読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『ソース焼きそばの謎』 知的好奇心と食欲を刺激してくれる、食文化本の快著

2023-08-09 21:19:00 | 美味しいお酒と食べもの、そして食文化本のお噂

『ソース焼きそばの謎』
塩崎省吾著、早川書房(ハヤカワ新書)、2023年


鉄板焼き料理の代表格にして、お祭りの屋台における定番の食べものでもあり、そしてカップ麺売り場の人気商品としても身近な存在であるソース焼きそば。それがいつ、どこで生み出され、どのように広まっていったのかを解き明かしていく食文化本です。
著者である塩崎省吾さんは、国内外1000軒以上の焼きそばを食べ歩き、その成果をブログ「焼きそば名店探訪録」にまとめておられる、まさに焼きそば探究の第一人者といえそうなお方です。6月より早川書房から刊行が始まった、「ハヤカワ新書」の創刊第2弾の一冊として刊行されました。
表紙いっぱいのソース焼きそばの写真が、まことにインパクト十分ではありますが、実はこちらは本来の表紙の上に巻かれた「全面帯」。ほら、新刊本の下のほうに巻かれている、宣伝文句や推薦文やらが書かれている、別名「コシマキ」とも呼ばれている「帯」ってのがあるでしょう。あれが表紙一面を覆うカタチになっているのが「全面帯」であります。で、ソース焼きそばがでーんと載っている本書の「全面帯」の下には、ハヤカワ新書の統一デザインである本来の表紙が隠れております。


さて、ソース焼きそばといえば、おそらく多くの人が「戦後に生まれた食べもの」というイメージを持っているのではないでしょうか。かくいうわたしも、ソース焼きそばは戦後まもない頃のヤミ市がルーツなのではないか、というふうに漠然と考えておりました。
ところが、まだ戦前である昭和11年に出版された露天商売開業マニュアル本の中には、古本や小間物、おでんや牛めし、ホットドッグなどといった多種多様な品目に混じって、焼きそばの屋台、それも現在のソース焼きそばとほとんど変わらないものを提供する屋台の開業ノウハウが細かく記されておりました。そこから著者の塩崎さんは、昭和10年頃にはすでにソース焼きそばが存在していた、という仮説を提示します。
では、一体いつ、どこでソース焼きそばは生まれ、どのようにして広まっていったのか・・・?本書は膨大な資料をもとに検証を重ね、ソース焼きそばをめぐる俗説を反証すべく仮説を立て、それを立証していきます。その過程は、まさにミステリーの謎解きといった趣き。ここでキーワードとなっているのが「関税自主権」と「東武鉄道」なのですが、それらをめぐる謎解きも本書の面白さですので、ここでその詳細を記すようなヤボはいたしません。ぜひとも、本書に直接あたっていただきたいと思います。
その謎解きから浮かび上がってくるさまざまな興味深い事実は、読むものの好奇心を掻き立ててくれます。たとえば・・・

「お好み焼きはもともと和洋中のいろいろな料理の模倣、もしくはパロディとして生み出されたものであり、お好み焼きのバリエーションとして作られるようになった焼きそば(ゆえに、味つけは醤油ではなく、お好み焼き同様ソースが使われるようになった)も、そもそもは中国料理の「炒麺」のパロディとして誕生したものだった」

「焼きそばを卵の薄焼きでくるむ「オムそば」も、すでに戦前から存在していた」

「戦後まもない時期に生産されていたソースは、加熱すると添加されていた人工甘味料が変質して苦くなってしまったので、そこからソースを焼きそばに後がけするというスタイルが生み出された」

・・・などなど。小麦粉の需給事情や、小麦粉をめぐる国家間の駆け引きが、焼きそばを含む小麦粉食に与えた影響を検証していくくだりも興味深く、大いに勉強になりました。

本書の後半では、全都道府県におけるソース焼きそば事情が詳細に記されています。そこからは、ソース焼きそばが各地に広まっていくなかで、さまざまなバリエーションが生み出されていたり、地域によってソース焼きそばの普及の度合いには濃淡があったり・・・といった事実が浮き彫りにされていて、ひとつの食文化が伝播していくモデルケースとしても、まことに興味尽きないものがありました。
また、それぞれの都道府県に存在する(あるいは存在した)老舗の焼きそば店・お好み焼き店も網羅されていて、それらのお店で親しまれている多種多様なソース焼きそばの写真も、本書にはカラーでたっぷりと収録されております。具はキャベツかモヤシだけという、昔ながらのシンプルなものから、「富士宮やきそば」や「横手やきそば」などのご当地焼きそば、焼きそばの上にミートソースがかかった「イタリアン」といった変わり種。さらに、中華麺の代わりにうどんを使った「焼きうどん」や、それにホルモンを加えた「ホルモン焼きうどん」・・・。見ていると片っ端から食べたくなってしまいました。
ちなみに、わが宮崎県からは昭和28年創業という宮崎市のお店「にくてんの老舗かわさき」が紹介されているのですが、ここはなんと兵庫県神戸市長田区において「にくてん」と呼ばれているお好み焼き文化を伝えるお店なんだとか。こういうところにもまた、地域を飛び越えた意外な食文化の結びつきが見られて、まことに興味尽きないものがございます。
「かわさき」さんの公式サイトを覗いてみると、焼きそばはもちろんその「にくてん」もなかなか美味しそうであります。一度食べに行ってみようかなあ。

子どもの頃からずっと、身近な食べものとして親しんできたソース焼きそば。その背後に興味深い歴史とエピソードが、それこそ濃厚なソースのごとくたくさん絡みついていることを、この一冊で知ることができました。
知的好奇心と食欲を大いに刺激してくれる、食文化本の快著であります。

先月(7月)末、宮崎市の夏を代表するイベント「まつり えれこっちゃみやざき」が、市街地の中心部で開催されました。コロナ莫迦騒ぎ禍を経て、4年ぶりとなる正式開催。空白の年月のあいだに溜まっていた憂さを晴らすかのように、街はたくさんの人たちで大いに賑わい、楽しさであふれておりました。
わたしもお祭り見物とともに、屋台での買い食いを満喫いたしました。食したのは、もちろんソース焼きそば。つめた〜い生ビールも一緒であります。

お祭りの屋台のソース焼きそばと、つめた〜い生ビールの組み合わせ・・・やっぱり最高ですなあ。


【閑古堂の気まぐれ名画座】『羅生門』 今の時代だからこそ大いに刺さる、人間のエゴイズムについての鋭い洞察

2023-08-08 06:53:00 | 映画のお噂

『羅生門』(1950年 日本)
監督:黒澤明
製作:箕浦甚吾
企画:本木荘二郎
原作:芥川龍之介「薮の中」「羅生門」
脚本:黒澤明、橋本忍
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演者:三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之、千秋実、上田吉二郎、本間文子、加東大介
DVD発売元:KADOKAWA


戦乱が続くなかですっかり荒れ果てていた、京の羅生門。そこで雨宿りをしていた木こりと旅の法師は、あとからやってきた下人に対して、自分たちが経験した不可解な話を語り始める。多襄丸という山賊が旅の夫妻を襲い、妻を犯された上に夫が殺されるという事件が起こったのだが、当事者の3人が証言した事件の経過はどれも違っていて、いったい何が真実であるのかわからない、というのだった・・・。

巨匠・黒澤明監督が、芥川龍之介の短篇小説「藪の中」と「羅生門」をもとに作り上げたミステリー調の時代劇映画で、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞と、アカデミー賞の名誉賞を受賞し、黒澤明の名を世界に知らしめた、まさしく不朽の名作です。テレビ放送と劇場での鑑賞に続き、今回のDVD鑑賞で3回目の鑑賞となります。
語り手によって違う様相を見せる一つの出来事を、多角的に描いていく手法は、あらためて観ても実に斬新でした。光と影を効果的に用いた撮影監督・宮川一夫氏による美しい映像も素晴らしく、唸らされました。
そしてキャスト陣。野生味あふれる多襄丸を演じた三船敏郎さんや、苦悩する(あるいは、どこか酷薄な感じの性格も見せる)武士の夫を演じた森雅之さんも素晴らしかったのですが、それぞれの話の中でまったく違うキャラを演じ分けている、京マチ子さんの卓越した芝居には、ただただ圧倒されるばかりでした。殺された夫の霊が、巫女の口を借りて「証言」するという設定も、なかなかユニークです。
自分の都合のいいように物事を語り、自らのメンツや「正しさ」を守ろうとする登場人物たち。それを通してあぶり出される人間のエゴイズムについての鋭い洞察は、今もなお全く古びることなく、有効性も失なわれていないと思いました。いやむしろ、偏った「正しさ」を振り回しては、それに反する(と決めつけた)他者を否定する風潮がまかり通っている「今」の時代だからこそ、大いに刺さるものがありました。
とりわけ、今回の鑑賞では上田吉二郎さんが演じた下人に対して、妙に共感するところ大でありました。それまでは、いかにも露悪的な態度と口ぶりの下人に、「こいつなんだかイヤミったらしい奴だなあ」と反感を持ったものでしたが、今回は逆に「そうそう、こいつの言う通りじゃねえか」と頷けたのです。露悪的でひねくれた人物であるからこそ、身も蓋もない世の中や人間の本質が見えていた・・・ということなのかもしれません。


「一体正しい人間なんているのかい?みんな自分でそう思ってるだけじゃねえのか?」

「人間というやつは自分の都合の悪いことは忘れちまう。都合のいい嘘を本当だと思ってやがんだ。その方が楽だからな」


千秋実さん演じる僧侶に向かって、下人が投げつけていた上のセリフは、今の世の中でもそっくり当てはまることじゃないのかと、つくづく思いました。
そのことを踏まえれば、志村喬さん演じる木こりが羅生門に捨てられていた赤ん坊を育てようと決意するラストは、いくらか理想主義的であるようにも思えてなりませんでした。決して理想主義やきれいごとで終わらないのが人の世の現実なのであって、あえて突き放したような終わりかたをしても良かったのではないか、と。
しかしそう思う一方で、愛おしげに赤ん坊を抱きかかえ、雨が上がって光が差してきた外へと歩み出していく木こりを捉えていくラストシーンに感銘を覚えたのも、また確かであります。黒澤監督がこのラストシーンに込めた、「人間を信じられなくなっては生きていけない」というメッセージもまた、もうひとつの人の世の現実であるから、なのかもしれません・・・。
観るたびに違った印象と感慨を抱かせてくれるというところもまた、『羅生門』が名作たるゆえん、といえましょうか。