里の家ファーム

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「食」を考える。

2020年03月29日 | 食・レシピ

「食を否定から考えたくないんです。食べることは生きることだから」
~ホームレス支援、被災地支援にも飛び回る料理研究家が今やろうとしていること

  Imidasオピニオン2020/03/26
         枝元なほみ(料理研究家)(構成・文/仲藤里美)


非正規雇用や日払いで働いていて、年末年始の休業中に苦しい状況に追い込まれた人たちのために開かれた「年越し大人食堂」。その様子を伝えるニュース映像に、にこにこ笑いながら料理を作る枝元なほみさんがいた。おいしそうなメニューとその笑顔に、彼女の話を聞いてみたくなった。料理研究家であり、ホームレス支援や農業支援にも駆け回る枝元さんは、どんな思いで“ごはんを作る”のか。

たくさんの人に支えられた「年越し大人食堂」
 2019年12月31日と年明け1月4日の2回、都内で開かれた「年越し大人食堂」で料理を担当しました。
 これは、〈東京アンブレラ基金〉、〈一般社団法人つくろい東京ファンド〉、〈NPO法人POSSE〉の三つの団体が協働で実施した取り組み。年末年始のお休みは、日払いや時給で働いている非正規雇用の人たちの仕事が途切れてしまうことが多く、普段は何とかネットカフェなどで寝泊まりしている人も、お金がなくなって路上生活を強いられるケースが増えるのだそうです。
 そうした人たちに向けた労務相談や生活相談の場を設けるとともに、同じ場所で無料の昼食・夕食を提供するというのが、この「年越し大人食堂」の試みでした。私も、雑誌『ビッグイシュー』などを通じて、路上生活をしている人たちへの支援活動に関わってきた縁で参加させてもらうことになったのです。
 開催に向けて、他のイベントでご一緒した全国各地の有機農家さんが、話を聞いてたくさん野菜を送ってくださいました。それはもうすごい量で、一時は自宅の玄関が八百屋さんみたいになって、「どうしよう」と途方に暮れるくらいでした(笑)。
「これは○○さんが作ったじゃがいも」「こっちは○○さんの白菜」と、作った人の顔が見える野菜ですから、葉っぱも皮も全部、絶対に捨てることなく使い切ろうと決意して準備にかかりました。東京では初めての試みということで、どのくらいの数の人が集まるのかよく分からなかったのですが、足りなくなったらまた作ればいい、それでも足りなければ分け合えばいい、何とかなるよ、くらいのゆったりした気持ちでいこうと思いました。
12月31日のメインメニューは、刻んで発酵させておいた白菜を使った酸辣湯風スープ。1月4日はお雑煮と、これまたいただきものの猪肉と鹿肉を使ってカレーを作りました。田畑を荒らすため駆除された猪や鹿の肉の行き場がなくて余っているから、といって分けていただいたんです。
当日、調理の合間には食事をしに来てくれた人たちと話をする機会もありました。まだ若い、本当に今どきの「おしゃれでカッコイイお兄さん」という感じの男性が、「所持金が150円しかなくなってここに来たんです」と話してくれて。道ですれ違っても、誰も彼がそんな生活をしてるなんて思わないだろうな、と考えました。
 同時に、単なる「相談会」だったら、彼は来なかったかもしれないとも思いました。「食堂」という場があって、「ごはんをどうぞ」って言えることで、来てもらうためのハードルが一気に下がったんじゃないかな。
 だから、できれば恒常的にこの「大人食堂」の取り組みができたらいいと思っています。それも、余裕のある人には代金を払ってもらって、生活が苦しい人はもちろん無料で食べられるという形にして、誰もが「ちょっとごはん食べに行こう」って気軽に立ち寄れる場所になったらいいですね。いろんな敷居や垣根を取り払って、生活の苦しい人もそうでない人も、もっと「混ざれる」ような場所を作れたらすてきだなと思うんです。

販売者は「パートナー」──『ビッグイシュー』との出会い
 『ビッグイシュー』との関わりは、日本版の創刊数年目にインタビューを受けたのがきっかけです。「ホームレス」状態の人たちに、お金や食べものを渡すのではなくて「雑誌を路上で売る」という仕事を提供する。『ビッグイシュー』を売っている販売者さんたちは、自分たちにとってビジネスパートナーなんだ、というビッグイシュー日本代表の話を聞いて、すごくいいなと思いました。
 というのは、ちょうどその頃、仕事で「日本型システム、終わってるな」と思うことが続いていたからです。
 たとえば、あるテレビ番組の仕事でのこと。タレントさんが私の自宅スタジオまで来て、いろいろ注文を聞きながらたくさん料理をして、何時間もかかって撮影したんですが、その割にはびっくりするくらいギャラが少なかった。アシスタントへの支払いもあるし、ちょっとこれは……と思って抗議したら、担当者にこう言われました。「上司がこれしか出せないと言っています。バラエティーじゃなくてニュース番組の取材なので……」
また、あるお役所から頼まれた料理教室の仕事は、準備や食材の買い出しの分も含めたら、赤字になりかねないギャラでした。理由は「公共の催しだから」。
それを聞いたのはすでに引き受けてしまった後だったので、そのままやることにはしたのですが、当日役所に行ってみたら、すごい豪華な建物なんですよ。立派な噴水があって、ガラス張りのエレベーターがあって。腕に抱えていた材料の大根を噴水の中に投げたくなりました(笑)。
 そうやって、建物などのハードには湯水のようにお金を使うのに、人に対してはお金を払わない。ニュースだから、公的機関だからという理由で人に「ボランティア」を強制する。それって何かおかしくないか? と思っていたところだったので、販売者さんに対して「対等なパートナー」として接する『ビッグイシュー』のやり方が、とてもいいなと思ったんです。それで、今度はこちらから、ボランティアで何かやらせてください、と申し出て、料理ページの連載をいただくようになりました。今ではちゃんとギャラもいただいてますよ。
 そうやって『ビッグイシュー』とその販売者さんたちに関わる中で気づいたのは、私自身、「ホームレス」の人たちを思い描くときに、「おじさん」──ある一定年齢以上の男性だけをイメージしてたんだな、ということ。でも実際には、もっとずっと若い人たちの状況も大変なことになっているし、もちろん貧困に苦しんでいる女性たちもたくさんいる。そのことを自分が全然イメージしていなかったことに気づかされました。

いつも「きちんと、ちゃんと」しなくてもいい
 今の日本社会を見ていて嫌だなあと思うのは、「きちんと決まりどおりにやらないとダメ」「ちゃんとやらないとダメ」という空気が蔓延(まんえん)していることです。東日本大震災の被災地へボランティアに行ったときに、特にそれを強く感じました。
 せっかく支援物資が届いていても、数が足りなくて全員に均等に分けられないから配らないとか、ストーブがあるのに、あっちのストーブの分の灯油がないからこっちもつけないとか、そういうことがあちこちであったんですね。避難所に傷みそうな野菜がいっぱい積んであるから「もったいないから、料理しましょうか」と聞いても、「うちの担当じゃないので」「私は担当じゃないから分からない」とたらい回しにされたこともありました。
「大人食堂」のときも、ごはんを炊いて、最初はみんなに均等に配れるようにおにぎりにしてたんですけど、どうせおにぎりの大きさだってまちまちなんだし、食べたい量も人によって違うなあと思って、途中から炊きたてごはんを鍋ごとそのままどーんと出すようにしました。そうしたら、みんな自分の好きなだけよそえるし、周りの人の分までよそってくれる人が出てきたりして、にぎやかですごくいい雰囲気になったんです。なんだか疑似家族みたいに、わいわいして。その場、その時に、それぞれ臨機応変に対応することが大事だなっていう思いを強くしました。
 何かイベントやプロジェクトをやろうというときも、じゃあまずきっちり計画を立てて、準備しないとダメだよって言われることが多いです。でも私、そういうことがすごく苦手なんです。
 もちろん、きっちりした計画や準備が大事なことも分かるけれど、実は「後から誰かに文句を言われないように」計画を立てるっていうのもあるんじゃないかなあ、と思って。ひたすら計画を、準備を、と考えているうちに、やらなくちゃいけないこと、やりたいことがどんどん逃げていっちゃう気がします。まずは動き出して、ここが問題だなと思うところがあったらそれを一つずつ解決していく。そういうやり方が、私は好きなんだと思います。というか、そんなふうに進めていかないとモチベーションを維持できないのかもしれません。

誰の「食」も否定したくない
 私は料理が得意でそれを仕事にしてきたし、人に自分の作ったものを食べてもらうのが大好きです。一方で、料理がうまいからそれが何なんだ、料理ってそんなに「特別」なものじゃないでしょ? という思いもあります。
 もちろん、食べものがなかったら人は生きていけないし、食べることも食べものを用意することも大事。ただ、料理するって、一歩間違うと「手作りが愛情表現だ」みたいな道徳的な話とすり替えられたり、「料理は女の仕事」といった価値観を押しつけられたりしがちだから、そこはすごく気をつけなくちゃいけないと思っています。
 あと、安全でおいしいものを食べたい、体にいいものを食べたほうがいいという思いは当然あるけれど、誰かに対して「肉ばっかり食べてちゃダメだよ」とか「またコンビニのごはん食べてるの?」とか、そういうことは絶対に言いたくない。食べもののことを仕事にしているからこそ、食べものに関しては否定形の言葉から入りたくないと思うんです。
たとえばコンビニのものばかり食べてる人がいたら、ただ「それじゃダメだよ」って言うんじゃなくて、なんでこの人はコンビニごはんしか食べられないんだろうということに目を向けたいなと思う。料理する時間がないのかもしれないし、経済的な問題なのかもしれない。その理由を一緒に考えた上で「こっちにもっとおいしい、体にもいいものがあるんだけど、食べてみない?」って差し出したいんです。
 食べることは生きることでもあるから、その人が食べてるものや食べ方を否定すると、その人の生き方まで否定することになっちゃう気がするんです。「これはダメだよ」って押しつけるんじゃなく、価値観や習慣の違いも受け入れた上で、人は食べて生きていくんだよね、という前提をおおらかに共有したい。そう思っています。

キッチンの窓を開けて社会とつながる
 『ビッグイシュー』の他にも、日本各地の生産者を支援する「チームむかご」の活動や、種子法や種苗法の勉強会や活動、「学校給食を有機無農薬に」を進めるイベントなど、いろんな活動に関わっていますが、根っこは全部同じだと思っています。自分がやれること、やったほうがいいと思うことを淡々とやっていく。気になったこと、変だと思ったことを、自分をごまかして「別にいいや」ってスルーしたくない。
 そう考えるようになったのは、やっぱり東日本大震災と福島第一原発事故がきっかけ。農業のこととか、原発のこととか、おかしいなと思うことがあっても、ほったらかしにして何も行動してこなかった結果がこれなんじゃないか、とあのとき気づいたんです。
料理の仕事を何十年もしてきた中で、ただおいしいものを作るとか、おしゃれな流行の料理を考えるとか、そういうことはもう十分にやったなあ、と感じて、「誰も飢えさせない」ということが、食に関わる私のテーマになってきました。
 これって実はかなり大変なことで、平和じゃなければ食べものを生産してくれる人なんて、いなくなっちゃいますよね。経済格差が大きくなれば、飢える人も当然出てくる。経済や外交政策の失敗で食べものの値段がものすごく高くなるかもしれないし、農薬や遺伝子組み換え食品が心配で安心して食べられないということになるかもしれない。いつも冷蔵庫に食べものがあることが、当たり前とは限らないと思うんです。
 だから、今一番言いたいのは、キッチンの窓を開けて社会とつながろうよ、ということ。消費者である私たちが、たとえば「遺伝子組み換え食品なんて買いたくない」と声を上げれば、十分に社会を変える力になります。私たちは、その力をもっと自覚したほうがいいんじゃないかな。「食」さえも利益優先のお金儲けに利用しようとする人たちがたくさんいる中で、私たちが台所にいるということ、そこからちゃんと声を上げていくことこそが、暮らしを守る「砦」になると思うんです。


いい天気です。我が家のア割では、ようやく畔が見えてきました。

室内では君主蘭が咲きそうです。
シャコバサボテンは今年2回目の開花です。
江部乙の方は福寿草が咲き始めました。
明日もいい天気のようで10℃に達するか?
田舎はいいな!
自然はいいな!
農業はいいな!
では、皆さんお元気で!