里の家ファーム

すべて無農薬・無化学肥料、不耕起栽培の甘いミニトマトがメインです。完熟したミニトマトから作る無添加ジュースは逸品です。

藻谷浩介氏が語る、世界の中の日本とその未来とは?

2019年04月25日 | 本と雑誌

世界一の富裕国・ルクセンブルクには、なぜ高級車も高層マンションもないのか

  文春オンライン4/25(木)

 

   「超高齢化社会・少子化の日本はこれからどうやって食べていったらいいのだろう」「これから地方都市は次々と崩壊する?」――漠然とした将来への不安を抱える日本社会に対して、ルクセンブルクがモデルケースとしてヒントになるという。最新刊『 世界まちかど地政学NEXT 』を上梓した地域エコノミストの藻谷浩介氏が語る、世界の中の日本とその未来とは?


国民ひとりあたりのGDPが日本の2.6倍もあるルクセンブルク

 ――ルクセンブルクというと、ドイツ、フランス、ベルギーに囲まれた小国で、日本人からすると馴染みの薄い地域です。なぜこの国に注目しているのでしょうか?

藻谷 ルクセンブルク大公国は、佐賀県程度の広さで人口は60万人ほどの極小国ですが、国民ひとりあたりのGDP(国内総生産)は10万ドル超、つまり日本の2.6倍以上もある世界一の富裕国です。今から30年ほど前、私がまだ大学生の頃に訪れたときは鉄鋼業の国でした。普通なら、イギリスのバーミンガムのように鉄鋼中心の都市は凋落の一途をたどるはずが、いつの間にかルクセンブルクは金融で浮上した。いまや、ロンドンやフランクフルトに次ぐ、一大金融センターになっているんですね。

 ――なぜそんなことが可能になったんでしょうか。

 藻谷 不思議ですよね。どこかの本に理由が書かれているのかもしれませんが、私は本の前に「現地を読む」という主義です。その場を自分で訪れて、「何があるか」、そしてそれ以上に「本来あるはずなのにないものは何か」を観察するのです。

ルクセンブルクの中心地になかったもの

藻谷 私は名探偵ホームズや怪盗ルパンのシリーズを多年愛読しているのですが、ホームズもルパンも、同じ方法で推理をします。警察が「現場に何があったか、何が落ちていたか」からシナリオを組み立てては失敗するのに対し、ホームズやルパンは、「そういうシナリオなら、他にあれも落ちているはずなのに、現場には見当たらない。なぜあるはずのものがないのか。とすれば本当のシナリオは何か」と考えるわけです。

 ということでルクセンブルクの中心を歩いてみたのですが、まず高層マンションがありません。富める都市はNYにしろシンガポールにしろ、あるいはお台場でも、街の中心に超高層マンションが林立して、その上でワインを飲みながら我々のような下々の者を見下ろしている人たちがいるものですが(笑)、ここはヨーロッパの古き良き田舎町という風情でスノッブ感ゼロ。美味しそうなレストランは少ないし、賑やかなお店は全然なくて、空き店舗が目立つほどです。しかも、都市の繁栄には必須のはずの交通のアクセスもすごく悪い。行きは近くのブリュッセルからは電車でも車でも3時間もかかり、帰りはLCCが飛んでないからこのご時世に正味2時間のフライト片道6万円もかかりました。そんな中でなぜ金融ハブとして成り立っているのだろうと。不思議ですよね。

 ――いわゆる富裕都市にあるものが「ない」わけですね。

藻谷 小奇麗な街を歩きながら、高級外車を見ないことにも気づきました。「俺は金持ちだぜ」って見せつけるような、“華麗なるギャツビー”や成金らしき人の姿もほとんどいない。表向きには、ごく普通の静かで上品な地域にしか見えないんです。居住者の45%は外国人で、特にポルトガル人の労働者が多いそうなのですが、単純労働者が作業しているのを見ないし、ホームレスも寝ていない。そうやって「不在」のものを洗い出していくと、「格差を最小化する」ことで金融業と社会秩序を成り立たせてきたこの国特有の知恵が見えてきます。

ルクセンブルクが世界一の富裕国になった仕組み

 ルクセンブルクの稼ぎ手は「放牧された金融業」です。金融という暴れ馬を、野放にしつつコントロールして、その「上がり」を取っている。小さな独立国なので、EUの規制の範囲内とはいえ、ロンドンやフランクフルトがなれないオフショア市場になれる、つまり規制を緩めて怪しい資金も含め大量のお金を呼び込んでいるのです。いわばドル圏のケイマン諸島みたいなポジション取りをユーロでやっている。スイスにもちょっと似ていますが、スイスは独自通貨なので、ユーロ圏のルクセンブルクの方がEUから資金を集めやすいという強みもあります。

 ちなみに日本もルクセンブルクに対し、2017年ですと6000億円ほどの第一次所得黒字(金利配当を得たことによる黒字)です。リスクの高いオフショア市場で大儲けしているルクセンブルクに、日本企業も投資してそれだけのおこぼれを得ているわけです。とはいえ、金融関係者は国民の1割もいません。彼らだけが葉巻をふかして外車にのって、高層マンションを建てまくればどうなるか? 目に見える格差が拡大して、社会秩序が崩壊しますよね。小国ほど互いの格差が見えやすいので、とくに配慮が必要です。

 ――格差を最小化する仕組みを意識的につくってきたということでしょうか。

 藻谷 その通りです。帰国してから調べてみたら、格差の大小を示すジニ係数が小さい。移民層もそれなりの水準の所得を得ているんですね。移民が非常に多いのに貧困が表に見えない地域として代表的なのが、シンガポールとカナダとルクセンブルクでしょう。端的にいうと、シンガポールは他宗教排斥や人種差別の言論を封じることで、カナダは福祉国家として移民にも平等に教育機会を与えることで、そしてルクセンブルクは富裕層が富を見せつけない配慮によって、不満が生じにくくしています。それは最良のテロ対策にもなっていることは言うまでもありません。

  そんなルクセンブルク人は、歴史の経緯の中でフランス化したドイツ人です。日常語はドイツの方言、食べ物もドイツ料理ですが、たとえば法律用語はフランス語。文弱なフランスにも野暮なドイツにもなりきれないという国民意識は、第一次大戦を経て強まり、先の大戦でナチスに蹂躙されてからさらに高まった。でもフランスとドイツが喧嘩をするたびに、どちらかに侵略されてきた歴史があり、単独で安全保障は無理。ではどうしたかというと、ベルギーやオランダと手を結んで、EU形成の中核になるんですね。EUの中にフランスとドイツを収め仲良くさせることで、自国の独立を守り抜いたのです。

大国の狭間にあるルクセンブルクと極東の島国日本

 ――大国の狭間にあるという地政学的な位置を踏まえ、対応した戦略をとってきたわけですね。極東の島国日本にも参考になる部分が多そうです。

 藻谷 そうなんです。小国といえど学ぶべき点がいくつもあります。第一に、製造業中心の堅実な国柄だったのに金融でも稼ぐ国へと変化したことです。得意分野を一つに決めつけないという姿勢は、日本の各県にも参考にしてもらいたい。

 第二に、非常に強い独立意識がありながら、自国中心主義をやめたこと。EU統合の核となり独仏を和解させることで、自国の安全と国外マーケットを確保した。じつは、周りの国が平和なほど国の経済が潤う構造は日本も同じです。われわれは何も武器を売って儲ける国じゃないのだから、たとえば中国やインドが戦争をしても何の得にもならないんです。数字は正直で、アジアが安定するほど日本の国際収支は改善します。2017年の日本の経常収支黒字は20兆円を超え、バブル期の倍以上なのです。一番のお得意様はアメリカで、日本が13兆円の黒字でしたが、2番目の中国(香港含む)からも、5兆3000億円も儲けさせて頂いた。3位の韓国からも2兆7000億円の黒字を稼いでいます。

 ――なんと、韓国がトップ3のお客様に入っているんですね。

 藻谷 だから、もう少し大事にしたほうがいいんですよ(笑)。ちなみに台湾からは2兆円ぐらい、シンガポールからは1兆5000億円ぐらい稼いでいますが、黒字の稼ぎ手はハイテク部品や機械、金融、観光なので、もしアジアが紛争地帯になれば、こうした黒字は吹っ飛んでしまう。2018年の訪日外国人数は3000万人を超えましたが、4人に1人が中国人で、4人に1人が韓国人です。要するに半分は中国と韓国ですので、彼らの景気がいいほど日本も儲かります。とにかく周りが繁栄したほうが自分も儲かるというのが、日本とルクセンブルクの共通点です。自力では安全保障のできないルクセンブルクが独自の立場を保ちつつ周辺国の関係を平和へと仕向け、その中で世界1の豊かさを享受していることに、日本はもっと学ぶべきでしょう。

  ちなみにシンガポールはまさにルクセンブルクの真似をしていて、ASEANをつくり、その中心に入って、マレーシアとインドネシアを仲良くさせることで安全と経済的繁栄をつくり出しています。もっというと、インドネシアとマレーシアの富裕層にどんどん自国内に不動産投資をさせて家を買わせることによって、シンガポールが攻撃対象にならない構造をつくっているんですね。ルクセンブルクもヨーロッパ中の人が投資しているから、当然攻撃なんてされません。小国ほど国際関係における地政学的な勘が強く、国内格差にも十分に配慮して産業振興を進めているんですね。

 ――新著の中で、21世紀の地政学は、軍事力などのハードパワーではなく、経済力・文化力・民族意識などのソフトパワーのほうが大きな役割を果たすという指摘は新鮮でした。

ルクセンブルクになくて日本にはあるもの

藻谷 21世紀において、軍事力による物理的な占領って意味がありません。たとえばヒトラーみたいなのがもう一度出てきて、ルクセンブルクやシンガポールを占領しても何も得るものはない。そこにあるお金は逃げていくだけで、投資は呼び込めない。大戦後のヨーロッパが植民地を次々と手放したのは全然儲からなくて意味がなかったからです。そんなことより経済的に進出して投資だけしたほうが、住民の面倒みなくて済むので楽ですよ。

 日本は自前で安全保障ができないから主権国家じゃない、アメリカの植民地みたいな国だ、という声もありますが、「植民地」というわりには、アメリカから年間13兆円も黒字を稼いでいて、ずいぶん儲かっているわけです。つまり経済力のようなソフトパワーが、21世紀の国際社会ではとても重要です。中韓台星(星はシンガポール)の4国からだけで年に12兆円近くも黒字を稼いでいる日本が、そんな数字も確かめずに、自分の側から排外主義的なスタンスをとるようでは、「ソフトパワーの地政学」の時代に生き残れません。

 これまで世界105カ国をめぐってきて改めて思うのは、いま日本人の自己認識と世界から見たときの日本が激しくズレてきているということ。日本は「これから食べていけなくなる危機」にはないし、世界の中で「誇りを失っている国」でもない。世界中の観光客が日本に来たら、大喜びです。ニューヨークでいいホテルに泊まったって、日本のおもてなしやサービスに比べたら極めて劣るのが現実です。夜、東京の街を歩いたって、暗めの街路でも、落ち着いて静かで安全ですから。

 最後にひとつ。ルクセンブルクにはなくて日本にあるものはコンテンツ発信力です。ルクセンブルクは地形的にはちょっと金沢に似たところのある城塞都市で、中心街の規模も似ていますが、ルクセンブルクに兼六園や武家屋敷や茶屋街はありません。加賀料理もないし、「金沢21世紀美術館」もない。ルクセンブルク人が金沢を見たら「なんと多くの独自の文化コンテンツを持っている街だ」と思うでしょう。そもそも日本全体に、30個、40個のルクセンブルクがあってもおかしくない。そんなポテンシャルを日本の各地方都市は秘めてもいます。

 いま、日本のソフトパワーの等身大の実力はどれほどのものか、地政学を踏まえてどんな振る舞いをすることが日本の繁栄を呼び込むのか、本書が日本の自画像を認識し直すきっかけになれば嬉しく思います。

 

藻谷浩介(もたに・こうすけ)

1964年山口県生まれ。地域エコノミスト。㈱日本政策投資銀行参事役を経て、現在、㈱日本総合研究所調査部主席研究員。東京大学法学部卒業。米コロンビア大学経営大学院卒業。著書に『実測!ニッポンの地域力』『デフレの正体』『世界まちかど地政学』、共著に『里山資本主義』(NHK広島取材班)、『経済成長なき幸福国家論』(平田オリザ氏)、対談集『完本 しなやかな日本列島のつくりかた』などがある。

 「文春オンライン」編集部


6番花。北こぶし

納屋の屋根に上って撮影。今年は花数が極端に多い。

 

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『パワハラ不当解雇』 & 万歩計

2019年01月05日 | 本と雑誌

 

 12月17日に紹介した『パワハラ不当解雇』(高橋秀直著)、裁判はまだ続いています。
こちらに「タンポポ保育園」の闘いの模様を紹介しています。
興味のある方はぜひ訪問してください。それだけでも当事者たちには励みになります。

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  • たんぽぽ保育園の名称が「たまちこども園」になりました。
  • たんぽぽ保育園の歴史が消されたことに、元保育士・職員、卒園児の親の怒りが広まっています。

 昨年、携帯の機種変更してから「万歩計」機能を使うようになった。
とにかく、最近は歩くことが少なくなった。サラリーマン時代は通勤に片道20分、さらに仕事は立ちっぱなし、階段を4段上がり、3段上がりなど日常の動作。それが、脱サラして極端になくなった。
農作業で圃場を右往左往しても、かなりしんどい作業をしても歩数はそれほど進まない。
昔は、(と言ってもつい最近のこと、たぶん万歩計を意識してからのことだと思う)動作に無駄がないよう、一つの動作で2つ3つの作業をこなせるように動いたものだ。ところが、最近ときたら歩数を上げるために無駄な動きが多くなった。これが「高齢化」という現実か・・・

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「新潮45」を休刊に・・・

2018年09月26日 | 本と雑誌

「新潮45」休刊声明の嘘! 杉田水脈擁護、LGBT差別は「編集部」でなく「取締役」がGOを出していた

リテラ2018.09.26.

 

   昨日夕方、新潮社が「新潮45」を休刊にすると発表した。これはもちろん、同誌10月号に掲載された、右派論客らによる杉田水脈衆院議員擁護特集「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」をめぐって下された決定だ。周知のように、この特集のなかで、安倍首相のブレーンである自称文芸評論家・小川榮太郎が、「LGBTを認めるなら、痴漢の触る権利も保障せよ」というとんでもない差別的文章を掲載し、これについて、各方面から厳しい批判が寄せられていた。

 

 それは、同社と縁の深い作家や書店も例外ではなかった。『俺俺』など何作も同社から出版し新潮新人賞の選考委員を務めたこともある星野智幸は〈社員や書き手や読者が恥ずかしい、関わりたくない、と思わせるような差別の宣伝媒体を、会社として野放しにするべきではない〉と指摘し、「新潮」に掲載された「日蝕」で芥川賞を受賞し、多数の著書を同社から出している平野啓一郎も〈どうしてあんな低劣な差別に荷担するのか〉と批判。そのほかにも複数の作家や翻訳家らから「新潮社の仕事はしない」という表明が相次ぐ事態となっており、同社の書籍の取り扱いを拒否する書店も出ていた。

 そんななか、21日に佐藤隆信社長が声明文を出し、昨日とうとう休刊発表となったわけだ。しかし、これは、新潮社がグロテスクな差別を掲載した自社の責任に向き合った結果ではない。

 実際、新潮社がLGBT差別についてまったく反省していなかったことは、これまでの動きを見れば明らかだ。今回、新潮社は「新潮45」休刊の発表に際して、こんな談話を発表している。

 〈ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載してしまいました。このような事態を招いたことについてお詫び致します。

  会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊を決断しました。〉

 

 また、昨日夜の新潮社の広報担当役員の会見でも、該当号が役員らに配布されたのは発売当日朝だったと説明した。

 ようするに、編集部のずさんな体制、不備が招いたものだとすべての責任を編集部に押し付けたわけだが、実際はそうではない。10月号の杉田水脈擁護特集は、編集部レベルの判断でなく、担当取締役がお墨付きを与え、原稿もチェックしていたのだ。新潮社社員がこう証言する。

 「実は、『新潮45』の若杉良作編集長は、もともとオカルト雑誌『ムー』の編集者で、右派思想の持ち主でもなんでもない。押しが強いわけでもなく、上の命令に従順に従うタイプ。最近のネトウヨ路線も、売れ行き不振の挽回策として、担当取締役の酒井逸史氏から命じられていた感じだった。酒井取締役は元『週刊新潮』の編集長でイケイケタイプですからね。10月号の擁護特集も酒井取締役が事前にGOを出している。会社は役員が読んだのは発売当日になってからという意味のことを言っていたが、そんなわけがない。少なくとも酒井取締役は事前にゲラも読んでいると思いますよ。それどころか、『ここで反論すれば売れる』と企画そのものを焚きつけた可能性もある」

  取締役の関与を証言しているのは、この社員だけではない。昨日の『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)でも、「新潮社の現役社員」の話として、「編集長、編集部のトップよりもさらに上の担当役員レベルのGOサインがあった」という情報を紹介していた。

   いずれにしても、10月号のグロテスクな差別記事は、「編集部の不備」でもなんでもなく、取締役レベルで決定した確信犯的企画だったということらしい。

新潮社の社長声明はたんに「作家への対応」にすぎなかった

 しかも、「新潮45」10月号が発売され、批判が高まった直後も、上層部はまだ強硬姿勢を崩していなかった。たとえば、新潮社のSNS公式カウントのひとつ「新潮社出版部文芸」が、「新潮45」や新潮社を批判するツイートを次々とリツイートしたことが話題になったが、実は新潮社上層部は当初、これを削除させようとしていた。

  先日、AbemaTV『AbemaPrime』の取材に匿名で応じた新潮社の編集者がこう証言していた。

「朝いちばんに役員が編集部に来て『ツイートをやめさせろ』と言ったのですが、誰がツイートしているのかわからないので、できなかった」

 新潮社は「新潮社出版部文芸」のツイートについて、〈各部署、社員の個人の意見表明に関して言論統制のようなことは従来より一切行っておりません〉などと表明していたが、真っ赤な嘘だったというわけだ。

 では、強硬姿勢を示していた新潮社上層部がなぜ一転して、社長の声明発表、さらには「新潮45」の休刊という対応をとったのか。別の新潮社社員が語る。

 「新潮社の社長が声明を出したのも、休刊の決断をしたのも、作家の執筆拒否の動きが広がるのを恐れたため。それが一番の理由です」

 たしかに、弱者には強く出る新潮社だが、売れっ子作家にはとことん弱い。たとえば、有名なのが、百田尚樹の『カエルの楽園』をめぐるトラブルだ。同社から出版された『カエルの楽園』は、中韓に対するヘイトを織り交ぜながら憲法9条を腐した“寓話”作品だが、百田氏は明らかに村上春樹氏をモデルにしたキャラクターを登場させ揶揄している。ところが、その村上氏のキャラについて、新潮社が百田氏に「(村上氏だとばれないよう)名前を変えてくれ」と求めてきたのである(過去記事参照https://lite-ra.com/2016/05/post-2259.html)。つまり、新潮社は、作中の中韓のヘイト表現はスルーする一方、村上春樹という看板作家を刺激することだけを問題視していたというわけだ。

 今回の対応もこうした同社の体質の延長線上に出てきたものだ。前述した19日の『AbemaPrime』でも「多くの作家がコメントしているので、上の人たちは作家対応をどうするか協議しているようだ」という新潮社社員の証言があったが、騒動直後から作家対策に奔走。社長の声明は『とくダネ!』(フジテレビ)や『5時に夢中!』(MXテレビ)などにも出演している同社の名物編集者・中瀬ゆかり氏らが主導するかたちで、まさに作家対策として行われたのだという。

「最近、中瀬さんは文芸担当取締役に昇進したんですが、社長に『このままだと作家に逃げられてしまう』と声明を出すことを進言したらしい。実際、21日の社長声明については文芸編集者にのみ事前に通達されました。完全に作家対策だったんですよ」(前出・新潮社社員)

 もっとも、これは逆効果になった。なにしろ、その声明というのが〈常識を逸脱した偏見や認識不足に満ちた表現〉があったとしながら、誰に対する、どのような問題があったと考えているのかは一切示さず、謝罪もなし。その上、〈今後とも、差別的な表現には十分に配慮する〉などと、いま現在も差別的表現に配慮しているかのように言い張るという、ひどいシロモノだったからだ。

すべてが「ショーバイ」でしかなかったことを露呈した「新潮45」の騒動

 いずれにしても、佐藤社長が中途半端な声明を出したことで、さらに批判は拡大。それで、今度は一気に休刊という事態に発展していった。

 「休刊については、佐藤社長のツルの一声だったらしい。『新潮45』は部数低迷でいつ休刊になってもおかしくなかった。印刷部数で約1万6千部、実売は1万部を切っていた。おそらく年間数億円の赤字を出していたはずです。そんなところにこの問題が起きて、そのせいで、作家からの批判が殺到した。このままだと、もっと大きな動きになるかもしれない。だったら、いい機会だからすぐに休刊にしてしまおう、ということになったんでしょう」(前出・新潮社社員)

 そう考えると、今回の新潮社の対応は最初から最後まで、「ただのショーバイ」でしかなかったということだろう。雑誌を売るために、安易にネトウヨ、ヘイト路線に飛びついてLGBT差別の扇情的な記事を載せ、それに対して抗議が広がり、作家から執筆拒否をちらつかされたとたん、慌てて雑誌を休刊にしてしまう。「新潮45」の休刊決定をめぐっては、「言論の自由を奪う結果になった」という声が出ているが、そもそも、新潮社の側に「言論」という意識などあったのか。新潮社OBもこうため息をつく。

新潮社は昔から『週刊新潮』などで、差別的、人権を侵害する問題記事を連発していましたが、それでもメディアとしての最低限の矜持があった。でも、いまは、たんにショーバイでやってるだけ。だから、やっていいことと悪いことの区別がつかないし、抗議を受けると、すぐに万歳してしまう。醜悪としか言いようがない」

 実際、新潮社は大きな抗議運動に広がり、作家が声を上げたLGBT差別については対応したが、一方で、中韓や在日、社会的弱者を攻撃するヘイト本や雑誌記事はいまも出版し続けている。

 しかし、これは他の出版社も同様だ。中小出版社だけではなく、小学館や文藝春秋などもヘイト本やヘイト記事を多数出しているし、講談社も、ケント・ギルバートによる中韓ヘイトに満ちた『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』を出版。ベストセラーになったことで、社員を表彰までしている。

 そして、これらの出版社の動機はすべて「ショーバイ」でしかない。出版不況で本が売れないなどという理由で、安易に売れ筋のヘイト本に群がり、その結果、差別や排外主義を蔓延させているのだ。

 

「新潮45」の問題をきっかけに、こうした出版社の姿勢そのものが見直されるべきではないのか。

 

(編集部)

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新潮45:杉田氏擁護特集で社長コメント「常識逸脱した」

2018年09月21日 | 本と雑誌

  毎日新聞 2018/09/21 17:32

   杉田水脈衆院議員の性的少数者への差別的な論文を掲載し、最新号で擁護する特集を組んだ月刊誌「新潮45」について、発行元の新潮社は21日、佐藤隆信社長名で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」「今後とも差別的な表現には十分配慮する所存です」などとしたコメントを発表した。全文は以下の通り。

 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。

 しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

佐藤隆信社長名で出された「新潮45」の特別企画に関する新潮社のコメント © 毎日新聞 佐藤隆信社長名で出された「新潮45」の特別企画に関する新潮社のコメント

 差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。

 弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。

 株式会社 新潮社

 代表取締役社長 佐藤隆信

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新潮社の本、書棚から撤去する書店も。「新潮45」の寄稿に怒りの声

 

「あまりに酷い言葉の暴力」「怒りを感じた」

ハフポスト 安藤健二  2018年09月21日

「新潮45」10月号が掲載したLGBT批判の特集記事の内容に反発して、出版元の新潮社の本を書棚から撤去する書店も現れた。

この特集記事には、文芸評論家・小川榮太郎氏は「LGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ」などと書いたことに関して、LGBT当事者らから反発する声が挙がっていた。

なぜ新潮社の本を書棚から撤去したのか。書店の主張を調べた。

■「あまりに酷い言葉の暴力が展開されている」(本屋プラグ)

和歌山市の書店「本屋プラグ」は9月19日、雑誌を含む、新潮社の新刊本の一切の販売を停止。書棚に並んでいる本も全て撤去することを公式サイトで明かした。約20坪の敷地に新刊と古本が混在している小規模な書店だという。

運営スタッフ2人の連名で以下のように訴えている。

『新潮45』において、「LGBTはふざけた概念」として性的マイノリティの方々への侮辱的で、あまりに酷い言葉の暴力が展開されていることは、とうてい看過できません。強い憤りと抗議の声をあげるための決定です。

 

■「怒りを感じた」(東京都文京区の書店)

東京都文京区にある書店。約6坪の敷地に新刊と古本が混在しているが、公式Twitterで19日に「新潮社の新刊については当面仕入れを見合わせる事にしました」と投稿した。

店主の男性は21日、ハフポスト日本版の取材に対して「新潮45の内容を知って、怒りを感じた。今は新潮社の本を置きたくない」と話した。新刊本の棚から、新潮社の本を撤去したという。

 

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“こどもの本”総選挙

2018年05月07日 | 本と雑誌

「ざんねんないきもの事典」好き こどもの本総選挙トップ

  東京新聞 2018年5月6日

   いま子どもたちが一番好きな本は? 全国の小学生の投票による「小学生がえらぶ!“こどもの本”総選挙」の結果発表会が五日、東京都内で開かれ、昨年ベストセラーとなった児童書「ざんねんないきもの事典」(高橋書店)が一位に輝いた。全都道府県の小学生約十三万人が投票したという。

 子どもたちに本を身近に感じてもらおうと、出版社のポプラ社(東京都)が企画。昨年十一月~今年二月、小学校や書店を通じ「一番好きな本」への投票を呼び掛け、計約十二万八千人が参加した。

 動物の進化をユーモラスに紹介した「ざんねんないきもの事典」は、四位に入った続編と合わせ、累計発行部数は約百八十三万部に達している。

 監修した動物学者の今泉忠明さんは「残念な面があっても何とかやっている生き物がいることに、共感が集まったのでは」と語った。

 発表会では、投票した子どもの代表が、トップ10に入った作品の著者らに賞状を授与。ヨシタケシンスケさんの絵本「りゆうがあります」を選んだ神奈川県の小学三年、西城風花さんは「『自分もそうだ』と思うことが、たくさん書いてある。絵が面白い」と話した。

 発表会に参加した芥川賞作家でお笑いタレントの又吉直樹さんは「総選挙をきっかけに、自分が選んだ作品以外の本も読んでみようと思ってほしい」と呼び掛けた。


 GW明け、良い天気に恵まれ、江部乙の桜も満開となった。写真を数枚撮ったところで画面が真っ暗になってうんともすんとも動かない。てなわけで、満開の桜のお披露目は無し。しばらくは写真無しです。
 それにしても寒い。最高気温が12℃だそうで、しばらくこんな寒い日が続きそうです。

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漫画版「君たちはどう生きるか」

2017年11月16日 | 本と雑誌

漫画版「君たちはどう生きるか」大ヒット ハウツー本じゃ足りない

      毎日新聞2017年11月10日

 

 

書店でも目を引く表紙

 1937年に出版されてから「自分の人生の一冊」にしている人が、実は多いのかもしれない。吉野源三郎著の「君たちはどう生きるか」。80年たった今夏、初めて漫画版が出版されると、あっという間に部数を伸ばした。なぜ再び、多くの人の心をつかんだのだろうか。【田村彰子】

 

漠然とした不安、80年前も今も

 大きな瞳の少年が学生服を着て、視線を真っすぐに向けている。「君たち--」の漫画版の表紙。書店ではビジネス関連本などと並んで平積みされ、ひときわ目立つ。マガジンハウスが8月24日に発売して以降、53万部の大ヒットとなっている。同社が同時発売した単行本(新装版)も部数を14万部に伸ばした。最新のオリコンの週間ランキングでは、漫画版が本の総合部門でトップに立つ。

 「ここまで売れるとは正直思いませんでした。読者からは『今の時代にも色あせない作品だ』などの反響が寄せられています」。そう話すのはマガジンハウスの執行役員で、企画・編集を担当した鉄尾周一さん(58)だ。

 3~4年後に完成するとみられる宮崎駿監督の新作長編アニメの題名もずばり「君たちはどう生きるか」。映画は、この本の影響を受けた主人公の物語になると言われている。

 

漫画のワンシーン

 原作者の吉野(1899~1981年)は児童文学者で岩波書店の雑誌「世界」の初代編集長として知られる。一体、どんな物語なのだろうか。

 「君たち--」は、世界中が戦争一色に染まっていく中、作家の山本有三が「次世代の少年少女のために」と編んだ「日本少国民文庫」(全16巻)の最終巻に収められた。出版された年は日中戦争に突入した時期と重なる。ドイツではヒトラーが、イタリアではムソリーニが政権を取り、ファシズムの嵐が吹き荒れた。

 こんな時代を背景に、15歳の主人公の少年は、旧制中学に通っている。父を亡くし、母と2人暮らしだ。

 近くに住む叔父が、ちょくちょく家に来ては相談に乗ってくれる。叔父はこの少年を「コペル君」と呼ぶ。地動説を唱えたコペルニクスにちなんだあだ名だ。学校を舞台に貧困やいじめ、暴力なども描かれ、本当の勇気とは何か、人間とはどういう存在かを問う。

 コペル君ら下級生をいじめる上級生の姿を、侵略の道を歩む当時の日本と重ねて読む人も多いかもしれない。実際、この本は、軍国主義に抵抗する目を養ってほしいとの目的で書かれたと解説されることもある。吉野は戦後、岩波文庫版などにこう間接的に記している。

 <当時、軍国主義の勃興とともに、すでに言論や出版の自由はいちじるしく制限され(中略)山本先生のような自由主義の立場におられた作家でも、一九三五年には、もう自由な執筆が困難となっておられました。その中で先生は、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめてこの人々だけは、時勢の悪い影響から守りたい、と思い立たれました>

 

漫画のワンシーン

 戦前から一貫して反戦・平和主義者だった吉野。児童書の形を取ったこの本は、検閲をくぐり抜けて出版された。戦後は文庫本となって読み継がれ、国語の教科書にも採用された。

 80年の時を超えて、漫画化された名著はどう読まれているのか。小学校の頃にこの本を読んだ脳科学者、茂木健一郎さんはこうみる。

 「刊行当時は戦争に向かい、日本がこれからどうなっていくのか不安を抱える時期だったから、今と重なるところがある。北朝鮮との緊張が高まり、中国の台頭で世界の中の日本の立ち位置も変化している。AI(人工知能)が発達し、生き方や働き方も変わっていくかもしれない。先を見通せない時代だから根本に立ち返り、どう生きるか確かめたいという気持ちが、社会に強くあるのではないか」

 漫画版が出版された当初、これほどヒットするとは思わなかったという。「すぐに役立つ本」「競争社会で成功する方法」などノウハウ的なアプローチの本がもてはやされる昨今、そうした世界とは、無縁な内容だからだ。「グローバル化が進む現代では、功利主義的な身の処し方が正解とされている。でも、実際はそれではどうしても対処できないことが起こることを私たちも肌でわかっている。脳科学者として、若者の相談に乗っているが、みんな漠然とした不安や悩みを抱えている。そういう時代こそ、生きる指針が必要。お手軽な処方箋の本だけではどうにもならないと思っている人は自分で考えるきっかけとして、この本の存在価値を見いだすのではないだろうか」と茂木さん。

 吉野に関する研究もある京都大教授(メディア史)の佐藤卓己さんの見方はこうだ。

 「吉野は戦前の格差社会の中で、自主的に考える個人によってこそ社会革命が可能だと考えて、この本を書いたはずです。一方、現代も格差が拡大し、子どもの貧困も問題となっており、同じような課題は存在しています。しかし、社会構造がより複雑化している今日の方が、どう生きるかははるかに難しい。コペル君の時代の方が単純だから、より多くの人がこの本を読んで共感できるのでしょう」

 

原作者の吉野源三郎=1966年撮影

 佐藤さん自身は中学時代、読もうとしても読めなかったという。「説教臭い」と感じたからだ。また、優等生として描かれているコペル君にもなじめなかった。しかし、研究者として戦中・戦後の世論に向き合ううち、「君たち--」には普遍的なものが書かれていると気付いた。

 「戦前も国家に強制されたというより国民が自主的に戦争に協力した側面は大きい。『自主的に考える』とはどういうことか。その問いがこの本にはある。漫画化の試みはおもしろい。岩波文庫で買ったまま挫折した読者が、再び挑戦するよい機会だと思います」

助言者も成長「説教臭くない」

 マガジンハウスの鉄尾さんによると、祖父母が孫にプレゼントするためだったり、若者がタイトルにひかれて自ら購入したり、幅広い世代に読まれているという。どんなきっかけで漫画化されたのか。

 「だいぶ前ですが、30代の男性社員の机の上に、岩波文庫版が置いてあって、若い人がこんな本を読むのかと驚きました。僕は大学生だった40年近く前、父親に『読め』と言われて反発した。漫画にしたら読んでもらえるのでは、と思い立ったのは5年前のことです」と鉄尾さん。

 知人の編集者のすすめで、まだ無名だった漫画家、羽賀翔一さんに依頼した。

 初めて原作に接した31歳の羽賀さんは、時代を超えてこの物語に共感したという。「僕もコペル君と同じ母子家庭で育ちました。いじめられっ子を救えなかったこともあった。僕の中にある『コペル君的な記憶』を重ね合わせて描きました」。原作と同様、時代背景はなるべく描かないようにした。そして、原作ではメンター(人生の助言者)として存在する叔父さんを、漫画版ではメンターでありながら共に成長していくコペル君のバディー(相棒)だと強調した。「吉野さんは、戦争という大きな流れにのみ込まれていく人々を意識したのかもしれません。でも、何か大きなものに流されてしまうというのは、戦争という特殊な時代だからではなく、いつの時代にもあると思う。きっと誰もがコペル君と同じような経験をして、より成長しようと思って生きています」

 共に成長していく2人の姿は大きな共感を呼んだ。前出の茂木さんは「新しい漫画の形を見せられた」と話す。「漫画化することによって、啓蒙(けいもう)的な原作は、共感できるものへと変わった。今の時代、若い人たちは少しでも『教えてやる』といった啓蒙的要素を感じると、クモの子を散らすように逃げてしまう。原作のメッセージを維持しつつ、この本に触れたことのない層へ届き、その良さが再認識されたことはすばらしいことです」

 名著が新しい形で再び輝き、今を生きる人たちの手に渡る。80年前のメッセージは私たちに確かに響いている。


「コペル君」命名の由来

 主人公の少年は東京・銀座のデパートの屋上から、下の通りを眺め「ほんとうに人間って分子なのかも……」と気づく。<目をこらしても見えないような遠くにいる人たちだって 世の中という大きな流れをつくっている一部なんだ>。そう叔父さんに語ると、大発見をしたコペルニクスにちなんで「コペル君」と名付けられる。

「死にたい」と悩むコペル君

 仲間が上級生からいじめられたら、結束して立ち向かおうと約束しておきながら、コペル君はいざという時にその約束を破ってしまう。そのことを悔い、死にたいとまで思って寝込むコペル君。叔父さんは手書きのノートを渡し「誤りから何を学ぶのか」を教えるのだが……

 

コメント

マルクス 『ゴータ綱領批判』 「労働におうじて」・「必要におうじて」の 史的唯物論的解釈 と 『資本論』 「必然性の国」から「自由の国」への 弁証法的発展

2017年08月04日 | 本と雑誌
マルクス

『ゴータ綱領批判』
「労働におうじて」・「必要におうじて」の
史的唯物論的解釈
    と

『資本論』
「必然性の国」から「自由の国」への
弁証法的発展


西山 治男


構成

1    はじめに

2 「二段階論」“定説”とは何か

3. 「二段階論」マルクスの立場
A 第一段階―「労働におうじて」の意味
ⅰ 剰余労働の社会的取得
ⅱ この労働は「価値」を形成するか(呪物的性格からの脱却)
ⅲ 「共同体」とは
B より高度な段階―「必要におうじて」の意味
歴史上存在した「社会関係」
C 二つの段階の違いは何か

4 『資本論』 「必然性の国」から「自由の国」へ
A  発展の弁証法
B  新たな労働の誕生=物質的生産の彼岸

5 むすび
【検索】用語
マルクス・「『ゴータ綱領」批判」・『資本論』・二段階論・「社会主義」とは・「共産主義」とは・移行のメカニズム・『労働におうじて」・「必要におうじて」・「必然性の国」・「自由の国」

1 はじめに

    マルクスの没(1818年5月5日 - 1883年3月14日)後130年余、昨年は生誕200年の記念すべき年だった。マルクス、エンゲルスが明らかにした「社会主義」・「共産主義」社会であるが、まだその経済的基礎や、その移行のメカニズムは解明されていない。いや、理解されていないというべきであろう。マルクスは『資本論』で資本主義のメカニズムを明らかにしたが、「社会主義」「共産主義」社会とはどのようなものなのか、さらには「資本主義社会」から「社会主義」「共産主義」社会へと進むメカニズムについては何も記述してはいないというのが大方の研究者たちの見解のように思う。しかし、わたしは『資本論』の中に必ず何らかのヒントがあるはずであるとの確信をもって読み進めた。

    2011年3月11日、東日本大震災が襲い、世界の人々に大きな衝撃を与えた。それは、被害の大きさもあるが、日本人の秩序ある行動、助け合う心に驚愕と称賛が与えられたのだ。発達した資本主義社会においての大量生産、大量消費の社会の中で、見失われたものの再確認と、これからの社会はどうあるべきかを考える大きな契機となり、新しい世界、人間としての豊かさを実現する新しい意識革命へとつながってほしいと思う。
    公害、地球温暖化や異常気象、基地問題、原発問題、格差社会、貧困問題、非正規雇用と長時間労働、等々、経済発展最優先から、人々の「幸せ」を優先する、生産を我々が制御しつつ発展する、発達した資本主義諸国の「未来社会論」の構築が今求められている。「経済」最優先の社会から「生産を制御する社会」がますます重要なキーワードとなるであろう。

    アメリカやイギリスという資本主義先進国の若者達が、矛盾に満ちた資本主義社会に見切りをつけて「社会主義」「共産主義」への関心を高めている。
    資本主義の終焉を高らかに叫びたいのだが、その後の社会の「システム」がわからない。ソ連、中国への道はごめんなのだ。
    史的唯物論の立場から「社会主義」「共産主義」社会を定礎するマルクスの理論を再確認することは喫緊の課題である。マルクスが示した「道」―確固とした「社会発展の理論」―を提示しなければならない。

   世界には「社会主義を目指す国」が少なからず存在する。しかしながら、その実体としての経済的革命を成し遂げるまでには至っていない。その道筋を明らかにしなければならない。いまだ社会主義社会にたどり着いた国家は存在しない。過渡期にある「社会主義諸国」は真の社会主義国家へと導く「経済革命」を成し遂げなければならない。
    かつて「ソ連」の指導者フルシチョフは、「ソ連は社会主義の段階から、共産主義の段階へと前進した」と述べ、世界的な物議を醸し出した。いまだ「社会主義」とは何か、「共産主義」とは何かという根本的概念が定まっていないのである。

    マルクスが『ゴータ綱領批判』で述べた共産主義社会の二つの段階。その第一段階を「労働におうじて」の社会、より高度な段階を「必要におうじて」の社会、と規定した。この二つの社会を何によって区分したのか、という問題であり、それによってどのような社会が定礎されるのかという問題である。

   わたしが初めて「ゴータ綱領批判」を読んだ学生時代、とても違和感を覚えた。「なぜマルクスはこんなことを言ったのだろうか?」この疑問は近年まで続いた。
   「二段階論」は「俗流社会主義」による解釈から今日まで分配論として、分配の方法の違いによって区分したものとして扱われてきたし、今もなおそうである。
    ここでは、マルクスの「二段階論」の新たな解釈を試みる。とはいえ、それはマルクスの一貫した立場「史的唯物論」と「弁証法唯物論」の立場を明らかにするということに過ぎない。マルクスの立場を明らかにしつつ、二つの段階の違いを確認しようと思う。当然、『社会主義』とは何か、『共産主義』とは何か、その経済的基礎を明らかにし、新たな時代の展望を切り開いていきたい。

2 いわゆる”定説“とは何か

    一般に「労働におうじて」の社会とは、交換を前提とした価値法則の貫徹する、賃労働をそのまま継承した社会と考えられている。また「必要におうじて」の社会とは、生産力が高度に発展し、欲望を上回るほどの高度な生産力を持った社会、「なんでもかんでも好きなだけ受け取れる社会」として捉えられてきた。
    レーニンは国家消滅の経済的基礎は、現代では想像もつかさないほどの生産力の発展であると言い、その具体的な時期や方法については、解明の「材料がない」と言う。そのために、どのようにして「分業と手を切り、精神労働と肉体労働の対立を廃絶し、労働を『第一の生命欲求』に転化する」のか、「われわれはそれを知らないし、知ることは出来ない。」(『国家と革命』新日本文庫 聴濤弘訳P131)と断言してしまった。
    その後に続く研究者達も、ここから先に進むことができなかったし、レーニンの断言は新たな研究者を排除し、次第に「未来社会論」についての関心を薄れさせてしまったように思う。

   マルクスの史的唯物論の立場を「俗流社会主義」が「分配を生産様式から独立したものとして考察」するブルジョア経済学を受けつぎ、二つの段階を区分するものとして分配の仕方の違い、すなわち「労働におうじて」か「必要に応じて」かの違いだとして考察されてきた。これが、いわゆる”定説“と呼ばれるものである。
    そして形は変わるが、レーニンの『国家と革命』へと受け継がれ、さらにさまざまな形態をとりつつも、基本的には生産様式から独立した「分配論」がいまもなお君臨し続けている。

  「国家の完全な死滅の経済的基礎は、精神労働と肉体労働の対立がなくなり、したがって現代の社会的不平等のもっとも重要な源泉のひとつ、しかも、生産手段の社会的所有への移行だけでは、資本家を収奪するだけでは、すぐに除去することはけっしてできないような源泉がなくなるほど、共産主義が高度に発展することである。
・・・この発展が、どれほど早くおこなわれ、それが、分業と手を切り、精神労働と肉体労働の対立を廃絶し、労働を『第一の生命欲求』に転化するところまで、どれほど早くすすむか、われわれはそれを知らないし、知ることはできない。
したがって、われわれは、国家の死滅の不可避性についてのみ正当に語ることができ、・・・死滅の時期や具体的形態についての問題は、まったく未解決のままにしておくのである。なぜなら、この問題を解決するための材料はないからである。
国家は、社会が『各人はその能力に応じて、各人にはその欲望に応じて』という準則を実現したとき、すなわち、人々が共同生活の基本的規則を守ることに十分になれ、かれらの労働が十分に生産的なものとなり、そのため人々が自発的に能力に応じて労働するようになったとき、完全に死滅することができるであろう。・・・そのときに、各人によって受け取られる生産物の量を社会の側から規制することを必要としない。各人は『欲望に応じて』自由に取るであろう。
・・偉大な社会主義者の予見は、今日の労働の生産性を前提とするものではなく、また社会的富の倉庫を『いたずらに』荒らしたり、また不可能なことを要求したりする今日の俗物を前提とするものではないからである。」(『国家と革命』第五章 国家死滅の経済的基礎  四 共産主義の高い段階 新日本文庫 聴濤弘訳130-132ページ)

    マルクスが、『「ゴータ綱領」批判』で述べている箇所は「分配論」であると、多くの研究者たちは、何らかの疑問は持ちつつも今日まで流されてきたといえるのではないだろうか。しかもマルクスはその数ページ後に「分配論」を退けているのだ。
    この「分配論」らしき記述は、史的唯物論の立場からは、生産関係を表す記述として捉えなければならなかったのではないか。つまり、「分配を生産様式から独立したものとして考察」するのではなく、生産様式に立脚した「分配」を考察しなければならなかったのだ。
   この二つの段階を区別したマルクスの理論的背景を明らかにしていかなければならない。

3 「二段階論」マルクスの立場

   社会を区分するものは、経済的基礎としての生産力と生産関係による。それがマルクスの史的唯物論の立場である。分配の仕方もおのずと、その生産的基盤によって規定される。
   ではその立場とは具体的にどのようなことなのか二つの社会に即して考察していこう。

A  第一段階―「労働におうじて」の意味
   長い引用になるが、「共産主義社会の第一段階」を表す重要な部分である。

    「・・・ようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、その共産主義社会が生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている。したがって、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを―控除したうえで―返してもらう。個々の生産者が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である。…個々の生産者はこれこれの労働(共同の元本のための労働分を控除したうえで)を給付したという証明書をもって消費手段の社会的貯蔵のうちから等しい量の労働が費やされた消費手段を引き出す。個々の生産者は自分が一つのかたちで社会にあたえたのと同じ労働量を別のかたちで返してもらうのである。
    ここでは明らかに、商品交換が等価物の交換であるかぎりでこの交換を規制するのと同じ原則が支配している。内容も形式も変化している。なぜなら、変化した事情のもとではだれも自分の労働のほかにはなにもあたえることができないし、また他方、個人的消費手段のほかにはなにも個人の所有に移りえないからである。しかし、個人的消費手段が個々の生産者のあいだに分配されるさいには、商品等価物の交換の場合と同じ原則が支配し、一つのかたちの労働が別のかたちの等しい量の労働と交換されるのである。
   だから、ここでは平等な権利は、まだやはり―原則上―ブルジョア的権利である。もっとも、もう原則と実際とが衝突することはない。ところが、商品交換のもとでの等価物の交換は、たんに平均として存在するだけで、個々の場合には存在しないのである。
    こんな進歩があるにもかかわらず、この平等な権利はまだつねにブルジョア的な制限につきまとわれている。生産者の権利は生産者の労働給付に比例する。平等は、等しい尺度で、すなわち労働で測られる点にある。だがある者は、肉体的または精神的に他の者にまさっているので、同じ時間内により多くの労働を給付し、あるいはより長い時間労働することができる。そして労働が尺度の役をするには、長さか強度かによって規定されなければならない。そうでなければ、それは尺度ではなくなる。この平等な権利は、不平等な労働にとっては不平等な権利である。だれでも他の人と同じく労働者であるにすぎないから、この権利はなんの階級区別をも認めない。しかしそれは労働者の不平等な個人的天分と、したがってまた不平等の給付能力を、生まれながらの特権として暗黙のうちに承認している。だからそれは、内容からいえばすべての権利と同じように不平等の権利である。権利はその性質上、等しい尺度をつかう場合にだけなりたちうる。ところが、不平等な諸個人(そしてもし不平等でないなら別々の個人ではないだろう)を等しい尺度で測れるのは、ただ彼らを等しい視点のもとにおき、ある一つの特定の面だけからこれをとらえるかぎりにおいてである。例えばこの場合には、人々はただ労働者としてだけ考察され、彼らのそれ以外の点には目は向けられず、ほかのことはいっさい無視される。さらに、ある労働者は結婚しており、他の労働者は結婚していないとか、ある者は他の者より子供が多い等々。だから、労働の出来高は等しく、したがって社会的消費元本に対する持ち分は平等であっても、ある者は他の者より事実上多く受け取り、ある者は他の者より事実上多く受け取り、ある者は他の者より富んでいる、等々。すべてこういう欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう。
   しかし、こうした欠陥は、長い生みの苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けられない。権利は、社会の経済構造およびそれによって制約される文化の発展よりも高度であることはけっしてできない。」(『ゴータ綱領批判』『マルクス、エンゲルス全集』大月書店版19巻P19-21原P20,21。以下『全集』⑲と記す。太線は筆者)

ⅰ 剰余労働の社会的取得
    この社会は資本主義を脱して、生産手段を資本家による私的所有から、働く者の社会的所有に移した経済構造を土台にする。それは労働者の剰余労働を資本家の私的取得から社会の手に、自分たちの手に移すことである。

   共産主義の最終的目標は所有関係の止揚であり、その前段階としての所有関係、すなわち社会的所有の社会である。

  いま、一般に「社会主義」とは何か、「共産主義」とは何か、の答えとして「『ゴータ綱領』批判」のこの表現をそのまま使い、「労働に応じて受け取る社会」、「必要に応じて受け取る社会」と説明されてきた。しかし、この説明はマルクスの立場と異なるものだ。
   マルクスは「剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げる形態だけが、いろいろな経済的社会を、・・・区分する」(『資本論』1巻-ⅠP231)と述べ、さまざまな経済的社会を区分している。つまり剰余労働を支配するのが奴隷主なのか荘園領主なのか、資本家なのか、はたまた働く者たち自らの社会なのか、ということで区分される経済社会である。働く者たちの一元的な社会が自らの剰余労働を所有、管理するのが「社会主義社会」、すなわち共産主義社会の第一段階なのであり、剰余労働が消滅し「所有関係」が止揚された社会が共産主義社会の「より高度な段階」なのである。この区分は単に剰余労働の搾取という観点から区分されたものであり、史的唯物論の観点からは「共産主義社会」のそれぞれの段階ということになる。

   それなのに、今使われている「説明」には、この剰余労働から社会を見る視点に欠けている。
    つまり、マルクス流に説明するならば、共産主義の初歩的段階、すなわち「社会主義社会」とは、「働く者の剰余労働を社会が取得管理する社会」であり、続く「高度な社会」、とは「剰余労働が消滅した社会」ということになる。これが「社会主義」、「共産主義」を表す最も簡単、適切な説明である。

   これまで「所有」とは「生産関係=生産手段を誰がもつか」という命題に心奪われ、働く者の剰余労働を誰が取得しているのかという一歩踏み込んだ考察がなされていない。「所有概念」の欠落である。その結果、「社会主義」社会から「共産主義」社会への発展を弁証法的に正しく反映できない弱点を持った。そして社会主義社会とは、「すべての生産手段を社会化する=個人的、集団的に所有する生産手段を取り上げる」という誤解を生じさせてしまった。
    資本主義社会を脱したばかりのこの社会では、個人的経営、農業、商業、そして資本家を追い出した後の大小の集団的経営、等さまざまな経営形態が存在する。プロレタリアートの執権は、すべての生産手段を一元的に管理する。それは、生産手段を取り上げることではなく、労働可能なすべての人々にそれらを解放するということである。そのためには大量の生産手段を社会として準備しなければならない。
資本家が労働者を搾取するための生産手段は取り上げ、社会に開放する。もちろんこれまでと同様、個人的な所有物としての生産手段も、それが搾取の手段とならない限り「所有」が認められる。

    階級社会における「所有」とは何か。それは他人労働の取得、支配階級による被支配階級の剰余労働の取得である。個々人が生産のための生産手段を持つことの「所有」と剰余労働の取得のための「所有」とは区別されなければならない。生産手段を持つことと被支配階級を支配することは全く別のことである。
    「経済学は二つの非常に違う種類の私有を原理的に混同している。その一方は生産者自身の労働にもとづくものであり、他方は他人の労働の搾取にもとづくものである」(『資本論』1巻-Ⅱ原P792)。この共産主義社会の第一段階では他人労働に基づく所有を奪い返し、生産者のための社会的所有に置き換える。つまりブルジョアジーが独占所有する生産手段を労働可能な人々に開放するということである。一般勤労市民の財産、生産手段を奪い取るものではない。これ以降、個人や集団による他人労働の取得はなくなる。
    これが「私的所有の禁止」という意味である。これは生産手段の私的「所有」の禁止ではなく、他人労働の私的取得の禁止ということに他ならない。交換を前提としない社会においては、生産手段を持つことが「所有」ではない。「共産主義は、社会的生産物を取得する力をだれからも奪うものではない。ただ、この取得を手段として他人の労働を隷属させる力を奪うだけである。」(『共産党宣言』全集④P490原P477)と明快に述べている。
   自己労働に基づく所有は守られる。働く者の剰余労働は社会が管理する。これが「社会主義社会」という経済的区分をなすのである。
    生産手段および労働は計画的に分配され、効率的に生産がおこなわれ、生産性も大幅に発展するだろう。資本主義社会では生産過程から除外される定年退職者、婦人、身体的弱者、さらには膨大な数の失業者たち。これらの人々を生産過程に取り込むだけで社会的生産力を大幅に発展させることができるであろう。
     「生産手段の社会化」とは、生産の様々な、大小の経営態の中でも、それを構成する各個人が社会的に結合した関係を作り上げるということであり、その関係の上で成り立つ社会が所有するということである。また剰余労働の社会的取得ということが重要な側面にあって、それを充分認識しなければならない。
   この社会では「剰余労働にたいする無制限な欲望は生産そのものの性格からは生じない」。(『資本論』1巻-Ⅰ原P250)「労働におうじて」受け取る報酬は、生産力の大幅な発展と、それにともなう欲望の高まり、社会的諸事情におうじて変化する。そして労働時間の短縮が進むであろう。

ⅱ この労働は「価値」を形成するか(呪物的性格からの脱却)
   “定説”による「労働におうじて」受け取る社会とは、価値法則をそのまま受けつぎ、「労賃」形態をも受けつぎ「交換」を前提とする社会まで受け継いでいる。そこから導き出されるのは「社会主義社会=商品生産社会」である、という間違った概念である。それはいまだ”定説“とも認識されず議論にさえなっていないように思う。これこそが「未来社会」を論ずる際の重大な”定説“であることを指摘しておきたい。

   『資本論』第一章第1篇第四節『商品の呪物的性格とその秘密』を思い起こしていただきたい。
      「労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかないという後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時代を画するものではあるが、しかしそれはけっして労働の社会的性格の対象的外観を追い払うものではない。この特殊な生産形態、商品生産だけにあてはまること、すなわち、互いに独立な私的労働の独自な社会的性格はそれらの労働の人間労働としての同等性にあるのであってこの社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとるのだということが、商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々にとっては、かの発見の前にもあとにも、最終的なものに見えるのであって、・・・(『資本論』1巻-ⅠP88)

   商品生産のもとでは、生産者と生産者との社会的関係が、商品と商品という物と物との関係として現れ、人間の労働の生産物である商品が人間から独立して対立し、支配するようになっている。「したがってまた私的諸労働の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。(『同前』P90)
   交換が前提されれば、労働は価値を形成する。まだ資本主義社会から生まれたばかりの交換を前提にしない社会でも生産過程が人間を支配し人間がまだ生産過程を支配していない社会では人と人との関係は、直接的にではなく、労働を通じて、つまり抽象的労働によるのではなく具体的な労働、さまざまな使用価値を作る労働として「農耕や牧畜や紡績や織布や裁縫などは、その現物形態のままで」(『資本論』1巻‐ⅠP92)、互いに認め合うことになる。
   『資本論』では「そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。」(P91)で始まる。「労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。…(中略)…ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現れるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。」(同)
   「交換」を前提とした商品生産社会。自らの社会的存在を私的労働がその「価値」を実現することによって社会的存在を実証する。しかし「交換」を前提にしない他の経済的社会における個々の労働は、初めから「彼ら自身の人的関係として現れる」のであり、それは各自の具体的労働そのものの関係として現れる。「価値」で変装されるものではないのである。
    商品生産社会における人と人との関係は、直接的にではなく、商品の交換を通して表される。彼の労働生産物は「使用価値」と「価値」を持つ商品として現れる。「使用価値」は他人にとって有用なものでなければならず、「価値」は、その生産に費やされた社会的必要労働によって決まる。しかし、それらが実現するのは交換が成立してからの話である。商品生産においては交換が前提となる。
   「共産主義社会の第一段階」における「労働」とは、資本主義社会から脱した「交換」を前提にしない新しい社会の労働であり、それぞれの個人が社会的存在として認め合う平等な人間の個々の具体的労働である。この変化を見ることが史的唯物論の立場である。
   この社会では、自分の剰余労働を社会のために提供する。かつての賦役労働のように、奴隷主や封建領主のために捧げたように、彼の個人的労働量を社会のために与えるのである。自らを解放するために。
   労働力を売り込むための競争もなくなる。「個人間の生存闘争は終わりを告げる」(エンゲルス『反デユーリング論』全集⑳292、原P264)のである。家族が多い、幼い子どもがいる、病気の家族がいる、働けない老人がいる。それでも同じ労働時間分しか受け取ることは出来ない。それらの事情は労働者の剰余労働が当てられるであろう。だから、純粋に「個人的労働量」におうじて受けとるのである。能力に応じて働く社会であり、各自は社会的連携の中で保護される。彼の労働が特殊な技術と頭脳を要するのであるのなら、その養成に必要なものは社会が保障する。
    生産は社会的に行われる。だから彼らの生産物の一部は社会のものであり、もう一方の部分は自分で消費されるものとして分配されなければならない。
   まだ人と人の関係が直接的に結ばれない社会、生産に支配される社会では労働を通して、物的生産を通してその関係が結ばれる。資本主義社会の価値を生む労働としてではなく、単に同じ労働者であるということ、その具体的労働すなわち社会に貢献する個々の異なった個人の労働を「平等」と見なす関係である。
   労働者であるということ「それ以外の点には目は向けられず、ほかの事はいっさい無視される」(『ゴータ綱領批判』全集⑲P21原P21、それが「廻り道」(『反デューリング論』全集⑳P318原P288)ではない直接的な労働である。それが交換を前提としない社会の姿である。労働の質をみてはならない。労働者であるということだけが問題なのだ。
    交換が前提されれば、労働は価値を形成する。まだ資本主義社会から生まれたばかりの交換を前提にしない社会でも生産過程が人間を支配し人間がまだ生産過程を支配していない社会では人と人との関係は、直接的にではなく、労働を通じて、つまり抽象的労働によるのではなく具体的な労働、さまざまな使用価値を作る労働として「農耕や牧畜や紡績や織布や裁縫などは、その現物形態のままで」(『資本論』1巻‐ⅠP92)、互いに認め合うことになる。
   「商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々にとっては」(『同前』P88)見えにくい問題である。
    労働を現物形態のまま見ることができず、抽象的労働として見てしまうこの方法は、商品の呪物的性格による長い歴史を持つ“定説”を生み出す根本原因なのである。
    史的唯物論の立場に立つならば、「労働におうじて」受け取る社会の労働とは、「価値」を創造する抽象的労働ではなく、すべての社会的労働が等しいものと認められた社会の、個々の具体的な労働なのである。

ⅲ 「共同社会」とは
   「社会的に連携した関係」とは、社会的生産を担う諸個人のすべての種々異なる労働を具体的労働として平等なものとして認め合う関係である。それが交換を前提としない社会のあるがままの姿である。
    マルクスは、農民家族の家長制的な労働形態を例に「個人的労働の支出は、ここでははじめから労働そのものの社会的規定として現れる。というのは、個人的労働力が初めからただ家族の共同的労働力の諸器官として作用するだけだからである。」(『資本論Ⅰ』P92)と述べているように、個人的労働力が共同体の共同的労働力となっている社会こそが「共同体」社会なのである。
    真に「労働におうじて」受け取る社会であり、働くものの平等な社会である。精神的労働と肉体的労働の差別もなくなる。都市と農村の分離も、生産手段の集中を解き放し、大量生産ではなく、人間性にあった生産方法をとるならば、この問題も自ずと解消するだろう。生産と消費の分離も最小限に抑えることができるだろう。

    自分から作り出す喜びが失われてしまった。何日もかけて子どものためにセーターを編み、子はその出来上がる過程を毎日見守ることだろう。料理をつまみ食いをしながら、とがめられながら、楽しく食卓を囲むだろう。小さな庭に家庭菜園を作ったり自分でオーデイオやコンピューターを組み立てたり、家を建てる事だって可能な人もいる。特殊なセーターの編み方を排他的にならずに他人に教えることもできるだろう。
    現代人は小さな歯車になってしまった。次の社会は生産力の発展に寄与することが目的ではない。高度に発達した資本主義社会では、相対的に生産を制御できる高度な生産性に裏打ちされた社会に達していることを認識すべきである。自然や環境、社会、地域、家族との協調を考えるべきである。

    他人労働の搾取が廃止され、交換を前提としない社会においても、人が生産過程を支配できないこの社会では労働によって平等を認識する。不平等な労働が平等なものとみなされたとき、労働力は商品であることをやめ、また、労働生産物は商品であることをやめる。交換を前提とする社会は崩壊し、商品社会は消滅する。労賃形態は新たな分配方法へと変わる。

    「変化した事情のもと」でも、やはり彼らには社会の構成員であるためには労働を与えるしかない。労働力ではなく労働そのものを。この社会から受け取る報酬は労働力の価値としての賃金ではなく、社会への貢献度の尺度として労働量つまりその個人的労働時間によって測られる。ただただその質ではなく、長さによってのみ。
    しかしながら、個人的労働時間によって受け取る量は社会的必要労働によって測らざるを得ない。共産主義社会にも貫徹する「価値法則」である。まだ生産に支配されている間は、「価値法則」は重要な役割を果たす。「交換」が支配的ではないがまだ、生産に支配され、「交換」の形態が残る間は「価値法則」が貫徹する。例えば、1台のテレビをもらうためには20時間の労働が必要という場合の20時間は、社会的必要労働量で測られるのである。また、社会的生産における計画などにはなくてはならないものである。

   彼らは、お互いに直接社会的連携のなかで生産活動をおこなう。彼らの労働は価値として現れることはない。自然素材に働きかけ新たな使用価値を作り出す労働である。交換するためではなく消費のために生産するのである。
   それがどのような有用性であっても同じ労働として認め合う。単純労働も複雑労働も、初心者も熟練者も、小さな作業所で働く人も大工場で働く人も、男性も女性も、ただその個人的労働時間の長さのみで測られる。それは、お互いが社会的存在として認め合った社会である。個々人の不平等を認め合うことが平等な社会の実現である。格差のない社会を、階級のない社会を築く重要なステップがここにある。
    しかしその前提には高度な生産力が確保されていなければならない。生活必需品の確保のために競争が支配的である社会では難しいだろう。競争は「価値」を実現させるものであり、より多くの利潤を得るためのものである。
   共同作業所で働く障がいを持った人たちがいる。彼らの労働を「価値」から見ると大きな「価値」を生み出しているとはいえない。しかし彼らは生産し、その労働によって自分自身を成長させるために努力している。労働は人間の「権利」である。このような労働を「価値」から見ることの不合理に気づいている人達である。高度な技術を持った労働者が単純な労働を押し付けられることの苦痛。事実、労働組合員に対する嫌がらせとして行われている。それぞれの労働者の持つ能力に応じて働き、その能力をさらに発展させていくことができるような環境での労働こそ人間性に適合したものである。高度な労働だから単純労働より多くをもらう、ということの必要のない高度な生産力に裏打ちされた「競争」のない「結合した社会」なのである。こうした認識は、高度な生産力に裏打ちされた、経済的基礎の上に成り立つ。

   マルクスの「労働におうじて」という意味は、個人的、具体的労働であること。それによってすべての格差、階級が消滅する「生産関係」を表す、極めて重要なフレーズなのだ。
   労働の「物神的性格」に惑わされず、素直に史的唯物論の立場に立つことが必要だ。

B より高度な段階―「必要におうじて」の意味
    「共産主義社会のより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって、またその生産力も増大し、共同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち―そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる―各人はその能力におうじて、各人にはその必要におうじて!」(『ゴータ綱領批判』全集⑲P21、原同P。)
 このように「共産主義社会のより高度の段階」を表記している。

歴史上に存在した社会関係
    かつて「必要におうじて」受けとる社会が存在した。それは商品が誕生する以前の価値法則のない原始共同体社会においてである。
    エンゲルスは『反デューリング論』の中で「共同体の成員たちは、生産のために直接に社会的に結合しており、労働は慣習と欲望とに応じて配分され、生産物も、消費にあてられる分については、同じようにして分配される。」(全集⑳P318、原P288、太字強調著者)と述べている。『資本論』では「島上のロビンソン」が登場する。「彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。(中略)必要に迫られて、・・・」。(『資本論Ⅰ』P90、91)さらに「共同的な、すなわち直接に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の発端でみられるような労働の自然発生的な形態にまでさかのぼる必要はない。もっと手近な例は、自分の必要のために穀物や家畜やリンネルや衣類などを生産する農民家族の素朴な家長制的な勤労である。というのは、それらは、商品生産と同様にそれ自身の自然発生的な分業をもつ家族の諸機能だからである。男女の別や家族成員の労働時間を規制する。しかし、継続時間によって計られる個人的労働力の支出は、ここでははじめから労働そのものの社会的規定として現れる。というのは、個人的労働力がはじめからただ家族の共同的労働力の諸器官として作用するだけだからである。」(『同前』P92、太字強調は筆者)
    生産力のきわめて低い原始共同体のなかでも、また素朴な家長制的な農民家族のなかでも、また孤島のロビンソンも「必要におうじて」働き、受け取っていたのである。ここで言う「必要におうじて」とは、高度な生産力を意味しない。必要ならば何でも受け取ると言う事ではなく、社会的に規定された生産力の範囲内での消費であることは自明のことである。ただ、この社会は生産者たちが直接に結合した社会であり、まだ所有関係は存在しない。他人の労働を搾取するということがなかったのである。
 人々が消費のためにそれを求めるには、「価値」あるいは貨幣、という回り道をしてするのではなく、直接に必要におうじて、その社会の生産力の範囲内で、かれらの社会の再生産のために必要な分を除いたなかからその「使用価値」を受けとっていたのである。しかし、この時代のきわめて低い生産力においては、彼らが生きていくための、あるいは社会を維持していくための最低限の欲望に過ぎなかったであろう。

 これがマルクスの「必要におうじて」の意味である。すなわち「価値」とか貨幣とか「廻り道」でない直接的な「欲望」に対する受け取りである。人々が直接に結合した社会、価値法則のない社会、「交換」のない非商品生産社会、所有関係のない社会を意味する生産基盤を示す言葉なのだ。高度な生産力を背景にして何でもかんでも自由に受け取る社会という意味で使った言葉ではない。それこそは、生産基盤に基づく史的唯物論の立場である。

 マルクスの一貫した史的唯物論の立場、弁証法的唯物論の立場は、どの著作を見ても妥協なく徹頭徹尾貫かれている。この『ゴータ綱領批判』のなかにおいても。
マルクス没(1883年)後、1891年エンゲルスは[カールマルクス「ゴータ綱領批判」への序文]を書いて、次のように述べている。

 「ラサールが運動にはいって以来とってきた方針にたいするマルクスの立場が明確に説明されており、しかもそれは、ラサールの経済学上の原則ばかりではなく、戦術にもふれている。
ここでは、綱領草案は仮借ない鋭さで分析され、到達した結論が峻烈なことばで述べられ、草案の弱点がきびしく暴露されている。」(『全集』⑲P540)
 エンゲルスのこの評価こそ、マルクスの一貫した立場が貫かれていることを証明するものであろう。ましてやラサール派との論争においては一点の曇りもない。もし曇りがあったならエンゲルスはここで釈明する義務がある。
 マルクスは史的唯物論の立場を堅持し、「共産主義社会の初歩的段階と高度な段階」の生産関係を明らかにしたのであって、それを生産関係から切り離した分配論にしてしまい、マルクスが「分配」をもって社会を「区分」したかのように取り扱ったのが俗流社会主義である。

 マルクス自身が批判し続けている。
「いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。
 たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずと生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?」(全集⑲21、22、原22ページ。)

 ここまで丁寧に述べたマルクス。「生産様式から独立した」分配論をいましめている。「ラサール派との論争上の必要から述べた」便宜的なものではなく、生産様式から導き出された史的唯物論の立場である。この文書はマルクスの反省ではない。「誤りであった」のはマルクス自身ではなくラサール派である。

C「二段階」の違いは何か
 それは、剰余労働があるのかないのかの違い、所有関係があるのかないのかという違い、生産過程に支配される社会なのか支配する社会なのかの違い、労働の変化発展の違い、という根本的な「生産関係」の違いがある。

 共産主義社会の初歩的段階と、より高度な段階。史的唯物論の立場に立つと、そのような段階を経ることは明らかである。
 マルクスの「剰余価値学説」は、それまでの「空想的社会主義」を科学的な土台の上に置いた三つの構成部分のうちの経済学をなす「労働価値学説」と並ぶ経済学の主要な学説であり、資本主義の生成・発展・没落の過程と社会主義・共産主義への移行の必然性を明らかにしたものである。
 剰余労働の社会的所有、それが「社会主義」を規定する経済区分であり、史的唯物論の立場からは、共産主義社会の「第一段階」である。そして剰余労働が消滅した所有関係のない社会が共産主義社会の「より高度な段階」なのである。

 生産力の発展が労働時間を短縮し、その「絶対的限界」(『資本論』第1巻‐Ⅱ原P552)を突破したとき生産関係(所有関係)は消滅し、新たな人々の関係を作り出す。

 これまでの「未来社会論」には、生産力が高度な発展を遂げ、それが生産関係をどのように変化させるのか、という視点に欠けていた。この立場に立つ限りでは真の「未来社会論」は出てこないし、「材料がない」のである。
生産力の発展から、生産関係をどのように変化させるのかといった弁証法的発展の過程を見いだせず、この「未来社会」を物欲の世界におきかえてしまった。 
 レーニンが述べていることは、生産力の側面から、その高度な、「今日の労働の生産性を前提と」しないような、予見できないような生産性の発展である。それにたいする生産関係の変化発展を見ず、人々の「準則・規則」に置き換えてしまったのだ。結局レーニンの理論はここでストップする。

 マルクスは、分配の仕方によって二つの段階を設定したのではないことは明らかである。マルクスは一貫して史的唯物論の立場を貫いている。生産力と生産関係から、「必要におうじて」の社会を導き出したのである。そこは、物欲の社会ではなく、価値法則のない、高い生産力を背景とする所有関係のない社会、人間が生産過程を支配する社会、労働が自己目的として認められる社会、労働が「生命欲求」となった社会である。

 今日までの長い間、共産主義社会の二つの段階を分配の仕方で区分したとする解釈が定説として君臨してきたのは、マルクス以前のブルジョア経済学者から引き継いだ解釈と史的唯物論理解の不十分さからくるものである。
 経済的社会形態を区分するのは剰余労働のあり方による。「『ゴータ綱領』批判」のこの部分は、それぞれの社会の史的唯物論的規定性から生じるそれぞれの社会の特性を明らかにしたものであり、「分配」を論じたものではないのである。


4 『資本論』 「必然性の国」から「自由の国」へ


 いかにして「必然性の国」から「自由の国へ」飛躍するのか。マルクスが『資本論』で述べていることは次のようなことである。

  「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するというとがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性にもっともふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」(『資本論』3巻-Ⅱ 原P828)

A 発展の弁証法
 労働者にとって、自由な時間とは個人の完全な発展のために利用される時間、すなわち余暇時間である。「労働日の短縮こそは根本条件である。」(『資本論』3巻-Ⅱ原P828)
 「労働におうじて」受けとる社会から「必要におうじて」受けとる社会へと移行する。この移行に重要な役割を果たすのが労働時間の短縮である。生産性の増大は、労働時間の短縮を可能にする。資本主義を脱した社会は、剰余労働に固執する社会ではない。
 労働時間の縮小は、自由な時間、余暇時間の増大である。この自由な時間は、人を社会的活動や芸術活動への参加を保障する。しかし、もっとも重要なことは、それを「労働日の短縮の絶対的限界」(『資本論』第1巻‐Ⅱ原P552)まで引き下げ、剰余労働を消滅させるという点にこそある。
 「労働日の絶対的な縮小限界」を突破した彼らの労働からは剰余労働が消滅し、すべてが必要労働となる。こうして彼らの労働は自己目的として認められる「生命欲求」としての新たな労働に発展する。それはまったく新しい未来の労働として現われる。

 剰余労働の消滅は所有関係をなくす。疎外された労働は自分のものになり、「自己目的として認められた活動」となる。労働それ自体が「生命欲求」となる。労働の「権利」は食欲などと同じレベルの「生命欲求」となるのだ。
労働そのものがひとつの自然力であり、労働手段、労働対象も使用価値としての自然的諸物として現れる。この社会はすべての個人が直接に結合し社会を構成する。人間そのものが社会的存在である。個々人を労働によって表わす必要はない。労働をもって自分の社会的存在を表現しなくてもいい、生産が主体ではなく人間が主体となる。対象化された過去の労働が生きた労働を支配するのではなく、生きた労働が、人間が主体となる。労働者ではなく人間になるのだ。ブルジョア的権利は止揚され、命あるすべての人々が人間として平等になる。価値を形成する労働ではない。経済的発展のための労働でもない。”豊かさ”は労働によって測られることはもはやない。

 「所有関係」は止揚され、だから「生産関係」もまた止揚される。生産過程に支配されていた人間が人類史上初めて生産過程を支配する。
 労働が「生命欲求」となり単純で意欲のわかないような分業はなくなる。しかし自然的分業つまり身体的、性格的(嗜好性も含む)、地理的差異による分業は残る。分業が商品生産の、階級の、存在条件であるが、逆ではない。社会的分業は自然性的分業に置き換わる。分業があるのだから、必然的に交換は起きるのではないか、と思われる方もいよう。この社会では流通はあっても交換はない。「価値法則」がないのだから必要な人に差し上げる、必要な人がいただく、という関係になる。それは、そのものの有用性、使用価値の消費欲望である。
 ふたたび、人々は「必要におうじて」受けとるのだ。それは、かつて「必要におうじて」受け取った生産力のきわめて低い、まさに生きるための労働から解き放たれた高度な生産性を背景とし、人が生産を支配するまったく新しい労働として現われる。それは新しい人類史の始まりである。

B 新たな「労働」の誕生=物質的生産の彼岸
 人類誕生以来、「彼が労働するのは、常に、消費のためでしかない」(『経済学草稿集 経済学批判Ⅰ』原P181)のである。人が生きていくための物質的生産である。生産力の低い段階では、自然の力に支配されていた。ここでの労働は、自然に働きかけ、利用し、あるいは人間にとって有用な物をつくりだすことであった。生産力の発展は、人間の肉体的・精神的能力の発展でもある。労働は、言語を生み出し、芸術を生み、文化を創造していった。労働によって脳は発達し、人間としての可能性を拡大させていく。

 高度な生産力と剰余労働の消滅は、人間と社会の維持という労働の「外的目標」を取り除き、「自己目的として認められる人間の力の発展」として現れる。それは生物的な人間の維持再生産という領域から離れた高度な文化的発展性を含んだものであり、「本来の物質的生産の領域のかなたにある」ものである。こうして彼らの労働は、すべてが自分のものとなり自分自身を高める「生命欲求」となる。
 「労働日の短縮」も、もう問題にはならない。労働という本来の性格を取り戻す。もう自分のための生活物質を生産するだけの労働ではない。人間の合目的行動、「自己目的として認められる人間の力」がそれである。それは、余暇時間に行っていた行動と質的には同じであり、労働を自身の手に戻し、新たな主体として、自己目的として、直接的生産過程にも入っていく行動でもある。物質的生産に喜びを感じながら。同時にそれは、客体としての労働生産物を生産する労働から主体としての自分自身を「生産」する新たな時代の労働を確立する。これがマルクスの言うところの「物質的生産の彼岸」という意味であろう。だから、物質的生産に何時間費やそうとかまわない。それが自分の喜びであるのなら。それが自由の国なのだ。
 この社会は、生産に支配される社会ではなく、人間が主人公である。欲望を上回るような生産のための生産ではなく、生産を制御できる社会である。直接的に、物質生産の活動から離れていた人々を含め、すべての構成員がその能力に応じて直接的物質生産に参加するならば、短時間の生産活動ですむだろう。
剰余労働は消滅する。自分にとって必要のない労働はしないからである。彼の労働はすべてが「必要労働」となる。社会的に結合した人たちは、病人を看ることも、老人、子供を養うことも、自然災害に備えることも、すべてが「必要労働」なのだ。

  「労働日のうち労働者が自分の生活手段またはその等価を生産するのに必要な部分を短縮する。労働日の絶対的な縮小限界は、一般に労働日のこの必要ではあるが収縮の可能な構成部分によって、画される。一労働日全体がそこまで収縮すれば、剰余労働は消滅するであろうが、それは資本の支配体制のもとではありえないことである。資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。」(『資本論』1巻-ⅡP552)

 自然性的・生理的分業は残される。自分が一番したいことを中心にして、いろいろなことができる社会、自分自身の可能性を最大に生かせる「自由の国」だ。一つの仕事に何時間も費やす社会ではない。一つの仕事に一生涯縛られる社会でもない。なりわいとしての仕事ではない。百花繚乱、得意な分野を中心に、いろいろな個性を引き出し、人間としての多面的な能力の可能性を伸ばせる理想の国だ。人は生産物を作りながら自分自身を「創る」のである。疎外された労働はこのときに完全に自分自身の労働となる。
 すべての社会構成員が平等な関係になる。労働者としてではなく、人間として。老若男女、命あるすべての人々が。労働を自分自身の手に取り戻し、自分自身のために働く。社会的に結合した集団では、彼らの存在を「価値」や労働によって表す必要はない。労働の概念は大きく変わる。「労働」=稼ぎ、「価値」創造、社会的生産などの概念は捨てなければならない。それは自分自身の「生命欲求」、食べることと同じ、自分自身を創り出す過程である。
 子どもたちは自由に遊び学ぶ。老人は自由に、その余生を過ごすであろう。この社会の管理者は、学校を建てたり、道路を作ったり、橋を架けたり、新たな機械を導入したり、新たな生産体制を確立したり、必要に応じて実行するのみである。生産手段もそれを必要とする人が使えばいいことである。一つの生産手段を独占する必要はなく、必要な人が使う。「社会的所有」の社会から「所有」という概念がなくなった社会へ移行する。
 そもそもお金はない、貨幣制度がない、価値法則がないのであるから。すべての人がその「必要におうじて」うけとるのである。全ての社会構成員が、あるいは団体が、赤ん坊も寝たきりの病人も老人も身体的弱者も学生も、その消費欲望に応じて。もちろん、そのときの生産力に規定された消費であることはいうまでもない。すべての社会構成員がそれぞれの存在を認め合い、連帯した社会である。労働を介して認め合うのではなく、そもそもの不平等な人間として平等を認め合うのである。労働はすべてが必要労働として認識され、自己目的として他人のために強制なしに働ける優しい社会である。
 生産に支配される社会では、人は労働によって評価される。しかし、人が生産を支配した社会では、人は人として評価される。
こうして、「必然性の国」から「自由の国へ」の人類の飛躍がなされるのである。

5 むすび

 空想的社会主義が科学になったのはマルクスの「剰余価値学説」によるところが大きい。剰余労働の量的現象は、労働の質を大きく変える「量から質への転換」である。
 資本主義社会を脱し、共産主義社会への過渡期を乗り越え、社会主義の経済的基礎を築いたとき共産主義社会の第一段階を迎える。高度な生産力を保持した国家と労働者階級は、階級を廃止し、国家をも消滅させる。さらに生産性を上げ、労働時間を短縮して剰余労働を消滅させ、すべての所有関係を止揚した共産主義社会のより高度な段階へと進む。
 ソ連の轍を踏むまい。民主主義の育たないところに共産主義も育たない。競争ではなく、他人を想いやる心が新しい社会を準備する。個人が尊重される社会であり、これまでの没個人、国家的・社会的・集団的イメージは払拭されなければならない。コルホーズ、ソホーズなどの集団的生産は、生産力の低い段階では有効であるが、現代の高度に生産力が発達した資本主義社会からの新たな社会では意味がない。むしろ個人が尊重される新時代だ。
 労働は苦痛である。自分が生きていくためには支配者の意のままに働かなければならない。「権利」になると、少しだけ喜び、楽しみに変わる。さらに「生命欲求」へと変化、発展を遂げたとき、それは食べることの喜び、調理することの喜び、身体を造ることの喜びと同等なものとなる。
 3.11以降、新たな価値観が顕著になっている。原発事故は、お金最優先の「価値観」から多様な「価値観」をさし示した。特に重要なことは「生産のための生産」を抜け出し、「生産を制御する」社会になったことを自覚し始めたことであった。しかしながら、依然として経済最優先の施策を繰り返している。いくら暮らしをよくするといって経済を優先したところで、報われるのは一握りの富裕層ばかりであり、働く我々とはますます格差が広がっている。所得の再分配についても、低所得者に薄く、富裕層に厚い逆立ちした再分配がまかり通っている。巨大化し続ける大企業の内部留保。
 大量生産、大量消費、大量のごみの山。そして人類が処理できない膨大な「核」のごみ。「生活のあり方を変えよう」「人間らしい働き甲斐のある仕事を」。こうした新たな「価値観」に注目している。
 近年注目されているAI(人工知能)の発達により、多くの仕事が奪われてしまうことが予測されている。労働は人間としての権利である。奪われるわけにはいかない。こうした人類の発展を一部富裕層のために利用するのか、労働時間を短縮して生活を守るかの歴史上の戦いの場である。それでもまだ過労死を招く残業を強要している。非正規雇用を増大させ、巨大な「内部留保」を構築している。とっくに耐用年数を超え、時代の桎梏として肥大しすぎている。
 高度な精神的労働もあろう。しかし、新たな社会では、その仕事をこなせる人は多くいるはずであるし、足りなければすぐに養成できるであろう。もう、仕事を独占する必要もないのだから。さらに特定の仕事に1日中、あるいは数時間も費やす必要もなくなっているはずだ。
 高い生産様式に裏打ちされた人間の多様性の認識こそ新たな時代を切り開くであろう。
 それは「多様性」と「寛容」であり「優しさ」であり、個人として花開く自由の国の創造である。
コメント

水野和夫氏-「資本主義が壊れ民主主義も終焉を迎える」

2017年05月29日 | 本と雑誌

       日刊ゲンダイ 2017年5月29日

  近代システムは終わり「閉じた経済圏」の時代へ

  前作「資本主義の終焉と歴史の危機」がベストセラーとなったエコノミストの水野和夫氏が、新著を出版した。「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済」(集英社新書)で描かれる世界経済、世界秩序は衝撃的だ。無限に貪欲な資本主義が行き詰まった先に、ゼロ金利とテロリズムの“常態化”があり、これは「新たなシステムを模索すべき」という警鐘でもあるという。経済の観点で捉える資本主義と民主主義の関係性。資本主義終焉の先にあるものとは――。

 ■無限の要求に応えるのはもう限界

  民主主義とは国民に1人1票の参政権のある政治形態ですが、経済的に言い換えれば「誰もが自分の欲求を追求してよい」という体制です。しかし、人々の欲求は「無限」。「無限」の欲求に応える生産力がなければ、民主主義のもとでの社会秩序は維持できません。

  だからこそ、生産力増強に適した資本主義が、民主主義とともに両輪となって近代システムは続いてきました。生産力を向上させ、所得や消費を増やし、経済を成長させ、民主主義体制のもとで保障された国民の「無限」の欲求に応え、秩序を維持する――。しかし、こうした近代システムそのものが限界に達しているのです。

 なぜなら、フロンティアが消滅し、「資本主義の終焉」を迎えた今、利潤の極大化が不可能となったからです。利潤率の近似値である長期金利が、「ゼロ」になっていることからも、それは明らかです。

  この時代の変化を無視した末路が、東芝であり、オリンパスであり、三菱自動車。経営者が「3日で利益をつくれ」などと命令して、資本を無限に増やそうとした結果、コケてしまった。

   そもそも資本主義は、資源国や途上国の犠牲のもとでしか成立しない「欠陥商品」です。富を「中心」に「蒐集」した結果、「周辺」が犠牲になることへの異議申し立てが、アメリカでの9.11同時多発テロや近年の欧州でのテロなのです。その悲鳴を無視して資本主義を延命させたせいで、テロリズムによって先進国の社会秩序は危機に瀕しています。秩序維持をうたう政府は民主国家を放棄し恐怖をあおって治安を維持する「安全国家」(セキュリティー国家)に変貌し始めました。これぞ、まさに近代システムの終焉です。

■国民国家を超えた単位を構想

 ――英国のEU離脱やトランプ大統領の誕生は、暴走する資本に対して「強い主権国家」を国民が求めた動きだともいえる。だが、水野氏はフロンティアが消滅したポスト近代には「閉じた帝国」がふさわしいと考える。

  トランプ大統領の誕生は国民が「閉じる」選択をしたともいえます。しかし、もはや一国単位では、リーマン・ショックに象徴されるようにグローバル資本の暴走にもテロリズムにも対抗できません。だとしたら、現状の国民国家を超えた単位のシステムを構想していかなければなりません。それが本書で示した「地域帝国」というビジョンです。近代が終わろうとする今、EUのような規模をもった地域帝国が「閉じた経済圏」を構築することが生存のためには必要なのです。

 ――では「閉じた帝国」しか生き残れないとすると、日本はどうしたらいいのか。

 日本は米国ではなくEUと手を結ぶべき

  フロンティアが消滅すれば、経済を「無限」に膨張させていくことは不可能です。それでも利潤を得ようとする資本は、「より速く」、すなわち高速回転で経済活動を行うようになりました。

  しかし、ビッグデータに必要なサーバーが大量の電気を消費するように、経済の高速回転には大量の化石燃料が必要です。

  見落とされているのは化石燃料の採掘にもエネルギーが必要だということ。シェールオイルのような採掘の効率の悪いエネルギーが注目されていること自体、枯渇の一歩手前にいることを示しています。エネルギー不足で「移動」が困難な時代がやってくれば、経済圏が「閉じてゆく」のは必然。エネルギーや食糧を自給しながら、大きく成長しなくても社会を維持できる「閉じた経済圏」を日本は構築しなければなりません。

 ――ところが、日本の近隣のアジア諸国、とりわけ中国は、いまだ貪欲に経済成長を目指している。まさに近代化の途上だ。やはり日本は米国と手を組んで「閉じた経済圏」をつくっていくべきなのか。

 米国は覇権国として、世界中に影響力を発揮してきましたが、その影響下から脱するべく、欧州はEUという「地域帝国」を構築しました。この先、EUは「閉じた経済圏」を完成させ、ロシアや中国のつくるユーラシアの経済圏、トルコが主導する中東の経済圏とゆるやかに連携するでしょう。となれば、英米の「海の国」は今までのような影響力を行使できず、「陸の帝国」の時代に移っていきます。

  だとすれば、日本が手を結ぶべきは「陸の国」EU。幸いEUの盟主・ドイツはゼロ金利国で、経済の成熟段階も、価値観も日本に近い。

■大陸に近い「九州」を将来の首都に

  でも、これは遠くのEUと貿易をせよ、という意味ではありません。「日本も陸の国と同じ方向を目指しています」というメッセージを発せよということです。中国も「陸の国」ですから今後、欧州との関係を強化していくはず。ユーラシア大陸がひとつにまとまってから日本が「陸の国になりたい」と言っても手遅れです。

 将来、日本は首都を九州に移してはどうか。明治維新のときは、「海の時代」だったから、首都は太平洋を向いている東京でよかった。今度は大陸に近い九州に首都を置く。「陸の国になるために遷都しました」と言うと、米国が怒るだろうから、本当のことは言わず「地震のない地域に遷都した」などと説明すればいい。

  日本の政治は、いまだに米国追随のままですが、米国のほうから「もう日本は必要ない」と手を引くシナリオもありえます。

――成長神話に毒された政府の「大学改革」にも疑問を投げかける。

  経済を成長させるためには「人文系の学問はいらない」「大学で手に職をつけさせろ」という議論があります。経営コンサルタントが「G型大学」「L型大学」という区分を文科省の有識者会議で提言したこともありました。しかし、500年ぶりに歴史が大きく動く今、そのような教育は、日本の未来を損なうと思っています。

 ――「G型大学」「L型大学」とは、それぞれグローバル型、ローカル型の大学という意味。トップ大学・学部に限定したG型では、グローバルに通用する高度なプロフェッショナル人材を養成する。その他の大多数の大学・学部のL型は地域経済の生産性向上に資するスキル保持者を育てると言いつつ、実質的に大学を「職業訓練校」にするものだ。

  若者に大学で手に職をつけさせたいという人は、未来がどうなるか確実にわかっていると慢心しているのでしょう。

 歴史の転換期を迎えた現在は、たとえて言えば、この先を進むレールが消えてしまったような時代です。育てなくてはならない人材は、壊れた既存のレールを修復する人たちではなく、どんな新しいレールを引き直すべきなのか、どちらの方向に進むべきなのかを根本から考えられる人たちです。そのためには、既存の仕事を習得させるだけの「手に職」型の大学教育には限界があります。

  今、求められているのは、幅広く、あらゆる学問を一通り学び、総合的に物事を考えるための教養です。アダム・スミスは、倫理学、道徳学、経済学、法学の4つを学んだからこそ、経済学の基礎を形づくることができました。

 ■発想の転換が必要

  「経済成長」至上主義から抜け出せない人たちは、私の主張を「後ろ向き」だと言いますが、歴史の歯車が逆回転した今、これまでの基準で「後ろ向き」の人が「前向き」になるのです。経済も成長を追求することで、後退する「逆説」の時代に突入しています。今まで見たことのない時代がやってくるわけですから、今あるものが「無限」に続くという発想から、転換しなくてはならないのです。

 

みずの・かずお 1953年生まれ。元三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミスト。博士(経済学)。現在は法政大学教授。「資本主義の終焉と歴史の危機」(集英社新書)など著書多数。


      

 それぞれの課題については共感できるところもあるのですが、肝心なところがぼけている。

 今日、ようやくカッコーがすぐ近くで鳴きました。さぁ、植えつけ時期の到来です。
1日からまたしばらく☂のようで、こりゃ忙しくなりそう。
キューリがよろしいようで…まぁだだよ!
これも古来品種「夏すずみ」「黒サンゴ」なんて問題になりません。

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里山資本主義(角川oneテーマ21)

2013年08月31日 | 本と雑誌

著者、藻谷浩介  NHK広島取材班による事例紹介。

世界を圧巻しているマネー資本主義に抗して、人間として生きる、真に豊かな生活とは何かを提唱する。

3.11以降、これまで我々が享受してきた大量生産、大量消費、大量のゴミ社会への懐疑がより一層強くなった。何が幸せなのか、何が豊かさなのか。あれからまだ2年半、アベノミクスが覆いかぶさっている。またもや経済最優先へと押し戻そうとしている。低賃金、長時間労働、不安定雇用、ブラック企業の横行、心も体も家族も地域も壊されていく。

このマネー資本主義の対にあたるのが里山資本主義である。それは物々交換であり、手間返しである。人と人とがお金を介せずに繋がっている。原価0円からの経済再生、コミュニティー復活を果たす現象」である。使われていなかった山林や空き地、空き家、そして手付かずの自然ではなく、適度に人間の手が加えられた里山、これらへの新たな「価値」を見出す人々が日本国内のみならず、世界の人々に広がりつつある。森林を手入れすることで木材を生産し、間伐材で安定的な燃料を得る。地域の農家から原料を高く購入し、付加価値をつけて売ることで共存共栄を図る。食糧、エネルギー、コミュニティー、そしてお金を自らの地域に再生することができる。

時代の曲がり角に差し掛かっているのではないか?拝金主義から里山資本主義へ。

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つるかめ、カタツムリ。

2013年02月20日 | 本と雑誌

『つるかめ助産院』というTVドラマだある。以前NHKで放映されていたが、仕事の都合で見ることができずにいた。今回BSで再放送されたので見ることができたが、ドラマが終わって、字幕が出ると、作者が小川糸さんであることに気がついた。どうりで!
 かって、『食堂カタツムリ』という本を読んだ。(近年映画化もされたが残念ながら見ていない)主人公、倫子は恋人と家財道具を失くし、声を失ってしまう。どん底の状態で、10年間一度も帰らなかった故郷へ戻り、物置小屋を改修して『食堂カタツムリ』を立ち上げる。そこは音楽もない世界。1日一組のお客様を迎える。メニューはお客さんが来てから決める。この人には、こんなものを食べさせてあげたい、と思う料理を出す。その味に、幸せになり、希望がわいてくる。人生はよい方向へ向かう。美味しいものを食べると幸せな気持ちになる。食べてくれる人のことを考えながら作る料理。好きな人と食べる。知らない人とワイワイガヤガヤと食べる。「食べる」ことの意味を問いかける。
 この2編に共通しているのは、主人公の母親に対する確執、そして「生命」、「食」。
食事って、やっぱり生きるってこと、そのものなのです。

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