九段会館の建て替えのための議員立法
第186回通常国会で私は3本の議員立法を手がけ、自然環境保全のために入域料徴収を可能にする新法と建築士法の一部改正法の2本を成立させたのですが、九段会館の建て替えのための法律は積み残しになりました。
東京都千代田区九段1丁目にあります九段会館を講堂や集会場としてお使いになった方は多いと思うのですが、九段会館は、軍の予備役等の訓練、宿泊を目的として、昭和9年3月25日に軍人会館として建設されました。昭和11年には二・二六事件が起こって戒厳司令部が置かれ、昭和15年10月12日には大政翼賛会結成式が開かれるなど、様々な歴史の舞台となりました。戦後、土地は陸軍省から大蔵省に、建物は国庫に帰属し、昭和28年には「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律(昭和28年法律第200号)」が制定されて、日本遺族会に無償で貸し付けられていました。
しかし、平成23年3月11日の東日本大震災により大ホールの天井が崩落して死者2名、重軽傷者26名の被害が発生したことから、日本遺族会は、九段会館の営業を同年6月30日をもって廃止し、建物の老朽化、遺族会の一般会計の厳しい財政状況に鑑み、土地・建物を国に返還することを決定しました。
九段会館が閉鎖されたままで、放置されていることは望ましくないことから、平成25年秋に古賀誠日本遺族会前会長から、「何とか早急に現状を解決するような法整備を含む対策をまとめるように」との要請を受け、私が中心となって厚生労働省、財務省等の関係者と対応策を検討しました。都心の一等地で、土地の高度利用を図ることが望まれることから、民間事業者に土地を貸し付けて新たな建物を建築して効率的に利用することが可能となるように、また、新たな建物の一部を国が取得して遺族会に無償貸し付けを行い、遺族の福祉を目的とする事業を行うことが可能となるスキームとその法案をまとめ、平成26年5月15日に自民党の厚生労働部会で了承を、翌16日に公明党の厚労部会で了承を得て、野党各党に説明に回りました。民主党、維新の会、みんなの党、結いの党、共産党、生活の党、社民党、新党改革の8党に個別に説明を行い、ご注文を受けるとその対応が必要となるので、てんてこ舞いの毎日となりました。
第186回国会では、衆議院厚生労働委員会での内閣提出法案が多い上に厚生労働省側のミス等も重なって法案審議がスムーズに進みませんでした。そのような委員会の審議状況を踏まえ、九段会館法案について野党各党はなかなか了承してくれません。そうこうしているうちに会期末が近づき、やきもきして、野党のキーパーソンに接触するのですが、「わかっている。もう少し待ってくれ。」との返事を貰うものの、進展が見られません。会期末の6月17日(火)になってやっと民主党の了解が得られ、翌18日(水)の衆議院厚生労働委員会にかけられることになりました。各党の了承が得られて全会一致で委員長提案になるはずだったのですが、当日の朝になって共産党が反対に転じ、大慌てで自民党の金子恭之衆議院議員外6名の提出に切り替える準備をして、18日夕刻の厚生労働委員会に提出しました。同委員会では、私が提出者を代表して趣旨説明を行い、賛成多数(共産党のみ反対)で可決されました。翌19日(木)正午からの衆議院本会議でも賛成多数(共産・社民が反対)で可決され、同日、参議院に送付されました。しかし、会期末の22日は日曜日であり、実質的には20日(金)が会期末となるため、参議院側では審議時間が十分にとれないとの理由で、継続審議とされてしまいました。
内閣改造後の9月29日に第187回臨時国会が開かれ、今度こそ九段会館法の成立を目指すのですが、議員立法の法案よりも内閣提出法案の方が審議が優先されますので、なかなか九段会館法の順番が回ってきません。松山政司自民党参議院国会対策委員長代理から「総理がAPECに外遊される11月10日の週に審議入りできると思います。」と連絡を受け、これでやっと大丈夫と思っていると、11月9日(日)の読売新聞朝刊の一面トップに解散の記事が掲載され、急に解散風が吹き出しました。これはマズイと思い、「この臨時国会で何とか成立させて欲しいのです。何とかしてください。」と参議院の国会対策の先生方に働きかけ、やっとのことで11月18日(火)の参議院厚生労働委員会で審議されることになりました。提出者を代表して私が委員会で趣旨説明を行い、賛成多数(共産・社民が反対)で可決されました。同日の19時過ぎに安倍総理が衆議院解散の記者会見を開き、国会は緊迫の度合いを強めました。翌19日(水)の10時からの参議院本会議は予定通り開催され、賛成多数(賛成224、反対15)で可決され、ホッとしました。しかし、同一国会中であれば、衆議院と参議院の可決で法案は成立するのですが、九段会館法の場合には衆議院は前国会での可決であるため、参議院で可決されてもそれだけでは成立しません。再度、衆議院に戻して委員会と本会議での可決が必要となるので、直ちに衆議院に送付されました。
しかし、前夜の安倍総理の記者会見を受けて、野党は国会審議拒否に転じています。渡辺博道衆議院厚生労働委員長は職権で委員会の開催を決定し、12時20分から自民・公明・次世代の党の3党の議員だけが出席して委員会が開催され、全会一致で可決されました。民主、維新、共産、社民等が欠席の中、21日(金)の午後1時に開催された衆議院本会議では賛成多数で可決され、成立しました。その直後に欠席していた野党議員が議場に戻ったところで衆議院は解散されましたので、会期末ギリギリの成立でした。これで、私が前通常国会で手がけた3本の議員立法を全て成立させることができ、昨年秋からの苦労がやっと報われてホッとしました。
「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律の一部を改正する法律(平成26年法律第132号)」は11月28日に公布されました。この法律が成立したことにより、東日本大震災後3年8か月放置されていた九段会館の建て替えがスタートすることになりました。現在の九段会館の建物の外観の活用等に配慮した、地域の関係者に喜ばれる建物が、一日も早く完成することを心より期待しています。
閉鎖されている九段会館(2014年11月18日)
元衆議院議長 田村 元・政界の下水道の父を偲ぶ
11月1日に義父田村元が亡くなりました。
~追悼文(日本下水道新聞2014年11月19日掲載)~
私が運輸省に入省した昭和52年4月1日に受け取った辞令には「任命権者 運輸大臣 田村元」と記載してあった。海運局総務課に配属された入省1年生の私からは、その後、省内の会議等で大臣の顔を遠目に見ることはあったが、大臣は遠い存在でしかなかった。
通常国会閉会後の同年6月中旬頃、運輸省が提出した法律成立の打ち上げの会が省内10階の会議室で開催され、私達職員は飲み物等のサービス係りとなった。メーンテーブルには大臣や幹部が集まり、大臣挨拶、乾杯の後、歓談が始まった。私は正面脇の壁際に立っていたが、大臣のグラスが空になっていてもビールを注ぐ人が誰もいなかったので、「失礼します。」と言ってビールを注いだ。大臣は「君はどこの出身だ?」「君は森進一と西城秀樹を足して二で割ったような顔をしとるな。」と声をかけてくれた。私は「足して二で割るとどんな顔になるのか」と面食らったが、これが田村元に最初に接した機会であった。後でわかったことだが、芸能界に疎い田村は(本人はそうは思っていなかったが)、森進一と西城秀樹とバタやんと田村正和と松平健くらいしか出てこなかったようだ。
同年11月28日の内閣改造で運輸大臣は福永健司大臣に交代となり、大臣秘書官も海運局総務課の長尾補佐官と黒野匡彦前大臣秘書官が交代して黒野補佐官が私の新しい上司となった。翌昭和53年の5月中旬に黒野補佐官から「君、誰かつき合っている女性はいるかね?いないなら、見合いをしないか。」と言われ、軽い気持ちで「ハイ」と答えてしまった。6月の見合いの直前に相手の写真を渡され、黒野さんからは「今は相手の名前は言えないが・・・」と言われた。運輸大臣の名札が置かれた机で写っている女性なのにである。「これはマズイな」と思った。24歳の若さで、怖い上司に押し切られた。私も妻も言葉を発する暇もなく、有無を言わせぬ仲人口で強引にまとめられてしまった。
10月に結納を入れて、田村家に出入りするようになり、普段着の田村元に接するようになった。当選8期で二度入閣し、田中派の幹部であった田村元は、家の中では靴下も自分で履かない程の亭主関白であったが、街中では一般の人に対しても気さくに話しかける人間であった。俗に浪花節といわれるが、人情味が豊かで、見ず知らずの人に対しても暖かく接する姿を見て、「役人と政治家は人への応対がこんなにも違うんだ」とびっくりした。声が大きく、とにかく怖かった。入省2年目の私にとっては全く口答えのできない雷おやじであったが、私は中学3年の時に父を亡くしていたので、いざというときに頼れる父ができたことは有難いことであった。早くに父を亡くした私と、娘しかいない田村は、すぐに実の父子になった。下水道と灯台の話をよく聞いた。田村にとって下水道は「我が子」、灯台は「男のロマン」だと言っていた。
私の役所の仕事の面では、陰で応援してもらっていたのかもしれないが、田村は人事も含め口を出さなかった。時々、隠れて偵察に来ることはあったらしいが、田村元の娘婿という目で見られた以外、良くも悪くも特に影響なく仕事をさせてもらったと思っている。しかし、結婚後、4人の子どもを設けて育てることが出来たのは、家内の実家の近くに住んで、何くれとなく面倒を見てもらったお蔭であると感謝している。
ところが、田村元にも妻にも相談せずに平成17年の郵政解散の選挙に出た時には、こっぴどく怒られた。「二度とうちの門をくぐるな。」「娘を政治家のところにやるつもりはなかった。」「路子とはいつ別れるんだ。」と、烈火のごとく怒られた。初当選後もしばらく怒りは収まらず、川崎二郎先生や斎藤十朗元参議院議長から「先生のお怒りは静まったかな?」「そろそろ先生のお許しはでたのかい?」と問われる程であった。それでも、下水道議連の事務局の一員となり、都市再開発議連や真珠議連等の田村元が会長をしていた議連を復活させるとあまり文句を言わなくなってきた。
しかし、政権交代の選挙で、あえなく落選すると、「やっぱりお前の結婚は間違っていた。俺は黒野を恨む。」と田村元は本気で嘆いた。「子供が4人もいるのに、お父さん今さら何を言っているの。」と妻は開いた口が塞がらなかったようである。初当選後、「俺は48歳で既に初入閣していた。貴様は51歳で出馬して、これからどうしようというのか。俺は前議員会の会長をしているが、辞めた議員の半分近くは生活保護をもらう状況にあるのを知っているか?」と厳しく言われた。それだけ、政治家は身分が不安定であると言いたかったのであり、娘の家族を心配していたのであろう。「正仁を許したる。」と言われたのは、平成24年暮れの選挙で何とか議席を回復した翌春になってのことであった。
心配をかけ通しの仕様がない婿として、せめてもの罪滅ぼしに、田村元の政治生活を本にまとめるべく今春から準備を始め、三重県に田村元の記念碑の写真を撮りに行ったり、当時の話を聞きに行ったりした。国会図書館で資料を集め少しずつ年表を埋めた。10月26日には、長崎で被爆した時の話などを本人に尋ねて、妻と「この状態なら、百歳は超すね。」と話をした程であった。それぐらい元気に見えていたのだが、11月1日の朝に突然永眠し、残された家族一同は呆然としたのである。
私は政治の世界に足を踏み入れて未だ9年半であり、2回しか当選していない。41年半で14回当選し、4度入閣して衆議院議長になり、派閥ではないが田村グループを率いて子分の面倒を見るということは、想像を絶するキャリアである。どこまで近づけるかわからないが、下水道を含め、安全・安心で暮らしやすい日本を実現するために、頑張っていきたいと考えている。
六甲縦走7回目の完走
2年ぶりに六甲縦走に参加しました。昨年は神戸市長選の準備に頭がいっぱいで「そうだ、エントリーしなければ!」と気が付いたのは、締め切りの翌日でした。今年は、そういう事がないようにと注意して申し込み、幸いにも抽選のハードルを越えて、参加することができました。
4時過ぎに須磨浦公園に到着しましたが、例年同様、参加者の列が既にできており、出発できたのは5時20分でした。今回も、国土交通省の後輩の皆さん13人と元気に出発しましたが、案の定5時30分頃から小雨が降りだしました。須磨アルプス辺りまでは揃っていたのですが、鵯越の駅で休憩する時には大分ばらけてきました。菊水山、鍋蓋山を越えて、お昼を兼ねての休憩・集合地点にしていた大龍寺では最速組と最後尾が1時間ほど離れてきましたので、ここからは銘々がマイペースで進むことにしました。
摩耶山頂の掬星台に到着すると「摩耶山を守ろう会」の皆様がホットレモンをふるまって下さいます。体も暖まり、疲れも癒されます。4年前からは兵庫県柔道整復師会の先生方が参加者のために施術をして下さるので、私もテントの中で重くなった足と痛み出した膝を見て頂きました。施術のお蔭で元気を回復して雨にも負けず歩き出しました。
六甲山郵便局ではいつもの美味しい甘酒を頂戴しました。疲れた体には甘いものが本当にうれしいものです。六甲ガーデンテラスを越え、一軒茶屋を越えると、今度は下りです。ヘッドライトをつけて真っ暗な山道を歩くのですが、雨のせいでぬかるんでいるところもありますし、滑りやすくなっています。例年よりはスピードを落として足元に注意しながらひたすら歩きました。大分下ってそろそろ宝塚が近いかなと思っていたら、六甲縦走のボランティアの方から「よく頑張りましたね。ここから10キロです。」と言われ、「まだ10キロもあるのか!」とがっくりきました。それでも、歩くしかありませんので、気を持ち直しながら「我慢、我慢。」と進んでいきました。
宝塚到着は20時丁度でした。途中までは私にしてはハイペースで進んだのですが、徐々に膝のあたりが痛むようになって、ペースダウンしたために、20時に宝塚に着くのがやっとという感じでした。それでも、2年前はあまりに雨が強くて、摩耶山頂の掬星台で中止しましたので、3年ぶり、7回目の完走を達成することができてホッとしました。完走証明書を頂戴すると、同級生の久元喜造神戸市長の名前が入っており、嬉しくなりました。
宝塚の駅前でボランティアの皆様から豚汁と生姜湯を頂戴して、心も軽く帰宅することができました。
六甲縦走を支えて下さっている多くの関係者とボランティアの皆様に感謝の気持ちで一杯です。
大龍寺の山門前で
救護所にて(写真提供:兵庫県柔道整復師会)