留まった。大和政権の命令もあって、越前側は漂着した水死体を手厚く葬ったとある。渤海使を日本側は、越前の人間に渤海に送り返させ、送って行った越前人は、今度は、渤海の正式使節を伴って、三国湊に帰還したという。

 名勝、気比の松原(写真参照)には、外国人をもてなす松原駅館が設立されていた。しかし、919年11月に三方郡丹生浦に105人の渤海人が到着し、日本側が、彼らを松原駅館に移そうとしたが、この館の設備が悪すぎるというので、渤海側が難色を示し、その苦情を重視した中央政権は改善を越前に命令したという記録もある。ちなみに、気比の松原は聖武天皇のころ、黒い装束を身にまとった外国人が攻め寄せてきたとき、一夜で松林が出現し、松の上には白い鳥の大群が留まり、それを見た侵略軍は迎撃対隊が多数待機していると錯覚して、慌てて逃げ出したという言い伝えもある。当時は、渤海使とともに悪霊が海を渡ってくると本気で心配されていて、気比の松原では、疫神を防ぐために、渤海人が到着する度に、鎮火儀礼が行われるのが常であった。

 気比の松原の美しさといったら、ちょっと他にはない。長さ約1.5キロ、広さ約40万平米という広大さと、白砂青松のコントラストが印象的である。赤松、黒松約17,000本が生い茂る。三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の1つで、遊歩道も整備されて、ジョギングに最適な市民の憩いの場である。
 敦賀は古くは角鹿(つぬが)と呼ばれていた。これが、なまって敦賀になったのである。角鹿は、渡来人、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に因んでつけられた名前である。

 芭蕉の句がある。

 古き名の角鹿や恋し秋の月

 古い「角鹿」という地名がこんな秋の月の夜には相応しい感じがする、という意味である。

 渤海からは、宣明暦(せんみょうれき)が伝わっている。この暦は861年(貞観3年)から1684年(貞享元年)まで実際に、日本で用いられていたものである。823年もの長期にわたって、同一の暦が使われていたということは世界史的にも希有な例である。

 宣明暦(せんみょうれき)は、正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言い、唐の徐昴が編纂したものである。とくに、日食と月食の予報に優れ、中国では、唐の長慶2年(822年)から景福元年(892年)までの71年間使用された。日本へは、天安3年(859年)に渤海使がもたらし、それまでの大衍暦に代わって使用が開始された。その後、朝廷の衰退や暦学の停滞などにより改暦が行われなかった。長く使用されたために誤差が蓄積し、江戸時代初期には24節気や朔などが実際よりも2日早く記載されるようになっていた。

 そもそも、暦の編纂は本来は朝廷が独占して行うものであり、暦の算出法に関する書物は陰陽寮以外には部外秘とされていたが、宣明暦があまりにも長く使用されていたために、次第に民間に流布され、出版されるようになった。さらに、鎌倉時代以降は朝廷の力が弱まり、京で作られた暦が地方へ伝達しにくくなったことから、各地で独自に宣明暦の暦法によった暦(民間暦)が作られるようになった。暦とは、権力側が作るものであるが、これについては後日、陰陽師との関連で解説することにする。また、陰陽師は権力の一翼を担っていて、単なる不可思議な占いばかりを行っていたのではないことにもあわせて注意を喚起しておこう。

 すでに紹介した730年の『越前国大税帳』では、渤海使を送り返すのに、食糧50石を使ったと記載されている。そのうち、渡来人が地方の権力者になったのであろう。『日本書紀』には、景行天皇の時に、天皇の支配に従わない越の国を抑えるために、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)によって吉備武彦が派遣されたとされている。そして、この地の豪族、つまり件の渡来人の子孫が角鹿海直であり、彼が、後に大和から派遣されてきた吉備武彦の孫を角鹿国造におし戴いたとされている。継体伝説と並んで、越前の豪族が渤海起源ではなかったのかという仮説がますます信憑性を帯びる伝承である。

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