『苔とあるく』
田中美穂著(伊沢正名・写真)、WAVE出版、2007年
昔ながらの蔵や町屋が立ち並ぶ風情ある景色が、国内外から多くの観光客を引き寄せている、岡山県倉敷市の美観地区。そのはずれに店を構えているのが、古書店「蟲(むし)文庫」です。
明治中期に建てられたという町屋を改装した、10坪に満たない広さの「蟲文庫」。そこには、文学や自然科学を中心に揃えられた古書をはじめ、こだわりの本づくりが光る小出版社の新刊書、さらにはCDやオリジナルのグッズ類、サボテンや化石の標本なども置かれていて、正統派の古本屋でありながらも、ちょっと独特の空気感もあったりいたします。わたしも一昨年と昨年の秋に倉敷を訪れたときに立ち寄り、その独特の空気感(それはある意味、倉敷という街が持つ空気感とも、どこか相通じるように感じられたのですが)を愉しんだものであります。
その「蟲文庫」を営む女性店主・田中美穂さんがこよなく愛するのが、コケ(苔)。そう、庭の片隅や道端などの目立たないところに群生している、あのコケです。田中さんのコケへの熱意と愛がめいっぱい詰め込まれた本書『苔とあるく』は、コケの探しかたから観察、採集の方法、さまざまなコケの楽しみかたを、美しいカラー写真や可愛らしいイラストとともに教えてくれる一冊です。田中さんの初の著書でもあります。
門外漢には一見、どれも同じように見えてしまうコケなのですが、世界にはなんと20000種類、日本だけでも2000種類ものコケが生育しているということに、まずは驚かされます。
本書には、そのうちのごくごく一部が写真とともに紹介されています。「エゾスナゴケ」は、先っぽだけが透明になった薄黄緑の葉が四方八方に伸びていて、金平糖か星を思わせるような美しさ。その名の通り、日本では鹿児島県の屋久島でしか見られないという「ヤクシマゴケ」は、コケには珍しい濃い赤色が目を惹きます。そして、田中さんが好きなコケのひとつという「タマゴケ」は、いわく「目玉のオヤジ」みたいな真ん丸い朔(さく)が一面についていて、なんともいえない愛嬌を感じさせてくれます。
一方で、素人目にはコケ(蘚苔類)のように見えても、コケではない〝こけ〟(緑藻類や地衣類、シダ植物など)があったりもいたします。本書では、そんな両者の簡単な見分け方も記されています。葉緑素があって緑色で、小さいながらもはっきりした茎や葉があるコケに対して、コケではない〝こけ〟は黄色や白、灰緑色をしていてカビやワカメみたい、とのこと。
コケ探しのポイントは「コケの気持ちになってみること」。もし自分がコケだとしたら、どんなところが暮らしやすいかを想像しながら探していると、どんどん目についてくるそうで、これはコケに限らず自然観察の基本だ、と田中さんはいいます。
小さなコケを観察するのに欠かせない道具が、ルーペ。一見すると地味なコケも、ルーペで見るとまるで違う姿を見せてくれます。繁殖力が旺盛なために、庭の嫌われ者として有名という「ゼニゴケ」も、ルーペで見ると胞子を弾き飛ばす黄色い弾子(だんし)が、まるでチアガールが手に持つポンポンか何かのようで、微笑ましさを覚えます。本書は、ルーペをはじめとした、コケの観察や採集に必要な道具とその扱い方についても、わかりやすく説明してくれます。
本書でユニークなのが、コケの楽しさを「啓蒙」する活動について記されているところ。ここでは、田中さんが気の合うお友達に向けて、コケの魅力を啓蒙するために活用しているという「蒔きゴケセット」(コケや土、石などをセットにして、蒔き方を記したメモを添えたもの)の紹介や、友人を「コケ散歩」に誘う方法などが語られています。たしかに、これぞという人と自分の「好き」を分かち合い、共に楽しむということもまた、この上ない喜びとなりそうであります。
さらにビックリするのが、コケを「食べてみる」という項です。コケ観察に訪れた屋久島でミズゴケを採集し、それを天ぷらにして食べてみたところ、「ふわふわした食感のやさしいお味。ヨモギの天ぷらなどよりも、ずっと食べやすいくらい」の美味しさだったとか。本書に収められた写真では、盛りつけられたミズゴケの天ぷらの向こうに屋久島産の芋焼酎「三岳」のボトルが見えるのですが・・・焼酎との相性がどうだったか、大いに気になるところであります。
本書の巻末には、全国のコケ観察おすすめポイントが列挙されています。わが宮崎県の児湯郡都農町にある「尾鈴山瀑布群」もそのひとつ。身近な自然の中でゆっくりとコケ観察を楽しむというのも、なかなか楽しいかもしれませんねえ。
小さくて地味に見えるコケという存在。しかし、ルーペを覗きながら「コケの目」になって見るということは、「普段わたしたちが暮らしている世界とは違う、もうひとつの世界を見るということでもあるのです」と、田中さんはいいます。
言われてみれば、わたしたちは普段暮らしている世界に規定されている狭い視野や、凝り固まった〝常識〟で物事を見てしまいがちになります。なので、時にはわたしたちとは異なる「コケの目」になって世界を捉えてみることも、意味深いことなのかもしれません。
本書には、コケに夢中になっている田中さんを見た知人から言われたという、実に印象深いことばが記されています。
「知らないことを知るのはいつもたのしい」
本書もまた、コケという存在を通して「知らないことを知る」楽しさを伝えてくれる一冊といえましょう。
コロナ騒動に加えて仕事の都合もあったりして、今年の倉敷訪問は叶わないこととなってしまいましたが、来年はぜひとも時間を確保して倉敷へ出かけたいと思っております。もちろん「蟲文庫」にもお邪魔するつもりです。
その時は、ミズゴケの天ぷらと焼酎「三岳」との相性がどうだったのか、田中さんに伺ってみたいなあ。