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元衆議院議長 田村 元・政界の下水道の父を偲ぶ

 11月1日に義父田村元が亡くなりました。

 ~追悼文(日本下水道新聞2014年11月19日掲載)~

 私が運輸省に入省した昭和52年4月1日に受け取った辞令には「任命権者 運輸大臣 田村元」と記載してあった。海運局総務課に配属された入省1年生の私からは、その後、省内の会議等で大臣の顔を遠目に見ることはあったが、大臣は遠い存在でしかなかった。

 通常国会閉会後の同年6月中旬頃、運輸省が提出した法律成立の打ち上げの会が省内10階の会議室で開催され、私達職員は飲み物等のサービス係りとなった。メーンテーブルには大臣や幹部が集まり、大臣挨拶、乾杯の後、歓談が始まった。私は正面脇の壁際に立っていたが、大臣のグラスが空になっていてもビールを注ぐ人が誰もいなかったので、「失礼します。」と言ってビールを注いだ。大臣は「君はどこの出身だ?」「君は森進一と西城秀樹を足して二で割ったような顔をしとるな。」と声をかけてくれた。私は「足して二で割るとどんな顔になるのか」と面食らったが、これが田村元に最初に接した機会であった。後でわかったことだが、芸能界に疎い田村は(本人はそうは思っていなかったが)、森進一と西城秀樹とバタやんと田村正和と松平健くらいしか出てこなかったようだ。

 同年11月28日の内閣改造で運輸大臣は福永健司大臣に交代となり、大臣秘書官も海運局総務課の長尾補佐官と黒野匡彦前大臣秘書官が交代して黒野補佐官が私の新しい上司となった。翌昭和53年の5月中旬に黒野補佐官から「君、誰かつき合っている女性はいるかね?いないなら、見合いをしないか。」と言われ、軽い気持ちで「ハイ」と答えてしまった。6月の見合いの直前に相手の写真を渡され、黒野さんからは「今は相手の名前は言えないが・・・」と言われた。運輸大臣の名札が置かれた机で写っている女性なのにである。「これはマズイな」と思った。24歳の若さで、怖い上司に押し切られた。私も妻も言葉を発する暇もなく、有無を言わせぬ仲人口で強引にまとめられてしまった。

 10月に結納を入れて、田村家に出入りするようになり、普段着の田村元に接するようになった。当選8期で二度入閣し、田中派の幹部であった田村元は、家の中では靴下も自分で履かない程の亭主関白であったが、街中では一般の人に対しても気さくに話しかける人間であった。俗に浪花節といわれるが、人情味が豊かで、見ず知らずの人に対しても暖かく接する姿を見て、「役人と政治家は人への応対がこんなにも違うんだ」とびっくりした。声が大きく、とにかく怖かった。入省2年目の私にとっては全く口答えのできない雷おやじであったが、私は中学3年の時に父を亡くしていたので、いざというときに頼れる父ができたことは有難いことであった。早くに父を亡くした私と、娘しかいない田村は、すぐに実の父子になった。下水道と灯台の話をよく聞いた。田村にとって下水道は「我が子」、灯台は「男のロマン」だと言っていた。

 私の役所の仕事の面では、陰で応援してもらっていたのかもしれないが、田村は人事も含め口を出さなかった。時々、隠れて偵察に来ることはあったらしいが、田村元の娘婿という目で見られた以外、良くも悪くも特に影響なく仕事をさせてもらったと思っている。しかし、結婚後、4人の子どもを設けて育てることが出来たのは、家内の実家の近くに住んで、何くれとなく面倒を見てもらったお蔭であると感謝している。

 ところが、田村元にも妻にも相談せずに平成17年の郵政解散の選挙に出た時には、こっぴどく怒られた。「二度とうちの門をくぐるな。」「娘を政治家のところにやるつもりはなかった。」「路子とはいつ別れるんだ。」と、烈火のごとく怒られた。初当選後もしばらく怒りは収まらず、川崎二郎先生や斎藤十朗元参議院議長から「先生のお怒りは静まったかな?」「そろそろ先生のお許しはでたのかい?」と問われる程であった。それでも、下水道議連の事務局の一員となり、都市再開発議連や真珠議連等の田村元が会長をしていた議連を復活させるとあまり文句を言わなくなってきた。

 しかし、政権交代の選挙で、あえなく落選すると、「やっぱりお前の結婚は間違っていた。俺は黒野を恨む。」と田村元は本気で嘆いた。「子供が4人もいるのに、お父さん今さら何を言っているの。」と妻は開いた口が塞がらなかったようである。初当選後、「俺は48歳で既に初入閣していた。貴様は51歳で出馬して、これからどうしようというのか。俺は前議員会の会長をしているが、辞めた議員の半分近くは生活保護をもらう状況にあるのを知っているか?」と厳しく言われた。それだけ、政治家は身分が不安定であると言いたかったのであり、娘の家族を心配していたのであろう。「正仁を許したる。」と言われたのは、平成24年暮れの選挙で何とか議席を回復した翌春になってのことであった。

 心配をかけ通しの仕様がない婿として、せめてもの罪滅ぼしに、田村元の政治生活を本にまとめるべく今春から準備を始め、三重県に田村元の記念碑の写真を撮りに行ったり、当時の話を聞きに行ったりした。国会図書館で資料を集め少しずつ年表を埋めた。10月26日には、長崎で被爆した時の話などを本人に尋ねて、妻と「この状態なら、百歳は超すね。」と話をした程であった。それぐらい元気に見えていたのだが、11月1日の朝に突然永眠し、残された家族一同は呆然としたのである。

 私は政治の世界に足を踏み入れて未だ9年半であり、2回しか当選していない。41年半で14回当選し、4度入閣して衆議院議長になり、派閥ではないが田村グループを率いて子分の面倒を見るということは、想像を絶するキャリアである。どこまで近づけるかわからないが、下水道を含め、安全・安心で暮らしやすい日本を実現するために、頑張っていきたいと考えている。

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