Imidas連載コラム 2025/04/01
少し前、たまに行くスーパーで店員に怒鳴り散らしている男性をよく見かけた。
レジに並んでいる時は大人しいのに、自分の番が来て店員さんが商品をピッとし始めると舌打ちするなど苛立ちを隠さず、足を踏み鳴らすなどして「遅い」とアピール。店員さんが動揺して失敗(商品を落としたり)すると、「カーン!」とゴングが鳴ったかのように攻撃が始まる。
「使えねぇ!」
「こんなに仕事トロいなんて信じらんねぇ!」
「俺が上司だったら今すぐクビだクビ!」
スーパー中に響き渡るような怒号。
最初に見た時は震え上がるほどに恐ろしく、その場から逃げ出したくなった。
しかし、何度も見ているうちに「またか」と思うようになってきた。そのうち、その人はわざわざ「キレるため」にこのスーパーに来ているような気がしてきた。やられる方はたまったものではないが、罵倒も「一連の儀式」のようで、周りの空気も「またやってる」という呆れた感じになってきた。
印象に残っているのは、その男性は他の客には決して迷惑をかけなかったこと。時には「客を代表してみんなのために言ってやってるんだ」という使命感すら垣間見えた。また、男性がキレるのは女性店員に対してだけで、男性店員がいるレジには決して並ばなかったことも覚えている。
そうしてある時期から、そのスーパーで男性の姿を見かけることはなくなった。
もしかしたら、出禁になったのかも。
そう思うと、ほっとした。「カスタマーハラスメント」(客からの暴言や不当な要求などの迷惑行為)という言葉が注目され、あらゆる店舗やバス・タクシー車内にも注意書きがなされる時代である。あんなやり方、令和に容認されるはずないのだ。
もう怒鳴り声を聞かなくてもいい上、店員さんのメンタルを心配しなくてもいい……。
解放された気分になりつつ、ふと「あの男性は、どこで買い物するのだろう?」という思いが頭に浮かんだ。
そうして、カスハラは自分で自分の首を絞める行為なのだと改めて気がついた。やめたくてもやめられないのであれば、依存症と近いところがあるのだろう。思えば怒鳴っている男性は、何かに取り憑かれたかのような、そして独特の脳汁が出ている人特有の恍惚の表情すら浮かべていた。
もうひとつ、思ったことがある。
それは、あのスラスラと繰り出される暴言は、男性が普段言われている言葉なのかもしれないということだ。使えない、遅い、クビだというお決まりの、だけど人を「無能」と断じ深く傷つけるフレーズ。
もしかしたら、スーパーでカスハラ加害をしていたあの人は、職場では被害者なのかもしれない。その屈辱が、歪んだ形で爆発していたのかもしれない。それで自尊心のようなものを取り戻そうとしていたのかもしれない。
だけどやっぱり、やっちゃいけないことだ。
カスハラはもちろん、パワハラなどの言葉が定着することによって、以前と比べれば表向きの暴力は随分減った令和7年。
私は昭和生まれの50歳だが、思えば私たちの世代くらいまでは幼少期から暴力にまみれて育ってきたと言える。
多くの家庭では「しつけ」と称した体罰が当たり前。それだけでなく、見ず知らずの大人から「うるさい!」と怒鳴られる(場合によっては叩かれる)なんて光景も普通にあった。
小学校に上がると教師からの体罰は日常的なものとなり、中学に入るとさらにエスカレート。ヤンキーがギリギリ元気だった時代ゆえ、とにかく「ヤンキーの芽は早くつめ」とばかりにほんの少しの校則違反でも教師は生徒をボコボコにした。暴力が蔓延する場所ではそれに対するハードルは下がる。結果、生徒間では「殺し合い?」と思うほどの殴り合いが日常化していた。多い時では週に一度は男子生徒の誰かが血まみれになっているのを目撃する日々。今思うとありえないが、それが昭和生まれの日常だった。
学校の外に目をやれば、ヤクザ映画やヤンキー映画が大流行。「男らしさ」「モテ」と暴力はもはやセットで、DVは「痴話喧嘩」と誰も相手にしなかった時代だ。セクハラという概念も、子供に性的なものを見せることは問題という意識もなかったことからテレビでは性的なシーンが堂々と流され、子どもたちが当たり前にそれを目にするという環境にあった。そうして今であれば「性暴力」と呼ばれることも、「いたずら」と言われスルーされていた。
しかし、野放しにされていた暴力は、私たちのどこかに今も傷を残している。
例えば体罰や暴言は、子どもの脳に悪影響を及ぼすことは広く知られるようになった。特に体罰は前頭前野の萎縮につながるという。
そんなことが知られるようになり、以前より厳しい目が向けられるようになった暴力。
また、ハラスメントの概念が広まったり、「心理的安全性」という言葉が注目されるようになったことで人の「傷つき」に敏感になる人は昔よりずっと増えた。
一方、職場での会話をICレコーダーで録音することなども「自衛」として普通のこととなり、またスマホとSNSの普及によって暴力は記録され可視化されるものになった。どうせ誰も見ていないだろうと思って好き勝手していたら、それが撮影されて拡散され、人生が終了するリスクを誰もが負うようになったのだ。
よって表向きには「安全」になったように見える令和。
が、果たしてそうだろうか? 暴力や攻撃は地下に潜り、より見えづらい、わかりづらい形となって私たちをじわじわと追い詰めているのではないだろうか?
最近、そんなふうに思い至る漫画と出会った。
それは『被害者姫 彼女は受動的攻撃をしている』(竹書房、2025年)。
著者の水谷緑さんの漫画はこれまでも何冊か読んだことがある。特にヤングケアラーの実態を綿密な取材に基づいて描いた『私だけ年を取っているみたいだ。』(文藝春秋、2022年)は大きな話題となったので知っている人も多いだろう。
そんな水谷さんが今作品で取り組んだのは、サブタイトルにもある「受動的攻撃」。
帯には、以下のような言葉がある。
〈「自分の意見を主張せず、争いごとが嫌いでニコニコしている」そんな“いい人”のアヤ。しかし彼女は無言で相手の罪悪感を刺激する。攻撃的な言葉を発さずに、相手を追い詰めていく。ーーそんな人、あなたのまわりにもいませんか?〉
主人公は夫と小学生の娘と暮らす会社員のアヤ。
いつもニコニコしていて人によって態度を変えず、上司には決して口答えしない。それだけでなく、意見も言わず、選択もしない。
しかし、彼女の周りにいる人は、モヤモヤした気分を植え付けられる。
例えば一緒にランチに行く際も彼女は〈なんでも大丈夫です!〉と言う。しかし、店に入ると明らかに浮かない顔。相手は〈もしかしてイタリアンいやだったのかな…〉と不安になる。〈大丈夫だった?〉と聞くと笑顔で〈え? おいしかったです〜〉。
そんなシーンのあとはこう続く。
〈怒りを直接的に表現せず 無言・無視 ため息・わざと返事を遅らせるなどして 遠回しに相手の罪悪感を刺激する〉
〈これを「受動的攻撃」という〉
〈そもそも“攻撃”には「能動的攻撃」と「受動的攻撃」がある 「能動的攻撃」は暴力・暴言などのわかりやすい攻撃 「受動的攻撃」は一見“攻撃”とわかりにくい 本人もおそらく“攻撃”だとは思っていない〉
少し前、「フキハラ」という言葉が注目された。「不機嫌ハラスメント」の略で、わざと不機嫌を隠さず、大きなため息をついたり大きな音を立ててドアを閉めたり舌打ちしたりという態度だ。周りにいる人を、「何か私が悪いことしたかな?」と不安にさせるコミュニケーション。
しかし、「受動的攻撃」は、それよりさらに巧妙でわかりづらい。アヤも不機嫌な態度などは決して見せず、口癖は〈私が悪いんです〉。
読み始めてすぐ、心当たりがありすぎることにざわざわしてきた。
ため息や不自然な沈黙、そしてこちらからの連絡に対する返信の遅さや無視など、自分がこれまでされたことに名前をつけると「これ」だったのでは? ということが次々と浮かんだからだ。
いや、自分が「された」側だから覚えているわけで、私も無意識にこのような攻撃をしていないなんて言えない。というか、してない自信がそもそもない。
漫画ではアヤの日常が描かれていくのだが、〈彼女は体調不良で怒りを表現する〉という言葉には「うわ」と声が出た。それだけではない。
〈彼女は被害者ポジションに自分を置き 相手を加害者に仕立て上げる〉〈そのためならどんな我慢も厭わない〉
実際、アヤは職場で攻撃対象とした上司の仕事を肩代わりすることでキャパオーバーとなり、過労で倒れるほどに我慢を厭わない。
倒れれば、周囲は「アヤさんにそこまで仕事を押し付ける○○が悪い」「アヤさんは本当にいい子」「断れなくてかわいそう」という評価になる。上司はと言えば「ひどい人間」「悪者」になる。
そんな受動的攻撃をする人について、漫画に登場する医師は、〈子どもの頃 親に合わせてきた人が多い〉こと、〈「怒り」を持てない環境にいた〉ことにより〈大人になってもストレートに主張でき〉ず〈遠回しなやり方で攻撃してコントロールしようとする〉のだと解説する。
思えば多くの人は、人をコントロールする手段など持っていない。それは力のある者の特権でもあるからだ。
が、唯一、「被害者ポジション」になればそれは手に入る。
医師はそんな受動的攻撃について、「一概に悪いものではない」とも付け加える。「親に勉強を強いられた子どもが成績を落としたり不登校になったりは子どもが唯一できる攻撃で、程度の差はあれ誰もがしたことはあるのでは」、と指摘する。
また、「被害者ポジション」は必要な時期もある。なんらかの被害を受けた人が自分の身に起きたことを「被害」と認識し、自らを被害者と捉えることが回復には不可欠というのは広く知られていることだろう。よって、被害者になることは必要な過程であるということも忘れたくない。
一方、アヤはターゲットとした上司を「加害者」に仕立て上げ、相手を追い詰めていく。
〈あの人は「加害者」 加害者は罰せられ 被害者の私は守られる それが正解 いい気味〉
そう思い、満足げに笑うアヤ。
そんな彼女がどうなっていくかはぜひ漫画を読んでほしいのだが、「受動的攻撃」という概念はアメリカで生まれたものだという。「Passive aggressive」といわれ、嫌われるコミュニケーションだそうだ。
漫画では会社や家庭での問題として書かれているが、今やネットでも猛威を振るっている「受動的攻撃」。
SNSを開けば、今日も誰かが誰かに「傷つきました」と書き込み、名指された方は「加害者」と認定されて時に集団リンチの対象となる。そうして「加害者なのだから罰せられて当然」とばかりにエスカレートしていく攻撃。
これは何も日本に限った話ではない。ジェンダーや人種、肌の色などの属性を巡り、世界中で今日も多くの人が「傷つきました」とSNSに書き込んで議論が終了したり、加害と名指された側が集団リンチの対象になったりしている。これを読んでいるあなたが「加害者認定」されない保証なんてどこにもない。
ちなみにこのような状況について分析された『「傷つきました」戦争 超過敏世代のデスロード』(カロリーヌ・フレスト著/堀茂樹訳、中央公論新社、2023年)は一読の価値がある。フランス人ジャーナリストによって書かれたものだが、確実に身に覚えがある今日的なモヤモヤの正体が鮮やかに示されているからだ。
ということで、暴力が封じられた世界で新たに出てきた、見えづらい攻撃。
今一度、加害と被害、そして自分や周りの人々を見直すために「受動的攻撃」という言葉を覚えておいて損はないだろう。