読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【第29回宮崎映画祭&閑古堂の映画千本ノック11・12本目】『鴛鴦歌合戦』『幕末太陽傳』 日活が生んだ不朽の傑作喜劇映画2本を堪能

2023-11-19 19:00:00 | 映画のお噂
『ゴジラ−1.0』の紹介と感想を綴ったりしていて後先になってしまいましたが、第29回宮崎映画祭で観た作品のご紹介の続きであります。

第29回宮崎映画祭の初日であった11月3日、3時間超におよぶ『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』に続いて観たのは、往年の日活映画2作品でした。
いずれも、日本映画史上の傑作として高く評価され、語り草になっている作品でありますが、恥ずかしながらわたしは今回が初の鑑賞であり、これほどの傑作をいままでキチンと観ることなく馬齢を重ねるばかりだったオノレの不明を、深く深く恥じることとなりました。

『鴛鴦(おしどり)歌合戦』(1939年 日本)
モノクロ、70分
監督:マキノ正博(雅弘、雅裕)
脚本:マキノ正博(「江戸川浩二」名義)
撮影:宮川一夫
音楽:大久保徳二郎
出演:片岡千恵蔵、市川春代、志村喬、香川良介、服部富子、遠山満、深水藤子、ディック・ミネ
※2023年11月3日、第29回宮崎映画祭の上映作品として、宮崎キネマ館にて鑑賞

堅苦しい宮勤めはごめんだ、と長屋でのんびりと暮らしている浪人・浅井禮三郎(片岡千恵蔵)。その隣には、傘張りで得たお金で怪しげな骨董品を買っては悦にいっている志村狂斎(志村喬)と、それに困り果てている娘のお春(市川春代)が暮らしている。お春は浅井に想いを寄せているのだが、商人の香川屋(香川良介)の娘・お富(服部富子)も浅井に惚れこんでいる上、武士の遠山(遠山満)が娘の藤尾(深水藤子)と浅井を結婚させようとしたりしていて、お春は気が気ではない。そんな中、ひょんなことから志村の骨董好きを知った殿様・峯澤丹波守(ディック・ミネ)が志村の長屋を訪れ、お春に一目惚れしてしまう・・・。

江戸時代を舞台にした時代劇でありながら、登場人物が全篇にわたってジャズのメロディに乗って歌って踊るという、奇想天外なオペレッタ、ミュージカル映画の傑作であります。
冒頭から、お富(演じるのは、当時テイチクレコードに所属していた歌手の服部富子さん)と若者たちとが歌いながら掛け合いを演じ、続いて大歌手ディック・ミネさんが演じる殿様と家来が歌いながら登場。そして、主人公をめぐる恋の鞘当てが笑いとともに展開され、映画の最後には登場人物が勢揃いして歌い踊る「カーテンコール」で幕・・・。そんな斬新な構成は、今の眼で見てもまったく古さを感じさせませんでした。映画全体のトーンもきわめて明るく、観終わる頃には幸福感でいっぱいとなりました。
1939(昭和14)年といえば、2年前に始まった日中戦争に続き、2年後には太平洋戦争も始まろうという時期。そんな暗くて窮屈な時代に、よくもまあこのようなモダンで明るく楽しい、幸福感に溢れている映画がつくられたものだと、ただただ驚かされるばかりでした。

主人公の浪人・浅井を演じるのが、時代劇から現代劇まで多数の作品に出演して人気を得た大スター・片岡千恵蔵さん。とはいえ、撮影当時は急病により休養していたそうで、出番は意外に少なめ。
そのかわり、『生きる』(1952年)や『七人の侍』(1954年)などの黒澤明作品をはじめ、『ゴジラ』第1作(1954年)などで知られる名優・志村喬さんが、大いに存在感を発揮しております。この志村さんの歌がもう上手いのなんの。伸びやかな声で朗々と歌う、志村さんの歌声の素晴らしさにも、大いに驚かされました。志村さん演じる狂斎の娘・お春役の市川春代さんの可憐さも最高でしたねえ。
これからまた、何度でも観直したくなる映画の一本となった作品であります。



『幕末太陽傳』(1957年 日本)
モノクロ、110分
監督:川島雄三
製作:山本武
脚本:田中啓一、川島雄三、今村昌平
撮影:高村倉太郎
音楽:黛敏郎
出演:フランキー堺、左幸子、南田洋子、石原裕次郎、芦川いづみ、梅野泰靖、金子信雄、山岡久乃、小沢昭一、岡田真澄、二谷英明、小林旭
※2023年11月3日、第29回宮崎映画祭の上映作品として、宮崎キネマ館にて鑑賞

時は幕末の品川。妓楼「相模屋」に仲間とともにやって来た佐平次(フランキー堺)は、芸者を呼び込み盛大にどんちゃん騒ぎを繰り広げるが、支払いの段になって金がないなどと言い出し、そのまま「相模屋」の“居残り”として、さまざまな雑用や難題を要領良くこなしていく。一方、同じ「相模屋」に身分を伏せて長逗留していた長州藩士・高杉晋作(石原裕次郎)は、同志とともに英国公使館の焼き討ちを計画していた。ひょんなことから高杉らの計画を知った佐平次は・・・。

古典落語の「居残り佐平次」や「品川心中」などをベースにした、楽しくもどこかシニカルな視点が光る喜劇映画の傑作です。2011年、日活100周年を記念して東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)との共同により製作された、デジタル修復版での上映でありました。
独特の作風による喜劇映画に才能を発揮し、45歳という若さで早逝した川島雄三監督の代表作にして、日本映画史上のベスト作品として挙げられることも多い名作にもかかわらず、わたしはこの宮崎映画祭で鑑賞するまで、まだキチンと観ておりませんでした(ああ、オレはなんと映画を観ていないことか・・・)。のちに大監督となる今村昌平さんも、共同脚本と助監督として参加しております。

なによりキャスト陣が秀逸です。“居残り”として要領良く振る舞いながら、実は重い肺病持ちという主人公・佐平次を演じたフランキー堺さんは、もうこの人以外考えられないというくらいのハマりっぷりで、大いに楽しませてくれました。肺病によってどこか死の影を漂わせながらも、それを吹き飛ばすかのように知恵と度胸でしたたかに立ち回り、最後には「地獄も極楽もあるもんか!」などと言いつつ突っ走っていく佐平次の姿は、新型コロナにただただ怯え、生きるエネルギーや活力を衰弱させるばかりだった、臆病で偽善的な令和ニッポン人へのアンチテーゼのように個人的には感じられて、実に痛快でありました。
攘夷の志士・高杉晋作に扮しているのが、若き日の石原裕次郎さん。当時すでに大スターでありながら、本作では脇に回った感のある裕次郎さんですが(そのこともあって、川島監督と製作会社の日活との間で軋轢が生じ、川島監督は日活を離れることになるのですが・・・)、颯爽としたカッコよさはさすがなのであります。
そして、わたしが大好きな役者さんである小沢昭一さん!本作では、左幸子さん扮する落ち目の女郎・おそめに心中を持ちかけられ、さんざんな目に遭ってしまう(いうまでもなく、落語「品川心中」から採られたエピソードです)お人好しの貸本屋・金蔵を、あざといまでのアバタだらけのメイクで快演していて、大笑いさせてくれました。こちらもまた、小沢さん以外には考えられないほどのハマりっぷりであります。そんな金蔵を翻弄するおそめと、南田洋子さん扮する売れっ子の遊女・こはるが、妓楼中を駆け回りながら取っ組み合いの大ゲンカを演じる場面も見ものでした。
『幕末太陽傳』もまた、これから何度でも観直したいと思える一本となりました。

【閑古堂の映画千本ノック】15本目『ゴジラ−1.0』 シリーズ第1作『ゴジラ』や前作『シン・ゴジラ』にも匹敵する傑作

2023-11-14 07:00:00 | 映画のお噂

『ゴジラ−1.0(マイナスワン)』(2023年 日本)
監督・脚本・VFX:山崎貴
製作:市川南
エグゼクティブプロデューサー:臼井央、阿部秀司
企画・プロヂュース:山田兼司、岸田一晃
撮影:柴崎幸三
音楽:佐藤直紀、伊福部昭
出演者:神木隆之介、浜辺美波、山田裕貴、青木崇高、吉岡秀隆、安藤サクラ、佐々木蔵之介
2023年11月11日、ワンダーアティックシネマ宮崎にて鑑賞


日本の敗色が濃厚となっていた太平洋戦争末期。大戸島の守備隊基地に、特攻作戦に従事していた敷島浩一少尉(神木隆之介)が操縦する零戦が着陸してくる。機体の不調を訴える敷島であったが、機体を調べても不具合が見当たらないことに、ベテラン整備兵の橘宗作(青木崇高)は不審を抱く。その夜、高さ15メートルに及ぶ恐竜のような生物が基地を襲う。島の言い伝えで「呉爾羅」(ゴジラ)と呼ばれていたその生物の襲撃により基地は破壊され、敷島と橘以外の整備兵たちは全滅してしまう。終戦後、辛くも生き残り、空襲で焦土と化した東京に帰ってきた敷島は、闇市で出会った大石典子(浜辺美波)と、彼女が抱えていた赤ん坊の明子とともに共同生活を始める。やがて、日米双方によって海上に敷設された機雷除去の職を得て、安定した生活を送ることができるようになった敷島たちだったが、米国によるビキニ環礁の核実験によって、さらに強大となったゴジラが東京を襲撃。戦争によってゼロからの再出発を余儀なくされた日本は、ゴジラの脅威によってさらに「マイナス」の状況へと追い込まれるのであった・・・。

シリーズ第1作『ゴジラ』(1954年)から70周年の記念作として、そして前作『シン・ゴジラ』(2016年)から7年ぶりとなるシリーズ第30作目として製作された『ゴジラ−1.0』。第1作目の公開日でもある11月3日の封切りからおよそ1週間後の11月11日、ワクワクしながら鑑賞に臨みました。期待していた以上の面白さと出来の良さで、興奮と感慨とで満たされた気分となり、劇場をあとにすることができました。
監督と脚本、そしてVFX(視覚効果)を兼任しているのは、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ(2005〜2012年)や『永遠の0』(2013年)、『STAND BY ME ドラえもん』シリーズ(共同監督、2014〜2020年)などといったヒット作を手がけてきた山崎貴監督。もともと特撮・VFXスタッフとしてキャリアをスタートさせ、監督デビュー作である『ジュブナイル』(2000年。わたしのお気に入りの作品でもあります)以降、一貫して監督や脚本とともにVFXの制作を兼任するスタイルにより、映画作りを続けている方です。
山崎監督はこれまで、『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007年)の冒頭でゴジラを“復活”させているほか、西武園ゆうえんちのアトラクション『ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦』での映像を手がけるといった実績がありました。その上、今回は第1作目(昭和20年代の末期)よりも前の時代となる敗戦直後が舞台ということもあり、一体どのような作品になっているのかと興味津々でありました。
近代兵器はもちろん自衛隊すら存在せず、武装を放棄した空白状態の日本に、もしもゴジラというとてつもない災厄が襲いかかったら・・・。山崎監督は、当時の時代状況と「ゴジラ」というファンタスティックな存在とをうまく結びつけ、そこに主人公である敷島と典子をめぐるドラマをしっかりと組み合わせることで、本作を実に見応えのあるゴジラ映画にしています。
ゴジラ生誕70周年記念というメモリアル作品にして、大ヒットした『シン・ゴジラ』のあとを受けてということもあり、山崎監督には相当なプレッシャーもあったことでしょうが、そういう中で本当によくやってくれたと、大きな拍手を贈りたい思いです。

今年4月から9月まで放映されていた、NHK連続テレビ小説『らんまん』でも共演していた
(といっても、出演のオファーと撮影は本作のほうが先だったそうですが)、主演の神木隆之介さんと浜辺美波さんの好演が光ります。とりわけ神木さんは、特攻から生き残ったことに負い目を感じ、生きることに実感を持てずにいた敷島の人物像を、しっかりと演じきっていたように思いました。その敷島とは因縁の存在となる、整備兵の橘を演じる青木崇高さんや、悪態をつきながらも敷島たちに手を差し伸べる江戸っ子気質の女性・澄子を演じる安藤サクラさんも、ドラマを引き締めてくれています。
全体としてシリアスなドラマの中で、掃海艇の艇長である秋津を演じる佐々木蔵之介さんは、巧みな芝居でユーモアとテンポを作品に与えていて、楽しませてくれました。同じく掃海艇の乗組員で、かつては技術士官だった(そして、後半の展開において大きなカギを握ることになる人物でもある)野田役・吉岡秀隆さんの飄々とした存在感も、いいですねえ。
そして、真の主役たるゴジラは、前作『シン・ゴジラ』に続きフルCGによって表現されています。これまでのゴジラらしさを踏まえたデザインでありながら、傷ついた細胞を瞬時に再生させたり、放射能火炎を吐くときに背びれが青く光りながら突き出してきたりといった、新たな生態を見せてくれます。その一方で、走行している列車を口で咥え込んだり、銀座の破壊をレポートしているラジオ放送のクルーが破壊に巻きこまれてしまったりといった、第1作目へのオマージュ的シーンを演じたりもしていて、思わずニンマリしてしまいました。

音楽の佐藤直紀さんや撮影の柴崎幸三さん、美術の上條安里さん、照明の上田なりゆきさん、エグゼクティブプロデューサーの阿部秀司さんといったメインスタッフの面々は、これまでずっと山崎作品に関わってきている常連の方々。中でも音楽の佐藤さんは、あえて感情過多なメロディを排し、無機質な中に恐怖感や荘厳さを醸し出す劇伴でドラマを盛り上げてくれます。
そしてゴジラ映画に欠かすことのできない、あの伊福部昭さん作曲のゴジラのテーマ曲も、しっかり使われております。とりわけ、ゴジラが銀座一帯を破壊する場面にこのテーマ曲が流れたときには、完成度の高いVFX映像の迫力と相まって、この上ない高揚感をもたらしてくれました。

映像の迫力もさることながら、本作の基調をなすドラマがまた、実に魅力的でありました。
「お国のため」に死ぬことが当然のように言われ続けた戦争によって心身ともに傷つき、多くのものを失ってしまった上に、ゴジラという人智をはるかに超えた存在により、極めて絶望的な状況へと追い込まれてしまった敗戦直後の人びとが、生きる希望を未来へと繋ぐために、力を合わせて立ち向かっていく・・・そんな後半の展開には、胸が熱くなりっぱなしでありました。
そんな本作のドラマには、情報統制によって煽り立てることで国民の自由な精神と生きる希望を奪い、「特攻」に象徴される、勝ち目などまるでない無謀な「死ぬための戦い」へと否応なしに駆り立て、多大なる犠牲と被害を出すこととなった、戦時中の(そして、今もなお本質的には変わっていない)日本という国のありかたへの批判的視点が含まれている(それは佐々木さん演じる秋津や、吉岡さん演じる野田のセリフに顕著に表れています)ことを見逃すべきではありません。それによって本作は、観るものに深い余韻を残してくれる作品にもなっています。

上質な空想特撮エンターテインメントと、現実の社会や時代に対する鋭い批評精神を両立させた第1作目の『ゴジラ』と、前作『シン・ゴジラ』にも匹敵するくらいの、シリーズ屈指の傑作に仕上がった『ゴジラ−1.0』、必見であります。

【第29回宮崎映画祭&閑古堂の映画千本ノック10本目】『ジャンヌ・ディエルマン・・・』 「平凡」に見える日常にこそ、危うさは潜んでいる

2023-11-04 07:05:00 | 映画のお噂
第29回目となる宮崎映画祭が、11月3日(金曜)から9日(木曜)までの日程で、宮崎市の宮崎キネマ館にて開幕いたしました。

今年1月に開催された第28回に続き、2023年2回目の開催という変則的なパターンとなりましたが、これは本来2022年に開催されるはずだった前回が、今年はじめにずれ込んだため、との由。なんにせよ、ふだんなかなか観ることのないタイプの作品に接することができる貴重な場ということで、今回も可能な範囲で足を運ぶことにいたしました。
今回は、若手の新鋭である松居大悟監督(ゲストとしても登壇)の特集や、往年の日活映画の特集をメインに10作品+αが上映されます。以下、そのラインナップを。

『私たちのハァハァ』(松居大悟監督、2015年)
『ちょっと思い出しただけ』(松居大悟監督、2022年)
『杉咲花の撮休』(松居大悟監督、2022年、テレビ作品)
「松居大悟MVセレクション」(松居大悟監督が手がけたミュージック・ビデオ5本を取り上げた、エフエム宮崎とのコラボによる特別プログラム。11月5日のみ)
『ナイト・オン・ザ・プラネット』(ジム・ジャームッシュ監督、1992年)
『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博監督、1939年)
『幕末太陽傳』(川島雄三監督、1957年)
『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』(鈴木清順監督、1963年)
『関東無宿』(鈴木清順監督、1963年)
『東京流れ者』(鈴木清順監督、1966年)
『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(シャンタル・アケルマン監督、1975年)

映画祭初日の11月3日、最初の上映作品としてプログラムされていたのが、今回取り上げる『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』であります。ちなみに今回の映画祭のキービジュアルも、本作の一場面から採られております。

『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles(1975年 ベルギー・フランス)
カラー、202分
監督:シャンタル・アケルマン
製作:イヴリン・ポール、コリーヌ・ジェナール
脚本:シャンタル・アケルマン
撮影:バベット・マンゴルト
出演:デルフィーヌ・セイリグ、ヤン・デコルテ、アンリ・ストルク、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ
2023年11月3日、第29回宮崎映画祭の上映作品として宮崎キネマ館にて鑑賞

ベルギー、ブリュッセルにあるアパートメントに、まだ10代の息子と二人で暮らしている未亡人、ジャンヌ・ディエルマン(デルフィーヌ・セイリグ)。学校に通う息子を見送ったあと、洗濯や掃除、料理、子守り、買い物といった家事を淡々とこなしつつ、生活の足しとして客をとっては売春をしていた。平凡なルーティン・ワークが反復されるだけに思えたジャンヌの生活だったが、ふとしたことの積み重ねにより、その歯車は少しずつ狂っていく。そして、最後には悲劇的な事態を引き起こしてしまうことに・・・。

ベルギーの女性監督シャンタル・アケルマンの代表作とされる本作品。タイトルも長ければ、3時間20分にも及ぶ上映時間もまた長い大作ですが、その存在は一部の映画ファンに知られているだけでした。
2022年、英国映画協会(BFI)が選出する「史上最高の映画」という映画ランキングにおいて、『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1958年)や『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ監督、1941年)、『東京物語』(小津安二郎監督、1953年)といった錚々たる作品を抑え、堂々1位に挙げられたことで注目されることに。日本においても、昨年と今年に開催された「シャンタル・アケルマン映画祭」の中で上映されたことで、多くの人に知られるところとなりました。

この映画を観ることは、個人的には2023年で最大のチャレンジ(大げさ?)になると感じておりました。
わたしが映画を観る上で参考にしている『死ぬまでに観たい映画1001本』(スティーヴン・ジェイ・シュナイダー総編集、ネコ・パブリッシング刊)という本の中に、この映画も取り上げられているのですが、その紹介文は「1970年代のヨーロッパ映画でもっとも重要な作品のひとつであり、フェミニズム映画を代表する1本」と書き出されたあと、このようにも評されているのです。
「観る側に大きな労力を要求するのは間違いない」
「3時間にわたって人間疎外を描写するにあたり、アケルマンがとった几帳面なアプローチには、非常に我慢強い観客でない限り、降参するに違いない」
「本作品はアケルマン作品の中で、恐らくもっとも冷たくて難解」
こういうふうに言われた日には、そりゃ生半可な気持ちで観るワケにはいかないではありませんか。わたしは前日の夜には早めに寝て、体調をベストの状態に整えた上で、映画祭初日の最初に組まれていた、この作品の上映に臨んだのであります。

主人公である未亡人、ジャンヌの3日間に及ぶ行動を、まるで定点観測するかのように固定されたアングルから捉え続けた映像。セリフは極度に抑えられ、劇伴音楽もまったくない静かな時間が延々と流れる3時間20分・・・。なるほど、これはたしかに観ていて大きな労力を要しましたが、にもかかわらず脱落することもなく、最後まで観続けることができました。本作は「フェミニズム映画」の傑作としてもつとに知られているようですが、そういった括りをことさら意識せずとも興味深く観ることができる作品で、これは観ておいて正解でありました。
実はわたくし、本作の最後に訪れる悲劇的な結末については、観る前から知ってはおりました。先に挙げた本の紹介文の中で、結末がしっかりとバラされていたもので・・・。ですが、むしろそれゆえに、そのような結末を迎えるまでのプロセスを見届けておきたいという思いが、この型破りな作品を最後まで観続ける原動力になってくれたように思います。
本作の、一見すると「平凡」にも見える日常の反復の執拗なまでの描写からは、その背後にあるとてつもないほどの倦怠感や空虚感がじわじわと伝わってきます。それは恐らく、この映画が描く3日間の前から少しずつ少しずつ、ジャンヌの中に蓄積してきていたのでしょう。それは、日常をかき乱すふとしたきっかけ(ジャガイモを焦がしてしまったり、大切にしていた服のボタンがなくなってしまったり・・・)によって暴発する、危うさを孕んだものであるということを、本作の悲劇的な結末は突きつけてきます。
特別で異常な状況だけが危ういわけではない、むしろごく「平凡」に見える日常にこそ、危うさは潜んでいるのではないのか・・・本作を観終わって、そんなことをひしひしと感じました。

主人公ジャンヌを演じているのは、ルイス・ブニュエル監督の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)などに出演したベテラン女優、デルフィーヌ・セイリグ。生活の歯車が狂っていく中で、ジャンヌが徐々にバランスを崩していく細かな芝居(髪型が乱れたり、動作が雑になっていったり)の積み重ねは、作品に強い説得力を与えていました。
そのセイリグの確かな演技を引き出したアケルマン監督は、本作の撮影当時はまだ20代半ばだったそうで、その若さでよくぞ、こういう凄い映画を完成させたものだと驚かされます。
何度も観るのは大変でしょうが、一度は観ておく価値のある映画だと思いました。