消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 22 越前の地から遠く京の祇園祭を想う――京の町衆とは?

2006-07-11 23:51:00 | 路(みち)(福井日記)

日蓮宗は、つねに、内部分裂と内部抗争を起こしてきた。その戦闘的な性格が他宗派からの敵視を招き、その対応面で分裂を余儀なくされたという事情もあった。それでも、この宗派は、室町幕府の懐に入り込むことを方針にしていたように見える。京都に妙満寺(現・顕本法華宗)を創建した日什の弟子たち(日仁、日実、日行)が応永5年(1398年)に将軍・足利義満と面会し、以後、その膝下に入った。寛政6年(1465年)、京都本覚寺の日住が同じく将軍・足利義政の厚誼(こうぎ=心からの親しいつきあい、手厚い親切)を得た。織田信長は日蓮宗の本能寺に本陣を張った。つまり、本能寺が信長に忠誠を誓った。この本能寺は、元、本応寺といい、日隆が応永22年(1415年)に建立したものである。その後、本能寺は、徳川家康の懐刀として湯名になった茶屋四郎次郎を大旦那にしている。日隆は、八品派を立てている。


 本能寺の変は、天正10年(1582年)であるが、その2年前の天正8年(1580年)に石山本願寺が信長によって焼き払われている。この時、日蓮宗各派は信長に協力した。その前年、天正7年(1579年)、信長は、浄土真宗と日蓮宗とを論争させ(安土宗論)、日蓮宗側の敗北を宣言して、日蓮宗から「詫証文」を取り、日蓮宗の京都での布教活動を禁止していた。その禁止令も、天正13年(1583年)、秀吉が詫証文を廃棄して、日蓮宗の活動の再開を許している。信長や秀吉の一向一揆弾圧政策に協力したことの報償という面があったものと思われる。

 いまから述べる天文の動乱以前の歴史に残る大一揆と言えば、1428年の近江・山城の一揆、1488年の加賀一向一揆、1506年の全国の一向一揆、1531年の朝倉とぶつかった一向一揆、等々があった。そうした一揆のことごとくに対して日蓮宗は弾圧側に荷担した。


 細川晴元は、天文元年(1532年)8月、浄土真宗の山科本願寺を焼き払った。日蓮宗がそれに協力した。加賀から急遽帰洛した本願寺の下間筑前頼秀・下間備中頼盛兄弟は(これだけでも、当時の寺院が戦闘のプロ、武将を傭兵として使っていたことが分かるであろう。本願寺では、こういった傭兵の隊長を『家宰』と呼んでいた)、大阪の石山本願寺に拠点を移した。細川晴元は、同じく、京都の法華衆を動員して石山を攻めている。

 同年9月、摂津国の一向一揆勢力が山崎付近の法華勢力を撃退した。しかし、同年末、法華宗側は河内の本願寺、富田同上を焼き討ちした。

 翌、天文2年(1533年)、晴元は、法華衆とともに、摂津国山田市場の一向一揆勢を焼き討ちした。同年3月、一向一揆側が盛り返して、河内の富田に盤踞する法華衆を駆逐し、細川晴元を淡路に追いやった。さらに、一揆側は勢いを駆って細川領の摂津伊丹城を包囲した。

 同年4月、畠山氏を裏切って細川晴元方に寝返った木沢長政が法華衆を動員して伊丹から一向一揆勢を追い出し、淡路から晴元を帰還させ、摂津の池田城へ入城させた。

 ところが、晴元の敵、細川晴国が同年5月、丹波から山城国高雄に攻め入ってきた。晴元に協力していた法華衆は、梅ヶ畑で敗北した。晴元側の摂津守護代・薬師寺国長も討ち死にした。

 慌てた晴元は、同年(1533年)6月、本願寺の証如と和睦した。仲介したのは、かつて晴元が本願寺に要請して堺南荘で滅ぼさせた三好元長の嫡男で淡路に逃れていた三好長慶であった。

 じつは、三好家は法華宗の大旦那であった。元長自身は、堺南荘の日蓮宗・顕本寺で自害している。

 こうして、日蓮宗は、京都の商人階層を信者とし、洛中21か寺を中心として、法華衆の町衆による自治権を獲得したのである。

 京都の人は、祇園祭りが最高潮に達する7月17日、必ず、町衆が権力側から自治権を獲得したことを誇らしげに語る。はたしてそうであろうか。権力側と結託して、真に権力と戦った一向一揆の農民たちを虐殺して権力からご褒美として与えられた自治権ではなかったのか。事情は、本願寺も同じである。本願寺は、一向一揆という身内を殲滅させることによって、宗門の巨大化に成功した。日蓮宗といい、本願寺といい、一向一揆を「撲滅したことの報償」を共有したのである。歴史にはつねに表裏がある。

 加賀・越前の一向一揆は見捨てられた。私にもその傾向があるので、自らを諫めなければならないのだが、私たちは、百姓一揆という言葉のイメージから、いとも簡単に圧政に苦しむ百姓が、政治権力に対して、命をかけた反抗を挙行した。しかし、権力側の圧倒的武力の前に、尊い夢を破砕されてしまったという シナリオを描いてしまう。

 そういう側面があったのは確かである。しかし、本願寺の指令で動いた一揆は、必ずしもそうは言い切れないものがある。戦国大名と同じく、本願寺も自己の領土を、他者から奪う武力攻勢に積極的に参加していたのである。本願寺の命令に従って武器を取らない農民は、容赦なく、本願寺から破門された。 現在では、破門されても、ただ出入り差し止めという次元のものに留まり、命に関わることではない。しかし、村全体が本願寺の門徒であるという時代で、破門されるということは、農業のもつ特性を考えれば「死ね」ということに等しい。「結」(ゆい)を基本とする日本的稲作の農業では、仲間の村人の協力なしには、人は、一刻たりとも生きてはいけないのである。

 「村八分」(むらはちぶ)ということは、それこそ死の宣告を意味していた。村には「十分」(じゅうぶ)の人間的つきあいがある。農作業の共同というのがそのうちの八分を占める。村八分とは、この付き合いを止めることである。残り二つのつきあいとは、死者の埋葬と火事の消火である。埋葬と消火という二分まで放置してしまうと、伝染病とか大火とかの害悪を村全体に及ぼすので、この二分は残すが、もっとも重要な八分は取りやめるということである。本願寺から破門されるということは、自動的にこの村八分が発動されることを意味していた。

 農民は、本願寺に反抗することはできなかった。本願寺の要請は、武士権力の命令よりも恐ろしいものであった。もっとも身近な、もっとも頼りになる仲間から見捨てられることだからである。権力に背いたとしても、仲間を背いたわけではないので、まだ一緒に戦ってくれる仲間がいる。しかし、本願寺から破門されることは、誰も助けてくれはしないことなのである。ここに、宗教のもつ古今東西を問わない恐ろしさがある。

 天文元年(1532年)から、越前・加賀では、農民の自発的な一揆が、本願寺から派遣された下間兄弟の指導する一揆(自然発生的農民一揆の撲滅と本願寺の画策する他者からの田畑の奪取を目指す武力行動)によって殲滅されようとしていた。下間兄弟から追討された加賀農民一揆勢は、越前に逃れてきた。彼らは加賀牢人と呼ばれていた。加賀牢人たちは、越前から加賀に帰還するために、繰り返し、本願寺派遣の下間勢と衝突を繰り返していた。

 天文3年(1534年)5月、本願寺と細川晴元との和平が破れた。本願寺は、石山本願寺を要塞化して、守りを固めた。しかし、同年6月、下間兄弟が畠山勢に敗れ、石山に逃げ込んだ。再度、本願寺は細川晴元の力に頼るしかなかった。本願寺は再度の和睦の地ならしとして、こともあろうに、子飼いの下間兄弟を追放した。兄弟は逐電した。本願寺は各地に書状を出し、下間兄弟を発見した時には、彼らを誅殺せよとの檄を飛ばしたのである。それだけではない。刺客が派遣された。3年後、兄・頼秀が摂津の一揆指導中に(今度は本能寺に刃向かうために)刺殺された。翌年、弟の頼盛も堺で殺された。兄弟を刺殺することに成功した刺客たちは、本願寺から一人当たり千疋の褒美を得た。

 天文3年(1534年)11月、青蓮院尊鎮法親王の仲介で本願寺は晴元と再度和平した。本願寺側が近江門徒を破門することで、室町政権との和睦を図ったのである。

 本願寺は、かつて、越前・加賀の一向一揆を下間兄弟を派遣して叩き潰し、今度は、近江の一揆勢をも破門してしまったのである。つまり、加賀・越前・近江を「一揆もちの国」から「本願寺もちの国」に切り替えたのである。

 法華衆は、京都支配を維持していた。これに反発したのは、一向一揆勢だけではなかった。比叡山天台宗が日蓮宗への憎悪をむき出しにしたのである。

 天文5年(1536年)、比叡山は、全国の大寺と大名に呼び掛けて、日蓮宗撲滅の武力行使を呼び掛けた。元来が、京都を地盤として繁栄してきた天台宗にとって、京都の利権を日蓮宗に奪われることには耐えられなかったのであろう。この呼び掛けに応じたのは、越前では平泉寺であった。興福寺、日光山、粉河寺、根来寺、それに山科本願寺を日蓮宗によって焼かれた本願寺、大名では近江の佐々木六角も呼応した。

 それに対抗する日蓮宗側の主勢力は、妙覚寺、本能寺であった。町衆としては、西陣の織物商、本阿弥家であった。

 戦闘は1536年7月22日に開始された。日蓮宗側の3万5000人に対して比叡山側は12万人を超えていた。圧倒的な兵力の格差の前に、たった5日間で日蓮宗側は敗北した。日蓮宗は京都に21もの本山をもっていた(これも、日蓮宗がまとまっていなかったことを示す、すごい数値である)が、そのことごとくが焼かれてしまった。京都の大半が灰燼に帰し、法華衆たちは堺に逃げた。これが「天文法難」と言われるものである。

 戦が終わっても比叡山側は法華衆の残党狩りをしていた。幕府も法華衆の洛中俳諧を禁じ、日蓮宗の寺院の再建を許さなかった。それが解かれたのは5年以上も経った天文11年(1542年)の後奈良天皇の勅許が出されてからである。その条件として、日蓮宗側は比叡山に1千貫の銭を寄進しなければならなかった。このときから、宗門は武家と権力争いを行うべく僧兵を強化して行った。それとともに、越前と加賀の一向一揆勢は、明確に本願寺側から見捨てられた。

 その頃、つまり、天文3年(1534年)、織田信長が生誕した。それから27年後(永禄14年、1571年)比叡山延暦寺が信長によって焼き討ちされた。民衆が戦乱の世に、もっとも衷心から仏を求めていた時に、宗門は堕落の道を疾走していたのである。

 本日の日記は、「坂東千年王国、一向一揆が行く」のウエビサイトの資料に依存した

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