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雨宮処凛 植松聖被告の法廷に通って その2

2020年03月19日 | 社会・経済

相模原事件、死刑判決。植松被告の「日本滅亡」のシナリオと「カッコ良さ」「頑張り」への過剰な信仰

  Imidasオピニオン(作家、活動家)


    相模原の障害者施設で、入所者らを殺傷した事件の植松聖(さとし)被告について、作家・雨宮処凛が取材を重ねてきた。横浜地裁での一審判決を受けて今、思うこととは?

自分の考えは間違っていないと主張
「被告人を死刑に処する」
 神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が殺害され、26人が重軽傷を負ってから3年8カ月後の2020年3月16日、植松被告に死刑が言い渡された。

 1月8日に始まった裁判は、2月19日、結審した。
 公判は全部で16回。それは、19人という犠牲者の数よりも少なかった。事件から3年以上経過してやっと始まった裁判で、植松被告は事件前に衆議院議長に出した手紙と変わらず「障害者はいらない」という主張を繰り返した。いや、本人が「考えが深まった」と言うように、荒唐無稽な「思想」は彼の中でより強化されていた。
「障害者に使う税金を他に使えば戦争をなくせる」「難民問題も解決できる」「障害者はお金と時間を奪っている」などの主張。

 事件前日、植松被告は一緒に食事した女性に「4、5年経ったらパワーアップして戻ってくる」と語っている。衆議院議長への手紙にも「逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい」と書かれている。それらの言葉からうかがえるのは、事件当時の彼は死刑など予想もしていなかっただろうということだ。
 しかし、とうとう出た死刑判決。
 それにしても、障害者を殺害し、数年間刑務所で過ごした後に「パワーアップして戻ってくる」とはどういうことだろう。法廷で裁判員に「パワーアップとは?」と聞かれた植松被告は以下のように答えてい
る。
植 松 拘置所の中で勉強して、本を読んで成長できました。いろんな人に面会に来てもらって、知識を増やしたり勉強する時間もできました。
裁判員 今の自分はパワーアップできたんですか?
植 松 おかげさまで成長できました。
裁判員 どういうところがですか?
植 松 字がきれいになったり、本を読むことで知識が増えました。考えが深まり、(事件が)間違っていないと思うようになりました。

    事件から3年以上の年月は、彼にとって内省の時間ではなく、自らの犯した罪をひたすら正当化する時間だったのだろう。実際、法廷の植松被告は「障害者は安楽死させるべき」と言い、包丁で刺殺するという「やり方」は間違っていたかもしれないが、自分の考えは間違っていないと一貫して主張し続けた。

彼はなぜ差別的な考えを持ったのか?
 一貫して主張したことはもう一つ。弁護側の「心神喪失で無罪、または心神耗弱で減刑」という訴えに対し、「自分に責任能力はある」と言い続けたことだ。本人がそう主張すればするほど死刑判決が出る可能性が高くなるのだが、精神障害などによって善悪の判断能力がなかった=植松被告も障害者だった、というストーリーは彼にとっては「死刑」よりも回避したいものだったのだろうか。
 裁判中の1月30日、私は初めて植松被告と面会した。その時点で、既に死刑は覚悟している様子だった。死刑について問われると、「死刑は必要だと思います」と制度への支持を表明し、「死刑になるつもりはないですが、死刑判決が出る可能性はあると思っています」と淡々と述べた。もし死刑判決が出たら受け入れるのか? という問いには一切の動揺を見せず「はい」と答えた。
 また、結審の日には法廷で「どんな判決でも、控訴しません」と述べ、3月3日には、事件後ずっと面会を続け、植松被告の手記や漫画を掲載している月刊『創』(創出版)編集長の篠田博之氏に「長い間、お世話になりました」と「今生の別れ」を告げている(篠田博之「相模原事件・植松聖被告『控訴しない』を説得しようと接見、逆に『今生の別れ』をされた」)。

 裁判が終わり、判決が出た今、非常に残念なのは、「施設の在り方」「やまゆり園での支援の在り方」についてほとんど掘り下げられなかったことだ。
 やまゆり園で働き始めた頃、植松被告は障害者を「可愛い」と言い、「やりがいがある」「今の仕事は天職」などと言っている。が、働き始めて2年が経つ頃から「可哀想」「食事もドロドロ」「車椅子に縛り付けられている」などと言い始め、そこから突然「殺す」に飛躍している。
 この間に、一体何があったのか。第9回の公判には、そのヒントが垣間見える。植松被告は差別的な考えを持つようになった経緯について、他の職員の言動を挙げたのだ。
 入所者に命令口調で話す職員。また、暴力を振るっている者もいると耳にしたという。
職員の暴力については良くないと思ったが、「2、3年やれば分かるよ」と言われたという。2、3年経てば、暴力を振るう気持ちがお前にも理解できるよ、ということだろう。それを受け、植松被告は食事を食べない入所者の鼻先を小突いたりするようになったという。
 ここは、事件につながる大きなポイントだと思う。しかし、裁判では施設の問題にはこの部分くらいしか触れられていない。また、やまゆり園の入倉かおる園長はこの日の植松被告の発言を受け、「暴力はない。流動食などの食事形態は医師の指示を受け、家族とも相談して決めている」と述べている(東京新聞「園での勤務経験が影響か 相模原殺傷公判 植松被告が主張」、2020年1月28日)。
 判決後の会見でも、入倉園長は改めてこのことに触れ、聞き取りをした結果、そのような事実は確認されなかったと話した。

施設には何の問題もなかったのか?
 判決後の会見の席では、入倉園長から植松被告の「変化」についても語られた。
 最初の頃は「やんちゃな兄ちゃんだけど悪い印象はなかった」という。が、事件を起こす16年の年明けくらいから障害者を「ヤバいですよね」「いらないですよね」と軽い感じで言うようになり、そこから「障害者はいらない」と話すようになったという。また、遅刻をしたり退勤時間でないのに勝手に帰ったりするようになり、足が悪い利用者を誘導しながら自身はポケットに手を突っ込んでいたりするようになったそうだ。
が、そんな植松被告に対してまだ若いから育てていこうという気持ちもあり、先輩職員たちは「できると褒める」なども繰り返していたらしい。一方、入倉園長は、植松被告が「障害者は可愛い」と言っていたことに対し、それは決して大切にしていたという感じではかったということも強調した。
 それでは、施設には何の問題もなかったのか。ちなみに裁判中の1月21日、神奈川県の黒岩祐治知事は、厚木市の知的障害者施設「愛名やまゆり園」で虐待があったことを明らかにしている。
 同施設では、複数の入所者が職員に風呂場で水を掛けられたり、夜中に1〜3時間トイレに座らされたり、また食事制限のある入所者が大量に食べさせられたりしていたという。施設を運営するのは「社会福祉法人かながわ共同会」。事件があった津久井やまゆり園も運営していた。

    事件直後から私は多くの関連イベントや集会に参加しているが、津久井やまゆり園において、不適切なケアがあったのではという声は幾度か耳にしたことがある。が、真偽のほどは確かめようもない。一方で、やまゆり園云々ではなく、「大規模施設ではいつかああいう事件が起きるとどこかで思ってた」と話す人も少なくない。

待遇に不満があったわけではない
 重度障害者であり、参議院議員の木村英子氏は、判決を前にした朝日新聞のインタビューで「意思疎通のとれない人は社会の迷惑」「重度障害者がお金と時間を奪っている」という植松被告の主張に対し、以下のように述べている(朝日新聞「偏見や差別、被告だけじゃない やまゆり園事件判決を前に れいわ・木村英子議員」、2020年3月10日)。
「同じような意味のことを施設の職員に言われ続けました。生きているだけでありがたいと思えとか社会に出ても意味はないとか」
 木村議員は幼い頃から18歳までの大半を施設で過ごしている。優しい職員もいたが、そこは「牢獄のような場所」だったという。
「一番嫌だったのは『どうせ子どもを産まないのに生理があるの?』という言葉です。全ての施設がそうとは思いませんが、私がいたのはそういう施設でした。
 自由のない環境で希望すら失い決まった日常を過ごす利用者を見た人たちが、『ともに生きよう』と思えるでしょうか。偏見や差別の意識が生まれたとしても不思議ではありません」
 彼女の言うように、全ての施設がひどいとは思わない。また、木村議員が施設に入っていたのは35年ほど前のことである。が、その話で、ある人のことを思い出した。障害者たちで結成されたバンド「スーパー猛毒ちんどん」のメンバーの一人だ。
 ステージで白塗りメイクに派手な衣装で注目を集める男性メンバーは、10年間ほど、施設に入っていたことがあるという。が、その時の「思い出」を聞くと、一つも思い出せないというのだ。5人くらいの部屋だったのに、同室の人の名前も思い出せない。施設を出て地域で暮らしてからのことはよく記憶していてよく話すというのに、10年間の記憶がほぼない。現在はバンドメンバーとして活躍している彼だからこそ、「施設時代」がそれほど空白の時間だったということに衝撃を受けた。
 環境によって、人は変わる。大きく可能性を得たり、失ったりする。植松被告はやまゆり園で働くうちに障害者に対して「生きている意味があるのかと思うようになった」そうだが、その人々が地域で暮らしていたり、様々な人と繋がっていたり、「スーパー猛毒ちんどん」のようなバンドで人気を博していたりしたら、恐らくそんなことは思わなかっただろう。

 一方で、植松被告はやまゆり園に不満があったわけではないことを法廷で主張した。
 そもそも障害者が嫌なら事件を起こすのではなく、やまゆり園を辞めれば良かったのに、と法廷で遺族に言われた時、植松被告はこう言った。
「やまゆり園に不満があったわけではありません。施設の中ではいい施設だったと思っています。やまゆり園に不満があったのではなく、障害者に対する施設の在り方がおかしいと思いました」
 待遇に不満があったわけではないことは、植松被告は篠田氏への手紙にも書いている。そうして手紙はこう続く(月刊『創』編集部編『開けられたパンドラの箱』、創出版)。
「3年間勤務することで、彼らが不幸の元である確信をもつことができました」
 そんな植松被告は、ドナルド・トランプ米大統領候補(当時)の演説から「これからは真実を伝える時代が来る」と時代の変化を感じ、施設の職員と雑談している時に「この人達を殺したらいいんじゃないですかね?」と言ったという。何気なく出た言葉だったそうだ(同書)。

事件の全容はいまだ解明されず
 そんな植松被告の言葉に触れていると、裁判が始まる少し前に読んだ最首悟(さいしゅ さとる)さんのインタビューが頭に浮かぶ。重度障害がある娘を持つ最首さんは、雑誌『コトノネ』32号(コトノネ生活)で以下のように語っている。
「わたしの教え子で障害者福祉に携わるものに言わせると、植松青年の犯行の原因は、『優生思想でも、なんでもない。単純な嫉妬ですよ』ってことです。社会的に何もできないものが、優遇されてノウノウと生きているのに対するやっかみだって。それに引き換え、おれは生活保護一つ取るのだって大変なのに、という」
 つまり植松被告は、障害者が自分と比較して「守られて」いるように見えたのではないか。
 守られ、ケアされる存在。かたや自分はどこにも守られず、剥き出しの競争社会に投げ出され、「自己責任で勝ち抜け」「役に立つ人間でないと生きる資格などない」という脅迫を日々受け、値踏みされている。毎日、毎分、毎秒。社会の物差しは「役に立つかどうか」だけではない。見た目だって評価の対象になるから彼は美容整形と医療脱毛にも励む。
 そうして必死で「努力」している彼の目に、障害者は「怠けている」ように見えたのではないか。
 法廷や面会で見た彼の他人への評価基準は「カッコいい」と「頑張ってる」である。トランプ大統領を「カッコいい」と絶賛し、安倍晋三首相について「頑張っている」と支持を表明する。それ以外にも法廷で「頑張ってる」は人を評価する言葉として何度も出た。そこに垣間見えるのは、「頑張り」に対する信仰だ。とにかく頑張ることは尊いこと。そして自分は頑張ってる、頑張ってきた、それなのに全く頑張らない奴らがいるのは許せない、頑張らないのに生きていることが特権的に許されているなんて不公平だ、自分はこんなにも頑張ってきたのに――。

 法廷や面会、手紙で「待遇に不満はない」と繰り返す植松被告だが、事件前、友人や交際相手に、やまゆり園での仕事について「感謝の言葉がない」「報われない」「給料が安い」と不満を漏らしていた(裁判での供述調書より)。もし、感謝の言葉があり、それなりに彼が「報われた」と感じ、そしてもう少し給料が高ければ、あんな事件は起きなかったのだろうか? そう考えると、あまりにもやるせない。
 判決の日、記者会見で息子の一矢さんが重傷を負った尾野剛志さんは開口一番、言った。
「遺族、被害者家族が望んだ結果になり、ほっとしている」
 しかし、こうも言った。
「本当にスッキリしない。結局もやもやもしたまま結審し、判決に至った」
「これからずっともやもやすることで植松に負けたことになる」
 私の中にも、もやもやはたくさんある。事件の全容が解明されたとはとても思えない。
 ただ、尾野さんは「唯一、望んでいた判決が出たことだけが救い」と言った。

最後に第一審裁判を終えて思うこと
 さて、このまま控訴しなければ、植松被告は確定死刑囚となる。植松被告にとって確定死刑囚は、生きる意味のない存在だ。死刑囚が長期間生きながらえているのは税金の無駄だから早期に執行すべきと主張してきたのだ。その死刑囚になった時、彼は早期執行を望むのか。
 一方で、彼が死刑を覚悟している背景には、世界の出来事を予言するという「イルミナティカード」への傾倒も垣間見える。植松被告によると、日本は今年滅びるらしいのだ。首都直下型地震が起きるだけでなく、6月か9月に横浜に原子爆弾が落ちるとも言っている。
 現在の新型コロナウイルス感染拡大と、それによって引き起こされている混乱は、植松被告の目には「滅亡という予言が当たる前兆」に見えているのかもしれない。そして彼自身の中には自身を「命をかけた革命家」と思っている節もある。
 しかし、日本は滅びず、世界は終わらず、死刑執行までの長い長い時間が続き、刑の確定によってメディアや著名人との交流一切を絶たれ、ごくごく限られた人としか面会できずに「忘れられた」存在となったら。
 その時植松被告は、初めて事件と向き合うのかもしれない。


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