「しんぶん赤旗」2025年8月20日
敗戦時 女性に強いられた「性接待」 親世代の責任に向き合う姿は希望
戦前、岐阜県黒川村(現白川町黒川)から旧「満州」(中国東北部)に渡った黒川開拓団は、日本の敗戦直後、襲撃から団を守るため、旧ソ連兵に助けを求める代わりに未婚女性を「性接待」に差し出しました。この性暴力の被害を近年になって実名で告発した女性たちと、その事実を碑文に残し、謝罪した戦後世代の開拓団遺族会の姿を描いたドキュメンタリー映画「黒川の女たち」が公開中です。監督した松原文枝さんに聞きました。(内藤真己子)
―映画では「満州事変」が侵略戦争で、満蒙(まんもう)開拓団が軍事的役割を負っていたことを描いています。
そこはすごく意識しました。1931年、石原莞爾ら関東軍幹部が仕掛けた柳条湖事件を発端に満州事変が勃発しました。半年後には関東軍が「満州」全域を手中に収め、1932年「満州国」が建国されます。「五族協和」をスローガンに掲げましたが、政府中枢は日本人が実権を握る傀儡(かいらい)国家でした。映画ではその首謀者が分かるように、軍服をきた関東軍幹部が満州軍閥と一堂に会している写真を使っています。
戦後首相になった岸信介氏が、産業開発に携わった主要幹部の一人として「満州国」経営に権勢をふるったことが分かるカットも入れました。岸氏の孫は安倍晋三元首相です。植民地支配の中心にいた岸氏が戦後、首相に上り詰めた。戦前と現在の政治が地続きだと伝えたかったからです。
その「満州」に、国策でソ連防衛の兵站(へいたん)の最前線として送り込まれたのが満蒙開拓団です。27万人が赴きました。
―女性たちはどんな経過で「性接待」を強いられたのでしょうか。
終戦直前の8月9日、ソ連は「満州」に侵攻してきました。開拓団は関東軍に見捨てられました。開拓団の成年男子は現地で徴兵され、残っていたのは女性と子ども、高齢者がほとんどです。ソ連の侵攻、現地の中国人による襲撃で開拓団は追い詰められます。
隣の開拓団は集団自決したと伝わり、黒川開拓団も生死が問われる状況に陥るなか、助けを求めたのが旧ソ連軍でした。彼らに護衛してもらう見返りに、数えで18歳以上の未婚女性15人を差し出して「性接待」をさせたのです。
命じたのは団の幹部で、「性接待」は開拓団が避難していた旧国民学校の一角で行われました。「ベニヤ板に囲まれた本部の一室は悲しい部屋であった。泣いてもさけんでも 誰も助けてくれない お母ちゃんお母ちゃんの声聞こえる」。証言した女性が残した言葉です。性病、発疹チフスで4人が死亡。1年後、黒川開拓団は約450人が帰国しています。
―帰国した被害女性たちを待ち受けていたのは偏見と差別だったと。
「汚れた女」「嫁のもらい手がない」などとさげすまれました。佐藤ハルエさん(2024年1月死去、享年99歳)は故郷を離れるしかなく、遠方の高原で未開の地を開墾し、借金をして畜産業をはじめました。
安江玲子さん(97)は東京に出ましたが、夜も眠れないことが多く、トラウマに苦しみました。それぞれが思いを抱えながらも口にすることはなく、ときに犠牲者だけで集まって涙を流していました。1982年、犠牲者を追悼する「乙女の碑」が黒川にできても何のことなのか説明文はありませんでした。
長野県阿智村に満蒙開拓平和記念館ができたことで転機を迎えます。13年に行われた講演会で、佐藤ハルエさんと、安江善子さん(16年死去、享年91歳)が被害を告発したのです。私は18年に佐藤さんが証言した記事を読んで、衝撃を受けました。90代になってなお性暴力被害を証言する勇気。「絶対に後世に伝えなければ」という強い意志を感じ、お話を聞きたいと思いました。旧「満州」で「性接待」を強いられたケースは伝聞や目撃証言があっても当事者が告発したのは黒川だけです。
戦後も開拓団遺族会は「性接待」の事実を隠蔽(いんぺい)し、封印してきました。しかし女性たちの告発を受け、戦後世代に代替わりしていた遺族会は、開拓団が女性を「性接待」に差し出した事実を認め謝罪したのです。18年11月「乙女の碑」に「碑文」が建てられ、侵略戦争や植民地支配とともに、加害の史実が記されました。
―日本が始めた戦争を侵略と認めない歴史修正主義が幅をきかせ、排外主義につながる動きも出ています。黒川の方たちは、どのようにして村の負の歴史と向き合えたのでしょうか。
背景に被害女性とそれに寄り添った女性、戦後世代の女性の連帯がありました。そのもとで遺族会会長の藤井宏之さんは、犠牲になった女性たちの元に何回も足を運んで聞き取りをしました。そして地域で起きたことをみんなが知らなければいけない、同じことを起こさないようにしなくちゃいけないと考えたんです。親の世代の責任を自分たちが引き受け謝罪し、次の世代につなごうとしました。
碑ができた当時は安倍政権で、森友学園問題での財務省の公文書改ざんが明らかになり、改ざんを命じられた赤木俊夫さんの自殺が起きていました。そのなかにあって真正面から歴史に向き合う市井の人々がいることは救いであり、希望でした。
私は政治記者として自民党を取材してきました。後藤田正晴さん、野中広務さんなど戦争経験者は、程度の違いはあっても過去の戦争の犠牲に謙虚でした。「保守」とは本来、地域に根差し、祖先から受け継いだものを大切にし、そこで生きている人たちを大切にする。戦争への反省と責任についても向き合ってきたと思います。
―映画では、被害女性たちが尊厳を回復していく過程が、鮮やかに描かれていました。
佐藤ハルエさんのところには証言をしてから教師や学生、女性グループなどさまざまな人が訪ねてきて、ハルエさんの話に耳を傾けました。勇気ある行動が人を動かしたんですね。
大きく変わったのは東京で暮らす安江玲子さんです。当初は「出してもらっては困る」と言われ、匿名でお顔を写さず撮影していたんです。ところが会って謝罪したいという遺族会会長の申し出を受け入れたというので同行し、23年10月に改めてお会いしたときは別人のようでした。以前は硬い表情で笑うことがなかったのに、よく笑って語り、冗談もいう。お顔を写すことも承諾されました。
玲子さんはお孫さんから、もらったはがきを見せてくれました。玲子さんが生きて帰ってきたことや、満州での体験を語った勇気への感謝がつづられていました。遺族会が過去と向き合ったことで女性たちは救われ、身近な家族が理解し尊重してくれることで、玲子さんはトラウマから解放されていきました。「二度と戦争をしてはいけない。憲法9条を守らなければ」と語ってくれました。
戦争は権力者たちの判断でなされ、女性はその道具にされてきました。また歴史は簡単に書き換えられかねません。だからこそ黒川の女性たちが、実存する戦争の性暴力の被害当事者として証言し、事実を歴史に刻んだことは貴重です。
まつばら・ふみえ テレビ朝日ビジネス開発担当部長。政治部・経済部記者、「報道ステーション」チーフプロデューサーなどを経て現職。「独ワイマール憲法の教訓」でギャラクシー賞テレビ部門大賞など受賞歴多数。監督した映画は「ハマのドン」に続き2作目。