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ドキュメンタリー映画「黒川の女たち」 監督 松原文枝さん

2025年08月20日 | 戦争と平和

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「しんぶん赤旗」2025820

敗戦時 女性に強いられた「性接待」 親世代の責任に向き合う姿は希望

 戦前、岐阜県黒川村(現白川町黒川)から旧「満州」(中国東北部)に渡った黒川開拓団は、日本の敗戦直後、襲撃から団を守るため、旧ソ連兵に助けを求める代わりに未婚女性を「性接待」に差し出しました。この性暴力の被害を近年になって実名で告発した女性たちと、その事実を碑文に残し、謝罪した戦後世代の開拓団遺族会の姿を描いたドキュメンタリー映画「黒川の女たち」が公開中です。監督した松原文枝さんに聞きました。(内藤真己子)

 ―映画では「満州事変」が侵略戦争で、満蒙(まんもう)開拓団が軍事的役割を負っていたことを描いています。

 そこはすごく意識しました。1931年、石原莞爾ら関東軍幹部が仕掛けた柳条湖事件を発端に満州事変が勃発しました。半年後には関東軍が「満州」全域を手中に収め、1932年「満州国」が建国されます。「五族協和」をスローガンに掲げましたが、政府中枢は日本人が実権を握る傀儡(かいらい)国家でした。映画ではその首謀者が分かるように、軍服をきた関東軍幹部が満州軍閥と一堂に会している写真を使っています。

 戦後首相になった岸信介氏が、産業開発に携わった主要幹部の一人として「満州国」経営に権勢をふるったことが分かるカットも入れました。岸氏の孫は安倍晋三元首相です。植民地支配の中心にいた岸氏が戦後、首相に上り詰めた。戦前と現在の政治が地続きだと伝えたかったからです。

 その「満州」に、国策でソ連防衛の兵站(へいたん)の最前線として送り込まれたのが満蒙開拓団です。27万人が赴きました。

 ―女性たちはどんな経過で「性接待」を強いられたのでしょうか。

 終戦直前の8月9日、ソ連は「満州」に侵攻してきました。開拓団は関東軍に見捨てられました。開拓団の成年男子は現地で徴兵され、残っていたのは女性と子ども、高齢者がほとんどです。ソ連の侵攻、現地の中国人による襲撃で開拓団は追い詰められます。

 隣の開拓団は集団自決したと伝わり、黒川開拓団も生死が問われる状況に陥るなか、助けを求めたのが旧ソ連軍でした。彼らに護衛してもらう見返りに、数えで18歳以上の未婚女性15人を差し出して「性接待」をさせたのです。

 命じたのは団の幹部で、「性接待」は開拓団が避難していた旧国民学校の一角で行われました。「ベニヤ板に囲まれた本部の一室は悲しい部屋であった。泣いてもさけんでも 誰も助けてくれない お母ちゃんお母ちゃんの声聞こえる」。証言した女性が残した言葉です。性病、発疹チフスで4人が死亡。1年後、黒川開拓団は約450人が帰国しています。

 ―帰国した被害女性たちを待ち受けていたのは偏見と差別だったと。

 「汚れた女」「嫁のもらい手がない」などとさげすまれました。佐藤ハルエさん(2024年1月死去、享年99歳)は故郷を離れるしかなく、遠方の高原で未開の地を開墾し、借金をして畜産業をはじめました。

 安江玲子さん(97)は東京に出ましたが、夜も眠れないことが多く、トラウマに苦しみました。それぞれが思いを抱えながらも口にすることはなく、ときに犠牲者だけで集まって涙を流していました。1982年、犠牲者を追悼する「乙女の碑」が黒川にできても何のことなのか説明文はありませんでした。

 長野県阿智村に満蒙開拓平和記念館ができたことで転機を迎えます。13年に行われた講演会で、佐藤ハルエさんと、安江善子さん(16年死去、享年91歳)が被害を告発したのです。私は18年に佐藤さんが証言した記事を読んで、衝撃を受けました。90代になってなお性暴力被害を証言する勇気。「絶対に後世に伝えなければ」という強い意志を感じ、お話を聞きたいと思いました。旧「満州」で「性接待」を強いられたケースは伝聞や目撃証言があっても当事者が告発したのは黒川だけです。

 戦後も開拓団遺族会は「性接待」の事実を隠蔽(いんぺい)し、封印してきました。しかし女性たちの告発を受け、戦後世代に代替わりしていた遺族会は、開拓団が女性を「性接待」に差し出した事実を認め謝罪したのです。18年11月「乙女の碑」に「碑文」が建てられ、侵略戦争や植民地支配とともに、加害の史実が記されました。

 ―日本が始めた戦争を侵略と認めない歴史修正主義が幅をきかせ、排外主義につながる動きも出ています。黒川の方たちは、どのようにして村の負の歴史と向き合えたのでしょうか。

 背景に被害女性とそれに寄り添った女性、戦後世代の女性の連帯がありました。そのもとで遺族会会長の藤井宏之さんは、犠牲になった女性たちの元に何回も足を運んで聞き取りをしました。そして地域で起きたことをみんなが知らなければいけない、同じことを起こさないようにしなくちゃいけないと考えたんです。親の世代の責任を自分たちが引き受け謝罪し、次の世代につなごうとしました。

 碑ができた当時は安倍政権で、森友学園問題での財務省の公文書改ざんが明らかになり、改ざんを命じられた赤木俊夫さんの自殺が起きていました。そのなかにあって真正面から歴史に向き合う市井の人々がいることは救いであり、希望でした。

 私は政治記者として自民党を取材してきました。後藤田正晴さん、野中広務さんなど戦争経験者は、程度の違いはあっても過去の戦争の犠牲に謙虚でした。「保守」とは本来、地域に根差し、祖先から受け継いだものを大切にし、そこで生きている人たちを大切にする。戦争への反省と責任についても向き合ってきたと思います。

 ―映画では、被害女性たちが尊厳を回復していく過程が、鮮やかに描かれていました。

 佐藤ハルエさんのところには証言をしてから教師や学生、女性グループなどさまざまな人が訪ねてきて、ハルエさんの話に耳を傾けました。勇気ある行動が人を動かしたんですね。

 大きく変わったのは東京で暮らす安江玲子さんです。当初は「出してもらっては困る」と言われ、匿名でお顔を写さず撮影していたんです。ところが会って謝罪したいという遺族会会長の申し出を受け入れたというので同行し、23年10月に改めてお会いしたときは別人のようでした。以前は硬い表情で笑うことがなかったのに、よく笑って語り、冗談もいう。お顔を写すことも承諾されました。

 玲子さんはお孫さんから、もらったはがきを見せてくれました。玲子さんが生きて帰ってきたことや、満州での体験を語った勇気への感謝がつづられていました。遺族会が過去と向き合ったことで女性たちは救われ、身近な家族が理解し尊重してくれることで、玲子さんはトラウマから解放されていきました。「二度と戦争をしてはいけない。憲法9条を守らなければ」と語ってくれました。

 戦争は権力者たちの判断でなされ、女性はその道具にされてきました。また歴史は簡単に書き換えられかねません。だからこそ黒川の女性たちが、実存する戦争の性暴力の被害当事者として証言し、事実を歴史に刻んだことは貴重です。

 まつばら・ふみえ テレビ朝日ビジネス開発担当部長。政治部・経済部記者、「報道ステーション」チーフプロデューサーなどを経て現職。「独ワイマール憲法の教訓」でギャラクシー賞テレビ部門大賞など受賞歴多数。監督した映画は「ハマのドン」に続き2作目。

 


米ロ首脳会談 ウクライナの声を聞け

2025年08月19日 | 戦争と平和

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東京新聞 社説 2025年8月19日

米国のアラスカで、トランプ米大統領とプーチン・ロシア大統領による首脳会談が行われたが、ウクライナでの停戦に向けた進展はなかった。プーチン氏は会談後の記者会見で、ウクライナの主権の否定を意味する「紛争の根本原因の除去」の表現を用い、強硬姿勢を崩さなかった。トランプ氏は「非常に深い話だった」と述べ「(和平)合意は近い」としたが、事前に危惧された通り、一方的にロシアの主張に流された形だ。

 そもそも国際刑事裁判所(ICC)から戦争犯罪容疑で逮捕状が出た人物を相手に、無条件で首脳会談を開催したこと自体が問題だが、結果はやはりロシアの思惑通りになっただけだったと言える。

 プーチン氏は、和平の大前提として、ウクライナ東部ドンバス地域(ドネツク、ルハンスク両州)の領土割譲を主張している。ルハンスク州は現状、ほぼロシアの占領状態にあるが、ドネツク州ではウクライナ軍が堅固な陣地を築き全州の占領は困難な情勢だ。

 言語道断なのは、会談後、トランプ氏が、プーチン氏の意向そのままに、ドンバス地域のロシアへの割譲による和平合意をウクライナのゼレンスキー大統領に促す考えを明確にしたことだ。人道的見地から即時停戦実現を主張していた会談前の姿勢を一変させた。

 会談後、ウクライナ政府が「即時停戦なき和平提案はロシアの時間稼ぎにすぎない」と批判したのは当然だ。英仏独など欧州主要国も共同声明を発表し「戦闘が続く限り対ロ制裁を強化する」と明言、ウクライナの主権と国際法の原則を守る立場を改めて強調した。

 ゼレンスキー氏は、訪米しトランプ氏と会談するが、英仏独伊や欧州連合(EU)首脳らが同席するのは、欧州の強い危機感の表れだ。ロシアがトランプ氏を通じて押し付けようとしている「和平案」は拒否されるべきである。

 トランプ氏は最近、ノーベル平和賞への意欲を公言しているが、侵略国を一方的に利する和平案で平和賞に手が届くと考えること自体、不可解と言うほかない。

 独立国家の主権と国際法の原則堅持という冷戦後に築かれた国際秩序は、ロシアの暴挙とそれをとがめないトランプ氏のロシア寄りの姿勢によって崩壊の危機に直面していると言える。日本など国際社会は断じて、「人ごと」ととらえるべきではない。


「加害の歴史知らないと、同じことが繰り返される」「戦争の美化にも繋がる」10年間、加害を伝える展示を続ける理由

2025年08月17日 | 戦争と平和

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 日本の加害の歴史を伝えるパネル展が横浜市で、市民の手により10年間、開催されている。自国の加害の歴史を知る重要性とは。毎年、展示を続ける背景を取材した。【戦後80年企画「加害の歴史否定と差別に抗う」】

Sumireko Tomita  Sumireko Tomita

ハフィントンポスト20250808

 


「加害の歴史を知らないと、戦争で何があったかという実態が分からなくなってしまう」

そんな思いで横浜市で10年にわたり、旧日本軍による加害の歴史を伝える展示を続けている人たちがいる。 

日本では、学校の歴史教育でも戦争の加害の歴史については深く取り扱わない傾向が続いている中、市民による展示を毎年開く理由とは。

「戦争の加害パネル展」を訪れ、展示を10年継続してきた「記憶の継承を進める神奈川の会」の実行委員メンバーに話を聞いた。

自国の加害の歴史を知る「重要性」とは

展示を訪れると、「朝鮮人・中国人の強制連行」や「日本軍『慰安婦』問題」「731部隊」「南京大虐殺」「マレー侵略」など、旧日本軍が中国や朝鮮、東南アジア各国に対し行ってきた加害の歴史の数々についてのパネルが並んでいた。

戦争の加害パネル展が2016年に発足した時から企画に携わってきた竹岡健治さんは、展示の開催背景には、「加害の歴史を知る重要性」があると話す。

「加害の歴史を知らないことが戦争を美化する可能性にも繋がり、被害の歴史だけでは戦争の実態が分からなくなってしまいます。日本には周辺国を侵略してきたという歴史があり、加害の歴史抜きにして戦争を語ることはできません」

 

展示されているパネルは、それぞれの分野の研究者や歴史資料館、専門家・市民グループが作成したものだ。

専門家らが長年にわたり研究し、発表してきた論文や博物館の資料などをもとに作成され、参考文献なども書き添えられている。

例えば、強制連行についてのパネルは東京都新宿区にある「高麗博物館」、満州への集団移住のパネルは東京外国語大学関係者、日本軍「慰安婦」問題については新宿区の「女たちの戦争と平和資料館」が作成した。それぞれの分野の専門家と市民が連携し、展示を作り上げている。

パネル展は東京新聞横浜支局、神奈川新聞社、毎日新聞横浜支局、tvk(テレビ神奈川)など報道各社が後援、週刊金曜日が協賛している。

主催の「記憶の継承を進める神奈川の会」は、神奈川県在住者を中心とする市民約20人が実行委員を務める。広島への原爆投下や、第二次世界大戦中の歴史を描いた映画の上映会をきっかけに発足し、10年間活動を続けてきた。

広島県出身の竹岡さんは被爆2世。核兵器の恐ろしさを広島の原爆の歴史を通して知ってほしいと思うと同時に、「原爆の被害の歴史を世界の人に理解してもらうためには、こちらも自国の加害の歴史を知る必要がある」と考えた。

戦争の加害と被害の歴史の「相互理解」が重要だと感じ、加害の歴史を伝える活動を始めた。

長年、小学校教員としても歴史を教えてきたが、歴史の教科書では加害の歴史についての言及は少なかった。 近代史を学ぶ高学年の授業内では、できるだけ加害の歴史についても触れるようにした。

 「知らなかった」日本の歴史の一面。来場者から反響

展示には毎年、小学生から70代まで幅広い世代の約2000人が訪れる。

来場者からは「知っているつもりで知らないことがたくさんあった」「衝撃的だった」「これからさらに知る努力をしたい」との感想が寄せられる。

学校の歴史の授業で加害の歴史をあまり習わなかったという10代、20代の若者からは以下のような声が上がった。

「知らなかったことがたくさんありました。今の日本では学校では被害の面ばかりを教えられるので、加害面もきちんと知る必要があると思い来ましたが、想像していた以上にひどい現実を知りました」(20代)

「今回見たものの多くが私に衝撃を与えました。私が想像していた以上に現実に起きたことは悲惨だったからです。あまりにも非人道的すぎます。これからを生きる大人として私もこの国の過去を知り、問題解決に努めなければいけないと改めて思える良い機会でした」(18歳)

アジア各国に留学や語学研修、観光に行く若者も増えている昨今では、現地の歴史博物館や事前学習などで日本の侵略や加害の歴史を知る人も少なくないという。

茨城県から展示に足を運んだ高校生も、こう感想を寄せている。

「去年、シンガポールに行った頃から、日本の植民地政策について少し知るようになりました。インターネットでなく、パネルという媒体の良さも今日感じました。情報を専門家がまとめ、写真や地図も載っている。信憑性があり、とても意義深いと思います」(10代)

また、この高校生と同じく、加害の歴史についての情報をネット上で探すことの難しさをつづった感想もあった。30代の来場者は「日本の戦争加害を調べようと思ってもネットでは参考になるものを探すのは難しく、ここで参考文献などを明記してもらえてよかった」とした。

自国の加害の歴史を知らないと、何が起きるか

展示は毎年同じ場所で10年間開催し、公的施設である「かながわ県民センター」(横浜市)で継続してきた。

目立った妨害活動などはなかったが、戦歌などを流す街宣車は毎回、周囲を走る。

受付や説明を担当するスタッフが「日本人じゃないだろう」「国に帰れ」と言われたり、嫌がらせの電話がきたりすることもあった。

差別は許さないというスタンスだが、淡々と接し、どのような意見を持つ人にも「まずは展示を見てほしい」という姿勢で接してきた。

戦後80年が経過し、実際に戦争を経験した世代が少なくなっていく中で、自国の加害の歴史を知らないと、何が起きてしまうのか。

実行委員として10年間、活動に携わってきた中井恭子さんは、加害の歴史を知らないと「同じことが繰り返される」と話す。

「ドイツのように歴史の授業で加害の歴史も教えている国もありますが、日本はそうではありません。例え『良い人』でも『加害者』になってしまうのが戦争。戦争は絶対にいけないということはもちろん、加害も含め、戦争の歴史を知ることが大切です」

竹岡さんは加えて、「日本の防衛費もどんどん増加する中、加害の歴史を知らないことで『歯止め』がなくなってしまうのでは」との懸念を述べた。

「ガザへの攻撃も続く中、戦争の加害の歴史の実態を伝えていくことにより、日本だけでなく世界で、『戦争をもって解決するな』というメッセージを伝えていきたい」

「歴史修正主義」に抗うため、「歴史」知る意義は

戦後80年の今年は、沖縄戦の慰霊碑「ひめゆりの塔」の展示説明を「歴史の書き換え」とした自民党の西田昌司・参院議員の発言や、「自虐史観からの脱却」を掲げる参政党の躍進などの動きもあった。

自国の加害の歴史を否定・矮小化する歴史修正主義について竹岡さんは、「教科書問題なども含め、歴史修正主義には常に関心はもってきたが、とにかく大きな流れにしないようにしたい」と話す。

歴史修正主義の台頭は「世界から日本がどう見られるかということにも関わり、日本が信頼されなくなってしまう」との懸念も指摘した。

「歴史や政治の話はタブーという雰囲気がある。反対意見があってもいい。普通に喋れるような社会になれば、少しは違ってくるのではないかと思う」

加害の歴史を学べる場所の少なさも問題視

学校の授業での加害の歴史の取り扱いの少なさに加え、日本では、加害の歴史について学べる場所の少なさについても竹岡さんは指摘する。

海外では、加害・被害含めその国の戦争の歴史についての総合的な国立博物館や資料館がある国も多い。

日本で総合的に加害について学べる場所としては、加害責任や補償問題に特化した、NPO法人運営の「長崎人権平和資料館」などが挙げられるが、国立・自治体運営の施設はない。

展示を訪れる人々からは「地元でも開催してほしい」「巡回してほしい」という声も多くあるという。学びたくても学ぶ場所がないという問題が浮き彫りになっている。

竹岡さんは「加害、被害を含めた総合的な戦争に関する博物館が必要」と指摘する。

なかなか学べる場所がないという状況の中、「1年に1回ですが、展示をやり続ける意味はあるのではないかと思って継続しています」とも話した。

「戦争の加害パネル展」は8815日、かながわ県民センター1階展示場で午前10時〜午後6時まで開催中。

(取材・文=冨田すみれ子)


今日は雨が断続的に降り肌寒い。
朝9時ころに25℃あったのがだんだんと下がり20℃を下回り、今かろうじて20℃を保っている。
北海道はお盆で急激に気温が下がる。


参政党議員らの靖国参拝 侵略戦争と植民地支配まるごと肯定、歴史逆行と歴史修正主義許されない

2025年08月16日 | 戦争と平和

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靖国は単なる神社ではない

「しんぶん赤旗」2025816日【2面】

 靖国神社は、戦前・戦中に侵略戦争推進の精神的支柱となりました。戦後も、日本の侵略戦争を「自存自衛の正義のたたかい」「アジア解放の戦争」と美化する「靖国史観」を世界に発信している運動体で、一般的な宗教法人でも戦没者追悼の施設でもありません。

 前身は1869年設立の「東京招魂(しょうこん)社」で、幕末の内戦で戦死した新政府軍の将兵をまつり、79年の明治天皇の勅命で「靖国神社」に昇格しました。

 当初から陸軍省・海軍省など軍事当局が管理。天皇・国に忠義を尽くし「名誉の戦死」をした軍人などを「護国の英霊」としてまつることで、天皇のために命をささげることを美化し、侵略戦争を正当化する役割を果たしました。

 1882年に境内に開館した軍事博物館「遊就館」は、現在も「英霊の『みこころ』と『ご事蹟』を知る」施設として、靖国史観を宣伝する特異な展示を行っています。

 A級戦犯を合祀(ごうし)しているのも大問題です。靖国神社は1978年、東京裁判で戦争指導者として死刑になった東条英機元首相ら14人を、戦争犯罪の“ぬれぎぬ”を着せられた「昭和殉難者」として合祀しました。このため、靖国神社に合祀されている戦没者の遺族にも、複雑な思いをもっている人は少なくありません。

 8月15日の終戦記念日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として設けられました。この日に閣僚や国会議員が、侵略戦争を賛美しA級戦犯を合祀する靖国神社に参拝することは、侵略戦争を肯定し、その責任者をたたえる意思を国内外にアピールするものです。

 日本に降伏を勧告し、侵略戦争を推進した軍国主義勢力を「永久に除去」すると明記したポツダム宣言を日本は受諾し、同宣言は戦後日本の出発点となりました。靖国神社への閣僚や国会議員らの参拝は、同宣言を真っ向から拒否し、戦後の世界秩序に挑戦するもので、憲法が定める政教分離原則(20条3項)に反し、平和主義(9条)を大きく突き崩すものです。

 また、何よりも侵略戦争の被害者であるアジアの人々や日本国内の犠牲者を踏みにじるものと言わなければなりません。(田中佐知子)

 


日本共産党 田村智子委員長の戦後80年にあたっての談話。

2025年08月15日 | 戦争と平和

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「しんぶん赤旗」2025年8月15日

 一、戦後80年の終戦記念日にあたり、日本軍国主義による侵略戦争と植民地支配によって犠牲となられた内外の方々に深い哀悼の意を表します。

 日本の侵略戦争によって、アジア・太平洋地域では2000万人以上の命が奪われ、植民地支配のもとで強奪・暴行・性暴力など残虐な被害と苦しみがもたらされました。侵略戦争の拡大と長期化によって、沖縄県民を巻き込んだ凄惨(せいさん)な地上戦、広島・長崎への原爆投下、各地の空襲など、日本国民の310万人以上の命が奪われました。日本兵の戦死者は6割が餓死と戦病死でした。こうした侵略戦争と植民地支配の歴史を国民共通の認識とし、未来に継承しなければなりません。

 日本共産党は、日本国憲法に刻まれた「再び戦争の惨禍を繰り返さない」という不戦の誓いをあらたにし、いま進められている憲法違反の大軍拡と「戦争国家づくり」を止めるために、全力を尽くすものです。

 一、戦後80年にあたり、日本政府が、過去の侵略戦争と植民地支配にどう向き合うのかが問われています。これは、アジア諸国・諸国民との心が通う平和・友好・協力の関係を築き、東アジアに外交によって平和を構築していくうえでも避けて通ることのできない問題です。

 日本政府は、1995年の「村山談話」で「植民地支配と侵略」への反省を表明し、1993年の「河野談話」で、日本軍「慰安婦」問題について軍の関与と強制性を認め反省を表明しました。1998年の「日韓共同宣言」では、韓国に対する植民地支配への反省を表明しました。これら“三つの重要文書”は、歴史問題に対する日本政府の到達点を示すものです。

 ところが、戦後70年に発出された「安倍談話」は、韓国の植民地化をすすめた日露戦争を美化し、「植民地支配と侵略」への反省を過去のものとするなど“三つの重要文書”からの重大な逆行となりました。戦後80年にあたり、日本政府は、この逆行を清算し、“三つの重要文書”の核心的内容を継承することを明確に表明すべきです。

 その立場で、日本軍「慰安婦」問題、「徴用工」問題について、植民地支配と結びついた重大な人権侵害ととらえ、すべての被害者の名誉と尊厳が回復されるまで政治の責任を果たすことを求めます。

 また国策を誤った反省に立ち、被爆者や空襲被害者など、民間の戦争被害に対する謝罪と補償を行うよう求めます。

 国民を戦争に動員する精神的支柱となった靖国神社に、国政にたずさわる政治家が参拝することは、日本の侵略戦争肯定の意思表示を意味します。政党と国会議員はこのことを深く自覚すべきです。また自衛隊幹部の靖国参拝は、日本軍と自衛隊との連続性を示す危険な逆行です。少なくとも首相や閣僚、自衛隊幹部の参拝は行わないことを日本の政治のルールとして確立することを求めるものです。

 一、戦後の日本の政治では、侵略戦争への反省を欠いた勢力が、その中枢を占めることになりました。そうした勢力が、米国の言いなりに「戦争国家づくり」を進めているところに、今日の深刻な危険があります。

 とくに第2次安倍政権以降、日本は、集団的自衛権行使容認、安保法制の強行、アメリカとともに海外で戦争する国への暴走を強め、「専守防衛」さえも投げ捨てた大軍拡の道を突き進んでいます。唯一の戦争被爆国でありながら、アメリカの核使用をも想定した日米共同訓練まで行われていることも明らかになりました。

 軍事対軍事の悪循環の先に、平和はありません。日本共産党は、平和も暮らしも壊す大軍拡に、多くの国民とともに立ち向かうとともに、「軍事でなく外交」「排除でなく包摂」を基本理念にすえた「東アジア平和提言」―憲法9条にもとづく外交提言を掲げ、国内外でその実現のために力をつくす決意です。

 侵略戦争と植民地支配を肯定・美化し、歴史を偽造してきた歴史逆行の勢力が、日本の政治中枢に居座り続けてきたことは、この間の新たな極右・排外主義の流れを生み出す根源の一つとなりました。外国人への敵意と差別をあおり、社会に差別と分断を広げることは、民主主義と人権を著しく踏みにじる行為であって、決して許してはなりません。外国人への差別の刃(やいば)が、やがて日本国民にも向けられ、戦争に反対する人を「非国民」と弾圧し、侵略戦争と植民地支配に道を開いた歴史を想起すべきです。私たちは、歴史の偽造にも、差別と分断にも断固として反対を貫きます。多様性と共生を大切にする社会を願うみなさんとともに、極右・排外主義を克服するために力を尽くします。

 一、戦後80年、人類の歴史は、平和と人権の尊重へと大きな前進をとげています。ここに世界の本流があります。

 植民地支配と奴隷制度への責任を過去にさかのぼって明らかにし、謝罪を求める動きが世界に広がっています。2001年に開催された国連主催の国際会議で採択された「ダーバン宣言」は、「植民地主義が起きたところはどこであれ、いつであれ、非難され、その再発は防止されなければならない」と宣言しました。20年余の時を経て、この宣言が生きた力を発揮しています。

 被爆者のみなさんは、戦後一貫して核兵器の非人道性を世界に訴え続けてきました。それがついに、2017年の核兵器禁止条約の成立、21年の発効へと結実し、73カ国が批准、94カ国が署名し、圧倒的な国々と市民社会が、核保有国と核兵器にしがみつく国々を包囲しています。

 被爆80年の原水爆禁止世界大会では、核兵器廃絶とともに、軍拡反対、国連憲章に基づく平和の秩序の構築、排外主義反対での新たな国際連帯が大きな広がりをみせました。

 日本共産党は、命がけで反戦平和を貫いてきた103年の歴史に立ち、こうした平和の世界の本流を前に進めるために歩み続ける決意です。


「ゲン」に描かれた願い

2025年08月14日 | 戦争と平和

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桧山珠美

「しんぶん赤旗」2025814日【テレビ・ラジオ】

 7月26日に放送されたNHK「新プロジェクトX~挑戦者たち~」「アメリカに渡った漫画~『はだしのゲン』~」は、その感動的な挑戦を描き出した、実に興味深い番組だった。

 漫画家・中沢啓治が自身の被爆体験を基に描いた「はだしのゲン」は、原爆投下後の広島で逞(たくま)しく生きる少年ゲンを主人公に描いた物語だ。これまでに25以上の言語に翻訳され、英語版だけでも累計11万部を超えるベストセラーとなっている。

 1970年頃は、その存在は認知されているものではなかった。その時代に「はだしのゲン」がどのようにして海を渡り広まっていったのか。番組はそのルーツを遡(さかのぼ)る。

 ひとりの青年がいた。大嶋賢洋氏。アメリカを放浪していた彼は、原爆投下の是非をめぐる日米の認識の違いに直面し、葛藤を抱えていた。そんな時、ある老人の言葉に触発され、帰国後、彼は「はだしのゲン」を翻訳し、アメリカに伝えることを使命とし、奔走する。ボランティアグループ「プロジェクト・ゲン」を立ち上げ平和への強い想(おも)いを一つに挑む。若者の熱意が多くの人の心を動かし、その輪が広がっていく。作者が「はだしのゲン」に込めた平和を願う想いが世界中に届けられていく。その事実に胸が熱くなった。平和を願う心に国境はない。

 翻って、広島市が平和教育教材から『はだしのゲン』を削除した話題は記憶に新しいところだ。

 広島市教育委員会は理由をいくつか挙げていたが、その一つに「被爆の実相が伝わりにくい」というものがあった。「コイを盗むシーンや浪曲の描写などが、今の時代の子どもたちの生活実態とかけ離れており、教師が短時間で意図を伝えるのが難しい」という声があったとのこと。

 言葉や生活習慣、文化も異なる海外の国々ではそのメッセージが受けいれられ、今も多くの人に感動を与えているのに国内では「時代に合わない」と排除されるというのもおかしな話ではないか。

 自国の歴史と文化を背景に生まれた「はだしのゲン」。そこに描かれた平和への強い願いは、時代や場所を超えて普遍的な価値をもつ。作品が放つ本来のメッセージをどのように次世代に伝えるべきか。改めて考えたい。(ひやま・たまみ フリーライター)


わたしはテレビを持たない。
理由はこのブログのどこかで書いたと思うがわたしの意志ではなくNHKの「サービス精神」のなさである。
そんなわけで残念なながら観ることができないのだ。

また明日の終戦の日には「火垂るの墓」が放送される予定だ。
このアニメも海外で爆発的人気を博しているようだ。


核実験被害者救済 核保有国の政治的責任は重大

2025年08月13日 | 戦争と平和

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しんぶん赤旗」主張 2025年8月13日【2面】

 「核戦争阻止と核兵器廃絶を求める壮大な行動を展開するよう世界によびかける」。核実験被害国のマーシャル諸島共和国や核保有国の米国からも平和団体の代表らが参加して閉幕した原水爆禁止世界大会。その国際会議宣言は、「被爆80年―いまこそ決断と行動」として、ヒロシマ・ナガサキの実相とともに、核実験被害の実態を広く知らせる取り組みを各国ですすめることを訴えました。

■原水禁運動の原点

 広島、長崎に原爆を落とした米国は戦後の1954年、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で「キャッスル作戦」と称して連続的に核実験を強行しました。作戦の第1弾・3月のブラボー核実験では、爆心から約160キロも離れた公海で操業していた日本のマグロ船・第五福竜丸に「死の灰」(放射性降下物)が降り注ぎ、23人の乗組員が被ばくしました。

 このビキニ被災事件は国民に大きな衝撃を与え、「原水爆禁止」を求める国民運動が始まりました。今日に続く運動の原点です。

 この50年代から本格的な東西冷戦時代にむかうなかで、フランスや英国も核実験を繰り返しました。米国がマーシャル諸島で行った核実験は67回にも及び、その総威力は広島型原爆を12年間毎日落とし続けた規模です。

 フランスは仏領ポリネシアなどで210回の核実験を行い、ソ連はセミパラチンスク核実験場(現・カザフスタン共和国)を中心に450回以上実施しました。核実験による放射能被害は広く世界各国に及び、いまも核実験被害で苦しむ人たちがいます。

 そうした背景から、2017年に122カ国の賛成で採択された核兵器禁止条約は「核兵器使用の被害者(ヒバクシャ)及び核実験の被害者にもたらされた容認できない苦難と損害に留意する」と盛り込みました。

■9百隻以上が被害

 日本政府は1955年1月に、ビキニ被災事件の人的被害を第五福竜丸だけにとどめ、廃棄漁獲物代として米側が200万ドルを支払うことで「政治決着」させました。

 しかし日本政府が2014年に公開した文書や内閣会合記録によると、放射線汚染魚を廃棄した漁船は第五福竜丸以外に992隻にのぼります。ほとんどの漁船員は放射能検査さえされませんでした。

 米国が軍事目的の核実験で被ばくさせながら、日米両政府はその事実さえ隠し続けてきました。被害漁船員の多くは10年後、20年後に真の死因も分からず亡くなりました。人道上、絶対に許せないことです。

 現在、日米政治決着によって米国に損害補償を求める権利を奪った日本政府に損失補償を求める裁判(高知地裁)がたたかわれています。被災船のひとつ・第七大丸の通信士だった大黒藤兵衛さんの長女で、原告団長の下本節子さんは「禁止条約を力に日本政府に迫りたい」と訴えます。

 核実験大国の米国や「核の傘」の下にある日本政府は、核実験がもたらした不正義や被害者の苦しみに向き合い、必要な援助や補償をする政治的、道義的責任があります。


朝晩はすっかり涼しくなりました。
日中も30℃以下ですが日が照ると暑く感じます。
歳のせいでしょうか、耐え難いのです。
無理は禁物。


長崎きょう被爆80年 核なき世界へ NPT再検討会議向け連帯を

2025年08月09日 | 戦争と平和

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原水爆禁止世界大会 市民が交流

「しんぶん赤旗」202589日【1面】

 被爆80年・原水爆禁止2025年世界大会フォーラム「核兵器のない平和で公正な世界のために―市民運動の共同と交流」が8日、長崎市で開かれ、被爆の実相を広げ、来年の核不拡散条約(NPT)と核兵器禁止条約の両再検討会議に向け、核兵器のない世界のために連帯することを確認しました。11の分科会や緊急企画「ガザ住民支援・非核平和の中東を」を開催し、活発に討論しました。

 フォーラムで、英国前労働党党首のジェレミー・コービン下院議員・核軍縮運動(CND)副会長は、核保有国が核リスクを高めていると指摘。来年開催されるNPT再検討会議まで、日本でも英国でも自国政府を禁止条約に参加するよう働きかけることが重要だとして、力を尽くすと表明しました。

 米国の平和・軍縮・共通安全保障キャンペーンのジョゼフ・ガーソン議長は、日本の政治を根本転換しなければ、日本が米国の「核の傘」から離脱し、禁止条約に参加できないのではないかと指摘しました。

 韓国のフォーラム平和共感研究員の李俊揆(イ・ジュンキュ)氏は朝鮮半島で高まる核使用の緊張に対し、米韓の大規模合同演習の軍事対軍事の対決構図を変える必要があると指摘。禁止条約を批准する運動とともに日・韓・北朝鮮の非核地帯などを通じて東アジアの平和をリードしようと語りました。

 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の土田弥生事務局次長は、核なき世界に向け、9月に日韓共同の取り組みを計画していると述べました。日本政府が禁止条約に参加するために、自治体決議の採択や署名を広げていることなどを紹介。来年のNPT再検討会議に向け運動を広げ、ニューヨークに再度集まることを呼びかけました。

 緊急企画ではエジプトのモハメド・エゼルディン・アブデルモネイム元外務次官が講演しました。


過ごしやすくなってきました。
昨日は25℃、今日は27℃、最低気温も20℃を下回り、ハウスのトマトの生育環境もよくになっています。
明日は娘と孫がやってきます。
どこへ連れて行こうか?
連休だし、混むだろうなぁ。
少し遠出しようか。

 

 

 

 


核廃絶求める高校生ら 行政動かす 米国

2025年08月08日 | 戦争と平和

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原爆投下 広がる批判

「しんぶん赤旗」202588日【国際】

 【ワシントン=時事】広島、長崎への原爆投下から80年。落とした側の米国内では依然として「原爆が第2次大戦を終結させた」と正当化する見方が根強い。しかし、「Z世代」と呼ばれる10~20代の若年層を中心に、原爆に批判的な声も広がりつつあります。

 西部カリフォルニア州バーバンクで、高校生の「草の根」の活動が行政を動かしました。

 州内の大学に通うエディー・レシェさん(19)は、バーバンク市内のジョン・バロウズ高校に在籍していた2023年、校内に核廃絶を呼び掛ける「バーバンク核廃絶クラブ」を創設しました。核戦争のリスクに関する講演を聞き、怖くなったのがきっかけでした。最初は1人だけの活動でしたが、次第に参加者が増加。昼休みに教室で勉強会を重ねてきました。

 レシェさんは「世界には多くの問題があり、多くの若者が『自分には何もできない』と感じている。でも、その考えに挑みたかった」と振り返ります。約20人の同級生と共に市や市議会に働き掛け、同年12月、アンソニー市長(当時)に核廃絶を目指す宣言を出させることに成功しました。

初めて広島へ

 核廃絶宣言の翌年、レシェさんの活動に触発された学生が全米規模の学生団体を設立したいと相談してきました。レシェさんも設立に携わった団体は現在、全米12支部に広がり、参加者は高校・大学生ら約500人に膨らみました。

 「将来何をやりたいかを考えていた。しかし、核戦争が起きたら全てが失われると感じた」。レシェさんは今年8月6日、初めて広島を訪れて平和記念式典に参列。日本の学生団体とも交流する予定です。

じわり変化が

 トランプ大統領(共和党)は6月、イラン核施設に対する空爆に言及する中で「広島、長崎への原爆投下が戦争を終わらせた」と主張しました。オースティン前国防長官(民主党)も議会で同様の発言をしており、米国では原爆投下への肯定意見は党派を超えて支配的です。

 しかし、世論は少しずつ変化しています。終戦直後の1945年8月に調査機関ギャラップが実施した調査では、「原爆投下支持」は85%で、「不支持」は10%にとどまりました。一方、調査機関ピュー・リサーチ・センターの今年の世論調査によると、成人のうち原爆投下を「正当」とする割合は35%だったのに対し、「不当」の割合は31%となりました。若年層ほど批判的だったといいます。

 1995年、スミソニアン国立航空宇宙博物館は広島に原爆を投下した米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」と合わせ、原爆被害を伝える展示を企画しましたが、退役軍人団体などの反発で中止に追いやられました。博物館は来年7月に予定する改装を機に、原爆投下直後の写真も展示する方向で準備を進めています。

 


それでも「核武装は安上がり」に賛同するのか?原爆の犠牲になった妻子4人を自らの手で焼いた俳人による「慟哭の記録」

2025年08月07日 | 戦争と平和

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MAG2nwes  2025.08.07

  by 『きっこのメルマガ』

絶対に忘れてはならない記憶。原爆の日に読むべき被爆俳人の句

80年前の今日、昭和201945)年86日、広島に原爆が投下されました。そして、3日後の89日、長崎に原爆が投下されました。それから80年、世界では幾度も戦争が繰り返され、現在も愚かな指導者による理不尽な戦争が続いていますが、戦争に原爆が使われたのは、未だに広島と長崎の例だけに留まっています。つまり、原爆はそれほどまでに残酷で非人道的な兵器であるということが、広島と長崎で証明されたということなのです。

そこで今回は、特別企画として、原爆にまつわる俳句を紹介したいと思いますが、まずは次の句を読んでみてください。

八月や六日九日十五日 詠み人しらず

「はちがつや/むいかここのかじゅうごにち」と読むこの句の意味については、日本人であれば説明の必要はないと思います。「六日九日十五日」という日付の羅列がちょうど五七五の「七五」になっているため、上五に「八月や」や「八月は」を置いた句が、複数の俳人によって詠まれて来ました。

俳句はわずか十七音の世界最短詩形である上、その句が詠まれた時期を示すための季語が必要なので、どこかの誰かが詠んだ句と類似した句や、場合によっては一字一句同じ句が生まれてしまうことが多々あります。このような作品を「類想類句」と呼び、基本的には一番最初に発表した人の作ということになります。

しかし、この句の場合は「一番最初に発表したのが誰か」ということを調べて作者を特定するよりも、複数の人が同じ思いでこの句を詠んだという事実に重きを置き、この句を日本人の共通認識として「詠み人しらず」の形で残そうということになりました。大切なのは、誰の作なのかを特定することではなく、戦争という悲劇を二度と繰り返さないために、この句に詠まれた三つの日付を決して忘れないことだという判断です。

あたしは敗戦から27年後の昭和471972)年、東京の渋谷に生まれたので、戦争も原爆も遠い存在でした。小学校の社会科で、あたしは自分が生まれる前に戦争があったこと、広島と長崎に原爆が投下されて多くの市民が殺されたこと、今も多くの被爆者が苦しんでいることなど、最低限のことは教わりました。でも、東京で生まれ育った小学生のあたしにとって、遠く離れた広島や長崎での原爆投下は実感がともなわず、よその国の話のように感じられました。

それよりあたしの場合は、おばあちゃんから何度も聞かされた「東京大空襲」の話のほうが衝撃でした。特に激しかった空襲が、昭和20310日と525日だったと聞かされました。当時、二十代半ばだったおばあちゃんは、結婚したばかりでお腹には初めての赤ちゃんがいました。でも、おばあちゃんの夫、あたしにとってのおじいちゃんは、赤紙一枚で徴兵されて南方の島へ派兵されていたのです。

原爆という人類史上最悪の兵器の残酷さを伝えるための器

おばあちゃんは東京の下町の家を一人で守っていましたが、310日の大空襲で近隣の家が焼かれ、おばあちゃんの家も延焼してしまいました。おばあちゃんは臨月のお腹を抱えて防空壕に飛び込み、夜が明けてから数キロ離れた親戚の家に助けを求めました。そして翌4月、おばあちゃんはその親戚の家で、初めての女の子、あたしの母さんを産んだのです。

そして、運命の525日が訪れました。東京の夜空を埋め尽くすかのようなB29の大編隊は、焼夷弾の絨毯爆撃で、数十万人もの市民が暮らす住宅街を焼き払って行きました。焼夷弾の直撃を受けて燃え上がる親戚の家から飛び出したおばあちゃんは、生まれたばかりの母さんを抱いて逃げまどいます。防空壕には入れてもらえず追い払われ、燃え上がる町をさまよったおばあちゃんは、多くの人々が向かう隅田川方面とは別の方向へ逃げたことが幸いして、奇跡的に生き残りました。

数日かけて千葉の遠い親戚の家に辿り着いたおばあちゃんは、その家で終戦を知ります。その後は、その家の家業の手伝いと和裁の内職をしながら、必死で母さんを育てつつ、おじいちゃんの帰りを待ち続けました。しかし、終戦から一年以上が経っておばあちゃんのもとに届いたのは、おじいちゃんの死亡報告書と、遺骨の代わりに小石が入った箱でした。

戦後の混乱期を生き抜いたおばあちゃんは、和裁の腕を生かして復興した呉服屋に住み込みで雇ってもらい、母さんを育てました。おばあちゃんは母さんが片親だということで引け目を感じないように、手をつけずに貯めていた戦死者遺族年金で、母さんを大学へ進学させました。絵を描くのが大好きだった母さんは、志望した美術大学へ進学することができ、そこで知り合った父さんと結婚したのです。そして、あたしが生まれました。

ここでは便宜上「おばあちゃん」と書いて来ましたが、実際には戦争で夫を奪われた二十代半ばの女性が、戦禍で産んだ我が子を女手ひとつで育て上げた半生なのです。未だに正確な犠牲者数の分からない東京大空襲ですが、犠牲者数を「710万人」と見積もっている資料もありますし「約15万人」としている資料もあります。こうしたデータを見ると、おばあちゃんが生き残ったことも、母さんが生き残ったことも、どちらも奇跡のようなものなのです。

そして、その奇跡から、あたしが生まれたのです。もしも東京大空襲で母さんが犠牲になっていたら、あたしはこの世に存在していませんでした。ここまで考えた時、あたしは初めて、自分が生まれる前の戦争と、今ここにいる自分とが結びついたのです。これがあたしのルーツなので、あたしにとっての戦争のイメージは、広島と長崎の原爆投下でなく、東京大空襲となったのです。

しかし、そんなあたしでも、今では原爆投下を自分ごととして感じられるようになりました。それは、長崎の原爆を体験した「松尾あつゆき」という俳人の句を読んだからです。俳句といっても、あたしが実践している有季定型の一般的な俳句ではなく、種田山頭火や尾崎放哉に代表される音数や季語にこだわらない「自由律俳句」ですが、自由律だからこそ原爆という人類史上最悪の兵器の残酷さを伝えるための器となりえたのだと思いました。

瀕死の我が子の口に木の枝をくわえさせた母

松尾あつゆきは明治371904)年、長崎県北松浦郡に生まれました。地元の高校を卒業後、商業学校の教員となり、その数年後、自由律俳句の大家、荻原井泉水(せいせんすい)に師事して、自由律俳句にのめり込みます。種田山頭火や尾崎放哉は先輩で、山頭火が長崎を訪れた際には、あつゆきが長崎を案内しています。その後、あつゆきは結婚し、四人の子をもうけて幸せに暮らしていたのですが、戦争が始まったため、国策として教員を辞めて長崎の食料営団に勤務させられます。そして、昭和2089日を迎えました。

「原爆句抄」松尾あつゆき
八月九日 長崎の原子爆弾の日。
我家に帰り着きたるは深更なり。
「月の下ひっそり倒れかさなっている下か」
十日 路傍に妻とニ児を発見す。
重傷の妻より子の最後をきく(四歳と一歳)。
「わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ」
「すべなし地に置けば子にむらがる蝿」
「臨終木の枝を口にうまかとばいさとうきびばい」
長男ついに壕中に死す(中学一年)。
「炎天、子のいまわの水をさがしにゆく」
「母のそばまではうでてわろうてこときれて」
「この世の一夜を母のそばに月がさしてる顔」
「外には二つ、壕の中にも月さしてくるなきがら」
十一日 みずから木を組みて子を焼く。
「とんぼうとまらせて三つのなきがらがきょうだい」
「ほのお、兄をなかによりそうて火になる」
十二日 早暁骨を拾う。
「あさぎり、兄弟よりそうた形の骨で」
「あわれ七ヶ月の命の花びらのような骨かな」
十三日 妻死す(三十六歳)。
「ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへこときれる」
十五日 妻を焼く、終戦の詔(みことのり)下る。
「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」
「夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ」
「降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ」

これが全文ですが、自由律俳句は短文と区別がつかない場合があるため、俳句作品にはカギカッコをつけました。あたしは20年ほど前にこの作品と出会ったのですが、初めて読んだ時、涙が止まらなくなってしまいました。そして、それ以来、毎年89日の黙祷の前に読み直すのですが、やはり涙が止まらなくなってしまうのです。

お母さんは自分も全身が焼けただれて瀕死の状態なのに、死にかけている我が子の口に木の枝をくわえさせて「うまかとばい」「さとうきびばい」だなんて、あたしは、この悲しみと苦しみの中でのお母さんの思いが、胸に痛すぎて耐えられません。そして、先に逝った4歳と1歳の子のあとに、中学1年の長男がお堀の中から這い出して来て、倒れているお母さんのところまで必死に這って来て、ニコッと笑ったまま、こときれたのです。

その翌日、松尾あつゆきは、拾い集めて来た木を組んで、瓦礫の中で三人の我が子を焼きました。「とんぼう」というのは「トンボ」のことですが、三人の我が子の亡骸(なきがら)に、焼く前にトンボがとまったことが、せめてもの慰めだったのです。だって、それまでは、蝿ばかりがたかっていたのですから…。

昨日まで元気だった我が子たちが、次の日には焼けただれて死に、その亡骸に蝿がたかっているなんて、親として耐えられるわけがありません。だからこそ、その亡骸に一匹のトンボがとまってくれたことが、助けてやれなかった自分自身の気持ちに対する慰めでもあったのでしょう。そして、次の日の朝早く、子どもたちの骨を拾ったのです。たった7カ月で死んで行った我が子の、小さな小さな骨を「命の花びらのような」だなんて、これほどの悲しみがあるでしょうか。

戦争という惨劇の頂点にある広島と長崎への原爆投下

これだけでも、あたしだったら発狂しそうなほどの苦しみの極限なのに、次の日には奥さんが亡くなったのです。そして、その奥さんを焼いた日に、戦争が終わったのです…。

「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」

…なんという悲しみでしょうか。なんという苦しみでしょうか。でも、これが戦争なのです。これが、未だに世界のあちこちで繰り返されている戦争なのです。そして、これは松尾あつゆきという一人の俳人の体験ですが、これと同じ思いをした人が、何万人も何十万人もいたのです。たった一発の原爆のせいで…。

あたしのルーツは東京大空襲ですが、大空襲は東京だけでなく全国各地で行なわれ、それぞれの地域で多くの市民が犠牲になりました。ですから、あたしと同じように「戦争と言えば大阪大空襲だ」「戦争と言えば名古屋大空襲だ」という人も数多くいると思います。そして、決して忘れてはならない沖縄の地上戦もありますので、戦争に対するあたしたちの思いは人それぞれということになります

しかし、この戦争という惨劇の頂点にあるのが、広島と長崎の原爆投下なのです。全国各地の大空襲も、沖縄の地上戦も、すべて原爆投下に含まれているのです。赤紙一枚で戦地へ駆り出され、銃弾や食料などの支援が受けられずに餓死してしまったあたしのおじいちゃんのような犠牲者たちも、特攻隊として海に消えて行った少年たちも、すべてが原爆投下に集約されているのです。

だからこそ、あたしたち世界唯一の戦争被爆国の国民は、絶対に86日と89日という日を絶対に忘れてはいけませんし、日本は一日でも早く「核兵器禁止条約」を批准するための第一歩として、まずは会議へのオブザーバー参加をすべきなのです。

また、日本の現在のリーダーである石破茂首相は、この国が二度と戦争の当事国とならないためにも、地球上の核兵器をゼロにするためにも、力強い「戦後80年談話」を世界に向けて発信すべきなのです。

そして、限りなく植民地に近い不平等な「日米地位協定」を是正すれば、日本の長かった戦後もようやく終わるのです。

(『きっこのメルマガ202586日号より一部抜粋・文中敬称略)

 

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「広島の和解精神が同盟強化」

「しんぶん赤旗」202587日【2面】

 米国務省のブルース報道官は5日の記者会見で、広島への原爆投下から6日で80年になるのを前に、「広島の人々の和解の精神が日米同盟を強化してきた」などと断じました。

 広島の街を一瞬にして廃虚に変え、多くの人々の命を奪い、生き残った被爆者にも後遺症や差別をもたらした原爆投下について、米国は謝罪も補償もしていません。被爆地・広島が原爆投下を許した事実もなく、現状では和解が成立することは不可能です。

 報道官の発言に先立ち、トランプ米大統領は6月、米軍が実施したイランの核施設への空爆となぞらえ、広島と長崎への原爆投下は「本質的に同じものだ。あれが戦争を終結させた」と正当化しました。これには被爆者から「断じて許すことができない」との怒りが広がったばかりです。

 日米同盟をめぐっても、米国の核使用を想定した日米共同訓練や、日米の「拡大抑止に関するガイドライン(指針)」を策定するなど、「核兵器廃絶」という広島県民・市民の願いに真っ向から反する「核抑止」強化を進めています。

 日米同盟は、「和解」どころか被爆者の願いに「逆行」していることは明らかです。

 


広島きょう被爆80年 「核抑止力」論打破し禁止条約普遍化を

2025年08月06日 | 戦争と平和

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世界大会 各国政府・議員・市民が連帯 フォーラム 志位議長が発言

「しんぶん赤旗」202586日【1面】

 被爆80年・原水爆禁止2025年世界大会は5日、二つのフォーラムをはじめ、「核兵器禁止条約に参加する日本を―非核日本キャンペーン」など12の分科会を広島市内で開きました。核保有国による核使用の緊張が高まるもと、各国政府、議員、市民社会が連帯して大軍拡を阻止し、核兵器廃絶に向けて共同を広げる決意を語り合いました。全労連は初の国際会議を開催し、各国労組と交流しました。

 フォーラムⅠ「政府代表と市民運動の交流」、フォーラムⅡ「議員と市民の国際連帯」では、各国政府・議員、市民社会が連帯して「核抑止力」論を打破し、核兵器の禁止・廃絶と平和構築に向けた連帯を広げることを確認しました。

 フォーラムⅡで、英国のジェレミー・コービン前労働党党首・核軍縮運動(CND)副会長は、世界で巨額が核兵器に費やされ、巨額が軍事産業に流れていると批判。広島、長崎、核被害者らに耳を傾け、持続可能な平和の実現に向け核兵器をなくすことは私たちの責任だと述べました。

 ベルギー労働党のマルク・ボテンガ欧州議会議員は、トランプ米大統領が北大西洋条約機構(NATO)に求める軍事費の国内総生産(GDP)比5%では社会は破壊されるとして、各国で軍事化に反対しなければならないと語りました。

 ドイツ左翼党のマルティン・シルデワン欧州議会左翼会派共同議長は、ドイツ人の3人に2人が核兵器禁止条約に加盟を望んでいるが、政府は無視していると告発。「広島・長崎は過去の悲劇だけでなく、現在と未来への警告だ」と語りました。

 米国・平和のための退役軍人会のアン・ライト氏は、米下院議員2人が米国が、核兵器の削減と廃絶に向けた世界へ主導するよう求める決議を提出したことを紹介しました。

 日本共産党の志位和夫議長は、世界が「戦争か、平和か」の岐路に立つもとで、各国に共通する四つの死活的な課題についての国際連帯を訴えたいとして、(1)核兵器廃絶、とくに核兵器禁止条約の推進(2)国連憲章にもとづく平和秩序の構築(3)大軍拡反対、外交による平和創造のたたかい(4)極右・排外主義とのたたかい―を提起。この中で核廃絶について、核軍拡競争が起きる一方、核兵器禁止条約が広がっていると指摘。各国で「核抑止力」論を打ち破り、禁止条約に参加する流れをつくりだそうと呼びかけました。

 フォーラムⅡは、参加者からの自由な質問に、各国代表が答える質疑が活発に行われ、あたたかい国際連帯の空気に包まれたものとなりました。

 フォーラムⅠで、オーストリアのトーマス・ハイノッチ元大使は、安全保障で問われるのは国家ではなく「人間の安全保障だ」と指摘。エジプトのモハメド・エゼルディン・アブデルモネイム元外務次官は、核不拡散条約(NPT)は過渡的なものであり、禁止条約の全面実施につなげないといけないと述べ、キューバのヒセラ・ガルシア駐日大使は、禁止条約の普遍化への努力を継続的に支持すると語りました。

 米国の平和・軍縮・共通安全保障キャンペーンのジョゼフ・ガーソン議長は、来年のNPTと禁止条約の各再検討会議にむけた大きな行動を呼びかけ、原水爆禁止日本協議会の土田弥生事務局次長は、来年のNPT再検討会議でニューヨーク国際共同行動の開催を提起しました。


(「東京新聞」 主張 より)

原爆が壊したものは、広島と長崎の街だけではなく、人間の良心や倫理、道義でもありました。

 その結果「核兵器を持てば、持たない者に勝つ」という忌むべき思想が、被爆者渾身(こんしん)の反核の訴えにもかかわらず、世界を蝕(むしば)んでいます。それを許すまいと死者に改めて誓う、今日の原爆忌です。 

ミズヒキ


原水爆禁止2025年世界大会 国際会議宣言

2025年08月05日 | 戦争と平和

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被爆80年―いまこそ決断と行動を

「しんぶん赤旗」202585日【国民運動】

 広島市で4日閉会した原水爆禁止2025年世界大会・国際会議で採択された宣言「被爆80年―いまこそ決断と行動を」は次の通りです。

 アメリカ軍が広島(1945年8月6日)と長崎(8月9日)に原子爆弾を投下してから80年目をむかえる。被爆80年のいまこそ、世界は核兵器の廃絶を決断し、行動すべきである―広島に集った私たちは、核兵器がもたらした言語に絶する惨状をあらためて思い起こし、核兵器のない平和で公正な世界への道をひらくために世界の人々に訴える。

 広島と長崎で使用された原子爆弾は、その比類のない破壊力と放射線で、二つの都市を瞬時に焼き尽くし、その年の末までに21万人の命を奪った。それは「この世の地獄」と呼ばれた。地獄の苦しみは、生き残った者にも及んだ。被爆者は愛する者を奪われた深い悲しみとともに、原爆の後遺症に苦しみ、差別と偏見、経済的な困難を強いられた。

 地球のいかなる地にも、この悲劇を決して繰り返してはならない―この決意こそが戦後政治の原点であった。「言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救(う)」(国連憲章)ために創設された国際連合は、その総会第一号決議(1946年1月24日)で核兵器を「国家の軍備から排除すること」を決定した。

 その後の米ソの核軍拡競争の激化や度重なる核戦争の危機にもかかわらず、核使用の手を抑えてきたのは、被爆者の証言と、それに鼓舞された世界の市民の声と行動であった。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞は、その歴史的貢献を称(たた)え、励ますものである。

 私たちは今、再び核使用の危険に直面している。とりわけ、国連憲章を踏み破る武力行使や、大幅な軍備拡大を進める国々が公然と、核戦力への依存を表明していることは重大である。ウクライナ侵略をつづけるロシアの核威嚇、イスラエルとアメリカによるイランの核関連施設への先制攻撃、アメリカなどNATO(北大西洋条約機構)諸国の「核抑止力」の強化と核兵器の近代化、核衝突の危険をはらんだインド・パキスタンの対立、さらには東アジアでの緊張と核軍拡など、深刻な事態が進行している。核兵器は「安全保障に不可欠」とする主張が、核兵器保有の衝動を誘発していることも見過ごせない。

 核使用を阻止し、核兵器廃絶へ前進するうえで、「核抑止」論の克服がいっそう重要となっている。「核抑止」は、核攻撃による破滅的な結末、ヒロシマ・ナガサキの再現を前提にした政策であり、人道的、道義的に決して許されない。同時に、「核抑止」政策の「失敗」「誤作動」は、国境をこえた破滅的結末をもたらす。実際、誤算や誤認などによる核使用寸前の事態が繰り返されてきた。「核抑止」で安全を保障される国はない。この非人道的で、危険きわまりない政策の放棄を、核保有国とその同盟国に強く求める。

 しかし、私たちには危機を乗りこえ、前進する確かな展望がある。力による自国の利益追求ではなく、国連憲章にもとづく秩序の再興こそが、世界の平和と安全を実現する道である。「核兵器のない世界」をめざすとりくみは、その重要な一環である。

 核兵器を違法化し、その活動を包括的に禁じた核兵器禁止条約は、73カ国が批准し、94カ国が署名する国際的な規範となりつつある。この条約を生み出した被爆者を先頭とする市民社会と諸国政府との共同こそが、世界の本流である。「国際連合憲章の目的及び原則の実現に貢献することを決意」(禁止条約前文)してつくられたこの条約は、いまや「激動の時代における希望の光」(第3回締約国会議「政治宣言」)となっている。禁止条約支持への世論をひろげ、参加国を拡大することが急務である。

 相つぐ戦争や武力行使など、力による国益追求を許してはならない。国連憲章と国際法に基づく平和を求める市民と多数の国々の声が、世界の大勢となっている。イスラエル政府のガザにおけるジェノサイド(集団殺害)の一刻も早い停止と恒久的な停戦、パレスチナ国家の創設を含め、国際法と国連決議に基づくパレスチナ問題の公正で、平和的な解決を求める。「中東非核・非大量破壊兵器地帯」の創設がいっそう重要となっている。ロシアのウクライナ侵略を国連憲章と国際法にもとづいて終結させなければならない。

 アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど世界における非核と包摂の取り組みがすすめられている。ASEAN(東南アジア諸国連合)インド太平洋構想(AOIP)の推進をはじめ、東アジアで緊張と対立を生み出している問題もまた対話と包摂、外交によって解決すべきである。朝鮮半島の非核化と平和構築は、交渉によって一体的に追求されなければならない。

 膨大な軍事費の増大をくいとめることは、平和とくらしを守る重要な課題となっている。緊張と対立を深刻化させる差別や分断、排外主義を許してはならない。

 日本は唯一の戦争被爆国であるとともに、侵略戦争の反省の上につくられた平和原則を憲法に明記する国である。被爆・戦後80年をむかえ、その国際的責務はかつてなく大きい。私たちは、日本政府に核兵器禁止条約への参加と被爆者の国家補償を求める日本の運動に連帯する。「拡大抑止に関するガイドライン」を策定し、米軍の核使用を議論するなど、米核戦略に日本が加担を深めていることは重大である。憲法にもとづく平和外交を求め、軍備拡大と日米軍事同盟の強化に反対する日本の運動は、アジアの平和への重要な貢献である。沖縄をはじめとする、米軍基地の縮小、撤去を求めるたたかいに連帯を表明する。

 私たちは、核戦争阻止と核兵器廃絶を求める壮大な行動を展開するよう世界によびかける。

 ―ヒロシマ・ナガサキの被爆の体験と実相を受け継ぎ、広げることを運動の中心にすえて、核兵器廃絶を共通課題とする行動を世界各地で多様にくりひろげよう。被爆者の招聘(しょうへい)もふくめ、ヒロシマ・ナガサキの実相、核実験被害の実態を広げるとりくみを各国ですすめよう。そのために各国政府と国連組織に支援を訴える。あらゆる形態の核実験の停止を求めよう。被爆者と核実験被害者への補償・支援を実現しよう。

 ―核兵器禁止条約への参加を求める世論と運動を各国で発展させよう。とりわけ核保有国とその「核の傘」に依存する国における世論と運動が重要である。被爆者と核実験被害者の支援、環境修復のための取り組み(禁止条約第6、7条)に参加、協力しよう。

 ―核兵器廃絶をめざす諸国政府・国連との共同をさらに発展させよう。2026年に開かれる核不拡散条約(NPT)再検討会議にあたって国際共同行動をおこなうことをよびかける。今秋の第80回国連総会、2026年の核兵器禁止条約再検討会議を、政府組織との共同の重要な節目としてとりくもう。

 ―国連憲章の擁護をかかげ、侵略と戦争、軍拡に反対し、平和と軍縮を求める様々な運動と連帯して、「核兵器のない平和で公正な世界」をめざす世界的な流れを発展させよう。枯葉剤など戦争被害者への補償・支援と被害の根絶を求めよう。対立と分断、軍拡の流れを転換し、人類が直面する諸問題の解決に資源を振り向けよう。ジェンダー平等を平和と核軍縮に不可欠の課題としてとりくもう。環境と気候危機、貧困と格差、差別と排外主義、人権と民主主義などの課題にとりくむ運動との連帯と共同を発展させよう。

2025年8月4日

原水爆禁止2025年世界大会・国際会議


今日の午前中はほぼ☂。
気温は29℃までで少し楽になた感じです。

この猛暑でハウス内のカメムシが増え、トマトに重大な被害を与えています。
農薬は使っていませんのでペットボトルに木酢液を入れそこに落とし込むという方法です。
今日は70匹くらい捕獲していますがだいぶ減ってきたようです。


被爆80年 原水爆禁止世界大会・国際会議始まる

2025年08月04日 | 戦争と平和

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核なき世界へ転換迫る

「しんぶん赤旗」2025年8月4日

国際共同行動を討論

 被爆80年「被爆者とともに、核兵器のない平和で公正な世界を―人類と地球の未来のために」をテーマに原水爆禁止2025年世界大会・国際会議が3日、広島市内で始まり、フランスや英国、韓国など15カ国から政府や平和団体、被爆者、核実験被害者の代表が集まりました。核兵器による被害を明らかにし、「核抑止力」論を克服するとともに、自国の核政策を変えるために核保有国、依存国の市民社会の闘いや核兵器のない世界の実現に向けた国際共同行動について討論、交流しました。

 主催者あいさつで、野口邦和世界大会実行委員会運営委員会共同代表は、被爆80年の今年、国連憲章と国際人道法に基づく平和の秩序を回復させ、平和で持続可能な世界の実現に向け全地球的規模の連帯と共同を発展させようと呼びかけました。日本被団協と日本原水協、原水禁の共同アピールを歓迎し、「平和の波」行動を宣言しました。

 第1セッションでは、日本と韓国の原爆被害者が証言。マーシャル諸島での核実験被害への補償・救済の課題やベトナムの枯れ葉剤被害も報告されました。

 第2セッションでは、核保有国と核依存国における市民社会の闘いを米国、英国、フランス、韓国、日本の代表が報告。英国・核軍縮運動(CND)のキャロライン・ルーカス副会長は、「核抑止力」の誤りについて指摘しました。

 第3セッションでは、核なき世界に向けた国際連帯と運動を交流。エジプトのモハメド・エゼルディン・アブデルモネイム大使は被爆者の功績とパレスチナ・ガザ攻撃について報告。国際平和ビューロー(IPB)のコラソン・ファブロス共同会長は核兵器禁止条約の普遍性を強調し、新たな共通の安全保障のために連帯を呼びかけました。


予報通り30度まで届かなかったが日が照ると猛烈な暑さを感じる。
犬を散歩させて戻ってくると尋常じゃない呼吸。
すぐに浴室に連れて行って水シャワーを全身と口にかけてやり、落ち着くまでにかなりの時間を要した。
危ないところだったかもしれない。


「核抑止」でリスク上昇 広島で国際シンポ 廃絶の道探る

2025年08月03日 | 戦争と平和

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「しんぶん赤旗」202583日【1面】

 広島市などが主催する国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道―戦後80年、未来へつむぐ」が2日、広島市内で開かれました。核兵器禁止条約や核兵器廃絶に尽力しているオーストリアのアレクサンダー・クメント外務省軍縮・軍備管理・不拡散局長は基調講演で、「核抑止力」は不信の連鎖により核リスクを高めていると指摘し、被爆証言と継承が重要だと語りました。

 主催者あいさつで松井一実広島市長は「核抑止力」に依存する為政者に外交政策の転換を求めたいと語りました。

 クメント氏は、高まる核使用のリスクの中で「核抑止」を批判的に検証する必要があると述べました。新たな軍拡競争の動きは、悪化する世界の安全保障環境によって、さらに核依存を強めていると指摘。「核抑止」は不信の連鎖をうみ、核軍拡を加速し、核リスクを高め、核の拡散を促進するものだと語りました。

 パネル討論で日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の和田征子事務局次長は、長崎で母親と被爆した体験を証言。被爆者の平均年齢は86歳になり、被爆90年にどれだけいるかわからないと述べ、新たな被爆者をうまないよう働きかけ続けると語りました。

 米デュポール大学の宮本ゆき教授、米軍備管理協会リサーチアシスタントの倉光静都香さんも報告。カナダ在住の被爆者・サーロー節子さんがメッセージを寄せ、「生きているうちに核兵器を廃絶できるよう世界の皆さんとともに声をあげ続ける」と語りました。


     ⁂     ⁂

なんだっけ

原水爆禁止世界大会って?

「しんぶん赤旗」202583日【3面】

 Q 被爆80年の原水爆禁止2025年世界大会が3日から9日まで、広島、長崎両市で開かれるね。いつ、どうして始まったの?

 A 1945年8月6日広島、同9日長崎の被爆後、連合国軍総司令部(GHQ)が日本の占領直後に敷いた言論統制(プレスコード)によって、原爆被害は隠され、被爆者は沈黙を強いられてきました。

 54年3月1日、米国の水爆実験で第五福竜丸をはじめ日本の多くの漁船が被ばくする「ビキニ事件」が起き、これが契機となって、原水爆禁止を求める署名運動が瞬く間に日本中に広がりました。署名を集約していた原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)の呼びかけで世界大会日本準備委員会が発足し、55年8月、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催されました。

 56年8月に長崎で開かれた第2回世界大会に励まされた被爆者は、大会2日目の8月10日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を結成しました。

 Q 世界大会はどんなことをめざしているの?

 A 原水爆禁止運動は、核戦争阻止、核兵器全面禁止、被爆者援護連帯の三つの基本目標を掲げて、世論を広げてきました。世界大会の開催は毎年の運動の大きな節目となります。

 Q 今年の世界大会の特徴は?

 A 被爆80年の世界大会にふさわしく、被爆者らの証言を聞き、核兵器の非人道性を告発するとともに、国連、各国政府、市民社会の代表が集い、核兵器禁止条約を力に、核兵器のない世界に向けた共同を発展させる大会となります。

 (2025・8・3)


今日の最高氣温は32℃でしたが、今季一番と思う暑さを感じました。
夏バテ状態がひどくなってきているのかもです。
でも、予報によれば明日からしばらく30℃超えは無いようで、ほっとしています。


パレスチナ国家の承認を!

2025年08月02日 | 戦争と平和

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「しんぶん赤旗」きょうの潮流 202582日【1面】

 「これは人為的な飢饉(ききん)だ。どうか助けてほしい」。ガザ住民を支援する国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の寄付担当者から届いた最新のメールに、こんな悲痛な言葉が並んでいました。「飢饉の最悪のシナリオが進行している」と▼他の国連機関も飢餓状況を報告しています。5歳未満児の32万人が「急性栄養不良」の危険に置かれ、治療が必要な子ども2万人のうち3千人は急激な栄養不足で体重が減少し、消耗した状態だといいます▼イスラエルは3月以降、ガザ封鎖を続けています。現地から流れてくる映像には、目に力なくやせ細ってしまった子どもたちの姿。まさに飢餓を戦争の武器にする、非道な国際人道法違反です。なぜ罪のない子どもたちをこれほど苦しめるのか▼6万人以上を殺害しても、侵攻をやめず、ガザ併合へ突き進もうとするネタニヤフ政権。この異常さに、ようやく米同盟国も態度を見直さざるを得なくなっています。フランス、英国、カナダが、パレスチナ国家を承認すると表明を始めました▼建国からイスラエルを後押ししてきた英国外交の大転換です。イスラエルの蛮行を容認し、武器支援を続けてきた政府への国民の怒りが渦巻き、議会でも外相が、あらゆる会派の議員から、なぜ承認しないのか、と集中砲火を浴びたといいます▼抗議の声を上げてきた国民が動かした変化です。2国家共存を目指すしか道はありません。日本も仏英加につづき、今すぐパレスチナ国家の承認を表明する時です。


夏バテ気味です。