読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【読了本】『復興グルメ旅』 舌と胃袋でつなぐ、東北への思い

2015-01-25 20:27:03 | 美味しいお酒と食べもの、そして食文化本のお噂

『復興グルメ旅』
復興グルメ旅取材班著、日経BP社、2013年


人間の根源的な欲求でもある飲食の持つ力というのは、実に大きなものがあるとつくづく思います。
どんなに辛い境遇に置かれているときであっても、人は美味しいものを食べたり飲んだりすることで元気を取り戻すことができますし、美味しく食べて飲んでくれる人の存在は、それを提供する側にも、大いに喜びをもたらしてくれるのですから。同じことは、東日本大震災で被災した地域においても言えることではないでしょうか。
本書『復興グルメ旅』は、震災によって大きなダメージを蒙りながらも、そこから立ち上がって美味しい料理を提供し続けている、宮城、岩手、福島3県の15地域(宮城県の石巻、気仙沼、南三陸、女川、松島、塩竈。岩手県の陸前高田、大船渡、釜石、大槌、宮古、一関。福島県の福島、郡山、会津)の飲食店50店舗を、それぞれのお店の看板メニューの写真とともに紹介した一冊です。

石巻市の「割烹 滝川」で人気なのが「とり釜飯膳」。大正3年の創業時から継ぎ足されつつ使われ、震災からも奇跡的に守られた伝統のタレが豊かな味わいの秘密とか。具もたっぷり入っているようで食欲がそそられます。
魚の町である南三陸町「季節料理 志のや」の名物「穴子天丼」は、穴子が一匹まるごと、丼からはみ出しながら鎮座しているというものすごさ。穴子といえば、南三陸町から南に少し下った女川町の「活魚 ニューこのり」の「活穴子天丼」も、一匹まるごとの穴子が3つに切り分けられて盛られているというボリュームっぷりです(切り分けられているとはいえ、丼からズン!とはみ出している部位があったりもするのですが)。
女性がのんびりとしゃべってくつろげるお店を、と7年前にオープンした陸前高田市の「クローバー」の一番人気は、メインのオムライスにハンバーグ、から揚げ、エビフライとの組み合わせを選べるという「選べるオムライスSET」。オムライスにかかったデミグラスソースの色がいい感じです。最初はまかないとして作られたという、大船渡市「百樹屋」のカレー南蛮は、秘伝の醤油だれが入ったピリッと辛い本格派だそうで、カレー好きとしては一度味わってみたいところです。
会津若松市の2大ソウルフードといえるソースかつ丼と会津ラーメンが食べられるのが、「會津めでたいや」。あっさりしたラーメンが主流だった中で、煮干しをベースに豚骨や地鶏などのだしも加えた濃厚なスープが売りの会津ラーメンは、こってりしたラーメンがメインの九州人にも美味しく頂けそうです。カツにたっぷりかかったソースの色が食欲をそそるソースかつ丼もまことに旨そうで、これはぜひとも両方食べてみたいですねえ。

酒好きには見逃せないお店も何ヶ所か紹介されています。気仙沼市の仮設横丁にある「大漁丸」は、名物のマグロ鍋をはじめとするマグロ料理が充実し、中には目玉のたたきなどの珍味も。気仙沼の地酒も幅広く揃えているという「左党にはたまらない一軒」だそうで、気になります。
名物駅弁「いちご弁当」の製造元でもある宮古市の炉端割烹「魚元」は、季節の地獲れ鮮魚はもちろんのこと、ドンコ(エゾエイナメ)の腹に甘味噌を詰めて豪快に焼いたオリジナル料理が絶品なんだとか。そして、その日の朝に締めた地鶏「伊達鶏」を提供する福島市の焼き鳥屋「鶏けん」には、福島には珍しい芋焼酎が30種類も揃っているそうで、これまた九州人には嬉しいお店のようですね。
•••と、いちいち挙げていけばキリがないくらい、気になるお店がいっぱい。看板メニューの写真も大いに食欲をそそってくれますし、食いしん坊にとってはたまらない一冊に仕上がっています。

震災により大きな被害を受け、試練に直面しながらも、そこから立ち上がった飲食店の方々。本書は、彼ら彼女らが営業再開、あるいは新規開業を決意するに至った思いにも触れていきます。
津波の被害を受けた店の様子に、一度は店を諦めながらも、「自分が無事で、頑張ろうとしていることを知ってもらうには、再開が一番だと」心を奮い立たせ、地区では最も早い再開を実現させた、石巻市の「串カツ ぼうず」。
「一度はあきらめた夢。何も今そんな冒険をしなくても、と妻にも反対された。でも、人間いつ死ぬかわからないと身をもって実感したから」と、高校生の頃から夢だった自分の店を作り上げたという、南三陸町の「創菜旬魚はしもと」。
「自分は被災者にはならない」と決意し、店を早く再開することが、地域の復興に対してできる最大の貢献、と被災からわずか32日目の再オープンに漕ぎ着けたという、宮古市の「富士乃屋」。
地震後、なんのためにやっているのかと疑問を持ったりする中、気仙沼からやってきた人に「時々来て慰められています」とお礼を言われ、「俺は今まで通り自分の仕事をやればいいのか、と」迷いが消えたという、一関市の「ジャズ喫茶 ベイシー」。
震災直後からやってきた多くのボランティアの人たちが食事できる場所を、とテント張りの食堂を運営するとともに、ボランティアと地元の子供たちが交流するツアーを企画しているという「おらが大槌復興食堂」の願いと目標は「魅力的な大槌町を作り上げ、子供たちが誇りを持って働ける町」にしていくこと•••。
それぞれのお店の方々の話からは、困難な状況にあっても自分のやるべきことで立ち上がっていこうとする気高さと、地元への強い想いが伝わってきて胸打たれるものがありました。津波で店と家、義母、そして最愛の妻を失いながらも、二人三脚で歩んできた妻の思いを受け継ぐかたちで店を再開させた、女川町の焼肉店「幸楽」のご主人のお話には、目頭が熱くなるのを抑えられませんでした。
また、福島市のイタリア料理店「トラットリア・ラ・ワサビ」に旬の食材を提供している地元生産者の方々の話を取り上げたコラムも、ぜひ目を通していただきたいところです。

20年前の阪神・淡路大震災を経験し、被災者のつらさを初めて知ったという、公益社団法人「助けあいジャパン」代表の佐藤尚之さんは、災害から時間が経つにつれて現地へ足を運ぶ人が減っていく中で、繰り返し「遊び」にきてくれる人のありがたさを感じたことを本書の前書きで述べ、こう続けます。

「遊びでいい。食べに行くだけでいい。『ごちそうさま!』となるべく大声で言って店を出る。そして笑顔でまわりを散歩する。それが現地の人をどれだけ勇気づけるか。それはきっとあなたの想像を大きく超えている。」

東日本大震災からもうすぐ4年となりますが、まだまだ「復興」からはほど遠い地域があるにもかかわらず、もう既に震災の記憶の風化が始まっているという、悲しい現実があります。
ですが、そんな中にあっても、味覚と胃袋が人を引きつける力には、やはり大きなものがあるように思います。東北の美味しいものを味わいに出かけ、東北のいいところとともに、今もなお抱えている現実を知ることで、東北への思いをつなげていく•••。そのことの大切さは、これからますます大きくなっていくのではないでしょうか。そのキッカケづくりとなる本書のような企画が、もっといろんな方面で出てきて欲しいなあ、と願います。
遠く離れたところに住んでいるゆえ、なかなか東北へ足を運ぶことができないでいるわたくしですが、いつの日か本書で取り上げられたお店のある場所を訪ねて、ゆっくりと過ごしてみたいなあ。

本書に使われている紙についても、ぜひ触れておきたいと思います。
本文に使用されているのは、津波の被害から半年での劇的な再生を果たした、石巻市にある日本製紙石巻工場で開発された「b7バルキー」です(石巻工場の再生劇を描いた佐々涼子さんのノンフィクション『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』の、拙ブログのご紹介記事はこちらです)。真っ白で色の再現性に優れた紙質の「b7バルキー」は、それぞれのお店の看板メニューの写真を、実に美味しそうに見せてくれていました。

別府・オトナの遠足2015 (第2回) 明礬温泉の展望露天風呂は極楽だった

2015-01-22 23:24:32 | 旅のお噂
別府旅2日目の1月11日。午前中、市の北部山側に位置する「明礬温泉」まで足を伸ばしました。
「別府八湯」と呼ばれているように、別府の温泉地は全部で8つのエリアに分かれていて、それぞれに異なる泉質の温泉と風景を楽しむことができます。わたくし、これまでにその半分を制覇(って、大ゲサな言い方ですが)いたしましたが、市の中心部から少し離れた山側の温泉地には、なかなか行くことができずにおりました。今回は2泊3日の余裕あるスケジュールということで、山側の温泉地にも足を伸ばしてみようと思ったのであります。

別府駅のバス乗り場から路線バスに揺られること30分。曲がりくねった道をしばし登っていった先に、明礬温泉はありました。

バス停に降りるとすぐに、あたり一面に漂う硫黄の匂いが鼻をくすぐりました。そして、ひんやりした空気の中に白く立ち昇る湯けむり。ああ、温泉地にやってきたんだなあ、という感慨がしみじみと湧いてまいりました。
明礬温泉にやってきてすぐ目につくのが、道路に沿って立ち並んでいる茅葺き小屋。これ、湯の花の製造小屋なのであります。

この地は江戸時代から明礬の産地として名高い場所だったそうで、明治時代以降は明礬の精製過程でできる湯の花がお土産ものとして人気を呼び、その製造技術は国の重要無形民俗文化財にも指定されております。明治から昭和戦前にかけての古い絵はがきを集めた本でも、まったく同じ形の茅葺き小屋が立ち並ぶ明礬の風景を見ることができます。今の明礬の風景も、その当時の面影をそこかしこに残しているように見えましたね。
さっそく温泉に浸かりたいところでしたが、宿泊先のホテルでは素泊まりということもあって、まだ朝食を食べておりませんでした。わたくし、バス停の真ん前にある「岡本屋売店」に立ち寄りました。
うどんやおにぎり、カレーなどの食事もとれるお店のようでしたが、ここの看板商品である「地獄蒸しプリン」を頂いてみました。カスタードとコーヒー味の2種があったので、その両方を注文いたしました。ええ、わたくし旅先では「スイーツ男子」に変貌するのでございまして•••。

カスタードのほうは、卵の美味しさがしっかり活きている少し固めの生地に、ちょっと苦味のあるカラメルがかかっておりました。そしてコーヒー味のほうは甘さを抑え、苦味の引き立つオトナの味わい。いやー、いずれもけっこういけたのでありまして、いいブランチ代わりになりました。

バス停から少しだけ歩いたところに「みょうばん湯の里」という観光施設がありました。施設内には展望露天風呂のほか、茅葺き湯の花製造小屋やレストラン、お土産屋さんなどが集まっております。
展望露天風呂がお目当てだったのですが、お風呂の開場する午前10時まで、まだしばらく時間がありました。わたくし、湯の花製造小屋を見学してみることにいたしました。


湯の花製造小屋は基本的に一般人の立ち入りは禁止されているのですが、施設内にある2つのみ、見学用として開放されておりました。本来は真っ白な湯の花なのですが、見学用の小屋の中でできていた湯の花は空気に当たってやや黄色がかっておりました。
そのあと、売店で売っていた温泉ゆで卵を頬張ったりなんぞして露天風呂の開場を待っておりましたが、冷たい風が吹いてくる高台はやはり寒うございました。わたくし、レストランに入って温泉蒸しプリンとコーヒーのセットで一服いたしました。•••ええ、またプリンを食べたのですが。

レストランの窓から眺める景色はなかなか良く、目の保養にもなったのでありました。

そうこうするうち、お待ちかねの露天風呂開場時間となりました。喜び勇んで軽くなった足取りで、施設本体よりもさらに高台にある露天風呂へ上がりました。
中に入ると小さめの内湯があり、そのすぐ向こうでは開放感溢れる露天風呂が、乳白色のお湯をたたえながら、なまめかしくユーワクしているではありませんか。うわ~、早くそのフトコロにザブンと飛び込みたい!•••でもちょっと寒いのよ、ぶるるる。
わたくし、まずは内湯でしばし暖まったあと、満を持して露天風呂へ突入いたしました。陽の光を浴びて水色となっている乳白色のお湯が、いかにも効きそうな感じであります。ザブンと飛び込みたいところでしたが先客がおられましたので•••チャプン。
「くう~~~、こりゃ気持ちよかわ~~!」わたくし、浸かると同時にに思わず声を上げてしまいました。熱くもなければぬるくもない、実にいい湯かげんのお湯は、心身の緊張を一気にほぐしてくれました。雲ひとつない青空の下で浸かる、いい湯かげんの露天風呂。これはほんと、余裕あるスケジュールを組んでやって来て良かった、と心底思いましたよ。
しばらく浸かってカラダが暖まると、湯から出て衝立越しに広がる絶景を眺めたりいたしました。•••下の写真はもちろん、中で撮ったわけではございませんが、露天風呂からもほぼこれと同じ眺めを楽しむことができたのであります。

わたくし、カラダが暖まると外の景色を楽しみ、カラダが冷えてくるとまた温泉に浸かり•••ということを繰り返しておりました。
何人かのお仲間と湯船に入ってきたお兄さんは、気持ち良さそうに瞼を閉じつつ「あ~~、もう出たくねえ~~」などと言っておりました。その気持ち、よ~くわかりました。これは掛け値なしの名湯、極楽でございましたよ。
わたくしもしばらくの間、「オレも出たくねえ~~」などとココロの中でつぶやきながら、湯の中にカラダを沈めていたのでありました•••。

露天風呂から上がって、再び路線バスに乗って別府の中心街へと戻りました。湯から上がったあともしばらくは、温泉のおかげでカラダはポカポカしておりました。
さあ、湯上がりのあとは冷た~い生ビールでありますよ。ということで、以前にも一度立ち寄ったことのある、別府駅からすぐ近くにある焼肉店「アリラン」で、生ビールとともに焼肉を満喫いたしました。柔らかな食感の黒毛和牛もさることながら、旨味たっぷりのとろけるような脂が絶品のホルモンが、生ビールをグイグイと進ませてくれました。

今では、別府の数多くの飲食店で出されている「別府冷麺」発祥のお店という「アリラン」。さっぱりした魚介系のスープを使った普通の冷麺も、生ビールと焼肉のシメにぴったりなのですが、今回は8段階の辛さが選べるというピビン冷麺を賞味いたしました。わたくしは2辛を選んだのですが、ちょうどいいピリ辛で食欲をそそられ、食べ始めたら箸が止まりませんでしたよ。おかげさまでもう、満腹でございました。


「アリラン」のすぐ前にある海門寺というお寺。そのそばに「腰掛けているように見える木」なる物件がございました。いやー、これは初めて気づきましたね。この物件、テレビ番組『ナニコレ珍百景』にも取り上げられたんだとか。木としては、もうだいぶん朽ちているように感じられましたが•••確かになんだか「腰掛けているように」見えますなあ。

その海門寺には1匹の街ネコがおりました。街ネコといいましても首輪をしていたので、近くで飼われているネコだったのかもしれません。

呼んでみると逃げることもなく、ソロリソロリと近寄ってきてくれました。わたくし、それをいいことにしばらくの間、撫でたり抱っこしたりいたしました。最初のうちはおとなしく相手してくれていたのですが、だんだん鬱陶しく思われでもしたのか、やがてわたくしから遠ざかってどこかへ行ってしまったのでありまして•••。うう。すまんのう。
街ネコに振られてしまった失意のわたくしは、海門寺のそばにあるその名も「海門寺温泉」という共同浴場に入りました。この日2度目の温泉であります。
ここは入浴料100円で入れる市営の共同浴場のひとつ。昔の銭湯を彷彿とさせるような、古い歴史を感じさせる建物が多い別府の共同浴場にあって、この海門寺温泉はバリアフリー対応の真新しい建物でありました。ですが、中に流れる空気はまさしく、古き良き銭湯そのものでしたねえ。
浴槽は「あつ湯」と「ぬる湯」に分かれており、まずは「ぬる湯」に浸かりました。•••くう~~、これも気持ち良かったですなあ。しばらくして隣の「あつ湯」に入ってみたら•••これはもうけっこうな熱さでありまして、1分かそこらで出て「ぬる湯」に移ったのでございました。ええ、軟弱者なもので•••。
地元の皆さんに混じって湯に浸かりながら、街ネコに振られた失意をじっくりと癒したわたくしなのでありました。


(次回につづく)

別府・オトナの遠足2015 (第1回) 別府の酒場での愉快な出会いに心もポカポカ

2015-01-18 20:29:51 | 旅のお噂
生ぬるい南国住まいの身ではありますが、この冬の寒さは例年よりも身に染みるように感じられますね。冬になる前には「この冬は暖冬になる」なんて言っていた向きもあったように記憶するのですが、アレは一体なんだったのでありましょうか。
まあ、「ナントカは風邪ひかない」とのコトバ通り、わたくしのほうは寒い日々にあっても割と元気に過ごさせてもらっておりますが、こういう時期だからこそ、じっくり温泉に浸かってカラダを温めたいところであります。さらに、美味しい食べものとお酒を頂いて、ココロもポカポカに温まりたいのであります。
というわけで、10日から12日にかけて「おんせん県」こと大分県の別府市に出かけてまいりました。これから何回かにわたって、その旅のご報告をしていくことにいたします。

といいましても、別府にはおととし、昨年にも出かけているのでありまして、それらのお噂を綴った当ブログの記事をお読みになってくださっている方からは「えー、また別府なのー?」という、いささかケーベツを含んだ声が聞こえてきそうであります。いやはや、恐縮なことでございます。
ですがね、イイワケするわけでもないのですが(いえ、やはりリッパなイイワケなのでありますが•••)、別府というところは一度その魅力にハマると二度、三度•••と何度でも訪ねたくなってくるような場所なのであります。
それに、これまでの別府行きは1泊2日という、いささか時間的な余裕に欠ける中での旅でありました。もちろん、それでもいい思い出をつくることはできたのですが、やはり別府に行くのであれば、もっと時間をかけてゆっくりと過ごしてみたい、という気持ちが強くなってもいたのです。
幸いなことに、この1月に2泊3日での旅ができるメドがつきました。わたくしは年末年始も出費を抑えて旅費を確保するべく、飲みに行くのもひたすら最小限にしながら過ごしたのでありまして•••いやー、ガマンいたしました。
ですが、ガマンしたぶんだけ、楽しさはより大きくなるというもの。もうひたすら、この時が来るのを心待ちにしていたのでありましたよ。

そして、1月10日。待ちわびていた出発の日がやってまいりました。この日は朝から快晴、絶好の旅日和でありました。
といいましても、この日の午前中はお仕事。まずはそちらをつつがなくこなしたあと、列車の中でいただく弁当と缶ビールをコンビニで買い込み、出発駅へと向かいました。
ウキウキした気分で列車の到着を待っていたわたくしでありましたが、目的の列車が到着するホームが線路を挟んだ向かい側であることに気づき、すんでのところでそちらのホームに移りました。やれやれ、危ないところでした。あまり浮わつき過ぎるのもいけませんなあ。
何はともあれ、目的の大分行き特急列車が時刻通りに到着、無事に乗り込み、出発することができました。ホッと一息ついたわたくしは缶ビールをプチンと開け、外の景色を眺めつつ弁当を食べ始めました。ああ、ついに旅が始まったんだなあ•••というヨロコビが、心身にじわじわと広がるひとときであります。

特急列車でも3時間半くらいはかかる宮崎市から別府市への道のりは、ちょっとばかり長旅という感じです。なので、車窓から見える沿線風景を眺めるのも大きな楽しみでありますね。特に、さんさんと陽光が満ちている海沿いの景色は、大いに目の保養になりました。
ちょっと面白い発見があったのが、途中停車する駅のホームでした。佐伯市、佐伯駅のホームでは、ご当地の名所をあしらった漫画のパネルがいくつか掲示されていました。

なんだかどこかで見たような画風だなあ、と思ったら、かつてのテレビ番組『お笑いマンガ道場』でもおなじみだった富永一朗さんの絵ではありませんか。なんでもお父さまがご当地の出身だそうで、その縁での起用というわけなのでしょうね。
そして、みかんが特産である津久見市の津久見駅のホームにあったベンチは、ちゃんとみかん型をしていたのでありまして•••さすがですなあ。

車内の前方に目をやると、我らが壇蜜さんが「決めなきゃ、ダメ?」などと言っておられます。

•••ええ、今回は大分のほうに決めさせていただきましたが、今度はまた、鹿児島のほうにも出かけてみたいと思っておりますよ、はい。

さあ、ついに別府に到着です!まことに嬉しいことに、別府も雲ひとつない快晴でありました。

別府駅の前に立つ、別府観光の基礎を作り上げた立役者である油屋熊八さんの像も、相変わらずの突拍子もないポーズで出迎えてくださいました。
雲ひとつない快晴とはいえ、吹いている風はやはり冷たかったのでありまして、わたくしは駅前で湯気を上げている足湯ならぬ「手湯」に手を浸し、しばしの暖をとったのでした。
さっそく街歩きといきたいところなのですが、時刻はもう4時になろうという頃。まずは宿泊先のホテルにチェックインしておくことにいたしました。駅のすぐ前にある、素泊まり4000円のビジネスホテル。今回は2泊とも、このホテルのお世話になります。2泊3日とはいえ、予算は潤沢というわけでもございませんので、宿泊代は安く抑えたいということで。まあ、どのみち飲み食いは外でやるわけですし、寝ることさえできりゃそれでいいのでありますよ。
チェックインをすませ、部屋に荷物を置いたあと、ホテルの2階にある大浴場で温泉に浸かることにいたしました。ビジネスホテルとはいえそこは泉都別府、ちゃんと天然温泉なのでありまして、今回の旅における温泉入り初めであります。
湯に浸かる前にカランで体を洗っていたら、そばで5~60代くらいのおとっつぁんが、お仲間と大声でダベりながらシャワーで体を洗っておりました。それはまあいいのですが、シャワーをやたら振り回すもんだから、シャワーから出てくる水、それも冷たいやつが、ちょいちょいこちらの体にかかるのでありまして•••。迷惑なのもさることながら、なんだかいいトシしてみっともないなあと思いましたよ。
あまりのことに、そのおとっつぁんを軽くニラむと、彼はその視線に気づいて「あ•••どーもスミマセン•••」と詫び、あとはおとなしくシャワーを使っておりましたが•••。やれやれ、いいトシしたおとっつぁんが、公衆の場でこういうみっともない振る舞いをなさるようでは、ちょっと困るのでありますよ。
とまあ、いささか気分を損ねはいたしましたが、大きな浴槽にたたえられた温泉にゆっくり浸かると、気分もホッとやわらいで「ああ、別府に来たんだなあ」という感慨が湧いてきたのでありました。

さあ、街に灯がともり始める時間帯になってきました。あらためて気分を直して、ちょっと懐かしい雰囲気が漂う別府の飲み屋街へと繰り出しました。
まずは、駅前の通りから伸びているアーケード街の入り口にある薬屋さんで、肝臓保護のドリンク剤を買って飲みました。「おっ、これから新年会ですか?」とわたくしに話しかけてきたこの薬屋さん、昨年の別府旅のときにも立ち寄ったお店なのですが、さすがにその時のことは覚えてはおられない様子でありました。とはいえ、気さくなお人柄に変わりはないようで、なんだか嬉しくなりました。

別府の飲み屋街は、細かい路地が縦横に交差していて、それらの路地に並ぶお店にも心惹かれるものがあるのですが、ヨソモノにはちょいと難易度が高めという感じもいたします。なので、地元の人たちにも親しまれていて、ヨソモノの一人客でも心置きなくくつろげるような大衆酒場を見つけたいと思っておりました。
実は、昨年の別府旅のときに立ち寄り、いっぺんで惚れ込んだお店がありました。開業から半世紀近く続いていた大衆食堂にして酒場でもあった「うれしや」というお店です。今回の旅でもまずは、このお店でくつろぎたかったのですが、残念なことに昨年の10月に閉店してしまっておりました。
とはいえ、決して客足が落ちての閉店ということではなく、最後の最後まで多くの人たちに惜しまれながらの閉店だったとか。わたくし、まずは「うれしや」の方向へと足を向けました。

昨年立ち寄ったときにも、満員のお客さんで賑わい活気があったお店の戸は固く閉じられ、美味しそうな料理がぎっしり入っていたガラスケースも閉められておりました。もちろん、中から明かりが漏れてくることもありませんでした。ああ、やっぱりもう営業することはないんだなあ•••と、寂しさがこみ上げてきました。
しかし、半世紀近くにわたって、たくさんの観光客、そして地元の皆さんに愛され続けた歴史は、実に立派なものだと思いますよ。本当にお疲れ様でした。そして、良き思い出をつくってくださり、ありがとうございました•••。
わたくしは「うれしや」に向かって一礼すると、提灯とネオンの明かりが輝きはじめた飲み屋街の中心へと足を向けたのでありました。

さあ、「うれしや」に替わるような居心地のいい酒場を見つけなければ、と飲み屋街を歩き回って目星をつけた中の一軒である「居酒屋のん太」に入りました。少し細長い店内は、通路を挟んでカウンター席とテーブル・座敷席に分かれております。カウンターに腰かけてメニューを見ると、割と品数がたくさんあって迷いましたが、まずは大分名物「とり天」で生ビールを飲むことにしました。外側のコロモがカラリと揚がっていて、これはビールによく合いました。

そのあと、「本日のおすすめ」が書かれたホワイトボードから関サバを選んで注文いたしました。関アジとともに高値、もとい、高嶺の花という印象がある関サバですが、ここのはいずれも980円。まだ一度も関サバを食したことのないビンボー人のわたくしにも、手が届くようなお値段でありました。食してみるとなるほど、大衆魚サバのイメージが変わるような品のある味わいでした。これは麦焼酎によく合いましたねえ。

入ったときにはまだ余裕のあった店内は、いつの間にか多くのお客さんで賑わっておりました。その中で一人、ゆっくりとくつろいでいたのですが、同じカウンターでお店の方を相手に温泉談義に興じておられたご夫妻と幾度か目が合い、それをキッカケにご夫妻といろいろお話いたしました。
愛媛県から来られたというそのご夫妻、あちこちの温泉を訪ねて回るのを趣味にしておられるそうで、それもけっこうマニアックなところに行くのがお好きなんだとか。ここ別府でも、あまり観光客が立ち寄らないような、地元の日常に溶け込んだ共同浴場に入ってこられた、とおっしゃいます。
「宮崎の温泉にも何回か行ってるよ~。一度、カーナビに表示されてた温泉に行ってみたらすっごい山の中で、こんなとこに温泉なんてあるのかなー、って心配になっちゃった」と妻君がおっしゃいました。確かにわが宮崎は「山県」と言ってもいいくらい山の多い県なのですが•••うーむ、一体どこにある温泉だったのか、気になりますなあ。
夫君は、「ここ大分と愛媛は同じ海に面しているから獲れる魚には同じものも多いんだけど、愛媛のも新鮮ですごく美味しいよ。良かったら愛媛にも来てくださいよ、接待しますから」とおっしゃり、連絡先を記した紙を渡してくださったのであります。いやー、これはなんだか嬉しいお誘いでございました。まだ四国には一度も行ったことのないわたくしなのですが、考えてみれば大分からは海を跨いですぐの場所だったりいたしますからね。今度の旅先は四国、それも愛媛あたりはいいかもですねえ。
陽気だけれども大人のカッコよさが感じられる夫君と、美人で愛嬌のある(そしてナイスバディな)妻君のお二人、本当に素敵な方々でした。温泉で暖まったあとのご夫妻との出会いは、心の中もポカポカに暖めてくれました。こういう嬉しい出会いもまた、ひとり旅の楽しみなのであります。

「のん太」を出たあと、しばし夜の街を散策いたしました。観光名所としても有名な歴史ある共同浴場「竹瓦温泉」の向かいにある、現存する最古のアーケード街「竹瓦小路」は昼間の光景にも風情を感じる場所なのですが、夜の光景はさらに路地裏風情が増して、実にいいですねえ。

とはいえ、このあたりはフーゾク店が集中しているエリアでもありますので、夜の一人歩きにはちょいと注意が必要だったりもするのですが•••。

夜の街を散策したあと、別府ではお気に入りのお店である本格派バー「ミルクホール」に立ち寄りました。大人がゆっくりじっくりとくつろげる良質の隠れ家的空間と、お酒に対する深い知識とこだわりを持った穏やかな雰囲気のマスターさんが、今回もわたくしを迎えてくださいました。
外が寒かったので、まずはラムとミルクを合わせて温めたホットカクテルで一息ついたあと、オススメというダントハイボールを飲んでみました。マスターさんお気に入りというバーボンウイスキーでつくられたハイボールは、爽快な飲み口の中から鼻腔をくすぐるいい香りが漂ってきて、まことに美味でありました。

この夜は土曜ということで、マスターさんのほかに二人のバーテンダーさんがカウンターに入っておられました。一人は福岡市から来られたという男性で、もう一人は北九州市から来られたという、立命館アジア太平洋大学(APU)の学生さんでありました。
行こうとしていた「うれしや」が閉店したことを話題にすると、福岡市出身のバーテンダーさんはこうおっしゃいました。
「閉店が決まってからは、最後の営業日までずーっと予約で埋まって、イチゲンのお客はとても入れない状態でしたよ。あそこは、別府の人たちにとって特別な場所でしたからね」
ああ、やはりそういうかけがえのない場所だったんですね、あのお店は。そのことは、イチゲンで入っただけだったヨソモノのわたくしにも、それなりに感じ取れるものがありました。あらためて、閉店が惜しまれるところであります。
福岡市出身のバーテンダーさんは、学業のためにやって来た別府があまりにも住み心地が良かったので、そのまま居着いてしまったのだとか。そして、現在学業に励んでいる北九州市出身の男の子のほうも、別府での生活に満足しきっている様子でした。
わかるなあ、その気持ち。豊富な湧出量の温泉に支えられている賑やかな街でありながら、風光明媚な自然の風景にも恵まれているこの街は、幅広い世代を惹きつけてやまない魅力があるように思うのです。
•••オレももう少しトシとったら、別府に移住しようかなあ。

久しぶりとなった別府の夜を満喫したわたくしは、これまた久しく途絶えていた「飲んだあとのシメのラーメン」を解禁し、お腹もココロも大満足となって、宿泊先のホテルへと戻ったのでありました。

(次回につづく)

【読了本】『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』 苦難を乗り越え、つながったものの重さと大切さ

2015-01-04 22:24:52 | 「本」についての本

『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』
佐々涼子著、早川書房、2014年


2011年3月11日に発生した、あの東日本大震災。想像を超える被害の甚大さに慄く日々が続いていた中、当時勤務していた書店に取次会社(出版物における“問屋”といった存在)から、このような内容の通知が届きました。
「東北で紙やインクを生産している会社が被害を受けたため、一部の雑誌の発行が休止したり、遅延を生じることになりました」
もう長きにわたり、出版物を売る仕事に携わっているわたくしなのですが、その出版になくてはならない紙やインクが、東北の地で生産されていたという事実を、恥ずかしながらこの時初めて知ることとなりました。
本書『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』の舞台となる、宮城県石巻市の日本製紙石巻工場こそ、まさしく日本の出版を紙の生産によって支えてくれている存在です。近年の出版物では、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹著、文藝春秋)や、文庫版の『永遠の0』(百田尚樹著、講談社文庫)といったベストセラーや、『ONE PIECE』『NARUTO』(いずれも集英社ジャンプコミックス)といったコミックスの用紙が、この石巻工場の生産になるものです。
あの日、日本の出版を支えている日本製紙石巻工場で何があったのか。そして、想像を絶する大きな被害から、工場と会社の人びとはどのようにして立ち上がり、工場を復活させていったのか。開高健ノンフィクション賞を受賞した『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社文庫)の著者である佐々涼子さんは、工場で働く人びとをはじめ、日本製紙本社の方々や石巻の住民からのインタビューを積み重ねながら、困難を乗り越えて工場が復興を遂げるまでのドラマを描き出していきます。

あの日、石巻市を襲い3000人を超える人たちの命を奪った大津波は、石巻湾に面した日本製紙石巻工場にも甚大な被害をもたらしました。発災直後の的確で迅速な避難誘導によって、当時工場にいた1306名はなんとか全員、無事に助かることができました(とはいえ、非番の人の中には亡くなられた方もおられました)。
津波が引いたあとの工場は、見るも無残な状況を呈していました。4~5メートル近い高さで押し寄せてきた津波によって、構内には工場内にあった紙のロールやパルプ、コンテナやトラックなどが散乱。さらには外から流れ込んできた住居の2階部分や車などが、泥にまみれてうず高く積み重なっていたのでした(のちに構内からは、津波に流された41人のなきがらも見つけられることになります)。工場内にあった、世界最大級の主力マシン「N6」をはじめとする生産マシン群も、ことごとく塩水と泥に浸かってしまっていました。工場が壊滅的な状態にあったのは、誰の目にも明らかでした。
従業員の中には、石巻工場は閉鎖されるのではないか、とまで思う人もいるという絶望的な状況。そんな中、震災からまだ半年も経たない段階で、当時の工場長はこう宣言したのです。

「まず、復興の期限を切ることが重要だと思う。全部のマシンを立ち上げる必要はない。まず一台を動かす。そうすれば内外に復興を宣言でき、従業員たちもはずみがつくだろう」「そこで期限を切る。半年。期限は半年だ」

まだ電気や水道などのインフラも復旧していない中での「半年復興」という宣言。実のところ、当の工場長も含めた誰もが不可能だと感じるような、途方もない目標でした。が、一日も早く工場を再生させることができるか否かが、工場はもちろん地元の石巻市、そして日本の出版の命運を左右することを、工場の人びとは誰よりもよくわかっていました。
日本製紙の経営トップも、そんな工場の人びとの思いをよく理解していました。石巻工場入りした同社の社長は、かつて石巻工場で共に働いた方の息子さんでもある労働組合の支部長を見つけると、こう声をかけたのです。

「工場のことは心配するな」

そして、工場が存続できるのかどうかと不安に駆られる従業員たちを前に、社長は高らかに宣言します。

「これから日本製紙が全力をあげて石巻工場を立て直す!」

かくて、工場の再生に向けた、工場の人びとの悪戦苦闘の日々が始まります。そして、震災から半年後の9月14日、最初に復旧されたマシンが稼動する時を迎えたのです•••。

まさに奇跡的といえる、絶望からの見事な復興へのドラマに、読みながら幾度も、目頭が熱くなるのを抑えられませんでした。
現場の方々の、工場再生への強い思いの源となったのは、地元石巻の復興への願いと、日本の出版を支え続ける出版用紙の生産という仕事へのこだわりと誇りでした。それがあったからこそ、日本製紙の基幹工場たる石巻工場の存在と役割は、これからに向けてしっかりとつながっていくことができたのです。そんな工場の人びとの存在に、ひたすら深い敬意を抱きました。
工場の人びとの仕事へのこだわりと誇りが滲み出るエピソードやことばは、本書の至るところに散りばめられています。その中でもとりわけ印象に残ったのは、出版用紙の製造を主とする「8号マシン」のリーダーを務める男性が小さい頃の娘さんに言っていたという、このことばでした。

「紙にはいろんな種類があるんだぞ。教科書は毎日めくっても、水に浸かっても、破れないように丈夫に作られているだろ?コミックにも工夫がいっぱいあるんだ。薄い紙で作ったら、文庫本の厚さぐらいしかなくなっちまう。それじゃあ子どもが喜ばない。手に取ってうれしくなるように、ゴージャスにぶわっと厚く作って、しかも友達の家に持っていくのにも重くないようにできてる。これな、結構すごい技術なんだぞ」

子どもの頃から親しんでいたコミックに、そのような工夫と思いが詰まっていたとは•••。このことばには、大いに胸が熱くなるのを感じました。

現場の方々はもちろんですが、東京にある日本製紙本社の人びともまた、出版の営みが滞ることのないよう、必死の努力を続けていたことを、本書は伝えます。
工場長をはじめとする現場の人びとが最初に立ち上げようとしたのが、世界最大級のマシンであるN6でした。石巻工場のシンボルであるこのマシンを立ち上げることで、復興を強烈にアピールできる、と。しかし、本社の営業部は、出版社が出版用紙を待っていることを理由に、8号マシンの立ち上げを最優先にするよう言ってきたのです。現場の人びとは悔しさと無念を抱えながらも、方針転換を受け入れることになったのでした。
営業部の人びとも、現場の大変な苦労は十分過ぎるほど理解していました。にもかかわらず、方針転換を迫ったことについて、販売本部長はこのように語ります。

「日本製紙のDNAは出版用紙にあります。我々には、出版社とともに戦前からやって来たという自負がある。出版社と我々には固い絆がある。ここで立ち上げる順番は、どうしても出版社を中心にしたものでなければならなかったのです」

本社の営業の人びともまた、間違いなく自らの仕事への強い使命感と誇りを持った方々だったのです。そのおかげで、日本製紙と出版社との絶対の信頼関係も、しっかりとつながっていくことになりました。そのことを知って、営業の方々にもまた、深い敬意が湧いてきました。

本書では、工場に所属している社会人野球チーム、日本製紙石巻硬式野球部にもスポットを当てます。
長きにわたり、思うような成績を残せていなかった野球部は、新たな監督を迎えた2009年以降、登り調子となり快進撃を続けていました。そんな野球部も、震災により存続の危機に直面することになりました。
しかし、かつて勤務していた旭川工場の野球部が、リストラ策の一環として石巻工場野球部へ統合されるのを、当時の野球部長として為す術もなく受け入れざるを得なかった石巻の工場長には、石巻の野球部を潰したくないという思いがありました。経営トップにもまた、野球部を潰すという選択はあり得ませんでした。
かくて存続が決まった石巻工場の野球部は、石巻の人びとの期待を担いながら、震災後のシーズンを戦うことになりました。その野球部のドラマもまた、本書の読みどころです。

とはいえ、本書は読むものの心を揺さぶる感動のドラマばかりが記されているわけではありません。日本製紙の従業員もよく訪れていたという、ある居酒屋の店主の証言を引きながら、震災直後の石巻で略奪行為が横行していたことが明らかにされます(その中にはなんと、家族連れによるものもあったとか)。居酒屋店主の口からは、外からやってきた「コンサルタント」や、エセNPOに対する怒りも語られます。
困難な状況に直面したとき、気高い行為をなすことができるのも人間なら、醜く唾棄すべき行為に走るのも、また人間。そのこともまた、しっかりと直視しておかなければならないでしょう。
著者の佐々さんは、工場の人びとや石巻の人びとが語った当時の記憶を、あくまでも淡々とした記述で記録することに徹しています。その姿勢には、大いに信頼と好感を持ちました。

本書の終盤に綴られた以下の一節が、わたくしの胸にじんじんと響いてきました。少々長い引用ですが、ぜひともご紹介させていただきたいと思います。

「本が手元にあるということはオーストラリアや南米、東北の森林から始まる長いリレーによって運ばれたからだ。製紙会社の職人が丹精をこめて紙を抄き、編集者が磨いた作品は、紙を知り尽くした印刷会社によって印刷される。そして、装幀家が意匠をほどこし、書店に並ぶのだ。手の中にある本は、顔も知らぬ誰かの意地の結晶である。
読者もまたそのたすきをつないで、それぞれが手渡すべき何かを、次の誰かに手渡すことになるだろう。こうやって目に見えない形で、我々は世の中の事象とつながっていく。」


本書から、想像を絶する苦難を乗り越えながら、確実につながったものの重さと大切さが、ずっしりと伝わってきました。
出版物を売る仕事をする身として、そして一人の読者として、手渡された「たすき」を、ささやかながらも誰かに手渡していかなければ•••。新年最初に読んだ本書から、そんなことをつくづく感じました。

本書に使われた紙は、本文からカバー、帯に至るまですべて日本製紙石巻工場で生産されたものです。中でも口絵に使われた「b7バルキー」は、震災後に開発された真っ白な紙です。表面が光ったりすることなく、掲載された写真をくっきりと見せてくれる優れものです。そして本書の売上げの5%は、石巻市の小学校の図書購入費として寄付されるとのこと。
願わくは、本書はぜひともご購入のうえで、紙の感触を味わいつつお読みいただけたら、と思います。



【関連オススメ本】

『復興の書店』
稲泉連著、小学館(小学館文庫)、2014年(元本は2012年に小学館から刊行)

津波の被害を受けながらも再開に漕ぎ着けた書店、原発事故により閉鎖を余儀なくされた村営書店スタッフの思い•••など、震災で被災した書店とそこに働く人びとへの取材から、本と本屋の存在意義をクローズアップさせたルポルタージュの文庫版です。途中に挟まれているコラムに、日本製紙石巻工場に触れたものがあり、工場長へのインタビューも織り込まれています。

映画『世界の果ての通学路』 世界の子どもたちに教えられた「学ぶことは希望」ということ

2015-01-03 23:13:16 | ドキュメンタリーのお噂
『世界の果ての通学路』(2012年、フランス)
原題=Sur le chenin de l'ecole
監督=パスカル・ブリッソン
1月3日(土)午後5:30~午後6:50、NHK・Eテレで放送(日本語吹替版、2カ国語放送)


野生動物たちが闊歩する平原、大きな岩がゴロゴロする山道、橋の架かっていない川•••。そんな難関が待ち構えている道を、何時間もかけながら学校へと通う世界4ヶ国の子どもたちの姿を追ったフランスのドキュメンタリー映画です。
昨年日本でも公開され、大いに評判となったこの作品、わたくしはきょう(1月3日)テレビ放映された日本語吹替版で鑑賞いたしました。

ケニアに住む11歳の少年、ジャクソンくん。長男として水汲みや炭焼きの仕事を手伝う彼は、妹とともに毎日5時30分には家を出て、2時間かけて登校します。家を出るとき、両親は兄妹が無事に登校できるよう祈りを捧げます。
平原を通り抜ける通学路で兄妹が出くわすのが、野生動物の群れ。中でも一番気をつけなければならない存在が、ゾウでした。ケニアでは毎年4~5人の子どもが、ゾウに襲われて亡くなっているといいます。
おりしも、登校するジャクソンくん兄妹の目の前にも、草むらから見え隠れするゾウの家族の姿が。兄妹は父親から教わった通り、ひたすら走ってその場から遠ざかろうとします。途中、妹がつまずいて転んでしまいますが、なんとか物陰に駆け込むことができました。息を潜めてゾウたちが遠ざかっていくのを待つ兄妹。やがて、ゾウたちが立ち去っていったことを確認した兄妹は、近くにあった木の実を頬張りつつ、大きな声で歌を歌います。そして再び学校へ向かって歩いていくのでした•••。

モロッコに住む12歳の少女、ザヒラさん。それまで女子に対する教育が行われていなかった当地にあって、彼女は家族の中でも初めて教育を受ける世代となりました。そんなザヒラさんを、家族はこぞって支援します。祖母は「お前たちは恵まれている。だからしっかりと勉強して、人生を切り開くんだ」と激励するのでした。
ザヒラさんは毎週月曜日、片道22kmもの道のりを4時間もかけて学校の寄宿舎へと通います。途中、友達2人と合流して学校へと急ぎますが、大きな岩がゴロゴロする山道を歩くうちに、友達の一人が足を痛めてしまいます。このままでは学校に遅れてしまう、と3人はヒッチハイクで学校へ向かうことを決意します。何台かの車ににべもなく断られた末、親切なトラック運転手の計らいで荷台に乗せて行ってもらうことができました。
かくて一直線に学校へ•••と思いきや、敬虔なイスラム教徒である運転手は、途中でトラックを止めて礼拝に入ったりするのでした。その様子をやきもきしながら荷台から待つザヒラさんたち3人。果たして、3人は遅刻せずに学校に辿り着くことができるのでしょうか•••。

アルゼンチンのパタゴニアに住む11歳の少年、カルロスくん。父親のヤギ飼いの仕事を手伝っている彼は、馬を上手に乗りこなすことができます。毎日1時間30分かけての妹との登校も、もちろん馬に乗ってです。手にするのは、父親からお守りとして託された赤いリボン。
通学路の途中には、川に沿った足場の悪い場所もあったりしますが、カルロスくんは巧みな手綱さばきで乗り切っていきます。そんな彼に妹は「前に座らせて」とせがみます。最初のうちは父親からダメと言われてるから、と拒否していたカルロスくんでしたが、やがて「ナイショだからな」と言って、妹を前に座らせるのでした•••。

インドのベンガル湾沿いの漁村に住む13歳の少年、サミュエルくん。未熟児として産まれてきた彼は手足を十分に動かすことができず、移動には車椅子が欠かせません。とはいえ、2人の弟とともに元気にクリケットに興じたり、いろいろとジョークを飛ばし合ったりと、前向きに日々を過ごしています。
サミュエルくんは2人の弟に車椅子を動かしてもらいながら、1時間15分かけて登校します。とはいえ、車椅子は寄せ集めの材料で作られた急ごしらえのもので、お世辞にも動かしやすいとはいえません。それでも2人の弟は、デコボコ道や川の中といった悪路もある通学路を、時にはケンカしながらも一生懸命、兄の乗った車椅子を押したり引いたりしながら進みます。しかし、学校まであと少しというところで、ついにタイヤが外れてしまいます。
なんとか修理屋さんでタイヤを元に戻してもらうことができ、無事に学校へ着いた兄弟3人。そこへすっ飛んできて出迎えたのは、サミュエルくんの級友たちでした。彼らはサミュエルくんをねぎらうように抱きかかえ、共に教室へと向かうのでした•••。

映画の最後、登場した子どもたちが将来への夢と希望を語ります。
「ちゃんとした教育を受けたい。そうしたら自立することができるから」と語ったケニアのジャクソンくんの夢は「パイロットになって、いろんな世界の空を飛んでみたい」
「夢は医者になること。そして、特に貧しい人を救えるようになりたい」というモロッコのザヒラさんは、もっと多くの人が教育を受けるようになってほしい、との願いを語ります。
アルゼンチンのカルロスくんは「これからも先祖代々の土地に住み続けたい。そして医者になって、恵まれない人の力になりたい」
自分のような身体的ハンディを持っていたがために、学びの機会を奪われてしまった友人のことを語ったインドのサミュエルくんは、「うちは貧乏だけども、こうして勉強する機会を与えてもらっているので、とても感謝している」と続けます。将来の夢については「医者になって、ぼくみたいな子どもが歩けるようにしてあげたい」と•••。

決して恵まれているとはいえない環境にあっても、いや、それだからこそ、「学び」への一途で真剣な意欲と思いを持って前向きに生きる子どもたちの姿は、とてもすがすがしい感銘を与えてくれました。登場した子どもたちが将来への夢と願いを語る終盤では、不覚にも目頭が熱くなりました。
同時に、自分自身の子どもの頃のことを、イヤでも思い返さずにはいられませんでした。
子どもの時のわたくしにとって、勉強とはただただ億劫なことでしかありませんでしたし、ましてや将来への夢や希望などをしっかりと考えたことも、ほとんどなかったように思います(それゆえ、今のわたくしはあまり大したオトナになっていないわけなのですが•••)。オレも、子どもの時にこんな一途で真剣な「学び」を経験しておきたかったなあ•••と、映画を観ながらつくづく感じました。
自分の夢を叶えるためにも、そして将来の選択肢を増やすためにも、「学び」というのは必要なこと。その積み重ねの中から「希望」というものは生まれてくる•••。本作に登場する子どもたちから、そんなことをあらためて教えられたように思います。

もういいトシになった「オトナ」ではありますが、これからもいろいろなことを学んで自分の糧にしていくとともに、それを少しでも人さまのお役に立てるよう、活かしていきたいと思っております。
どうぞ今年も、当ブログをよろしくお願い申し上げます。