里の家ファーム

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「根性大国ニッポン」の「お・も・て・な・し」

2018年07月31日 | 社会・経済

「暑さはチャンス」なぜ東京オリンピックは「太平洋戦争化」してしまうのか?

  文春オンライン  辻田 真佐憲 2018/07/31

   猛暑の日本列島で、東京オリンピックはいよいよ「太平洋戦争化」しつつある。五輪組織委員会の森喜朗会長は、インタビューにこう答えている。

「この暑さでやれるという確信を得ないといけない。ある意味、五輪関係者にとってはチャンスで、本当に大丈夫か、どう暑さに打ち勝つか、何の問題もなくやれたかを試すには、こんな機会はない」(2018年7月24日、『日刊スポーツ』)

 

これは、典型的な「ピンチはチャンス」論法だ。戦時下日本の指導者たちも、敗色が濃くなるほど、同じように「好機だ」「絶好の機会だ」「神機到来だ」との空手形を切り続けた。

 

「ピンチはチャンス」論法 1944年、東条英機の場合

 

 たとえば、東条英機は1944年7月のサイパン島陥落後にこう述べている。

「正に、帝国は、曠古の(前例のない)重大局面に立つに至つたのである。しかして、今こそ、敵を撃滅して、勝を決するの絶好の機会である」

 そこまでいうならば、なにか特別な秘策があるのかと思ってしまう。だが、続く箇所を読むと、それが空虚な精神論にすぎないことがわかる。

「この秋(とき)に方(あた)り皇国護持のため、我々の進むべき途は唯一つである。心中一片の妄想なく、眼中一介の死生なく、幾多の戦友並びに同胞の鮮血によつて得たる戦訓を活かし、全力を挙げて、速かに敵を撃摧し、勝利を獲得するばかりである」(『週報』1944年7月19日号)

 

 同じような例は枚挙にいとまがない。いわく、本土に戦線が近づいたので有利。いわく、空襲で日本人の覚悟が固まったので有利――。その悲劇的な帰結は、今日われわれがよく知っているところだ。

 この経験があったからこそ、非科学的な精神論はこの国で深く戒められてきたはずだった。それなのに一部のテレビでは、猛暑は日本人選手にとって有利だなどと喧伝されているのだから始末に負えない。

 

小池百合子の「打ち水」はまるで竹槍精神

 

 小池百合子都知事は、ついに「総力戦」で暑さ対策に臨むと宣言した。

「木陰を作る様々な工夫、打ち水、これが意外と効果があるねと、一言でいえば総力戦ということになろうかと思う」(2018年7月23日、テレビ朝日)

 しかるに、聞こえてくるのが、木陰、打ち水、よしず、浴衣、かち割り氷などでは、なんとも心もとない。これではまるで「竹槍3万本あれば、英米恐るるに足らず」の竹槍精神ではないか。

 毎日新聞の新名丈夫記者は、1944年2月に「竹槍では間に合はぬ」「飛行機だ、海洋航空機だ」と書いて東条英機を激怒させた。それに倣って、「打ち水では間に合わぬ」「冷房だ、エアコン設置だ」ともいいたくなる。

 

安倍晋三の「冷暖房はなくても……」とボランティア動員

 

  もちろん、道路の遮熱性舗装や街頭のミストの設置などの対策も講じられてはいる。だが、もともと「我慢が大事」などの精神論が幅をきかし、小学校のエアコン設置さえ滞っていた国である。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、秋にもなれば、予算節約の大義名分のもと、精神論が復活するのではないか。

「冷暖房はなくてもいいんじゃないか…」(2015年8月28日、『産経新聞』)

 そういって、新国立競技場のエアコン設置を見送ったのは、ほかならぬ安倍晋三首相だった。

 その一方で、ボランティアの動員などは着々と進められている。企業も大学も、予算や優遇措置などで徐々に切り崩されていくだろう。マスコミだって、「努力と涙と感動」式の肯定的な報道で耳目を集めたいという誘惑にどこまで抵抗できるのか甚だ疑わしい。

 このままなし崩し的に東京五輪に突き進みそうだからこそ、太平洋戦争の刺激的な教訓が参照されなければならない。

 

「文句をいっても仕方がない」という「過剰適応」

 

   戦時下の軍人や官僚たちも、決して狂っていたわけではない。にもかかわらず、空虚な精神論が蔓延ったのは、不可能な状況に無理やり適応しようとしたからだ。

 国力も足りない。物資も足りない。明らかに米英のほうが強い。必敗なのに、必勝といわなければならない。ではどうするか。精神力だ。ピンチはチャンスだ。われらに秘策あり。こう叫ぶしかない。狂気はある意味で、合理的な帰結だったのである。

 それゆえ、東京五輪に関するおかしな状況には異議を唱え続けなければならない。そこに過剰適応して、「もう開催するのだから、文句をいっても仕方がない」「一人ひとりがボランティアなどで協力しよう」などといってしまえば、問題点が曖昧になり、関係者の責任も利権も問われなくなってしまう。

 たとえば、つぎのように――。

「敵は本土に迫り来つた。敵を前にしてお互があれは誰の責任だ、これは誰の責任だと言つてゐては何もならぬ。皆が責任をもつことだ。(中略)今や『我々一億は悉く血を分けた兄弟である』との自覚を喚び起し、困難が加はれば加はるほど一層親しみ睦び、助け合ひ、鉄石の団結をなして仇敵にぶつつかり、これを打ち砕くの覚悟を固めねばならぬ」(『週報』1944年7月19日号)

 

精神論とその犠牲の繰り返しは御免こうむりたい

 

 疲弊した現代の日本で、しかもよりにもよって猛暑の時期に、やらなくてもよい五輪を、なぜ開催しなければならないのか。それをねじ込んだのは誰なのか。今後本当に効果的な猛暑対策は取られるのか。

現在と戦時下では多々差異があるとはいえ、精神論とその犠牲の繰り返しは御免こうむりたいものだ。だからこそ、これから「感動」「応援」の同調圧力が高まるなかでも、こうした問いは絶えず発し続けなければならないのである。


 いやはやなんとも・・・・・・
ついに「太平洋戦争」と比較されちゃうとは。

先日の記事「根性大国ニッポン」の狂気と同じではないか。この精神論をも海外のお客様に理解してもらおうという「お・も・て・な・し」か。狂ってる!狂気としか言いようがない。

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安倍“皇帝”への道 & 薬の副作用

2018年07月30日 | 社会・経済

古賀茂明

「圧勝間違いない安倍総理が目指す総裁4選と“皇帝”への道」

AERAdot  2018/07/30

   7月24日、岸田文雄自民党政調会長が秋の同党総裁選不出馬と安倍晋三総理支持を表明した。野田聖子総務相が、スキャンダルの泥沼にはまっていることから、総裁選は、安倍総理と石破茂元防衛相の一騎打ちとなることが事実上決まった。

 自民党総裁選は、国会議員票(405票)及びそれと同数の地方票で争われるが、安倍総理支持は、党内最大派閥の細田派(事実上の安倍派)94人、第2派閥の麻生派59人、第5派閥の二階派44人の主流3派だけで国会議員票の5割近いのだが、これに加えて第4派閥の岸田派48人が加われば、6割超だ。約70人の無派閥議員のうち50人近くが安倍支持と言われるので、それを加えると7割超となる。

 第3派閥の竹下派55人のうち参議院の21人が石破氏支持という報道があるが、石破派は20人だから、各派閥の中で脱落者が多少出るとしても、安倍氏の圧倒的リードは揺るがない。

 石破陣営は、地方では、元々石破氏人気が高く、また、モリカケ疑惑など一連の安倍夫妻がらみのスキャンダルもあって、総裁交代を望む声が強いと読むが、そう単純でもない。自民党の選挙は、単なる人気投票ではなく、利権の争奪戦という側面が強いからだ。このため、早い段階で勝負の行方がわかると、「勝ち馬に乗る」動きが一気に加速する可能性もある。

 こうした情勢の中で、大手マスコミ各社は、一斉に「安倍3選有力」という記事を流している。まだ、誰も正式立候補していないのにこうした情報を流すのが、安倍氏を利することはもちろんよくわかったうえでの報道だ。

■2019年に全てをかけて4選を目指すのは規定路線?

 反自民と自民党内の反安倍勢力にとっては、早々に「安倍早期退陣」の希望を断たれた格好で、今秋以降は3年後の2021年の次々期総裁選に向けた動きに焦点が移っていくことになる。

 そこで、思い出していただきたいのが、年頭の本コラム「安倍総理3選で憲法9条改正へ突き進む2018年」(同年1月.1日配信) だ。

 今後の展開は、ほぼそこで予測した通りに進んでいくのではないかと思う。

 時系列で見て行くと、まず、総裁選では、安倍総理は、憲法改正を争点化するとすでに表明している。ここでは、おそらく9条改正に絞って議論を展開するのではないかとみられる。9条2項の戦力不保持条項を削除するという石破氏に対して、安倍案は、9条2項も含めて現行条文をそのまま残し、新設する9条の2で自衛隊を規定するだけだとする。両案を並べれば、まるで安倍氏が「平和主義」の守護神であるかのようにさえ見える。これは、自民党内のハト派党員向けのみならず、来年の憲法改正の国民投票を睨んだパフォーマンスと見ることができる。

 総裁選で安倍案を掲げて勝利することにより、秋の臨時国会では、早々に野党側に自民の改憲案を提示する環境が整う。臨時国会では、豪雨災害対策として最大級の補正予算を通して、被災地への配慮を示したうえで、本格的な改憲議論を始め、臨時国会終盤までには審議時間をかなりこなしたという実績を積み上げるだろう。もちろん、被災地での自衛隊の活躍も最大限アピールされるはずだ。

 10、11月には那覇市長選と沖縄県知事選がある。翁長知事の出馬はかなり厳しい状況で、しかも、オール沖縄から経済界の重鎮が離脱するなど反安倍陣営の結束力に陰りが見える中、ここでも最大級のバラマキを行えば、今年最大の難関であるこの選挙を勝ち抜くのはそれほど難しくないかもしれない。

 その後は、とにかくスキャンダルを出さないように慎重に事を進め、来年1月召集の通常国会冒頭では、19年10月の消費税増税対策と称して、「史上最大の予算」を組み、あらゆるバラマキ予算を総動員する。

そのバラマキで、春の統一地方選をうまく乗り切れば、次のテーマは憲法改正の発議だ。その前に天皇の交代という一大行事があるが、むしろ、それは国会の議論で野党が審議拒否などしにくいムードを作るのに役立つ。そして、新天皇即位ブームのお祭りが終わればすぐに発議の採決を強行するだろう。与党は衆参両院で3分の2を占めるうえ、維新が大阪へのカジノ誘致承認とのバーターで改憲に賛成してくれるので、多少無理をすれば、ここも十分にクリアできる。

 来年の夏の経済状況は、年頭コラムで指摘したとおり、10月の消費税増税前に住宅や自動車・高額商品の駆け込み消費で空前の消費・住宅投資ブームとなっている可能性が高い。五輪特需の建設ブームもその頃がピークアウトの寸前だ。

 安倍政権は右翼の岩盤層に支えられているが、それだけでは国民投票には勝てない。これに加えて中間層の支持を獲得しなければならないが、そのための最大の武器が、「アベノミクスで景気が良くなった」というイメージ戦略になる。その観点では、駆け込み景気が盛り上がる19年夏に全ての勝負をかけるのが最も合理的だ。

「景気がいいね」「また時給が上がったよ」「安倍さんのおかげだね」「そうかもね」「憲法は古いんだってね」「携帯もネットもなかった時に作ったらしいよ」「自衛隊が違憲だってことになってるらしいよ」「それは変だね」「安倍さんが変えなくちゃいけないと言ってるんだって」「確かにそうかもね」という感じで、経済が良くなったと感じている層では、案外抵抗感がなく、改憲が受け入れられてしまう可能性もある。

 ここで勝負をかけるのであれば、参議院選と国民投票の同時実施は当然の選択だ。いっぺんにやれば、資金力に勝る自民党が有利だからだ。

 さらに考えれば、この状況で衆議院選挙をやらない手はないということになる。逆に、ここでやらなければ、秋の消費税増税後に経済が落ち込むと、当分は解散はできなくなる。20年のオリンピック直前の盛り上がりはあっても、その時期に選挙をやるのは無理だ。五輪が終わると、一気に経済が冷え込むという予測もあり、そうなると、21年10月の任期切れまでに解散できるタイミングはないかもしれない。どう考えても19年夏に行うのが最善の選択ではないだろうか。

 ということで、19年夏には、衆参同日選と国民投票のトリプル投票となるかもしれない。そうなると野党側は大変だ。何しろ、参議院だけでも候補者が足りないのに、衆議院選も同時となれば、おそらく十分な候補擁立ができないだろう。無理して立てても泡沫ばかりということになりかねない。

また、参議院の選挙協力もまだ進んでいないのに、衆議院も同時に選挙協力というのは、衆参の貸し借りが錯綜し、仮に協力区ができても一枚岩で戦えるところは極めて限定された数にとどまると思われる。

 さらに、三つの選挙をいっぺんにやるには膨大な資金力が必要となり、この面でも自民党は非常に有利になる。

 こうしたシナリオは、経済のことを考えれば、ごく自然に出て来るものだ。これ以外のシナリオは逆に考えにくい。今頃になって、衆参同日選の可能性が浮上して来たなどと書き始めた政治部記者もいるが、それでも未だ少数なのは、政治部の記者たちが経済音痴だからなのかもしれない。

 改憲が成立し、与党が衆参で大勝する可能性もかなりある。仮に3分の2は取れなくても議席減少がそれほど大きくなければ、自民党支持層での安倍総理への評価は高まるだろう。少なくとも今年の総裁選で惨敗するかもしれない石破氏や、安倍氏と戦うのを逃げて禅譲に望みをかける岸田氏など敵ではない。強いて挙げれば小泉進次郎氏が最大のライバルという状況になるだろう。

 今年の総裁選後の人事や来年の選挙の公認権、そして、来夏の衆参選挙後の人事などで、まだまだ安倍総理の権力は残る。

 しかし、現在の自民党の党則では、総裁は3選が上限となっている。となれば、今年の総裁選後は、どんなに頑張ってもレームダック化が進むのは避けられない。

 当然、安倍総理側は、その防止策を考えているはずだ。通常の人事などの手段以外に考えられる方策としては二つある。

   一つ目は、前述した来夏の衆議院選実施である。その噂を今から流せば、公認権の行使という権力を最大限に活用できる。ただし、それは、来年夏までしか使えない。

 そこで、考えられる二つ目の方策が、「安倍4選」の可能性を意識させることだ。安倍総理は、3選禁止だった党則を変えて今回の総裁選への立候補を可能にしたという実績がある。同じことができないはずはない。総裁選後の党人事で、4選を可能とする党則改正を幹事長候補と密約するということもあるかもしれない。あるいは、幹事長候補がそれを自ら安倍総理に持ちかけるという展開も十分に考えられる。前回の改正の際には二階俊博幹事長がその議論の先頭に立った。今回も、同じ役割を担うことは十分にあり得る。二階派は、自前の総裁候補がいないので、安倍氏と他派閥の総裁候補を自由に天秤にかけられる。安倍新体制の中での優遇措置を得るために4選戦略の先兵になっても全く不思議ではない。

 今すぐ動くというわけではないが、早い段階から4選の憶測をプレスに流し、雰囲気を醸し出す。そのうえで、来年の改憲達成の暁には、「これだけの歴史的偉業を成し遂げた総裁を決まりだからと言ってクビにするのはいかがなものか」という議論を展開。消費税増税前に一気に4選可能な党則改正に持って行くか、あるいは、議論を続けて、20年の五輪パラリンピック開催の余韻を使って、改正するか。最悪改正が実現しなくても、その可能性があると思わせている間は、レームダック化に歯止めがかかる。

 もちろん、その間、安倍氏自身は、総裁選ルールは党で議論すべきことだという立場を堅持し、予定通り退任して岸田氏に禅譲というオプションもちらつかせることで、岸田派の支持を確保し続けるということもやるだろう。

■野望は膨らみ総理から安倍皇帝へ?

 これまでの議論に対して、そこまでうまく行くはずがないと思う人も多いだろうが、これまでの安倍氏の強運を考えると、あながち荒唐無稽な話ではないと考えた方が良い気がしてくる。

 安倍総理の野望は、拙著『国家の暴走』(2014年、角川新書)で指摘したとおり、日本を平和国家から、米ロ中のような「列強国家」に変えることだ。そして、その列強のリーダーとして、軍事力を背景に世界秩序に影響力を行使する。それが夢なのではないか。

 その夢を果たすためには、憲法9条改正だけでは全く足りない。極東では中国の習近平、ロシアのプーチン、北朝鮮の金正恩らが、国内での独裁体制を基盤にして、国際社会に大きな影響力を行使している。仲良しのトルコのエルドアン大統領も憲法改正して権限を強化した。一方の安倍総理は、国内では1強体制を築いたが、北朝鮮問題一つとっても国際的舞台では蚊帳の外だ。とても、列強国のリーダーになったとは言えない。

そうなるためには、緊急事態条項や基本的人権の制限などのより踏み込んだ憲法改変が必要だ。それを基にして、国民生活を犠牲にできる体制を作り、軍事力を飛躍的に強化するには、さらに10年単位の時間が必要になるだろう。21年までの総裁任期を4選後の24年まで延ばしても十分ではない。

 総裁4選規定の廃止の際には、「初の改憲を実現し、オリンピックを成功させた総理」としての実績をアピールして、一気に、多選禁止規定そのものの廃止も議論される可能性がある。終身総裁も視野に入れた規定になるかもしれない。

 もちろん、国内では持てる権力は無制限に行使し、自民党はもとより、野党もマスコミも経団連も支配して1強体制を強化する。その先に見えるのは、終身制の独裁者、「皇帝」への道だ。

そんな恐ろしいことにならないうちに、この野望を止めることができるのは誰なのか。

そう自問しても、すぐには答えが見つからない。

 日本の民主主義は、本当に瀬戸際に立たされている。(文/古賀茂明)


 野望を食い止めることができるのは国民でしょう。安倍への支持をなくすことだ。

薬の副作用

 5月10日ごろと20日ごろ、原因がわからない38度を超える熱が出た。風邪だろうと思っていた。解熱剤としてロキソニンが出た。それを服用してから腕、脚などに猛烈なかゆみを伴う湿疹が広がった。汗疹のような小さなブツブツではなく、少し大きなブツブツだ。当時、草刈もしていたし、毛虫もいた。だから毛虫の毛毒にやられたのではないかと思っていた。皮膚科に行ったときに医師に聞いたが、毛虫ではないといわれた。
 その後、6月になってもまた高熱が出た。残っていたロキソニンを飲んだ。また同じ病院へ行ったが風邪の諸症状はないといわれ、血液検査をすることとなった。
その時の検査結果がこれである。

肝機能の数値が異常に高くなっていた。
こんなことは初めてのこと。とはいえ、今までにこの薬を飲んでから血液検査などしたことがなかったのでわからなかっただけなのかもしれない。 
 以前、腰痛の時もこの薬が出ていたが、その時も具合が悪くなって薬を変えてもらった経過がある。今では、この薬は歯医者・整形の痛み止めから内科の解熱剤など、広範囲で使われている。
 結局、高熱の原因はわからないままであるが、わたしにはこの薬が合わないということが分かった。今では数値は正常に戻っているが、皮膚の炎症がいまだ続いている。以前からある炎症に加えてのもので、とてもつらい。

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さらに野菜高騰?

2018年07月29日 | 野菜・花・植物

野菜襲う猛暑…次は台風 品薄、さらに高騰の恐れ

東京新聞 2018年7月27日

 連日の猛暑と天候不順で野菜の生育が悪化し、幅広い品目で値上がりが目立っている。東京都内のスーパーではキャベツやレタス、キュウリなどが例年の一・五倍から二倍近く高い。当面は高値が続く見込みで、週末にかけ本州に接近しそうな台風12号の影響も懸念されている。

 東京都練馬区のスーパー「アキダイ」では、キャベツが一玉二百三十八円で、例年より二倍近く高い。夏場に人気のゴーヤーも一本百二十八円で例年の一・五倍だ。

 近くの主婦、折間桂子さん(40)は「水分の多い野菜をたっぷり取って暑さをしのぎたいのに、どれも割高感が強い」と嘆く。同店の秋葉弘道社長は「猛暑の次は台風が心配だ。不安材料がありすぎて、いつ価格が落ち着くか読めない」ともらす。

 農林水産省がまとめた二十四日の東京都中央卸売市場における卸売価格は、継続的に調査している主要野菜十四品目のうち八品目が、過去五年の平均価格より二割以上値上がりした。

 同省園芸作物課によると、キャベツやホウレンソウなどの葉物野菜は関東地方の産地が猛暑による気温上昇と少雨の影響を受けた。ダイコンとキュウリは産地の東北地方が六月下旬に長雨となったため、生育が悪くなった。

 卸売価格が小売価格に反映されるには一週間から十日ほどかかるため、少なくとも八月初めまでは店頭での高値が続く見込みだ。同課の担当者は「台風が産地を直撃すれば、さらに品薄の状況が長期化する可能性がある」と指摘する。 (矢野修平)


 台風の被害が心配です。これ以上大きくならないことを願っております。

 こちらもとうとう30℃超えです。明日はさらに3.4度も高くなる予報です。
あれほど降ってもういらないと思った雨でしたが、もうしばらく雨がなく、露地は乾ききった状態です。

 今日は兄弟姉妹全員でお墓の草刈りなどしてきました。お墓は旭川にあり、ほかの兄弟姉妹はみな札幌です。そんなわけで、滝川の道の駅で待ち合わせて行ってきました。今年採れた野菜をお供えしました。

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二次被害も含めたセクハラ被害をなくすためにできることー望月衣塑子 (東京新聞社会部記者)&キューリ

2018年07月28日 | 社会・経済

imidas時事オピニオン2018/07/27

皆が声を上げられる社会は実現するのか?

二次被害も含めたセクハラ被害をなくすためにできること

 

  望月衣塑子 (東京新聞社会部記者)

 

(構成・文/村山加津枝)

 

  日本では、すぐに下火になったかとも思われた、#MeToo運動。しかし、福田淳一前財務省事務次官によるセクシュアル・ハラスメントを女性記者が告発、その後、福田氏の対応のまずさなどから抗議の声が上がった。一方で、新たなセクハラ事例が次々に表面化している。今、報道の現場はどのような状況なのか? 報道の現場に限らず被害をなくすにはどうすればいいのか? 被害者が声を上げるために必要なことなどを、東京新聞の望月衣塑子記者に聞いた。

 

女性ジャーナリストの敵は身内?

 

 2018年5月21日、大阪国際大学の谷口真由美准教授が代表を務める「メディアにおけるセクハラを考える会」が、メディアに携わる女性を対象に、セクハラ被害についてインターネットを通じて調査した結果を発表しました。その調査結果によると、セクハラの加害者として多いのは、国会議員ら政治関係が11%、警察・検察が12%、いちばん多いのが社内、いわば身内からのハラスメントで、40%という数字(東京新聞2018年5月22日朝刊)はちょっとショックでしたね。

  私自身は、社内でそうした被害に遭ったことはありません。ただし10歳以上先輩の女性記者たちに聞くと、入社当時「なんで女に警視庁や特捜(特別捜査部)回らせるんだ」とか「女に事件記者は無理だ」とかいう発言が平然と行われていたと聞きます。女性蔑視の時代だったんだなあと、ギャップを感じます。「考える会」の調査で社内の被害に遭ったという人は、そうした上の世代の割合が多いのではないでしょうか。

  1986年に施行された男女雇用機会均等法以降、東京新聞では女性記者の採用が徐々に増え、私が入社した2000年頃には新規採用者の約3割になっていました。最近は、入社試験の成績上位者は女性記者の割合が多いらしいのですが、様々なことが考慮された結果、男女半々ぐらいになると聞いています。人数が増えたことで、政治部や社会部に配属になる女性も増えています。

  しかし、現状、東京新聞では論説委員ポストにある女性は早川由紀美記者の一人だけで、部長クラスは一人もいません。それでも、ずっと男性が占めてきた政治部長というポストに、2015年にはフジテレビの渡邉奈都子さんが、2017年には、毎日新聞の佐藤千矢子さんや日本テレビの小栗泉さんが就いています。そうした目に見える変化も出てきているのです。

  部長職に女性がいることだけではなく、産休明けの私に武器輸出の取材を勧める男性上司がいるとか、社会部に出産後の女性記者が何人もいるなんて、先ほど話した先輩女性記者の時代には考えられなかったと思います。女性記者が増えたことだけが理由ではありませんが、東京新聞では、かつては紙面の中面でしか取り上げられてこなかった待機児童などの育児・教育の問題や女性の貧困など様々な問題が、今はトップ記事になるようになったことも、大きな変化だと思います。

ただし社によっては、出産後、社会部に残ることを希望しても企画系の部署に異動になることが現実としてまだまだ多いです。地方の新聞社では、数の少ない女性記者を取り巻く社内環境は変わらず、活躍の場は限定されているとも聞きます。こうした女性差別的な環境下では、身内からのセクハラだけではなく、取材先の男性からのセクハラ、パワーハラスメントも起きやすいのではないかと思います。

 

伊藤詩織さんの存在が大きく影響

 

 つい最近、セクハラ被害に遭った元早稲田大学文学学術院の女子学生が、相手の大学教授を告発したことが話題になりました。彼女は「たとえ匿名で告発したとしても、個人攻撃など被害は何かしら起きるかもしれないという怖さはありました。でも、最近の#MeToo運動を見て、自分も声を上げてもいいのだと思い、決意しました」と「プレジデント オンライン」(2018年6月20日)のインタビューで答えています。

  このようにセクハラの被害者が声を上げるようになったことには、ジャーナリストの伊藤詩織さんの存在が大きく影響していると思います。私は、2017年5月、彼女が顔を出し実名でレイプ被害を公表した直後に会って、取材をし記事にしました。その後も何度か会っていますが、一人の勇気が世の中を変えていくのを実感しました。

  例えば、彼女が声を上げた直後には、人気ブロガーのはあちゅうさんや元厚生労働事務次官だった村木厚子さんなど著名な人たちも、封印していた自身の過去のセクハラ被害を告白していました。

  今年に入ってから、4月には福田淳一財務事務次官(当時)からの被害をテレビ朝日の女性記者が告発し、マスコミでも大きく取り上げられました。同じく4月には、官民ファンドの「クールジャパン機構」の役員に対して元派遣社員の女性が訴訟を起こし、その裁判の第1回口頭弁論で「被害者に寄り添っていない」と訴えました。同年5月、それまでのセクハラ疑惑に対し覚えがないと言っていた高橋都彦(くにひこ)狛江市長が、被害者4人が実名で抗議文を出したことから辞職表明に追い込まれました(6月4日に辞職)。6月に入ると、4日付で停職9カ月の懲戒処分を受けた外務省のロシア課長のセクハラ疑惑が、新聞や週刊誌で騒がれました。

  このように、続けざまに表面化したのには、やはり被害に遭った女性たちが詩織さんに触発されて「声を上げよう」という思いに至ったのだと思います。詩織さん自身の件については、なかなか日本のマスコミでは取り上げられていません。しかし、BBCやCNN、ニューヨークタイムズなど、海外では取り上げられていて、BBCは詩織さんのドキュメンタリー番組を制作、6月28日(現地時間)に放送しました。日本のマスメディアより海外のマスメディアの方が、詩織さんの事件を大きく、かつ詳細に報道し、日本社会の性犯罪被害者たちへの排他的な姿勢や、警察の性犯罪捜査の問題点を浮き彫りにしました。

  こうした番組の放送後、SNS上では多くの応援の声もありましたが、相変わらず信じられないようなバッシングもありました。ドキュメンタリーの中で自由民主党の杉田水脈(みお)衆議院議員が、ほかの議員らと詩織さんを揶揄(やゆ)するイラストを見て笑ったり、BBCからの取材に対して、女性として落ち度があったという趣旨の発言をしたりしているのを見たときは、開いた口が塞がりませんでした。

  生まれ育った日本では安心して暮らせない、メディアでもなかなか取り上げてもらえない。そんな詩織さんの状況は、見ていて切ないですし、本当に腹が立ちます。安心した居場所を求めて、彼女が活動の拠点をイギリスに移したのは、当然の成り行きだったのかもしれません。

 

問題解決のために立ち上がる女性たち

 

 福田氏のテレビ朝日の記者へのセクハラにも、同じ記者として怒りを感じました。許されない行為であることは明白です。

  さらに批判の的となったのが、財務省が謝罪しているのに当事者の福田氏はセクハラを否定し反省もしていないこと。そして麻生太郎財務大臣の「はめられた可能性は否定できない」、下村博文元文科大臣の「(福田氏は)はめられたと思う」「(被害者による録音は)ある意味で犯罪」というコメントでした。あまりのひどさに、4月18日、新聞労連が「『セクハラは人権侵害』財務省は認識せよ」、民放労連が「財務次官セクハラ疑惑と政府の対応に強く抗議する」という声明を出しました。

  5月1日には、女性記者が喧嘩を売られたようなものだから受けて立とうという気運から「メディアで働く女性ネットワーク(WiMN:Women in Media Network Japan)」が設立され、15日には代表世話人の二人、元朝日新聞記者の林美子さんとジャーナリストの松元千枝さんが記者会見しました。

私もメンバーとして加入しています。詩織さん、テレ朝の女性記者の勇気ある告発、そして、その後の麻生大臣や下村議員の発言に、「負けてはいられない」「もう傍観者でいるわけにはいかない」という思いがありました。

  会のメンバーは、新聞社や通信社、テレビ局、出版社などの社員、フリーランスも含めて86人(記者会見時)です。会員には現役の記者も多くいますが、記者会見に出席したのは、フリーの二人だけでした。本来は、皆で顔を出して声を上げたいところです。

しかし、これまで声を上げた、詩織さんやテレ朝の女性記者への誹謗中傷やネット上でのバッシングは凄まじく、最終的に現役の記者たちが顔出しすることは見送られました。

  WiMNは、林さんと松元さんを中心に、今後は、シンポジウムの開催やSOSが出せるような受け皿作りを検討していくなど、様々な取り組みを進めていきたいとしています。まだできたばかりの団体ですが、メディアで働く女性たちが立ち上がり、組織を作り、声を上げ始めた意義は大きいと思います。セクハラやパワハラに苦しんでいる、メディアで働く人以外の女性や男性にも、良い影響が出てくるようになったら嬉しいです。

 

我慢しなくていい社会に

 

 先ほど、社内でセクハラを受けたことはないと言いましたが、私の場合は、若い頃、千葉や横浜のサツ(警察)回りなどもしていて、外部からのセクハラというのはありました。おそらく支局時代にセクハラ・パワハラの洗礼を受けるというのは、若手の新聞記者は男女問わず、皆経験することになるのではないでしょうか。

  私の場合は、千葉の方はまだのどかな感じでしたが、横浜では、赴任早々、警察幹部に「助手席で話そう」と言われて車に乗り込んだら、いきなり抱きつかれたのです。すぐに知人に相談したら、「相手は警察内で処分されるかもしれないけど、警察からの印象は悪くなり、取材がやりづらくなるかもしれない」と言われました。すっごく悩んで、結局、告発するのをやめました。

  ただし、自分の中でどうしても納得がいかなかったので、その幹部のいる警察署へ行き、人の見ていない所で、はっきりと抗議しました。そうしたら「そんなに怒ってるとは思ってなかった」と平謝りされ、「ああ、この人、自覚がなかったのか」と納得し、相手が謝ったことで許すことができました。

  その後も何度か同じようなセクハラには遭いましたが、取材に慣れていくにつれ、それを「受け流してきた」という面がありました。当時は、「取材のためだから仕方ないか」と思っていたわけですが、自分より若い世代の記者たちが、今、ひどい目に遭っているのを目の当たりにしたり、後輩たちから相談を受けたりすると、10年以上前に、私自身がもっときちんと声を上げていれば、後輩たちが苦しむことはなかっただろうと反省させられます。

  これはきっと、記者という立場の女性だけではなく、他の業界でも、仕事のためだからとやり過ごし、我慢してきた人たちも同じ思いだと思います。私のように市井の声を拾える、人に伝えられる仕事に就いている者は、もっともっと声を上げていかないといけないと思います。

残念なのは、せっかく勇気を出して声を上げた女性を批判したり中傷したりする人の中に、同性の女性がいることです。自分たちは「若い頃、こうだった」と言うのならまだしも、「私は我慢したんだから、あなたも我慢しなさい」ではなかなか社会の意識が変わっていかないと思います。電車内でのベビーカーの使用について論争があったときも、高齢の女性たちが「自分たちはちゃんとおんぶしていた。ベビーカーは車内で使うな」という批判があったと聞きました。もしずっと我慢していたのなら、我慢しなくて済む社会、より子どもを育てやすい社会の方がいいですよね。それがセクハラに関連することなら、我慢しなくて済む社会の方がいいに決まっています。

 

声を上げられる力を

 

 セクハラに関して声を上げるには、教育も大事かなと思います。

  私には娘がいますが、彼女にはきちんと自分の考えを表現できる人間になってほしいです。先生の言うことに従って、黒板に書いたことをただ書き写して、丸暗記する。私の子ども時代は、そんな教育が当たり前でした。でも、それだけではクリエイティビティは育たないし、新しい価値観や創造力も生まれにくい。教師やお上の言うことが当たり前だと思わされ、声を上げられない人間になってしまいそうです。

  アメリカでは、今年3月、高校生が中心となった銃規制の強化を訴えるデモに、首都ワシントンだけで約80万人、全米では約100万人が集まったといいます。海外のニュース映像だったかと思いますが、トランプを批評する4、5歳の女の子の映像を見たときには思わず笑ってしまいました。そうしたことができるのは、常に親や教師たちが、相手がどんなに小さな子どもであっても政治のことを語り合い、ディスカッションすることが身についているからでしょう。自分の考えや思いを伝えるために声を上げる、その力がはぐくまれているのではないかと思いました。

  そのアメリカでさえ、#MeToo運動以前には、なかなか声を上げられなかったことを考えると、セクハラの問題はなかなか手強いとも言えますが。

 

オヤジ文化、体育会系のノリに「NO」

 

 今一度自分を振り返ってみると、特捜部を担当していた頃、元特捜部検事の家にお正月集まるときは女性記者たちがみんな着物を着るということが慣習化していて、私も着物で行きました。女性であることを取材で利用したことがまったくないかと聞かれたら、女性だから取材のための飲みに付き合ってもらえたことも多かったと思いますし、否定はできません。

  女だから、男だから、と性差を声高に叫び過ぎることも、それはそれでギスギスした社会になってしまう可能性もあります。ただ、これだけは言えるのが、当事者が嫌がっているなら、それだけでセクハラだということ。これを理解できていないことが、セクハラをしている側の自覚のなさにつながっているのだと思います。

  これには、いわゆるオヤジ文化とか体育会系のノリ(!?)というものも影響している気もします。例えば男性記者の場合は、セクハラよりもパワハラが問題で、取材相手の言いなりに芸をするなど、「情報を取るために、ここまでするの?」という情景を見ることも少なくありません。今やスポーツ界でもこれまでは当然と言われてきた体育会系のノリが問題になっているのですから、女性に限らず男性も嫌なことにははっきり「NO」と言いましょうと言いたい。取材する側が、はっきりと声を出すことで、取材される側の意識も変わっていくことが必要な時代になったのではないでしょうか。

  福田氏のセクハラ問題を受けて、政府は省庁幹部へのセクハラ研修の義務化など緊急対策を講じるようで、野田聖子男女共同参画大臣が取りまとめをしていて、会見をしました。しかし、その後も耳を疑うような政治家の発言が引きも切らずで、もっと厳しく対処してほしいし、研修を受けなければいけない人がたくさんいます。さらには、「セクハラ罪という罪はない」と麻生大臣が言いましたが、日本にセクハラ罪がないことは、国連からこれまで問題視されてきました。今回の#MeTooの動きを契機に、何より政府は、日本にもセクハラやパワハラへの罰則を作っていく道を模索していくべきです。

 

ジワリジワリと変えていく

 

 これまでは、女性の問題と捉えがちだったセクハラ問題ですが、加害者が男性であれば当然男性の問題でもありますし、男性が被害者になることも、女性が加害者になることだってあるわけです。

  自分の周囲を見回すと、男性で麻生大臣のような考えの持ち主はほとんどいません。WiMNの賛助会員には男性もいます。これからはもっと理解のある男性が増えていくだろうし、セクハラ問題を「女性」対「男性」という構図で考えるのはやめて、双方が生きやすい、働きやすい社会を目指して、共に変えていけるようになればいいですね。

  身内から受ける被害が多いなら、第三者的な相談窓口も必要になってくると思います。何かトラブったときなど、社内だけで何とかしようとするより、客観的に見て、判断できる弁護士や外部の専門家に相談すると、問題が整理されるし、人間関係を忖度して悩んだりせず、淡々と事が運ぶことも多いと聞きます。

  いかにも「闘うぞ!」というのとはまた違った形、もっと等身大というか、それぞれが無理なくできる範囲での闘い方、応援の仕方がある気もします。セクハラをしていることに無自覚な人には、「NO」をはっきり言うことで、私の体験のように相手に変化が訪れるかもしれません。

  今後も一足飛びにこの問題が解決するとは思えません。それでも、これまで声を上げてきた多くの勇気ある人たちのためにも、それに続く人が出てくることが肝心です。そして声を上げられる環境があって、声を上げた被害者を守るしくみやサポートするしくみをきちんと作ることも重要です。

例えば、LGBTをめぐる社会環境は少しずつ変化が出ており、今やカミングアウトする人も増えました。またお茶の水女子大学などが、戸籍上男性であってもトランスジェンダーの学生の入学を受け入れると発表するなど、周囲の対応も変わりました。同じように、セクハラ問題もあきらめることなく、ジワリジワリと変わっていけばいい、変えていけたらいいなと考えます。


今日はキューリがたくさん採れました。

 訪問看護ステーションジョジョのSさんが昨日のブログでこのように書いていたのでご紹介しよう。

完熟キュウリは店には無いので
以前は完熟キュウリ作るために自分でキュウリを植えていたが
今は自分で植える余裕が無く
多くの人が捨てる太いキュウリや完熟キュウリをもらってくる

そこで
それを見た人の反応がほとんど
なに・・・これ、捨ててるよ・・・と来る

私も4~5年前までは同じだった
黄色くなったキュウリはもちろん
大きくなったキュウリなんて捨てていた

4~5年前に利用者さんから「騙されたと思って食べて見られ」と言われ
完熟キュウリを食してみた

うそ・・・美味しい、香が違う
だから
自分で植えていたのだが

今は余裕が無いので
人が捨てる完熟キュウリ
欲しいと言うと
向こうが恐縮する完熟キュウリ
だから
遠慮なくもらって来れる

職員に勧めてみた
食してみた職員は・・・美味しいと


昨日も例のごとく完熟キュウリを貰って来たが
完熟キュウリは残ることなく貰われていった

    ***

キューリは大きくなると緻密さがなくなり、おおざっぱな味になる。
シャキシャキとした触感を楽しむか、香りと味を楽しむか両方あっていいのではないだろうか。
捨てるなど、もったいないことだ。
もう一つ、完熟キューリの食べ方。
鍋にも使えます。
特に、マーボナスに向いてます。
暑い中、冷やしたマーボナスもどうだろうか?

キューリの食べ方で、注意しなければならないのは、ビタミンCを破壊する要素が入っているので、酢などのドレッシングを必ず使用することです。

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相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」での凶行から2年

2018年07月27日 | 社会・経済

後を絶たない差別・排除発言 これぞ安倍自民党の体質だ

 

  日刊ゲンダイ 2018年7月27日

 

 「障害者は生きていてもしょうがない」――。独善的な凶行から、26日で2年。相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた植松聖被告(28)は今なお、拘置所内で「意思疎通のとれない重度障害者は安楽死させるべき」などと差別的な主張を繰り返す。同様の偏見とさげすみ、差別と排除の考えに毒されているのが、現在の自民党の腐った姿だ。

  「子どもをつくらない」ことを理由に、LGBTのカップルは「生産性がない」と断言。彼らへの税金投入に異議を唱えた杉田水脈衆院議員を筆頭に、所属議員によるLGBTや子を持たない女性への蔑視に基づく、見過ごせない暴言、失言は枚挙にいとまがない。

  二階幹事長は先月、「子どもを産まないほうが幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」と吐き捨てた。加藤寛治衆院議員が「子どもは3人以上、産み育てて欲しい」と言えば、山東昭子元参院副議長は「子どもを4人以上産んだ女性を表彰する」と言い出す始末。昨年には竹下亘総務会長が、天皇・皇后主催の晩さん会への国賓出席を巡り、「(国賓の)パートナーが同性だった場合、私は(出席に)反対だ。日本国の伝統には合わないと思う」と嫌悪感をあらわにした。

 これらの暴言の根底にあるのは、極めて個人的な選択である出産の有無でさえ、「生産性」という尺度で測ろうとする冷徹な風潮だ。

 

■人種差別や帝国主義とも通じ合う愚かな発想

 

  本来、家畜や機械に当てはめる「生産性」という言葉が、彼らの文脈だと、子の有無に限らず、病気などを理由に働くことができない人や障害者にも当てはまる。

  現実に大西英男衆院議員は、「(がん患者は)働かなくていい」とヤジを飛ばし、穴見陽一衆院議員は衆院厚労委の参考人として招聘した肺がん患者に「いい加減にしろ!」と執拗にヤジを浴びせた。ジャーナリストの斎藤貴男氏はこう言った。

 「自民党内でおぞましい考えが蔓延しているのは、小泉政権以降の『新自由主義経済』の加速と無縁ではありません。市場原理に基づく競争主義が、何でもかんでも『経済生産性の有無』によって物事の良し悪しを決めようとする傾向を生み、出産しない人まで『生産性』の枠に落とし込め、社会悪と見なすようになったのです。この風潮は人種差別や資本家の搾取、帝国主義を正当化した19世紀の『社会ダーウィニズム』に通じます。進化論を拡大解釈し、ブルジョア階級を産業構造の変化と競争の適合者と見なして社会的地位を優遇する一方で、労働者階級の地位が低いのは、環境に適応できないためと淘汰したのです。ただ、社会的条件を無視した競争主義は、恵まれた家系の人々が有利となるのは当たり前。いかにも家柄重視で2世、3世のボンボン議員が幅を利かせる自民党らしい発想です」

  人を家畜や機械扱いにし、人だと思わないのが、この集団の本音だ。危うい主張の行き着く先は「弱者に権利を与えるな」「国の役に立たない者に生きる価値なし」という極論であり、「第2、第3の植松」を扇動しかねないのだ。

偏狭なアベ信者は新自由主義経済の落とし子

 生産能力のない者を“社会の敵”と見なす本音を「1億総活躍」「すべての女性が輝く社会づくり」など美辞麗句で覆い隠してきたのが、アベ政治の5年間だ。そのグロテスクな核心部分が、いよいよ隠しきれず暴言・暴論の形で噴き出しているのである。

 経済的生産性を突き詰めれば、真っ先に邪魔者扱いされて排除されるのは、仕事をリタイアしたお年寄りだ。

 実際、安倍政権は経済成長重視で「生産性革命」の旗を掲げる一方で、福祉や社会保障費をガンガン削減。麻生財務相もかつて、高齢者の終末医療について、「政府のお金でやってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と耳を疑う暴言を放った。

 「安倍政権は、憲法25条が定める『国の生存権保障義務』を国からの『施し』と考えているのでしょう。この政権が続けば、年金受給額をますますカットし、支給開始年齢を引き上げる。いずれ高齢者は排除されるか、死ぬまで働くかの二択しかなくなってしまいます」(法大名誉教授・五十嵐仁氏=政治学)

“生産性がない”からといって、この政権に排除される運命を受け入れるのか。お年寄りは黙っていてはいけない。

 ■生きづらさを補うため、より弱い者を叩く

 それにしても驚くのは、「優生思想」の塊のような杉田水脈のツイッター投稿を追うフォロワーの数が、約11万5000人にも及ぶことだ。多くが彼女の主張を支持しているとみられ、「生産性なき者は去れ」という差別思想が、ある程度の層に受け入れられていることを物語る。

 なぜ、かくも冷酷な発想がこの国に浸透しているのか。その元凶も新自由主義の台頭と無関係ではなさそうだ。過剰な競争主義は、必ず勝ち残れず淘汰される人々を社会に産み落とす。彼らは人と比べて「経済的生産性が高くはない」と感じるようになる。

 自信喪失と敗北感から逃れるため、自分より生産性の低いと思われる人々、自分より弱いと思われる人々を攻撃対象として求めていく。その歪んだ発想こそが「ヘイト」の正体ではないのか。

その証拠に差別的な「嫌韓・反中」ブームや、経済弱者叩きが横行したのも、小泉政権が新自由主義に舵を切り、「勝ち組、負け組」なる新語が定着した時期と重なる。歪んだ風潮を自民党は後押し。片山さつき参院議員らは生活保護バッシングを巻き起こし、稲田朋美元防衛相は、ごく少数の在留外国人の生活保護不正受給をやり玉に挙げ、より過激な「嫌韓・反中」の図式へと強引に誘導した。前出の五十嵐仁氏は言う。

 「第2次安倍政権発足前年には『3・11』が発生。不安や恐怖心が増大する中、『絆』という美名で同調圧力や集団化が加速し、狭小なナショナリズムが台頭したように感じます。さらにSNSの発展を媒介にして、異端やマイノリティーを認めず、政権に盾突くものは許さない論調が拡散。ついには杉田氏のように、そんなヘイトムードにこびへつらう議員まで現れた。この風潮の根底にあるのも、やはり現代の新自由主義経済です。競争社会に生きづらさを感じても、少数派を排除することで、自分は多数派に属しているという心の安定をもたらす。それだけにヘイトはタチが悪いのです」

■差別をつくって政権浮揚に結びつける悪辣さ

 競争主義とヘイトの醜悪な融合――。その結果、自民党内に限らず、この国は「ヘイト中毒」状態の人々であふれてしまったのだ。

  「かつてオウム真理教のようなカルトに走った社会に不満や不安、生きづらさを抱く人々が、今は少なからずヘイトに流れている。その動きを助長しているのが、安倍首相による意識的な社会の分断です。昨年の都議選の『こんな人たち』発言に象徴される“内なる敵”と、中国や北朝鮮の脅威をあおり続けた“外なる敵”づくりには、常に差別意識がつきまとう。政治的に差別を生み出し、政権浮揚に結びつけているとしか思えません」(斎藤貴男氏=前出)

  くしくも、26日は残されていたオウム死刑囚6人の死刑を執行。これで麻原彰晃元代表ら全13人の死刑執行が完了した。裁判で最後まで事件の指示を認めなかった麻原の無責任さは、国会で「私が改ざんを指示したわけではない」と言い逃れ、森友文書改ざんの全責任を部下になすりつけた安倍の姿と重なる。

  ヘイトにまみれた“アベ信者”も悪辣な“グル”の正体にそろそろ気づいたらどうなのか。


少し水遊びでも、とゴムボートを引っ張り出してみたが穴だらけ。

リサイクルショップへ行き、子供用のボート購入、2000円なり。

一面ジュンサイに覆われて進むのも難しい。
それでもだんだんと進むようになる。

スイレンの咲くところまできた。

 

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「根性大国ニッポン」の狂気

2018年07月26日 | 社会・経済

 

子供の熱中症死を続出させる「根性大国ニッポン」の狂気

 

  DIAMOND online 2018.7.26

 窪田順生:ノンフィクションライター

   災害級猛暑の中で、熱中症にかかる子どもが続出している。こんな事態になってなお、なぜ日本人は根性論から抜け出せないのか。旧日本軍に蔓延していた「狂った考え」が、今なお日本社会全体を覆っているからではないだろうか。(ノンフィクションライター 窪田順生)

「亡き女子マネへ…」
美談にされた酷い事件

   根性論が蔓延していた旧日本軍の演習では、「日射病で死者七名」(当時の表現)なんてのは当たり前。そして戦後70年以上経つ今も、この狂った考え方は日本社会に深く根付いたままだ(写真はイメージです)

 気が狂いそうになるような連日の暑さのなかで、本当に気が狂ってしまったのではないかと心配するような、「子どもへの虐待」が続発している。

 7月17日、愛知県豊田市の小学校ではすさまじい炎天下で高温注意情報が出ているなか、エアコンのない校舎で過ごしていた1年生112人に、さらに1キロ離れた公園まで歩かせて、昆虫採集や花摘みをさせるという暴挙に出た。

 行きの道中から疲れを訴えていた男の子は、唇が真っ青になって意識を失い、そのまま帰らぬ人となった。熱中症のなかでも、重い症状にあたる「熱射病」だった。

 甲子園の地方予選でも、炎天下で母校の応援に駆り出される子どもたちがバタバタと倒れている。あまりに犠牲者が出て感覚が麻痺してしまったのか、いつもは何かと「子どもを守れ」と世間にご高説を垂れる「正義の大新聞」までおかしなことを言い始めた。

 新潟の私立加茂暁星高校が地方予選準決勝で敗れたことを、「練習直後に倒れ…亡き女子マネジャーへ、捧げる2本塁打」(朝日新聞デジタル2018年7月22日)と報じたのだ。

 タイトルだけ聞くと、漫画「タッチ」を思わせるような甲子園感動秘話を連想するかもしれないが、正確には、この女子マネージャーは、「練習後に約3.5キロ離れた学校に戻るため、選手とともにランニングをさせられて倒れた」のである。

 しかも、遺族によると、倒れた時に心室細動を発症していたが、野球部の監督は「呼吸は弱いけれどある」(朝日新聞デジタル2017年7月25日)とAEDを使わず、救急車が来るのを待っていたという。数日後、女子マネージャーは低酸素脳症で亡くなった。

戦前の「軍国美談」にソックリ
異様な「甲子園美談」報道

 どう考えても「いやあ、甲子園って本当にいいものですね」で済まされるような話ではないにもかかわらず、甲子園の主催社として高野連に「忖度」でもしたのか、8月5日の開幕へ向けて全国の「甲子園大好きおじさん」を煽るコンテンツにすり替えられてしまっているのだ。

 太平洋戦争時、赤紙が来た夫が戦闘に集中できるようにと、自ら命を絶った妻を「日本女性の鏡」だと褒めちぎった戦前マスコミの「軍国美談」を彷彿とさせる、異常な「甲子園美談」報道といえる。

 今年の暑さは異常だ。そんな言葉が日本全国にあふれているが、異常だ異常だと騒ぐわりに、大人よりも暑さに弱い子どもたちに対して、なんら特別なケアをしようとはしない。むしろ、「教育」や「鍛錬」の名のもと、積極的に殺人的な暑さのなかへ放り込む。

 当然、犠牲者が出るが、大人たちは責任追及もせず、反省も促さない。普段は「子どもを守れ」とエラそうなことを言っている人たちも、「避けられなかった悲劇」みたいに妙に歯切れが悪くなるのだ。社会全体で無言の圧力をかけて、「亡くなった子どもはたまたま暑さに弱かった」という方向へ持っていく。

 なんてことを言うと、「亡くなった子どもたちは気の毒だが、だからといって、あまり極端に過保護にするのもいかがなものか」みたいな反論をする人たちが必ず出てくる。

「昔の部活はもっと過酷だった。炎天下で、1人や2人ぶっ倒れるこどなど珍しくもなかった」「昔はクーラーなんてなかったから、もっと暑かった。そういうなかで遊んだり、スポーツをしたりすることで、強い子どもになる」――。

 こういう「認識の決定的なズレ」を耳にするたび、デジャブというか、これと似たやりとりが延々と無限ループしているような話があったなよな、と考えていたのだが、最近ようやくそれが何かを思い出した。

米兵に多くの死者を出した
「バターン死の行進」

 太平洋戦争中の「バターン死の行進」である。

 フィリピン進行作戦をおこなっていた旧日本軍が、投降した米軍兵士たちをバターンからオードネルというところまでおよそ100キロ、歩かせた行軍のことである。

 その過程や捕虜収容所で、米軍兵士に多くの死亡者が出たことから、旧日本軍の「捕虜虐待」として戦後に裁かれ、責任者だった本間雅晴中将は処刑されている。

 おいおい、現代日本の熱中症死と、70年以上前の戦争中の出来事を一緒にするなよと思うかもしれないが、実は両者の正当性を巡る論争というのは、驚くほど似ている。というか、丸かぶりだ。

 この「バターン死の行進」は、アメリカ人からすれば今も許せぬ非道な「虐待」だが、日本の愛国心溢れる方たちからすれば、「米軍捕虜のわがまま」「戦争に勝った後に日本を不当に貶めるための言いがかり」ということになっている。

 要は「虐待」ではないというのである。

 その根拠となっているのは、旧日本軍が歩かせた「100キロ」というのが、1日換算では20キロで、そんなに過酷ではないということだ。米軍捕虜は武装解除しているので手ぶらである。屈強な米兵が十分な休憩を与えられながら歩いたというのなら、実態としては「ウォーキング」程度のものであるにもかかわらず、大袈裟に被害者ぶっているというのだ。事実、「同じルートを同じ時期に歩いてみたけど、まったく余裕だった」みたいなことをおっしゃる方もたくさんいる。

 両者の主張の是非はともかく、筆者が強く感じるのは、昨今の熱中症議論とほぼ同じ無限ループに入っている点だ。

虐待の意図はなくても
実際に人が死んでいるのが現実

 たとえば、冒頭で紹介した豊田市のケースでは、熱射病で命を奪われた子ども側の視点に立てば、「あんな暑いなかで1キロも歩かせるなんて虐待だ」となる。しかし、これを「虐待ではない」と主張する人は、「同じことをして平気な子どももいるんだから、その子がたまたま身体が弱かっただけ」となる。

「バターン死の行進」についていまだに歴史的評価が分かれているのと同じで、子どもの熱中症死をめぐる認識のズレも、その溝を埋めることは難しく、どうしても堂々巡りになってしまうのだ。

 ただ、白黒をつけることはできないものの、両者の構造が同じなのであれば、なぜこういう悲劇が起きてしまうのかという根本的な原因を探ることはできる。

 実際にフィリピン・ルソン島で砲兵隊本部の少尉として敗戦・捕虜生活を送った経験のある評論家の山本七平氏は、「一下級将校の見た帝国陸軍」(文春文庫)のなかで、「バターン死の行進」についてこのように述べている。

《収容所で「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは、本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである》(P.98)

 このあたりの認識の悲劇的なまでのすれ違いは、子どもの熱中症死にもピッタリ当てはまる。豊田市の1年生を受け持った担任も、女子マネージャーにランニングをさせた監督も、子どもたちを故意的に残虐に扱おうなどと微塵も思っていなかったはずだ。むしろ、彼らの基準では温情をもって待遇していたはずだ。

 たとえば、報道によると、亡くなった女子マネージャーは監督から「マイペースで走って戻るように」(朝日新聞デジタル2017年7月25日)と言われたという。この監督なりの気遣いをみせているのだ。

 しかし、結果として子どもは死んだ。温情をもって待遇した米軍捕虜がバタバタ倒れたように。

日本の大人が信じ込んでいる
“クレイジーな基準”

「そんなのは防ぎようがないだろ」と思う方も多いかもしれないが、筆者の考えはちょっと違う。そんな言葉が出てしまうこと自体、「防ぐつもりがない」のではないか。つまり、そもそも「温情」のベースとなる「基準」が、狂っているとしか思えないのだ。

 それを示唆するのは、かつて自身も「米兵への虐待」の当事者として、この問題に向き合った山本七平氏の以下のような記述である。

《日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そしてこれは単に行軍だけではなくほかの面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。》(同書P.98)

 一方、太平洋戦争時、既にアメリカは車社会だった。普段から長時間歩く習慣のないアメリカ人たち、しかもジャングルで戦闘を繰り広げて体力が落ちている彼らに、「犠牲者折り込み済み」のハードな行軍を基準として少しばかり優しくしても、「虐待」としか受け取られないというわけだ。

 このすれ違いは、熱中症死を引き起こす大人たちにも見られる。彼らがこれまで受けてきた教育は、「暑い日は外に出ない」なんて生やさしいものではない。「炎天下のなかで体を鍛える」ためには、「1割や2割が倒れるのも想定内」というものだ。

 こういうクレイジなー基準を持つ大人がいくら温情をかけても、子ども側からすれば「虐待」以外の何物でもないのだ。

 保護者からの受けも良く、子どもたちからも人望のある「いい先生」が、熱中症や「しごき」で次々と子どもの命を奪うのは、彼らの人間性に問題があるからではなく、彼らが正しいと信じ込んでいる「日本的基準」が狂っているからなのである。

甲子園だけじゃない!
日本企業にも息づく狂気

 この狂気はどこからくるのか。そのヒントは、やはり「死の行進」を生み出した日本軍にある。実は旧日本軍の演習でも、今の高校野球の練習を彷彿とさせるかのように、暑さでバタバタと人が倒れていた。

 85年前の夏には、富士山の裾野演習をおこなっていたところ「赤坂第一聯隊 殆ど日射病で倒る 死亡七名 重軽患者百数十名」(読売新聞1933年7月3日)なんてことがちょこちょこ起きている。

 なぜこういうことになるのか。そこには、戦後アメリカ軍が日本の敗因を分析したレポートの中にもある「精神主義の誇張」がある。「重傷も癒す精神力 戦場の将兵は科学を超越する」(読売新聞1940年12月28日)なんて記事からもわかるように、「精神力」を鍛えれば、どんなに体をいじめても問題なし、という考えにとらわれていたのである。

 これが教育現場に持ち込まれ、今だに綿々と息づいているのが、部活動であり、甲子園である。「動じぬ精神力・打ち勝つ野球… 打倒私立へ、都立の意地」(朝日新聞デジタル×ABCテレビ 2017年7月8日)なんて見出しからもわかるように、スポーツ科学が発達した今もなお、高校球児たちは、旧日本軍的な「精神力があれば何でも乗り切れる」という「根性指導」を強いられている。

 そして、もうお気づきだろうが、この「1人や2人ぶっ倒れるのは想定内」という根性論は、教育を終えた子どもたちが身を投じる企業社会にも当てはまる。強い組織を作るためには、「1人や2人ぶっ倒れるのは想定内」という厳しい鍛錬のなかで、強い組織人をつくることが求められる。

 そこから脱落して、心を病んだり、自殺をしたりする人は「たまたま弱かった」で片付けられる。つまり、部活で子どもの熱中症死が何度も繰り返されるのと、ブラック企業で若手社員の自殺が後を絶たない問題は、根っこがまったく同じであり、それは「バターン死の行進」にも通じる、「犠牲者を前提とした組織運営」という狂った基準があるのだ。

 今年も甲子園が開幕する。猛暑のなかで肩を酷使しながら速球を投げるピッチャーや、意識朦朧としながら白球を追いかける野手を、同じく暑さでフラフラな子どもたちが喉を枯らして応援をする。子どもたちが苦しみ悶えて、がっくりと膝をつく姿を見て大人たちは、「なんて美しい姿だ」と感動をする。

「異常な暑さ」という言葉をテレビや新聞で耳にタコができるほどよく聞くが、もしかしたら異常なのは暑さではなく、我々の社会の方ではないのか。

 


 暴風雨の日にこんなことをするだろうか?むしろ暴風雨よりも危険だという認識があるのだろうか?楽しいはずの夏休みだ。命を落とすようなことになってはいけない。

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誰のための「判決」・・・?

2018年07月25日 | 社会・経済

君が代判決 強制の発想の冷たさ

  東京新聞 2018年7月25日 社説

 卒業式で君が代を歌わなかったから定年後に再雇用されない。その不当を訴えた元教諭の裁判は一、二審は勝訴でも、最高裁で負けた。良心か職かを迫る。そんな強制の発想に冷たさを覚える。

 もともと一九九九年の国旗国歌法の成立時には、当時の小渕恵三首相が「新たに義務を課すものではない」と述べた。野中広務官房長官も「むしろ静かに理解されていく環境が大切だ」と。さまざまな思いへの理解と寛容があったのではないだろうか

 だが、実際には異なった。東京では教育長が二〇〇三年に「校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」と通達を出した。強制の始まりである。

 入学式や卒業式は儀式であり、式典としての秩序や雰囲気が求められるのは十分に理解する。一方で国旗国歌に対し、「戦時中の軍国主義のシンボルだ」と考える人々がいることも事実である。教室には在日朝鮮人や中国人もいて、教師として歌えない人もいる。数多くの教員が処分された。

 憲法が保障する思想・良心の自由との対立である。強制の職務命令は違憲でないのか。しかし、この問題は一一年に最高裁で「合憲」だと決着している。間接的に思想・良心の自由を制約するが、法令上の国歌の位置付けと公務員の職務を比較衡量すれば正当である。そんな理由だった。

 仮にその判断を前提にしても、重すぎる処分には断固として反対する。最高裁も一二年に「減給以上の処分には慎重な考慮が必要だ」と指摘した。思想信条での不利益だから当然である。

 今回の原告二十二人は〇七~〇九年に定年で再雇用を求めたが拒否された。現在の希望者全員が再雇用される制度の前だった。

 その点から最高裁は「希望者を原則として採用する定めがない。任命権者の裁量に委ねられる」とあっさり訴えを退けた。

 失望する。一、二審判決では「勤務成績など多種多様な要素を全く考慮せず、都教委は裁量権の逸脱、乱用をした」とした。その方が納得がいく。

 再雇用は生活に重くかかわる。君が代がすべてなのか。良心と職とをてんびんにかける冷酷な選別である。日の丸・君が代は自発的に敬愛の対象となるのが望ましいと思う。

 自然さが不可欠なのだ。高圧的な姿勢で押しつければ、君が代はややもすると「裏声」で歌われてしまう。


 今日は28度くらいまで上がった。昨日とは全く違う体の疲れを感じてしまった。「無理しない、無理しない」と言い訳しながらさぼっている。

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子供たちに最高の夏休みを!

2018年07月24日 | 社会・経済

貧困家庭の子ども「魔の夏休み」

  みわよしこ - ダイヤモンド・オンライン - 2018年4月13日

 

夏休みは子どもにとってサバイバル?「子育ちサポーター講座」の挑戦

 2018年4月、3回連続の「子育ちサポーター講座」という新しい試みが始まる。主催するのは、大阪市生野区を中心に活動する民間研究会、「生野子育ち社会化研究会」(生野子育ち研究会)だ。

 背景には、大阪市の中でも生活保護の利用率が高く、貧困状態にある子どもたちも多いという生野区の事情がある。その事情に、民間の障害者支援・高齢者支援が長年にわたって続いてきた歴史や、空き家・空き室問題を都市農業と組み合わせて解決しようとする試みが重なっている。大阪には、「元・子ども」である青年の引きこもりとその後の生活支援に長年取り組んできた団体もある。また貧困の救済・支援、さらに貧困研究も盛んだ。

 様々な関心が、子どもたちに「も」向けられて重なり、「生野子育ち研究会」は2016年に発足した。共有している思いは「親だけに子どもを育てさせない。」だ。

 研究会の目的は、「子育ち」の「社会化」、子どもが育つこと・育てることを社会の共同事業とすることだ。メンバーはNPO、市民団体、「子ども食堂」関係者、研究者と幅広い。主に子どもの支援に取り組んできた「大阪子どもの貧困アクショングループ」(NPO法人・CPAO)代表の徳丸ゆき子さんも、2015年の設立準備段階からコアメンバーとして加わっている。私も、メンバーの末席にいる。

 もちろん、「親をラクにさせていいのか」という批判もある。また、「親だけに子どもを育てさせない」という思いを実現する方法として「保育園全入化が望ましい」というところで合意が見られたとしても、「どのような保育園がよいのか」というイメージまで一致させるのは簡単ではない。ともあれ、様々な立場や考え方の人々と共に行う公開研究会を含め、「生野子育ち研究会」は数多くの意見交換と方針決定を行ってきた。

 4月から始まる「子育ちサポーター講座」の目前のターゲットは、7月からの夏休みだ。

 4月からの「子育ちサポーター講座」は、まずはクローズドに、顔の見える関係の中で受講者を募り、6月までの3回の講習・ネットワーキング・マッチングを試行する。目標は、まずは「夏休み」。受講者たちが居住・活動している地域で、その地域の子どもたちの2018年の夏休みを支えることだ。

家庭がどのような状況にあっても、学校にいけば給食がある。家庭で暴力に遭っている子どもは、学校でしばしの休息と若干の安全が得られるかもしれない。子どものSOSをキャッチして支える、保健室などの枠組みもある。子どもの「食べられていない」「眠れていない」「負傷している」といった状況に学校の誰かが気づけば、ものごとは改善する方向に動くかもしれない。

 ちなみに2017年末、大阪府寝屋川市で33歳の女性が遺体で見つかった。女性は小学6年から学校に登校しておらず、少なくとも15年間、両親によって住まいの一室に閉じ込められていたことが判明している。女性の小学生時代のクラスメートたちは、女性が虐待に遭っていた可能性に気づいており、小中学生時代、学校に何回も働きかけたという。教員たちは家庭訪問を行ったものの家庭の中に踏み込むことはできず、児童相談所などの機関も結果として動いていなかった。当時の制度のもとでは限界だったかもしれない。

 学校が問題解決の鍵を握っており、厳しい状況にある子どもたちを最後に守れる砦の1つであることは、現在も間違いない。その「砦」をアテにできないのが、夏休みだ。

 まず、給食がない。夏休み期間に充分な食事が摂れずに痩せてしまう子どもは、貧困の深刻な地域では珍しくない存在だ。もちろん、十分な食事が摂れない夏休みは、子どもに必要なもの・こと・環境の多くが不足した夏休みでもあるはずだ。だから、「子育ちサポーター講座」の現在の目標は「夏休み」であり、地域の子どもたちの夏休みを社会で支えることである。

「社会で支える」という用語をバズワードからキーワードに

 では、「子どもたちを社会で支える」とは、何をどうすることなのだろうか。「空腹なら、ごはん」「入浴できていないのなら、お風呂」ということは、誰にでもイメージできるだろう。しかし、何をすれば「社会で支えた」ことになるのだろうか。「地域で子育て」することや「社会で子どもを見守る」ことが達成されたとき、どのような地域と子どもたちと大人の状況があるのだろうか。

 CPAOの徳丸ゆき子さんも、率直に「必要なのは、わかります。でも私自身、何をしたらそうしたことになるのか、わかりません。私自身が、まず知りたいです」と語る。子どもたちにとって有益で害の少ない「支援」は、簡単にできることではない。

たとえば、近所の子どもに「実は、親に虐待されている」と告げられたとき、大人であるあなたは、何をすればよいのだろうか。その子の家に乗り込んで親に説教するのが逆効果であることは、多くの方が想像できるだろう。

 子どもと家族の心身の安全とプライバシーを秤にかけるとき、どのような基準で、どのように判断すればよいのだろうか。プライバシーのために、子どもの生命が犠牲になってはならない。しかし「子どもの心身の安全のためなら、親の人権はどうでもいい」と言い切れるだろうか。

 子どもの安全を一時的に守るために強引に親から引き離すと、子どもが親のもとに戻った後、さらに深刻な問題が引き起こされるかもしれない。「ちょうどよい」「これでよい」と言えるバランスは、容易に見出せるものではないし、原則や計算式のようなものに頼って維持できるものでもない。

 プライバシーなどを「守る」ことに対して厳しすぎると、子どもを「守る」という目的は果たせない。しかし緩すぎると、洩れた情報が誰をいつまで傷つけることになるかわからない。兼ね合いはどこに置けばいいのか。何か問題が起こったときの責任は、誰にどう求めればよいのか。「おおむね、こんな感じ」ということさえわかっていないのが、現在、大人である私たちが動かしている社会の現状なのだ。

 

社会の死角から子どもを救え「みんなで育てるから、いいやん!」へ

 

 徳丸ゆき子さんがCPAOを立ち上げ、子どもの貧困問題に取り組み始めたきっかけは、2010年と2013年に大阪で起こった2つの事件だ。母親に置き去りにされた2人の幼児が放置死させられた2010年の事件と、母親と幼児が「お腹いっぱい食べさせてあげられなくてごめんね」というメモとともに変死体で発見された2013年の事件は、いずれも現在ほとんど思い出されなくなりつつある。

 いずれの事件でも、報道は母親に対する「子どもを責任もって育てていない」という批判、あるいは母親の選択に対する「あらゆる手段が尽くされているわけではない」という批判につながった。

 徳丸さんは自分の思いを、「『あの親、子ども育てられないねん』から『みんなで育てるから、いいやん!』へ」と表現する。しかし「みんなで育てる」には、誰が何をどうすればよいのだろうか。どのように発見し、どのように情報を共有し、誰をメンバーとして、どのように意思決定を行うべきなのか。具体的な方法・手法・技術は、あまりにも不足している。それでも、「やってみる」を積み重ねれば、見つけることができるだろう。

 さらに、公的機関との連携も重要だ。しかしながら、圧倒的な資源不足は否めない。

大阪市には現在、児童相談所(こども相談センター)が2つしかなく、ニーズに対して圧倒的にキャパシティが不足している。もう1つ新設する計画はあったのだが、2016年に住民の反対で頓挫したままだ。児童相談所に対する、「深刻な状況なのに対応してもらえなかった」「通報しても動いてくれなかった」という不満は、数多く聞かれる。とはいえ、子どもを保護するための大きな権限を持っている児童相談所は、重要な存在だ。

 厳しい状況にある子どもを保護するにあたって、「施設よりは里親のもとで、家庭的な環境であることが望ましい」という認識は、ここ数年で広まってきた。しかし、里親が万能の解決とはならないことも、少しずつ明らかになってきている。人である以上は「相性」の問題も限界もある。そういった問題や課題があっても子どもが幸せになれるためには、誰が何をすればよいのだろうか。

 子どもに関して連携すべき機関は、公的機関に限定しても数多い。学校と児童相談所に加え、要対協(要保護児童対策地域協議会)、区役所や市役所、区や市の社会福祉協議会は外せない。さらに状況によっては、医師会・弁護士会・市議会などとの連携も必要だ。「直接支援を行っている民間団体を前にすると、行政は『責められる』と構えて牽制ばかりになる」という、笑えない笑い話もある。ともに「子どもたち、どうしましょうか?」と考えて連携するためには、超えなくてはならないハードルが、官民どちらの側にも多そうだ。

口で言うほど簡単ではない「ほどよい子ども支援」の道のり

「生野子育ち研究会」の「養育サポーター講座」の参加者は、7月までの3回の講座の中で、元児童相談所職員、子どもの権利と育ちの研究者、ベテラン里親や子ども支援のベテランから知識と考え方とノウハウを学ぶことになる。そして7月までに、各地で「子どもの食事会」を開始するためのマッチングとチームづくりが行われる。

「ちょうどよい」「ほどよい」にたどりつく道筋は、平坦な一本道ではないはずだ。試行錯誤を繰り返す必要はあるだろう。しかし、子どもに害をもたらさず益をもたらすための方法が共有された上で試行錯誤が積み重ねられれば、ある日の親の「ちょっと心がしんどい、子どもを殴りそう」「今日は子どもの食事のことを考えられない」という思いが、決定的な悲劇にエスカレートすることが避けられるようになるのは確かだろう。

ともあれ、地域の心ある大人たちが数十人、「子育ちサポーター講座」で学び、交流する。そしてこの夏、夏休みの子どもたちを支え、経験とノウハウを蓄積し、共有する。

 船出を、まずは期待して見守りたい。

(フリーランス・ライター みわよしこ)


 酷暑だ続き、2年後の東京オリンピックが危ぶまれています。

こちらはいたって快適です。
明日からは25度を超える暑さになるようですが、でもまだ30度越えの予報はありません。
夜は寒いくらいで、車のガラスが曇ります。
農作業の一服。

炎天下
熱いコーヒー
涼む息  (おそまつ)

納屋の周りを草刈していると、壁に伝う葡萄を見つけ

トマトの葉に産み付けられたタマゴ。

なんの卵かわからない。

 

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再浮上しないことを望む。

2018年07月23日 | 社会・経済

内閣支持率が軒並み急落 驕れる安倍政権に国民の怒り爆発

  日刊ゲンダイ 2018年7月23日

   カジノ、参院定数増、災害対応で、浮かれ安倍内閣に国民の怒りが爆発だ! 先週末に行われた報道機関による各種世論調査で、安倍内閣への批判が広がっていることが分かった。

 日本経済新聞が20~22日に行った世論調査で、安倍内閣の支持率が前回6月調査の52%から7ポイント下落して45%に、不支持率は5ポイント上昇して47%となり、2カ月ぶりに不支持が支持を上回った。

 西日本豪雨による大災害が発生している最中に強行採決された「カジノ法」について「賛成」が27%に対し、「反対」は60%に上った。同様に強行採決された「参院定数6増法」についても「賛成」28%、「反対」56%と、反対が過半数を占めた。さらに「西日本豪雨への政府の対応」については「評価しない」が46%で、「評価する」の39%を上回った。

 気象庁が豪雨への対応を呼びかけているのに、安倍首相や小野寺防衛相らが議員宿舎で宴会を開いていたことや、災害対策担当の石井国交相を国会に張り付けて「カジノ法」を強行採決したことが影響したのは明らかだ。

共同通信の調査でも「カジノ法」について「反対」が64.8%で、「賛成」は27.6%。「参院定数増」でも「問題だ」が55.6%で、「問題ない」は27.6%だった。

 読売新聞の調査でも両法への評価は同様で、安倍内閣が強行採決したことに対して、59%が「適切ではない」と答えた。

 

  驕れる安倍は久しからず、だ。

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子どもを作らない、つまり生産性がないのです(水脈)

2018年07月22日 | 社会・経済

LGBT 

「生産性なし」自民・杉田議員の寄稿が炎上

  毎日新聞2018年7月21日

 
「新潮45」8月号に掲載された自民党・杉田水脈議員の寄稿文=2018年7月21日

 自民党の杉田水脈(すぎた・みお)衆院議員(比例中国ブロック)が月刊誌への寄稿で、性的少数者(LGBTなど)について「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです」などと書き、ネット上で炎上している。杉田氏はツイッター上で<全文を読んでから批判してほしい>と反論したが、性的少数者のみならず高齢者や子のない夫婦も否定するかのような内容で、批判が広がっている。【大村健一/統合デジタル取材センター】


 つい先日も「レイプ」で、とんでもない加害者擁護と被害者批判が国際的に問題となったばかり。この人こそ「生産性」を下げている人だ。
 こんな文章を掲載する雑誌『新潮45』も当然批判されなければならない。

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教育現場が「ブラック」化

2018年07月21日 | 社会・経済

 マガジン9編集部

この人に聞きたい

 宮澤弘道さんに聞いた:

  道徳は、学校で教えるべき「学問」ではない

     2018年7月4日

   今年の4月から、全国の公立小学校で、道徳の「教科化」がスタートしました。教えられるのはどんな内容なのか、「教科化」によって授業はどう変わり、子どもたちにどんな影響を与えるのか、そして現場の教員たちは、この変化をどう受け止めているのか──。現役の公立小学校教員で、「道徳の教科化を考える会」代表の宮澤弘道さんにお話をうかがいました。

 

「教科化」で道徳の授業はどう変わったか

 

──今年度から全国の公立小学校で、道徳の「教科化」がスタートしました(来年度からは中学校でも開始予定)。小学校の教員である宮澤さんは、「道徳の教科化を考える会」を立ち上げて活動されていますが、どういった経緯で始まった会なのですか。

 

宮澤 道徳の教科化が決まったときに、教員同士の集まりでその話題を出したことがきっかけでした。若手の教員に「えっ、道徳って今、教科じゃないんですか」と言われて、「その程度の認知度なのか」と驚いたんです。後日、組合を通じて実施したアンケートでは、道徳の教科化について「知っている」と答えた教員は全体の2%程度しかいませんでした。

  これはまずいだろうということで、知人たちに声をかけて会を立ち上げたのが2015年の2月。これまでに、のべ人数で200人近い人たちが参加してくれています。

 

──宮澤さんご自身は、教科化については当初から強い危機感をお持ちだったのですか。

 

宮澤 私自身は以前から、学校教育の中に「道徳」というものがあること自体に違和感を持っていました。人の内面にかかわることに公教育が踏み込むべきではないと思うからです。

  そもそも道徳というのは、科学的に立証された「学問」ではまったくありません。他の教科には、これまで時間をかけて一般化・体系化されてきた理論や知識が存在していて、だからこそ子どもに「教える」ことができるわけですが、道徳はそうではない。いわば「個人の気持ちの問題」に過ぎない内容なわけで、学校の時間割に入れるにはふさわしくないとずっと感じていました。

  ただ、救いだったのは、以前は「教科」ではないから教科書も評価もなかったということです。授業の最低限のルールとされていたのは「子どもの発言を否定しない」ということだけ。副読本はあるけれど、必ず使用しなくてはいけないというわけではなく、自由に授業をできた。私自身も、いろいろな社会問題をテーマに自由に議論をする……といった授業をしていました。

 

──ところが、それが今回の「教科化」によって変わってしまった……。

 

宮澤 正式の教科になると、検定教科書がつくられ、評価制度が導入されます。この二つによって、授業のあり方が大きく変わってしまいました。

  教科書ができると、教員にはその使用義務が生じ、基本的に教科書を使って授業を行わなくてはなりません。そして、子どもが教科書に書いてある「ゴール」からずれた発言をした場合には「ちょっとそれは違うよね」と教えなくてはならないことになる。以前は「子どもの発言は否定しない」のが原則だったのが、否定「しなくちゃいけない」ことになったわけです。

 

──算数などの授業で「その答えは間違っているよ」と教えるのと同じようにしなくてはならないわけですね。

 

宮澤 そうです。「1+1=3」という子どもに「違うよ、答えは2だよ」というのと同じなんですね。しかもそれを実際の授業場面では、他の子に意見を求める形で、いわば同調圧力を使って訂正していく。そうして発言を正された子どもは、「自分の考えはちょっと違うんだ」と思って口をつぐんでしまうようになるでしょうし、それでどうして文科省の言うような「考え、議論する道徳」ができると思うのかと、本当に不思議です。これまでは、「他の教科はあまり得意ではないけれど、道徳は好き勝手しゃべれるから楽しい」という子もいたのですが……。

  先ほど言ったように、科学的な学問ではない道徳の「答え」には、何の基準もありません。教科書に書かれているのは、誰かの価値観、誰かの考え方に過ぎないのに、それについて「この考え方が正しい」と示すのは絶対にやっちゃいけないことです。子どもには親や先生に褒められたいという気持ちがありますから、教員に対しての忖度が生まれることにもなるでしょう。

  たとえば子どもに「宮澤先生は『平和が大事』だっていうと褒めてくれるんだ」なんていうふうに思わせてしまったら終わりです。心の内面のことは、あくまで日常生活の積み重ねの中で、子どもたちが学校や地域のいろんな人と接しながら、自分で答えを見つけていくべきものだと思います。

 

──教科化というと、どうしても教科書の内容に目が行きがちですが、それ以前に、学問的な下支えのない「道徳」を公教育で、教科書を使って教えること自体が問題だということですね。

 

宮澤 そのとおりです。世の中にはいろんな考え方があって、そのいろんな考え方をもつ人たちが集まって社会ができている。その中で、公権力が「いや、お前の考え方はおかしいからだめだ」ということをやってしまったら、それは民主主義教育ではありません。

  教科書の内容がどんなに「素晴らしい」ものであってもそれは同じです。時々、現状を懸念されている方からも、「私たちも対抗して教科書を作ればいい」という意見を耳にするのですが、それは絶対にやってはいけない。科学ではないものを教えることをよしとするという点で、向こうの土俵に乗ってしまうことになります。

検定教科書が目指すのは「従順な国民づくり」?

 

──とはいえ、現状で教科書が存在している以上、それに沿う形で評価も行われていくわけですから、やはり内容が気になります。各社の教科書をご覧になって、問題だと思われるのはどんなところですか。

 

宮澤 もともと私はインクルーシブ教育(※)の実践に力を入れてきたので、その視点からも非常に特徴的だと感じるのが「障害者」の扱いですね。基本的に、出てくる障害者はみんな「いい人」。誰かに助けてもらったときには卑屈なまでに感謝の姿勢を見せる人ばかりなんです。

  もしくは、実在の人物で名前が出てくる障害者もたくさんいるのですが、そこに共通しているのは「障害を自分の力で乗り越えた」人だということです。

 

インクルーシブ教育…障害のあるなしにかかわらず、望めば誰もが合理的な配慮のもと地域の普通学級で学べるようにしようとする考え方。

 

──パラリンピック出場者などが、その典型例でしょうか。

 

宮澤 そうです。つまり、社会を変えるのではなく、自分の力で障害を乗り越える、そして人に助けてもらったらとにかく感謝するのが「正しい」障害者だということ。今の「障害」についての世界的な潮流である、障害者が困難に直面するのは社会のほうに問題があるとする「社会モデル」とはまったく逆ですよね。障害をその個人の責任だとする、非常に古い考え方が貫かれているんです。

  また、偉人伝がたくさん出てくることも気になります。「こういう生き方をしていた人がいる」というだけならまだいいのですが、評価がある以上「こういう生き方が素晴らしい」という一つの価値観を示すことになってしまう。

  そして、教科書に載るような短い文章で人の人生すべてを語ることなんて絶対に無理ですから、一番教科書的にふさわしい部分だけが切り取られることになります。典型的なのが、「命のビザ」の杉原千畝です。

 

──どの会社の教科書にも、よく出てきますね。

 

宮澤 リトアニア領事だった杉原千畝が、危険を冒してビザを発行し、ナチスの弾圧からユダヤ人を守りました、という話なのですが、その「危険」がどうして生まれたのかとか、杉原が帰国後に罷免され、戦後も日本政府から誹謗中傷を受けたとかいったことは絶対に取り上げられません。人間一人の生き方さえ意図的に取捨選択されているわけで、怖いなと思います。

  また、この杉原の話もそうですが、「戦争」を取り上げた話はどれも、責任の所在にはまったく触れずに、ただ「一人ひとりが戦火の中で一生懸命耐え抜いた」ことを称える話ばかりなんです。

  たとえば、実話をもとにした『東京大空襲の中で』という話があるのですが、これはある女性の出産直後に空襲がはじまって、お医者さんや看護師が戦火の中で母子を守り抜く、というもの。一見「いい話」のようですが、そもそもそんな困難な状況になった原因は「戦争」のはずなのに、そこは一切問われないんですよね。

  話の最後に添えられている「問い」も、「人の命を守るために努力しているのを見たり聞いたりしたことがありますか。そのときどんな気持ちがしましたか」。これを読んで議論したときに、「戦争の否定」ということにはならないですよね。「平和」を考える教材には、まったくなっていないんです。

 

──どんなつらい状況でも、社会や政治にその原因を求めるのでなく個人で乗り越えるべきだ、と言われているように思えます。

 

宮澤 すべてが「自己責任」ですね。

  「家族の絆」「家族なら助け合うべき」といったことも全体的に強調されていますから、子どものころからそうした価値観をしっかりと学んできてしまうと、「親族が少しでもいれば助け合うのが当然、生活保護なんて受けるのは甘えだ」という、「生活保護バッシング」に向かうような自己責任論にもつながりかねません。

  1回たかだか45分の授業で何を大げさな、と思うかもしれませんが、そんなことはありません。感性の柔軟な子どものうちに学んだことは、大人になってもその人の考え方に大きな影響をもたらします。そこが怖いんです。

 

──教科書に書かれていて、先生に「こちらが正しい」といわれるわけですから、その影響は大きいですよね。

 

宮澤 そう考えていくと、今回の道徳の教科書というのは、「従順な国民づくり」にはベストの教材なんだと思います。家族同士は「無償の愛」で支え合って国に頼るな、障害は自分で克服しろ……。すべて、そういう方向につながっていきます。

「超ブラック化」している教育現場

 

──さて、教科化が決まったときの周囲の反応は非常に薄かったということでしたが、実際に「正式の教科」としての授業がスタートして、学校現場での反応はどうなのでしょう?

 

 「道徳の教科化を考える会」では、教材を最後まで読まず、途中で止めて「あなただったらどうする?」と子どもの議論を引き出す「中断読み」という手法を使った授業を提唱・実践したりしていますが……全体として見ると、ほぼ無反応と言っていいと思います。もともと、とにかく教科書どおりに授業をします、というスタイルの教員がほとんどですし、危機感を抱いている人は非常に少ない。そもそも、社会に目を向けない、目の前の仕事のことしか見ていない教員が本当に多いというのが現状です。かつては、「教科書を教える」んじゃなくて「教科書で教える」んだという矜持を持ってオリジナルな授業をする教員もたくさんいたのですが……。

 

──それは、よく言われるように「教員が忙しすぎる」のが要因なのでしょうか。

 

宮澤 一つはそうですね。教育委員会からなどの調査が非常に増えたこと、保護者対応やクレーム処理に割く時間が増えたことなどもありますが、大きいのは何をやるにも「意思統一」を求められるようになったことです。

  以前なら、この業務は自分の担当ということになれば、ある程度は自分の裁量で動けたのですが、今は何をやるにも、管理職に相談して決済のハンコをもらわなくてはならない。現場に裁量権がほとんどないので、いちいち確認を取らなくてはならないんです。そうして日常の業務に忙殺される中で、「教育」というものを広い視野で捉えられなくなっている教員は多いと思います。

  あと、その「裁量権がない」ことにも関連しますが、職員室に「言論の自由がない」ことも、社会問題に関心をもつ教員が少ない原因になっていると思います。

 

──「言論の自由がない」ですか?

 

宮澤 職員会議などで、校長の決定に「それは違うのでは」と意見したりという「不規則発言」をすると、後で校長室から呼び出しが来るという話は本当によく聞きます。「校長の指示に反対するなんて、組織としてあり得ない」と。だからみんなもう、ちょっと変だなと思っても何も言わない。言っても変わらないし、自分が怒られるだけだというのが分かっているからです。

 

──「会議」なのに、教員が自分の意見を言えない?

 

宮澤 2006年に東京都教育委員会が、「職員会議で挙手や採決で意思を確認することを禁じる」という通知を出しています。職員会議とは単なる校長の諮問機関であって、教員が意見を出す場ではないと、明確に都教委が打ち出してしまったわけです。

  だから、昔なら職員会議で「その決定はおかしいんじゃないか」と指摘する職員がいれば、そこから議論が広がっていって、最終的に校長が判断を変えるということもよくあったのですが、今は校長が「ここは発言する場ではない」と言って終わり。学校によっては、職員会議は年2回くらいしかやらなくて、日常業務については管理職だけの会議で決定される、なんていうところもあるようです。

 

──その都教委の通知についてはメディアで少し報道されていた記憶がありますが、いまひとつピンと来ていませんでした。そういうことだったんですね。

 

宮澤 それだけではなく、東京の教育現場は今、本当に締め付けが厳しくなっています。

  たとえば、教員になって1年目、正式採用になる前に辞めていく先生が毎年100人前後もいる。採用者数が毎年3000人前後ですから、約3%、100人に3人という異常な数字です。校長からプレッシャーをかけられた末の「自主退職」の事例は多いと聞きますし、実際私も毎年、退職強要を迫られた初任者の相談を何件も受けています。しかも、東京では今、教職員組合の組織率も1%を切っていますから──分裂した3つの組合を合わせても5%程度です──相談することもできずに泣き寝入りしていく人が大半なんです。

  正式採用になれば簡単にクビを切ることはできませんが、今度は人事評価制度で、校長の評価次第で給料が変わってくるし、異動に関しても校長に強い権限がある。そうなると、なかなかモノが言えないというのはありますよね。言われたとおりの授業をしておくのが一番いい、ということになる。

 

──お話を聞いていると、教育現場がまるで「ブラック企業」化しているような……。

 

宮澤 はい、「超ブラック」です。その中で、組織の操り人形みたいになってしまっている教員が「道徳の授業」で子どもの内面に介入するというのは、非常に怖いことだと思います。

 

──すでに道徳化がスタートしてしまっている今、そうした状況を跳ね返すために何ができるでしょうか。保護者を含め、学校外からできることはありますか。

 

宮澤 まず、ご自身が保護者という立場であれば、学校から配布されるアンケート調査などを通じて、道徳の授業に対する自分の意見をしっかりと伝えてほしいです。保護者の声が大きくなれば、学校も保護者と一緒にこの問題について考えていくことができます。

  あとは、保護者の立場ではない方も含め、とにかく周囲で「道徳の教科化って……」と話題にしてほしい。そして、憲法カフェのようなイベントをやるなど、この問題をたくさんの人たちに、広く知ってもらうための機会をつくってもらえたら、と思います。

 

 

みやざわ・ひろみち)1977年、東京都生まれ。公立小学校教員。「道徳の教科化を考える会」代表。共著に『「特別の教科 道徳」ってなんだ? 子どもの内面に介入しない授業・評価の実践例』(現代書館)他、がある。

 


「国民の命と財産を・・・・」アメリカに差し出す!

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「自由」を奪われる前に・・・・

2018年07月20日 | 社会・経済

W杯決勝乱入のプッシー・ライオットのプーチン批判に世界から支持の声! でも安倍に飼いならされた日本では…

  リテラ 2018.07.18.

   7月15日に行われた2018FIFAワールドカップロシア大会の決勝戦(フランス対クロアチア)。結果は、4対2でフランスが1998年大会以来20年ぶりの優勝に輝き、クロアチアは悲願の初優勝を遂げることはできなかった。

 そんな決勝戦で話題となったのが、後半6分に警察官の衣装を着た人物がピッチに乱入してきた騒動だ。これは「お騒がせな騒動」として一笑に付していいものではない。ただのイタズラ目的で行われたものではないからだ。

 騒動の直後、ロシアのパンクバンドであるプッシー・ライオットのメンバーがSNSを通じて声明を発表。この行動の意味を説明したうえで、政治犯の解放、国内における自由な政治競争の容認、不当逮捕の停止などを要求した。

 プッシー・ライオットのメンバーは、2012年にモスクワの救世主キリスト大聖堂でゲリラ演奏を敢行し、プーチン批判が歌われた楽曲を歌唱。暴徒行為の疑いで逮捕されている。プッシー・ライオットはこれまでもこういった行動を起こし、各国メディアの注目を浴び続けてきた。その背景にあるのは、ウラジーミル・プーチン政権下で行われている強権的な政治と批判者への弾圧だ

 ロシア国内では、プーチン批判者が殺害されるなどの事件が頻発しており、国際的な問題となっている。今年5月にも、ロシア人ジャーナリストのアルカディ・バブチェンコ氏が亡命先のウクライナで殺害される事件が起きたばかりだ。

 この他にも、同性愛宣言禁止法やシリア介入など、ロシアの人権問題は国際的な非難の的となっている。2014年のソチ冬季オリンピックでは、ロシアへの抗議の意を込めてアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど欧米諸国の首脳が軒並み開会式への参加を見送った。なお、日本の安倍首相はそういった状況下でも開会式に出席し、プーチンに媚を売った。

 今回のワールドカップでは、西側諸国からロシアへの抗議の動きは鈍かったが、それでも背景に問題を理解している西側諸国では今回の乱入を報じる際、プッシー・ライオットの主張をきちんと紹介し理解を示すスタンスの報道がなされている。しかし、日本ではまったく逆の状況が起きている。

 SNS を中心に「W杯決勝をぶちこわした」「サッカーに政治をもち込むな」というプッシー・ライオットへの批判があふれかえったのだ。

 いや、SNS だけではない。ニュースサイト版の毎日新聞は「ロシアW杯 決勝に水を差す愚行 男女4人が乱入」と題された記事を配信。記事内でプッシー・ライオットの名前や、乱入を通して伝えようとした主張に関する解説は一切なく、〈フランス、クロアチアともに激しい攻防を繰り広げていた最中で、熱戦に水を差す愚行だった〉と書かれていた。この記事は多くの読者から批判を受け、毎日新聞は記事と、該当記事を告知するツイートなどを削除している。

 

 たしかに、プッシー・ライオットの乱入がW杯の決勝に水を差したことは間違いない。

 しかし、〈愚行〉など片付ける前に、その主張にもきちんと耳を傾けるのが、民主主義国の当たり前の態度だろう。なぜなら、プッシー・ライオットの訴えていたことは、サッカーの試合よりもはるかに大事なことだからだ。そして、メディアまで事実上「報道の自由」を奪われているいまのロシアの状況を考えれば、国際社会に訴えかけるために、W杯という機会を使わざるをえないというのも十分理解できるからだ。

 だいたい「サッカーに政治をもち込むな」などと言うが、連中は人権や表現の自由がきちんと守られているから、音楽やスポーツを楽しめるということがわかっているのか。また、「サッカーに政治をもち込むな」と言うのなら、それはプッシー・ライオット側ではなく、むしろ権力者の側にこそ向けられるべき言葉だろう。今回のワールドカップロシア大会はプーチン大統領の威光をPRするための大会として確実に利用されたのだ。そして、人権を侵害するこうした圧政の国にW杯を開催させたFIFAにもその責任はおおいにある。

 実際、西側諸国では、メディアはこうした視点をきちんともって、プッシー・ライオットの主張を紹介、ロシアの圧政を批判し今回の拘束についても「不当逮捕」とする抗議の声があがっていた。

 16日、モスクワの裁判所は4人の乱入者に15日間の収監と、今後3年間スポーツ観戦のために会場に行くことを禁止すると言い渡した。試合に乱入したくらいで15日間の収監というのはとんでもないが、それでも、現在のロシアでこの処分で済んだのは、世界中からこうした指摘がなされたおかげだろう。

 ところが、日本ではいまもあいかわらず、プッシー・ライオットを批判する意見が大勢を占めているどころか、プッシー・ライオットを擁護する意見をかたっぱしから攻撃する動きまででてきている。

 しかし、考えてみれば、それも無理はないのかもしれない。日本はいま、安倍政権の強権支配によってロシアとそっくりな状況になってきているからだ。表面的には民主主義国家の体をとりながら、実際は報道の自由や人権を抑圧する動きが急速に進み、国民はその支配に飼いならされ、圧政にどんどん疑問を感じなくなっている。スポーツイベントの政治利用でナショナリズムを喚起され、不正や腐敗にフタをされてしまっているところもよく似ている。

 今回のW杯乱入をめぐる日本と海外の反応の差は、日本がこの先、ロシア化していくことのあらわれなのかもしれない。(編集部)

 

 


 

   日本では司法の右傾化が進んでいる。次から次と出る判決は安倍政権に忖度し、栄転狙い(?)の判決が目に付く。

 

NHK受信料に20年の時効なし 最高裁が初判断

共同通信社 - 共同通信 - 2018年7月17日

   決まった期間ごとに一定の金銭支払いを受けられる債権は、20年間行使しなければ消滅するとした民法の時効規定が、NHK受信料に適用されるかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁第3小法廷(林景一裁判長)は17日、適用されないとの初判断を示した。

 訴訟で大阪市の男性は、NHKと受信契約を結んだ後、請求されなかったことから、20年以上、受信料を支払っておらず、NHKの債権は消滅したと主張した。

 第3小法廷は「20年の時効を適用すれば、契約者が将来生じる支払い義務まで免れ得ることになり、放送法の趣旨に反する」と指摘した。

 

君が代不起立で再雇用拒否 最高裁、都の裁量権認める

2018年7月19日 朝日デジタル(一部抜粋)

 

 卒業式などで「君が代」の斉唱時に起立しなかったため、再雇用を拒まれた東京都立高校の元教職員が、都に賠償を求めた訴訟の上告審判決が19日、最高裁第一小法廷であった。一、二審判決は都に約5千万円の賠償を命じたが、山口厚裁判長は「都教委が裁量権を乱用したとはいえない」としてこれを破棄し、原告側の請求をすべて棄却した。(岡本玄)

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雨宮処凛がゆく! 「小田原ジャンパー事件」、その後

2018年07月19日 | 社会・経済

雨宮処凛がゆく!第453回:

「小田原ジャンパー事件」、その後〜「誰もやりたがらない仕事」から、「もっともやりがいのある仕事」へ。の巻(雨宮処凛)

 

マガジン9 2018年7月18日

 

 歴史的な、記念すべき集会だった。

 その日、何人もからそんな声をかけられた。私もまったく同じ思いだった。貧困問題にかかわり始めてから12年。こんな日が来るなんて、望んではいたけど「無理だろう」となかば諦めてもいた。

 その「記念すべき」集会とは、7月14日に開催された「生活保護行政は変えられる! 〜小田原市などの取り組みから〜」。

 昨年1月、小田原市の生活保護ケースワーカーらが「保護なめんな」などと書かれたジャンパーを着用していたことが大きく報じられ、批判を浴びた。この連載(第403回)でも書いたように、私は「生活保護問題対策全国会議」の一員として2017年1月24日、小田原市に申し入れをし、再発防止のための意見交換をした。

 07年、生活保護を打ち切られた男性が市の職員をカッターで切りつけるという事件が起きたことを機に、「モチベーションをあげるため」などの理由で作られたジャンパー。ジャンパーだけでなくマグカップなどの「関連グッズ」も作られ、それが10年間、特に問題ともならずに放置されており、昨年1月の報道によって全国に知られたというのが経緯だ。

 生活保護利用者への、差別と偏見を象徴するような出来事。しかもそれを、生活保護利用者を支える立場の市職員がやっていたという衝撃。

 しかし、そこからの小田原市の対応は早かった。なぜ、このようなことが起きたのかという検証と改善方策をまとめるため、すぐに「生活保護行政のあり方検討会」が立ち上げられる。座長は井手英策氏。検討会のメンバーには4人の有識者が選ばれたのだが、特筆すべきはその中に元生活保護利用者の和久井みちる氏が入っていたことだ。「私たちのことを私たち抜きに決めないで」とは障害者運動の有名なスローガンだが、貧困問題では求めつつもなかなか実現していないことだった。しかし、この検討会では「当事者の声」が反映される仕組みが作られたのだ

 そうして昨年2月28日には第一回目の会合が開催され、3月までに4回の会合が開催される。私も2回目の会合を傍聴に訪れたが(一般の人やマスコミにも開かれているというのも重要)、市にとっては耳の痛いだろう話が委員たちから率直に述べられる光景に、小田原市の「本気」を感じた。4月には検討会の話し合いを経ての報告書が出され、ジャンパー問題だけでなく、生活保護行政全体の改革が進んでいく。

 この日の集会では、その小田原市の健康福祉部 福祉政策課 総務係長の塚田崇さん、企画部 企画政策課 企画政策係長の加藤和永さんがパネラーとして登場し、「その後」のことについて話してくれた。

 2人の話を聞きながら、「ジャンパー問題をきっかけとして、小田原市は本当に変わってきているのだ」と何度も胸が熱くなった。

 例えば、改善のため「最優先で取り組んだこと」のひとつに、ケースワーカーの増員がある。ジャンパー問題のようなことが起きる背景には、現場の余裕のなさがある。十分な人手とノウハウがあれば、おそらく職員が切りつけられるような事件が起きても、もっと違った対応になっていたはずだ。しかし、日々の業務に忙殺される中、手っ取り早く職員のモチベーションを上げるためにあのようなジャンパーが作られたのだろう。

 全国各地では水際作戦 (保護を受けられる人をなんだかんだ理由をつけて申請させずに帰す)も日常的に起きているわけだが、その背景には、やはり現場の職員が圧倒的に不足しているという現実がある。ちなみに、都市部では一人のワーカーで80世帯を担当することが標準とされているが、この数を大幅に上回る世帯を担当しているワーカーはザラにいる。私としては一人あたり80世帯でも「多すぎる」と思うが、このようなオーバーワーク状態になってしまうと当然「丁寧な支援」などできはしない。

 この辺りは小田原市も同様で、やはり一人あたり90を超える世帯を担当していた。小田原市ではまず、このあたりの基本的なことの見直しが行われ、ケースワーカーが増員されたのだ。その結果、16年度にはケースワーカー一人当たりの世帯数が91.3世帯だったのが17年度には81.1世帯に。18年度も81.6世帯。また、社会福祉士の資格を持つワーカーも、16年度には2人だったのが18年度には6人まで増やされた。

 一方、これまでの小田原市では、生活保護の申請から決定までの日数が他の自治体より長くかかっていたのだが、これも大幅に短縮。16年度には14日以内の決定が3割以下だったのだが、17年度には約9割が14日以内の決定となっている。

 また、注目すべきは生活保護利用者や相談に来た人に渡される「保護のしおり」の改訂。「生活保護とは」という基本情報が書かれているもので、これがどのような作りになっているかで自治体の困窮者に対するまなざしが浮かび上がるという側面も持っているものだ。たとえば窓口に来る人には、高齢の人や障害がある人、教育の機会に恵まれなかった人も多い。よって、大きな文字でルビをふって作っている自治体もたくさんあるし、できるだけ平易な言葉を使うことが望ましいとされている。が、以前の小田原市のしおりは1ページ目から「他法・他施策の活用」「保護の要否」など役所の専門用語が並び、また「原則的に自家用車の運転はできません」などといった記述(実際は、仕事や通院に必要だったら車は持てる)や、「このような義務がある」「こういう場合は打ち切られる」など、申請に尻込みしかねない記述が続いていたのだ。そんなしおりについて、検討会の席で和久井氏は「今まで見た中で一番厳しく、かつわかりにくい」ことを指摘し、続けたのだった。

 「非常に苦しんで、困って困って辿り着いた市民の方に、『もう大丈夫ですよ、私たち小田原市役所のケースワーカーがあなたを応援しますよ』っていうメッセージがどこからも伝わってこないんですね。正直、私はこれを拝見した時に涙が出そうになりました。私が本当に困った時にこれを受け取ったら、『もういいや』って思ってしまうんじゃないかって」

 そんな指摘を受けた「保護のしおり」は全面的な見直しがなされ、すべての漢字にルビをふり、内容も格段にわかりやすいものとなった。

 この日の集会には、全国各地で生活保護の問題に取り組む人々が来ていたのだが、驚いたのはそんな小田原市の「保護のしおり」が、今や「お手本」として使われているということだ。例えば自分の自治体の「保護のしおり」がわかりづらい場合、職員に小田原のしおりを提示するなどして「こんなふうに作ったらいいのでは」とアドバイスしているというのだ。

 この動きには小田原市の職員の2人もびっくりすると同時に感激を隠せない様子だった。自分たちの進めてきた「改革」が、全国に広がっている。様々な経緯を経て改訂されたしおりが「こうあるべき見本」として扱われ、全国各地の自治体に紹介されている。「ジャンパー問題」というある意味で最悪の事態を経て、小田原は気づけば生活保護に関して全国のトップランナーとなるような自治体に変化しようとしているのだ。

 そんな「その後」の怒涛の展開を聞きながら思い出していたのは、ジャンパー問題が発覚した直後の市の記者会見だった。ジャンパー問題もショックだったが、それ以上に私はその会見で市の職員が口にした言葉に衝撃を受けた。それは生活保護の仕事について、「誰もやりたがらない、人気のない仕事」と言っていたことだ。生活保護を利用している人がこの言葉を聞いたら、どれほど傷つくだろう。こんな言葉、頼むから電波に乗せないでほしいと強く強く、思ったことを覚えている。

 しかしこの日、2人の職員の口からは生活保護の仕事について、何度も「誇るべき仕事」「もっともやりがいのある仕事」という言葉が聞かれた。その言葉に、嘘はないように思えた。と同時に、今まで自治体の人からもっとも聞きたかった言葉ってこれだよな、と思った。

 

 これまで、生活保護関連では、多くの自治体に申し入れをしてきた。

 12年、札幌市で生活保護を受けられず姉妹が餓死した事件が起きた際。同年、さいたま市で親子三人の餓死事件が起きた際。15年には利根川で一家心中事件が起きたことを受けて、深谷市の人々と話し合いの場を持った。私は参加できなかったものの、これまで多くの活動家や支援者が生活保護がらみの餓死事件や自殺、水際作戦などに関して、様々な自治体に申し入れを行ってきた。

 その中には、その後、職員たちに研修などが行われ、「良くなった」という話を聞くところもあれば「まったく変わっていない」というところもある。が、どこの自治体に行っても、ある一点では意見が一致した。それは「人手が足りない」ということだ。手厚い支援をしたくとも、ケースワーカーがオーバーワークでどうにも手が回らない。生活保護を利用する人が増えても、逆に人手が減らされていくような実態に、現場から悲鳴が上がっているのが現実だった。だからこそ、国に働きかけるべき、という点ではまったく意見が一致したのだ。そんな中で起きた、小田原ジャンパー事件。これは小田原市だけの問題ではまったくない。どこの自治体で起きていてもおかしくないことだった。この日、元ケースワーカーの人もそう指摘した。

 この集会を経て、あらためて気づいた。それは、自治体の人々と貧困問題にかかわる人々がこんなふうにオープンに語り合う関係をこそ、私は望んでいたのだと。

 一方で、この日知ったことで悲しい事実もあった。それは小田原でジャンパー事件が起きた際、市に寄せられた意見にはもちろん批判も多かったが、約半数が「よくやった」という意見だったということ。

 

 生活保護に関する偏見はやはり、根強い。

  しかし、変えられるということを確信した集会だった。

 はからずも、今週から生活保護のケースワーカーを主人公とした『健康で文化的な最低限度の生活』というドラマがフジテレビ系で始まる。同タイトルの漫画を原作としたもので、この漫画は緻密な取材に基づいている。

 今一度、誰もが無関係ではない「最後のセーフティネット」について、多くの人が考えるきっかけになりますように。そう祈っている。


酷暑お見舞い申し上げます。

 こちらもようやく25度を上回る気温になり、日の当たるときは暑く感じるのですが、日が傾くと急速に涼しくなります。最低気温も18度と、作物にとってもいい感じです。作物は最低気温が20度を超えると全くダメです。まずいのです。
 それにしても40度の世界って?
信じられません。わたしは、おそらく生きていけないでしょう。さらに熱帯夜・・・
2mの雪も我慢できます。

 くれぐれも、体調管理等、ご自愛ください。

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避難所は難民キャンプ以下?

2018年07月18日 | 社会・経済

深澤真紀:ゴールデンラジオ 大竹紳士交遊録 2018.7.17

 

 

日本の避難所は難民キャンプ以下? 最低限の安全を守る国際基準「スフィア基準」とは

海外から「人道的に問題がある」との指摘も

ハフポスト 2018年07月14日

(AbemaTV/『けやきヒルズ』より)

(2018年7月13日AbemaTIMES「"体育館で雑魚寝"は異常 最低限の安全を守る国際基準「スフィア基準」」より転載)

 

 

 甚大な被害をもたらした西日本豪雨から1週間。ANNのまとめによると、亡くなった方は広島県で85人、岡山県で59人など13の府県で194人にのぼり、依然51人の安否がわかっていない(13日19時時点)。

 被災地では徐々に復旧が進む一方、大量の土砂が流れ込んだために作業の道が見えていない地域もある。避難生活を余儀なくされている被災者にとって今必要なものは何なのか、『けやきヒルズ』(AbemaTV)はまとめた。

 

 100世帯全員が避難している広島県熊野町の川角地区。熊野町役場で話を聞いてみると、避難所で必要とされているものは飲み物などを冷やす「氷」、使い捨ての「皿・コップ・スプーン」、「ペーパータオル」などだという。また、水が不足している地域では給水所などから確保する水を貯めておくためのポリタンク、感染症を防ぐためのマスク、消毒用エタノールなど衛生を保つために必要なものが底をつき始めている避難所もあるという。

 

 避難所には国際的に定められている「スフィア基準」というものがある。水の量やトイレの数から避難所のスペースに至るまで、被災者の安全を守るための最低限の基準で、冷戦終結後の1990年代に各地で内戦が起こり多数の難民が発生したことから、国際赤十字などが設定した。

・「3.5平方メートル」のスペース

 

 1人当たり3.5平方メートルのスペースが必要で、およそ畳二畳分の広さ。間仕切りを設けることを推奨。

・トイレの数は男女比13

 トイレの数は男女比で1:3を推奨。女性は生理や排泄の仕方の違いで時間がかかるため。トイレ1つにつき最大20名(初期は50名)。トイレまでの距離は安全性と利便性、衛生面から50m以内が理想。

 

 日本の避難所については、海外から「人道的に問題がある」「難民キャンプ以下だ」という指摘もあるという。テレビ朝日元アメリカ総局長の名村晃一氏は、「日本は災害が多いので、避難所の環境については世界よりも先に進まなければいけない立場だと思う。ただ、日本人の場合我慢強さもあって、『もうちょっと良い環境にしよう』という声は出しにくい性格だと思う。2次被害は食い止めなければならない」と、現地の環境改善を求めることの重要性を主張。一方で、「日本は基準を作って守ることのできる国。率先して定着させてほしい」と述べた。

 

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へーぇ! 内閣支持率

2018年07月17日 | 社会・経済

SNS参考にする層ほど内閣支持率高め 朝日世論調査

朝日新聞デジタル 2018年7月16日 三輪さち子

 

 

写真・図版

 

 朝日新聞社が14、15両日に実施した世論調査で、政治や社会の出来事を知る際、どんなメディアを一番参考にするかを尋ねた。すると、「ツイッターやフェイスブックなどのSNS」「インターネットのニュースサイト」と答えた層は、内閣支持率が高い傾向が見られた。「テレビ」と答えた層の支持率は全体の支持率とほぼ同じで、「新聞」と答えた層は支持率が低かった。

 政治や社会の出来事について情報を得るとき、一番参考にするメディアを四つの中から選んでもらったところ、「テレビ」が44%で最も高く、次いで「インターネットのニュースサイト」26%、「新聞」24%、「ツイッターやフェイスブックなどのSNS」4%だった。

 年代別に見ると、18~29歳は「ネット」38%、「テレビ」35%、「SNS」16%、「新聞」8%の順。30代は「ネット」53%、「テレビ」28%、「新聞」12%、「SNS」7%の順だった。40代以上はいずれも「テレビ」が最多で、年齢層が上がるほど「新聞」の割合が増え、「ネット」や「SNS」の割合が減った。

 次に、参考にするメディア別の内閣支持率をみると、最も支持率が高かったのは「SNS」と答えた層で48%(不支持率22%)。次に「ネット」と答えた層は42%(同38%)、「テレビ」は38%(同41%)、「新聞」は32%(同54%)だった。回答した人全体の内閣支持率は38%(同43%)だった。

 新聞の購読層と政治意識をめぐっては、麻生太郎・副総理兼財務相が6月、自民支持が高いのは10代から30代だとして、「一番新聞を読まない世代だ。新聞を読まない人は、全部自民党なんだ」と発言した。

 今回の調査で、年代別に支持政党をみると、18~29歳の自民支持は32%で、全体の自民支持の34%とほぼ同じ。「無党派層」が最も多く、57%を占めた。30代では自民支持が37%だった。

 参考にするメディア別の自民支持を見ると、内閣支持率ほどの大きな違いはなかった。「SNS」と答えた層の自民支持は34%、「ネット」と答えた層は37%、「テレビ」は34%、「新聞」は32%だった。どのメディアを参考にする層でも、「無党派層」が最も多かった。(三輪さち子)

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