読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『描かれた歯痛』 その時々の歴史と関わりあって発展した歯科医療のすべてがわかる、医学博物誌の第3弾

2020-04-26 23:43:00 | 本のお噂


『描かれた歯痛 白と黒、および神経からなる歯科医療挿画』
リチャード・バーネット著、中里京子&北川玲訳、河出書房新社、2018年


写真が普及する以前、病態や治療についての視覚的な理解を深めるため、医学書に掲載されていた精緻な挿画の数々。おぞましくもどこか美しさも感じる、それら医療挿画を集めた『描かれた病』と『描かれた手術』に続く医学博物誌シリーズの第3弾にして完結篇となったのが、本書『描かれた歯痛』です。古代から現代へと至る歯科医療の歴史を辿りながら、それぞれの時代に生み出された歯の病気や、歯科医療にまつわるアート作品の数々が紹介されています。
それにしても、「病」「手術」ときて「歯痛」とは、またずいぶん絞り込んだテーマ設定であります。はたして、取り上げられるような挿画がどれだけあるもんのかなあ・・・と、読む前はいささか疑問だったものです。たしかに、前の2冊に較べると正直、インパクトは弱いように思えましたが、それでもけっこう、興味をそそるような挿画やアート作品をいろいろと見ることができました。

歯科医療に欠かせない用具といえば、入れ歯やブリッジといった義歯。その歴史はかなり古く、紀元前の古代ローマ時代にはすでに存在していたのだとか。本書にも、ヒトや雄牛の歯を用いて作られていた義歯を金で固定した義歯(複製品)が載っています。そんな古い時代から義歯が存在していたことを初めて知り、ちょっと驚きました。
近代的な歯科医療が確立するはるか前に行われていた歯の治療は、「歯抜き屋」と呼ばれる者たち(中には床屋との兼業もあったとか)による稚拙で手荒なやり方でなされていました。フランス・ルネッサンス期の主導的な外科医として高名だったアンブロワーズ・パレの著作の引用からは、当時の状況が垣間見えてきます。

「抜歯をするときは、あまり乱暴にやってはいけない。顎を脱臼させたり、脳や眼球の震盪(しんとう)を引き起こしたり、さらには歯とともに顎の一部をもぎ取ってしまう恐れさえあるからだ(著者自身、そうした例を何度も観察している)。突発的に生じる他の事故については言うまでもない。たとえば、発熱、膿瘍、大出血がそうだが、死さえ例外ではないのだ」

そう。当時の人びとにとって歯の治療とは、一歩間違えると命を落としかねない危険なものだったのです。本書には、当時の抜歯の場面を再現した、木と象牙で作られた彫像が載っているのですが、ペンチのような器具で抜歯されようとしている男の、恐怖と苦悶の表情がやたらにリアルにできていて、見ているこちらにもじんじんと恐怖が伝わってまいります。
また、ヨーロッパの「歯抜き屋」の中には、踊り子や喜劇役者、楽隊を引き連れて祭りや市に出向いては、抜歯を見世物のようにしていた連中もいたそうで、その様子を描いた絵画も何点か掲載されています。なぜ楽隊を同行させていたかといえば、歯を抜かれる患者の叫び声をかき消すためだったそうな。ひぇ〜〜。

18世紀になって近代的な歯科医療が確立されてくると、歯の病気やその治療についての本格的な医学書が刊行されるようになります。その立役者の一人が、ドリトル先生やジキル博士のモデルとも言われるイギリスの外科医、ジョン・ハンター。そのハンターによる歯学研究書『ヒトの歯の博物学』をはじめとした、さまざまな歯科医学の専門書のイラストも、多数紹介されています。
顔面に悪性腫瘍が生じて、口の周りがびっくりするような大きさで変形してしまった少女の病状経過イラストといった、ちょっとギョッとさせられるイラストも載っているのですが、とりわけ目を惹かれたのは、フランスのブルジェリという人物の手になる『人体解剖学大全』という医学書のイラストです。
上下の顎の骨や口腔内部、口につながる神経の構造、歯科用のレンチやペンチを用いての抜歯術を図示したイラストは、驚くほどの精緻さと美しさを併せ持っています。イラストに添えられたキャプションには「近代の医学イラストの最高峰と称える者の多い」とあるのですが、それも納得の素晴らしさでした。
美しいといえば、歯科治療に用いられたさまざまな器具にも、機能美やデザインの妙を感じさせるものが多く見受けられました。その形状から「ペリカン」の異名を持つ鈎付きテコや「カラスのくちばし」と呼ばれていた鉗子。電気が誕生して以降に生み出された歯科用のランプやエンジン、X線装置、そして歯科用のドリルユニット・・・。それらが実際に治療の場で用いられるところを想像するのは愉快なことではありませんが(笑)、その想像を棚に上げ、ひとつひとつを「モノ」として眺めると、どれもなかなか美しいものだなあという気がいたしました。

変わったところでは、12世紀の日本の絵巻物『病草紙』の模写なんてものも載っています。そこには口臭のある女を別の2人の女が笑っているところや、歯が揺らいでいるのを気にかけている様子の男が描かれております。その表情豊かでユーモラスな画風には、思わず笑いを誘われました。
また、歯痛の苦悩を「歯虫」との戦いとして表現した彫刻では、歯の中で地獄の悪魔や、棍棒を振り回して暴れる小さな人間らしきものが描かれていて、これにもちょっと笑いました。なるほど歯が痛む時って、頭の中でのイメージはこういう感じだよなあ、という感じで(笑)。
さらなる珍品といえそうなのが、〝大帝〟と称されたロシア皇帝ピョートル1世によるヒトの歯のコレクションです。さまざまな形状の歯に番号が付され、整然と仕切られたケースに入れられているのですが・・・なんでまた〝大帝〟はそんなモノをコレクションしてたんだか。

多数の古い記録を引きながら、歯科医療の歴史を叙述していくテキスト部分にも、興味深いエピソードが多々ありました。
18世紀、近代的な歯科治療が確立されていく一方で、富める者と貧しい者が受ける治療には厳然とした格差があったといいます。懐事情で陶器製の入れ歯を買えなかった人たちは、なんと死体安置所や墓地の死人から盗まれた歯を使った入れ歯を用いていたのだとか。また、貧しい人たちがお金を得るために売った歯を、富める者が嬉々として買っていたという悲惨な実態も紹介されています。
冷戦の時代には、歯科衛生も東西のプロパガンダの一環として組み入れられていたという現実も綴られています。ソ連が労働者に向けて「きちんと磨こう。さぼってはだめだ。毎日必ず歯を磨こう」とアジっていた一方で、アメリカでは虫歯が「一握りの邪悪な陰謀者が悪魔のような企みを覆い隠すための『見せかけ』」であり、虫歯予防のためのフッ素添加を「独裁者に乗っ取られた国々で、国民の意思や思考力を停止させるために行われてきた」のだという、なんともブッ飛んだ主張がなされていたそうな。いやはや。
歯科医療も、その時々の歴史と陰に陽に関わりあいながら、発展を遂げていったのだということが、とてもよくわかりました。

豊富なアート作品の図版とエピソードをもとに、歯科医療の歴史を紐解いていく『描かれた歯痛』。歯の健康のためには行ったほうがいいとわかっちゃいるけど、なかなか行く気になれない歯医者さんへの見方がちょっと変わる・・・かもしれない一冊であります。


【関連おススメ本】

『描かれた病 疾病および芸術としての医学挿画』
リチャード・バーネット著、中里京子訳、河出書房新社、2016年

皮膚病、天然痘、結核、コレラ、がん、性感染症など、さまざまな病と人間との闘いを、昔の医学書に掲載された精緻な病態イラストとともに振り返った医学博物誌の第1弾です。さすがに誰にでも勧められる内容とは言いがたいのですが、医学と芸術とがどのように関わったのかを知ることができる得難い一冊であります。当ブログの紹介記事はこちらを。→ 『描かれた病』 技巧を凝らした衝撃的な細密イラストの数々が物語る、病との格闘と知的探究の歴史


『描かれた手術 19世紀外科学の原理と実際およびその挿画』
リチャード・バーネット著、中里京子訳、河出書房新社、2017年

近代医学が確立されていった19世紀に発行された医学書から、人体のさまざまな部位における手術を図示したイラストを集めて紹介する、医学博物誌の第2弾です。こちらもまた、見ているだけで痛覚を刺激するイラストが多くありますので、苦手な方にはお勧めはいたしませんが・・・。とはいえ、医学の歴史の光と影を叙述していく卓抜な論考とともに見ると、また違った見方ができるのではないかと思います。

【読了本メモ的レビュー】『千夜千冊エディション 面影日本』で、日本の「面影」という「あてど」への旅を

2020-04-26 00:10:00 | 「本」についての本


『千夜千冊エディション 面影日本』
松岡正剛著、KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、2018年


現在の日本において、掛け値なしに〝知の巨人〟と呼べる存在といっていい松岡正剛さんが、森羅万象の書物を該博な知識で読み解き、書物の世界を自在に遊ぶブックナビゲーションサイト「千夜千冊」。2020年4月現在、1739回にもおよぶ「千夜千冊」から、テーマごとにピックアップして再編集する文庫版シリーズ「千夜千冊エディション」の一冊である本書は、日本と日本文化を深く知り、味わうための書物の数々を取り上げています。
〝面影〟というキーワードのもとにピックアップされたのは27冊。谷川健一『常世論』や山折哲雄『神と翁の民俗学』、丸山眞男『忠誠と反逆』、清少納言『枕草子』、和泉式部『和泉式部日記』、鴨長明『方丈記』、吉田兼好『徒然草』、三浦佑之『浦島太郎の文学史』、石田英一郎『桃太郎の母』、ドナルド・キーン『百代の過客』、渡辺京二『逝きし世の面影』、李御寧『「縮み」志向の日本人』など。

萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』を取り上げた回では、日本におけるコメ文化や正月儀礼のルーツが、中国南部の民族「ミャオ族」(苗族)にあるという興味深い説が紹介されます。また、『枕草子』の回では、一見すると自分の好みを勝手気ままに羅列しているように思える記述でありながら、そこには清少納言による絶妙な「編集」感覚が働いていることが喝破されていて、目からウロコでありました。
驚かされたのは、四、五人から十数人の参加者が集まって、五七五と七七の歌を百句に達するまで交互に挟んでいくという〝連歌〟を取り上げた伊地知鐵男『連歌の世界』の紹介です。それによれば、連歌は一句ずつに主題が移り、どんな趣向にも滞らないというのが基本であるのみならず、中には句の頭に「い・ろ・は・に…」を順に折り込んでいく「冠字連歌」や、連なっていく歌がすべて回文になっているという「賦回文連歌」などという超絶技巧まであるのだとか。連歌というものが、かくも高度な技巧で織り成される知的遊戯だったとは!

松岡さんならではの切れ味がギラリと光る記述は、「千夜千冊」の醍醐味の一つです。
たとえば、伝統文化からポップカルチャーまで、あらゆる日本の文化に通暁するエッセイストで劇作家のロジャー・パルバース『もし、日本という国がなかったら』を取り上げた回。この本の中でパルバースが、「日本人はオリジナリティが乏しい」という批評を当の日本人が受け入れすぎていることに呆れているのを受けて、松岡さんはこう述べます。

「なぜ日本人はオリジナリティが乏しいなどと思いすぎたのか。明治以降、外国の文化を外国人が誇り高く自慢したり強調したりすることに、うっかり跪きすぎたのだ。敗戦後の民主主義日本では、もっとそうなった。
江戸時代まではそんな卑屈なことをしていなかった。各自がみんな「分」(ぶん)をもっていた。身分の違いも本分の違いも、気分の違いも平気だったのだ。それがうっかり卑屈になったのは、海外の列強が日本をコケにしたからなのではない。日本が勝手に卑屈になったのである」

幕末の日本を訪れた外国人の記録をもとに、今では失われた日本の〝面影〟を追っていく、渡辺京二『逝きし世の面影』の回でも、日本を見捨て、日本を見殺しにしたのは欧米列強ではなく日本人自身であったのだ、と述べています。日本の民族性と文化を一概に「遅れたもの」とみなし、その特性を熟考することもなく否定する一方で、海外の思想や文化を「進歩」したものとして受け入れることで、日本が持っていたはずの良い面すら捨て去っていった、わたしたち日本人のあり方に対する痛烈な批判は、胸に響きました。
その一方で、日本と日本文化を「神聖不可侵」なもののように捉える偏狭さとも、松岡さんは無縁です。先に挙げた『稲と鳥と太陽の道』の回で、一見日本独特なもののように思われている稲作や正月の儀礼、それに信仰をアジアとの関わりから探ろうとする姿勢も、その現れでしょう。また、日韓の比較文化論である李御寧『「縮み」志向の日本人』については、一部の見方に異論を加えつつも、日本文化の特色にしっかりと分け入ったその内容自体は高く評価しておられます。

書物を読むことの愉悦を、卓抜な言い回しで語る文章に触れることができるのも、「千夜千冊」の醍醐味でしょう。
吉田兼好『徒然草』の回では、冒頭で「本を噛む」という話を綴ります。「読み耽るわけでもなく、口に入れたまま読める」のが「本を噛むということ」であり、「その言葉をチューインガムにしたまま、散歩に出たり、車窓の外を眺められるのが『徒然草』なのだ」と。なるほど。カチカチな姿勢で背筋伸ばして読むのではなく、肩の力を抜いてチューインガムを噛むようにしながら読むことで、『徒然草』はより一層味わい深くなるのかもしれませんねえ。
ドナルド・キーン『百代の過客』の回の冒頭の一文も、すごく素敵です。これはそのまま引くことにいたしましょう。

「どんな本との出会いも、自分で行く先を決めて買った切符に従って、どこかの「あてど」へ踏み出していく旅立ちである。言葉と画像でできた車窓の風景が次々に変じ、著者やら登場人物やら見知らぬ多くの人物と乗りあわせ、たいていは章や節の通過駅があって、本から本への乗り換えもあり、こちらも疲れたり気分が変わったりするから途中下車もあり、宿泊や逗留も待っている。読書とは一身百代の過客になることだ」

わたしも、『面影日本』を頼れるガイドブックにしながら、自分が知らなかった、あるいは見失ってしまっていた、日本の「面影」という「あてど」を目指す旅へ出てみようかなあ・・・と思っております。
まずは手始めに『徒然草』と『もし、日本という国がなかったら』、それに長らく積読のまんまになっていた『逝きし世の面影』を読むとするかな。あと、目下のコロナパニックの状況の中で読むとまた違った味わいで読めそうな『方丈記』も、久しぶりに再読してみるといたしましょうかね。

【閑古堂の気まぐれ名画座】コロナパニックと重なって恐ろしいほどリアル感があった現代の古典『遊星からの物体X』

2020-04-19 20:50:00 | 映画のお噂


『遊星からの物体X』THE THING(1982年、アメリカ)
監督=ジョン・カーペンター 製作=ローレンス・ターマン、デヴィッド・フォスター 脚本=ビル・ランカスター 原作=ジョン・W・キャンベルJr.「影が行く」 撮影=ディーン・カンディ 音楽=エンニオ・モリコーネ
出演=カート・ラッセル、A・ウィルフォード・ブリムリー、T・K・カーター、デヴィッド・クレノン、キース・デヴィッド、リチャード・ダイサート、チャールズ・ハラハン、ドナルド・モファット
ブルーレイ発売元=NBCユニバーサル・エンターテイメント ジャパン


南極大陸にあるアメリカの観測隊基地に、ある日1匹の犬を追ったノルウェー観測隊のヘリコプターが飛来する。ヘリから降り立ったノルウェー隊員は、錯乱した様子でライフルや手榴弾を振りまわし、犬を殺そうとする。そして自分たちにも危害が及ぶと判断したアメリカ観測隊の隊長は、やむなくノルウェー隊員を射殺する。
かくしてアメリカ基地に保護されることになった犬だったが、犬小屋の中で変形し、見るもグロテスクな〝生きもの〟と化す。犬の正体は、10万年前にUFOで地球に飛来し、氷の中で眠りについていた宇宙の生命体で、他の生物の細胞を取り込み吸収、同化しながら増殖する能力を持っていた。生物学者がコンピュータでシミュレーションすると、もし〝生きもの〟が社会に到達すれば、約2万7000年時間後には全世界が〝生きもの〟に同化されてしまうという結果が出る。
やがて、隊員が一人、また一人と〝生きもの〟に同化されていく。外界との連絡を断たれ、孤絶した状況の中で、隊員たちは互いを信じられなくなり、精神的に追い詰められていくのであった・・・。

SF作家、ジョン・W・キャンベルJr.の小説「影が行く」(中村融・編訳『ホラーSF傑作選 影が行く』創元SF文庫に収録)の2度目の映画化です(最初の映画化はハワード・ホークス製作、クリスチャン・ナイビー監督の『遊星よりの物体X』1951年)。監督のジョン・カーペンターは、大ヒットした『ハロウィン』(1978年)をはじめとして、ホラーやSFに定評がある監督さんであります。
高校生の頃、最初にこの作品を観たときには、天才特殊メイクアップ・アーティスト、ロブ・ボッティンが手がけた〝生きもの〟の変形シーンに目を奪われたものでした。同化した犬の頭部や、真ん中からグニャリと引き伸ばされたような人間の顔面が突き出した肉塊。パックリと開いた胴体から飛び出して天井にへばりつく、ろくろっ首とカニを合わせたような物体・・・。それらは実にグロテスクでありながらも、どこかオブジェ芸術のような美しさも感じさせます。
極めつけなのが、胴体からちぎれて床に落ちた頭部から触手とクモのような脚が生えてきて、それがチョコチョコと逃げていくシーン。そのあまりにもぶっ飛んだ発想には、気持ち悪いよりも笑いを誘われてしまうくらいです。
自由に姿形を変えていく生命体という原作の設定を活かし、ありきたりではないモンスターを創造したボッティンの発想と技術は、CG全盛である現在の眼で観てもまったく色褪せません。

しかし、何度か観直していくうちに、緊張感あふれる本作の人間ドラマのほうに、強く魅せられていくようになりました。
誰が正常な人間で、誰が同化された〝生きもの〟なのかがわからない中で、皆が疑心暗鬼でパラノイア的な状態となり、いがみ合った末に滅んでいく・・・という展開に、現代の人類と世界が陥ってしまっている相互不信が、色濃く反映されているように思えてきたのです。
そんな本作の展開は、新型コロナウイルスの感染拡大と、それによるパニックが日本を、そして世界全体を覆っている目下の状況において、恐ろしいくらいのリアル感を持って感じられました。
ブルーレイの映像特典として収められているメイキング・ドキュメンタリーによれば、カーペンター監督は〝物体X〟について「エイズのような病気など人の内部に潜むもの」の比喩であり、「信頼は世界中で失われている。国も人も不信感を抱いている」「現実世界の真実」を描いたものであると語っています。まさしく、現在のコロナパニックをも見通していたかのような確かな視座であります。
今回久しぶりに観直して、本作の展開と結末が、コロナパニックに覆われた世界と未来の「現実」とならないことを、願わずにはいられない思いがいたしました。

とはいえ、本作は暗鬱なだけの映画というわけではありません。主人公を演じるカーペンター作品の常連、カート・ラッセルをはじめとする、芸達者なキャスト陣による演技合戦は、緊迫感たっぷりの心理劇としても実に見応えがあります。
また、ミニチュアによる冒頭のUFOの飛来シーンや、精緻な手描きのマット画による作画合成といった特撮シーンも、先の特殊メイク同様アナログ時代の産物ではありますが、それぞれのスタッフの職人技が光っていて、これまた今の眼で見ても色褪せないものがありました。
そして音楽。『荒野の用心棒』(1964年)などのマカロニ・ウエスタンや、『アンタッチャブル』(1987年)、『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)など、多数の映画音楽を手がけた巨匠、エンニオ・モリコーネによるスコアは素晴らしいものがあります。とりわけ、得体の知れない何かが忍び寄ってくるかのようなメインテーマは、何度聴いてもいいなあと思える名曲であります。

製作から38年を経過しているにもかかわらず、何度観ても古さを感じさせず、そのときどきの現実世界を映し出す「鏡」ともなる『遊星からの物体X』は、まさに現代の古典といってもいい名作でしょう。
今だからこそあらためて、観直される価値のある映画だと思います。・・・といっても、グロテスクなのは苦手、という方には、無理におすすめはいたしませんけれども。

【閑古堂の気まぐれ名画座】今もなお輝きを失わない、大林宣彦監督の『時をかける少女』

2020-04-12 21:54:00 | 映画のお噂


『時をかける少女』(1983年、日本)
監督=大林宣彦 製作=角川春樹 脚本=剣持亘 原作=筒井康隆 撮影監督=阪本善尚 音楽監督=松任谷正隆
出演=原田知世、高柳良一、尾美としのり、津田ゆかり、岸部一徳、根岸季衣
DVD発売・販売元=KADOKAWA


わたしと同い年のいとこ(男)は小学6年から中学にかけて、薬師丸ひろ子さんの大ファンでした。1981年に公開され大ヒットした角川映画『セーラー服と機関銃』を観て、すっかり薬師丸さんの魅力に取り憑かれたのです。映画のキメのセリフ「カイ・カン・・・」は、わがいとこの胸をも撃ち抜いた、というわけであります。それからというもの、いとこはブロマイドはもちろん、下敷きや筆箱といった文具類まで薬師丸さんの写真入り一色という入れ込みようでした。
その2年後、大学進学で休業していた薬師丸さんの復帰作となった『探偵物語』が公開されたときにも、いとこは勇んで観に出かけました。その併映作だったのが、筒井康隆さんのジュブナイルSFを大林宣彦監督が映画化した『時をかける少女』でした。角川映画のニューヒロインとして売り出された、原田知世さんの主演第1作です。
その二本立てを観たいとこは、いつの間にか薬師丸ひろ子ファンから原田知世ファンとなって帰ってまいりました。彼が持っていた文具類も知世さんの写真入りのものに一変し、わたしはその変わりように驚き呆れたものでありました。
しかし、のちにテレビで放送された『時をかける少女』を観て、そんないとこの気持ちがよくわかるように思いました。それくらい、この作品の知世さんは最初から最後まで、キラキラとした魅力に溢れておりました。知世さんの魅力を引き出し、高める原動力となったものこそ、大林監督がかけた映画の魔法でした。

先週4月10日、肺がんにより82歳で逝去された大林監督を偲び、DVDで久しぶりに観た『時をかける少女』。製作から37年が経っているのですが、映画と知世さんが持つキラキラした輝きは、まったく色褪せておりませんでした。
放課後の理科の実験室で、ラベンダーの香りがする白い煙を嗅いだことがきっかけとなり、タイムトラベルとテレポーテーションとが一緒になった「タイムリープ」という能力を持ってしまった少女・和子の戸惑い。高柳良一さん演じる、ちょっとミステリアスな同級生・深町への想い・・・。その時々の気持ちの揺れを、知世さんは可愛らしさと凛とした透明感で表現しています。
それを引き立てているのが、大林監督の故郷でもある広島県尾道市の風景と町並みです。狭い路地や石段が生活感を醸し出していて、なんとも情感にあふれています。実のところ、ラブストーリー的な展開やお話が苦手なわたしですが、どこか懐かしくホッとするような佇まいを見せる尾道の町並みが、甘酸っぱくてキュンキュンするような気持ちを大いに掻き立て、高めてくれているように思いました。
その一方で、タイムリープの場面で使われている、大林監督ならではの大胆な合成も見逃せません。CG全盛の現在の目からすれば素朴な技術ではありますが、あらためて観ると思いのほか、違和感なく受け入れることができました。これもまた、大林監督の映画の魔法ゆえ、でありましょう。

共演陣も魅力的です。本作を含めた大林監督の「尾道三部作」すべて(ほかの作品は『転校生』と『さびしんぼう』)に出演している尾美としのりさんは、一見軽くていい加減そうに見えながらも、家業を継いでいく決心を固める醤油屋の息子・悟郎役を好演しています。また、和子が通う高校の担任を演じる岸部一徳さんは、その飄々とした存在感で大いに楽しませてくれます(恋仲である女教師役の根岸季衣さんとの掛け合いは最高でした)。
本作でなによりもお気に入りなのが、知世さんが映画の舞台となったさまざまな場所で、主題歌の「時をかける少女」を歌うエンドクレジット。ほかの登場人物たちも一緒に歌っていたりしていて、ここは何回繰り返して観ても楽しい思いにさせてくれるのです。

ですが、今回久しぶりに観て胸に染みたのは、映画の終盤における和子と深町の以下のやりとりでした。

「どうして時間は過ぎていくの?」
「過ぎていくもんじゃない。時間は・・・やってくるもんなんだ」

そう。本作『時をかける少女』が持つ輝きも、大林監督が遺した他の作品の数々も、過去の思い出として過ぎていくだけのものではないのです。作品が生き続ける限り、われわれはこれからもずっと、大林監督の映画の魔法を楽しむことができるのですから。
大林監督、素敵な映画の魔法をかけてくださり、本当にありがとうございました。そして、お疲れさまでした・・・。