『ドキュメント 豪雨災害 そのとき人は何を見るか』
稲泉連著、岩波書店(岩波新書)、2014年
このところ、自然がわれわれに見せる相貌がひどく暴力的になってきていると感じることが増えました。
とりわけそれを感じるのが、各地で頻発するようになった局地的な激しい豪雨です。この夏は西日本を中心に、浸水や土砂崩れを伴う豪雨があちこちで発生しました。直近では、広島市に降った大雨が同時多発的な土砂崩れを生じさせ、70名以上もの命が奪われてしまいました。
そんな近年の豪雨災害で特に甚大な被害を受けたのが、東日本大震災と同じ2011年に発生した紀伊半島豪雨です。豪雨による災害から、ちょうど3年目となります。
ゆっくりと進んでいた台風12号の影響で、9月1日から4日間にわたって長時間降り続いた雨により、三重、奈良、和歌山の3県を中心に98名もの死者・行方不明者を出す大災害が引き起こされたのでした。
中でもかなり大きかったのが土砂崩れの被害です。紀伊半島全域で3000以上も発生した土砂崩れにより、観測史上最大の約1億立方メートル(東京ドーム80杯分)の土砂がほぼ一晩で崩壊。土砂で川の流れが堰き止められてできた「堰止湖」も5ヶ所に上ります。
こうした甚大な被害があったにもかかわらず、同じ年の東日本大震災の陰に隠れて忘れられている紀伊半島豪雨を記録に残すべく、ノンフィクション作家の稲泉連さんが紀伊半島の現場を歩いて書き上げたのが、この『ドキュメント 豪雨災害』です。
大量の雨水をスポンジのように吸い込んだ山が、奥深い地盤ごと一気に崩れる「深層崩壊」が各所で発生する被害を受けたのが、奈良県の中山間地域である十津川村です。先に触れた「堰止湖」も十津川村周辺に集中しています。Google Earthの画像で十津川村周辺を見ると、各所で発生した深層崩壊の規模がいかに大きかったかがよくわかり、慄然とさせられるものがあります。
崩壊した大量の土砂は川に流れ込み、その流れを変えました。ある集落では、大雨で増水した川に流れ込んだ土砂により押し出された川の水が「段波」となり、対岸にあった住宅を飲み込みました。そこで何があったのか、十津川村の村長が語ります。
「お宮さんの前から掘り出されるように助けられたお子さんに、後から担任の先生がこんな話を聞いたそうなんです。段波が来たのは彼らがちょうど食事をしておったときで、何か家がぐるぐるとまわって、その間に水が入ってきた、と。水に押されて、空中に飛び上がったようなんですね。その水でお父さんが流された、とその子は言うた。担任の先生はそう語る子を抑えて『わかった、もう言わなくていい』とそれ以上は聞かなかったそうです。そんな悲惨な、地獄のようなことが実際にあったんです」
中山間地域ゆえ、逃げ場も限られた中で人びとに襲いかかった土砂災害の恐ろしさ。それがイヤというほど伝わってきました。
紀伊半島豪雨で特に人的被害が多かったのが、和歌山県の那智勝浦町の二つの地区でした。ここでは町長の妻と娘を含めた23人が亡くなっています。あたりが夜の闇に包まれた中で、増水した川は集落に押し寄せ、家や車、そして人を容赦なく流していったのです。
特に被害がひどかった「那智谷」とよばれる地域では水害の規模があまりに大きく、外部から救援に入った自衛隊が住民たちの情報を得ることにも困難をきたしました。初動部隊として現地入りした隊員の証言です。
「捜索活動というものは、行方不明者の方がもといた場所が分からないと、ただやみくもに探すだけになってしまいます。しかし、那智谷では避難指示の遅れで、避難所にはほとんど人がいなかったんです。
発災当初には一軒一軒の家を全て回る時間も人員もありません。よって、行方不明者の捜索は本来であれば自治体が避難所に人を出し、名簿を作成することで特定するしかない。つまり避難所に人が来ないということは、行方不明者が特定できないことを意味するんですね。(後略)」
那智勝浦の町長は家族を失うという悲しみを押し殺して災害対応にあたりました。にもかかわらず、町役場と現場の住民側との連携は終始上手くいっていなかったといいます。しかしそれは、ひとり那智勝浦町に限ったことではなく、滅多にない大規模災害に直面したどこの自治体でもあり得る共通の課題であることを、著者の稲泉さんは指摘します。
そんな混乱の中、地域の区長が自宅前に急ごしらえで設けた、机一つの「対策本部」のもとで、地域住民や外から来たボランティアがまとまって災害対応にあたることができた•••という話には、多くの教訓があるように思いました。
本書では十津川村と那智勝浦町での災害の教訓を受けて、首都東京における豪雨水害への警鐘を鳴らします。
ここでは、戦後の東京においてもっとも大きな被害となるも、住民同士が助け合うことで乗り切ったという、1947(昭和22)年のカスリーン台風のことが、当時の資料や証言によって再現されます。
しかし、その後の高度経済成長期における都市化の進展でゼロメートル地帯や地下空間が広がり、大都市における水害のリスクはより一層高まっています。その上、長らく大きな災害を経験していない住民側の意識も変わってしまっているという中で、いかに減災への対策を打っていくべきなのか。これもまた東京にとどまらず、全国各地の都市圏に共通した課題なのではないでしょうか。
本書は、十津川村と那智勝浦町の人たちが、未曾有の豪雨災害から少しずつ、力を合わせて立ち上がろうとしていることも、しっかりと伝えています。
十津川村では、今から100年以上前の1889(明治22)年にも、大きな豪雨災害の経験がありました。ゆっくりと進む台風によってもたらされた豪雨により各所で土砂崩壊が発生したという、3年前とほとんど同じ形の災害により168人が亡くなった上、2600人もの村民が北海道への移住を余儀なくされるという壊滅的な被害でした。
しかし、北海道で「新十津川村」を築いた人たちは、厳しい自然環境に屈することなく、米づくりで有名になるような町を作り上げました。そして十津川村に残った人たちもまた、災害から立ち上がって復興を遂げてきたのでした。
そんな村の歴史を踏まえながら語った、十津川村の村長の言葉に深い感銘を受けました。少し長くなりますが、ぜひ引用させていただきたいと思います。
「私は台風12号で村が孤立する中で、そうしてこれまで営々とつながってきた十津川の文化、十津川人の魂を守らなければならないと強く感じました。山に入って木を切れば飯が食えた時代は終わり、山を捨ててネクタイを締めて会社に行く生活をする時代になったけれど、そのなかで失われた大切な何かが、この村の歴史の中にはある。
だからこそ、この村を俺は復興させなければならない、というのが後の私の思いでした。この村のような場所、この村で培われた精神に誇りをもって、再興に向かって努力をする。それは日本の様々な場所で自然災害が起こり、試練を与えられているいま、とても意味のあることだと信じるからです」
大きな自然の猛威にさらされながらも、自分の住む場所に誇りを持ち、力を合わせて立ち上がろうとする不屈の精神。それが、本書から一番学ばなければいけないことなのかもしれないな、と思いました。
これからは全国のどこにいても、豪雨をはじめとする自然災害と無縁ではいられないであろう日本という国。そこで生きていく上で忘れてはいけない、語り継がれるべき悲劇の記憶と教訓を伝えてくれる一冊です。