読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

第23回宮崎映画祭観覧記 ③ ノルシュテインのアニメに『ツィゴイネルワイゼン』に『人類遺産』・・・それぞれのイマジネーション

2017-09-18 23:51:23 | 映画のお噂
台風18号のせいで大荒れだった前日から一転、朝から抜けるようなきれいな青空が宮崎市に広がった9月18日。映画祭3日目となるこの日は、全部で3作品を立て続けに鑑賞いたしました。
台風に振り回された初日と2日目。やはり観客の出足にも影響したようで、台風が宮崎県に最接近して大荒れだった2日目の午前中の回などは、観客がわずか6名というありさまだったとか。しかし、朝から晴天に恵まれた3日目はお客さんもそこそこ入っていて、とりわけこの日最初の上映となった『アニメーションの神様、その美しき世界』はかなりの入りでありました。


ユーリ・ノルシュテイン監督特集上映『アニメーションの神様、その美しき世界』(1968〜1979年、ソビエト)
監督=ユーリ・ノルシュテイン

ロシア・アニメーションの巨匠として名高く、日本アニメーション界の巨匠である宮崎駿・高畑勲両監督からも敬愛されている、ユーリ・ノルシュテイン監督の主要な中短編アニメーション6作品を特集したプログラムでした。ノルシュテイン監督のことは知ってはいたものの、実際にその作品を観るのは今回が初めてでありました。
ロシア革命を題材にして、1920年代の前衛芸術的な絵柄と構成で作り上げたデビュー作『25日・最初の日』(1968年)。西暦998年のロシアとタタールとの戦いを、中世の細密画・フレスコ画を動かすという手法で描いた『ケルジェネツの戦い』(1971年)。自分の住みかを乗っ取ったキツネを追い出そうとするウサギと、その仲間たちを描く『キツネとウサギ』(1973年)。互いに惹かれ合いながらも、それとは裏腹な拒絶の態度を取り続けるメスのアオサギとオスのツルのお話『アオサギとツル』(1974年)。友だちの子グマの家に向かおうと夕霧の中を急ぐハリネズミが、さまざまな出来事に遭遇する『霧の中のハリネズミ』(1975年)。そして、自伝的な要素と心情を強く反映させた中編『話の話』(1979年)。

ノルシュテイン監督を代表する傑作といわれる『話の話』は、ストーリーらしいストーリーに沿うことをせず、多様な詩的イメージの連続で綴られていて、少々難解に思えるところがありました。祝日の上映、それもアニメーションということで、劇場には親子連れも何組か見られましたが、小さなお子さんには戸惑いも大きかったかもしれません。とはいえ、30分ほどの時間の中に盛り込まれた画風や手法は実に多彩なものがあり、イマジネーションの豊かさを感じとることができました。
その他の諸短編も、それぞれが違った画風や手法によって作られていて、ノルシュテイン監督の持つ多様な才能が感じられました。中でも、ロシア民話を題材にした『キツネとウサギ』と『アオサギとツル』は、実にユーモラスな雰囲気をたたえた愛すべき小品という感じで楽しめました。
今回のプログラムは、ロシアから取り寄せた素材を日本で修復、リマスタリングした映像を使用したとのこと。時の流れを感じさせない美しい映像で、伝説のアニメーション作家の作品を味わうことができたのは嬉しいことでした。

続いて観たのは、今年2月に逝去された鈴木清順監督の回顧企画として上映された一本『ツィゴイネルワイゼン』。清順監督の代表作としてこれまた名高い作品なのですが、キチンと観たのはこれが初めてのことでありました。

『ツィゴイネルワイゼン』(1980年 日本)
監督=鈴木清順 製作=荒戸源次郎 脚本=田中陽造 撮影=永塚一栄 音楽=河内紀
出演=原田芳雄、大谷直子(二役)、大楠道代、藤田敏八

気ままな放浪生活を続けている男、中砂。旅先でひょんなことから合流した友人の青地とともに、弟を自殺で亡くしたばかりの芸者と出会う。その後、中砂が名家の娘と結婚したという話を聞いた青地が中砂の家を訪れると、その妻は旅先で出会った芸者と瓜二つだった。その夜、中砂は青地にサラサーテが演奏する「ツィゴイネルワイゼン」のSPレコードを聴かせるが、そこにはサラサーテ自身のものと思われる声が入っていた・・・。
内田百閒の小説「サラサーテの盤」をモティーフに、「ツィゴイネルワイゼン」のレコードをめぐる男女4人が入り込む、現実と幻想、正気と狂気、そして生と死の境目があいまいとなった迷宮世界を描き尽くした、いわゆる「清順美学」の極北といえそうな本作。特異な世界観と、一癖も二癖もある登場人物たちが織りなす物語は一筋縄ではいかないところがございましたが、清順監督ならではのイマジネーションがあふれていて、「こういう世界観も面白いかも」という感じで楽しみました。
観ていて印象に残ったのが、登場人物たちが食べたり飲んだりする場面がやけに多かったということ。うなぎの蒲焼から始まって、牛鍋にそば、さらには腐りかけの水蜜桃・・・。そんな中で、牛鍋に入れるこんにゃくをひたすらちぎり続けたあげく、それを鍋に山盛りにする大谷直子さんと、腐りかけの水蜜桃をべちゃべちゃと味わう大楠道代さんのシーンは、とりわけ強い印象を与えてくれました。

そしてさらにもう一本。こちらも観るのがとても楽しみだったドキュメンタリー作品『人類遺産』を鑑賞いたしました。

『人類遺産』(2015年 オーストリア・ドイツ・スイス)
監督=ニコラウス・ゲイハルター(ドキュメンタリー)

世界の各所に存在している、さまざまな建造物の「廃墟」や、人がいなくなってしまった町の風景を、カメラの目を通してじっくりと見つめ、まとめ上げたドキュメンタリー映画です。
監督のニコラウス・ゲイハルター氏は、日本でも話題となった『いのちの食べかた』(2007年。この作品も2008年の宮崎映画祭で上映されました)を製作した気鋭のドキュメンタリー映画作家。野菜や果物、精肉などの食糧生産の現場を、ナレーションや音楽、テロップを一切排して淡々と捉えた『いのちの食べかた』に見られるゲイハルター流ドキュメンタリー作法は、この『人類遺産』でもしっかり健在でした。
かつてはショッピングモールや映画館、学校、図書館、病院、教会、発電所だった建物。遊園地。放棄された戦車や軍艦。炭鉱の島として栄えながらも、閉山後は廃墟が連なる無人の島となった長崎県の「軍艦島」こと端島。水没してしまった町や砂漠に飲み込まれようとしている町・・・。そんな世界各地の「廃墟」や、人のいなくなってしまった町の風景を、映画は一切の説明的な要素を示さず、次々と映し出していきます。
風や雨の音、鳥のはばたきや鳴き声、波の音などの現場音だけが響く、荒れ果てた「廃墟」や人のいない町の風景。それらを、ゲイハルター監督はカメラを一切動かさない、固定したままの視点で絵画のようにじっくりと、そして美しく切り取っていきます。とりわけ、水の溜まっている洞窟のような場所に、たくさんの廃車が積み重なっている光景には、ハッと息を飲むような美しさがありました。
説明的な要素を一切排することで、特定の方向に沿った解釈に陥ることなく、観る側がそれぞれの見方で映像を捉え、解釈できるのが、本作が持つ最大の魅力だといえるでしょう。
しかしながら、現在は立ち入りが制限されている福島県の浪江町とおぼしき風景が、映画の冒頭に映し出されたときには(そのことを示す要素も一切画面には出てはこないのですが)「いまは立ち入りができないとはいえ、住んでいた方々の多くがいつかは帰りたいという思いを持っているはずなのに・・・」と、ちょっと複雑な思いを抱かざるを得なかったのですが・・・。

余分な説明を一切省いて映し出される、多くの「廃墟」や町の光景。かつては間違いなくそこにあったはずの人びとのいとなみを、わたしはいろいろと想像しました。
多くの人で賑わっていたショッピングモール。子どもたちの元気な声があふれていた学校。生と死のドラマが繰り広げられていた病院。暮らしと社会を支えていた発電所・・・。時が移ろう中で人びとから忘れられ、朽ちていきながらも、そこには確かに人びとの喜怒哀楽に彩られたいとなみがあったということを、「廃墟」の数々が静かに語りかけているように、わたしには思えました。
現実の光景を淡々と映し出す向こうから、さまざまなイマジネーションを感じ取ることができるドキュメンタリーでした。

ノルシュテインのアニメーション、「清順美学」の極北である『ツィゴイネルワイゼン』、そして異色のドキュメンタリー『人類遺産』。いずれもそれぞれの形で、イマジネーションを刺激してやまない作品たちでありました。

第23回宮崎映画祭観覧記 ② 歴史と人間のダイナミズムに圧倒されたドキュメンタリー『チリの闘い』、深い感動に包まれたSF映画『メッセージ』

2017-09-18 23:26:20 | 映画のお噂
宮崎映画祭2日目となった昨日、9月17日。わたしとしてはどうしても観逃すわけにはいかない2作品が上映されました。宮崎はもちろん、九州でも初の上映となる3部構成の大長編ドキュメンタリー『チリの闘い』と、評判となっていたSF大作『メッセージ』です。
しかし、この日の宮崎は朝から、台風18号の暴風域にすっぽり入っておりました。NHKのテレビは放送予定を変更して台風に関する情報を流し続け、宮崎県でも強風で屋根が吹き飛んだり、街路樹がなぎ倒されたりという被害があったことが、映像とともに全国に向けて伝えられました。家の窓から外を見ると、断続的に猛烈な風が吹き荒れているありさまです。
せめて出かける時までには弱まってくれたら・・・とのわたしの願いとは裏腹に風雨は激しさを増し、出かける予定だった時刻には迂闊には外へ出られない状況に。きょうはなにがなんでも出かけるからな!と意気込んでいたわたしも、風雨が弱まるまで待機せざるを得ませんでした。
しかし、『チリの闘い』の上映開始時間である12時30分少し前には、なんとか外に出ることができそうなくらいに風雨が弱まってきました。「よし、これなら大丈夫!」とタクシーを呼び、会場の宮崎キネマ館へ。
到着した時にはすでに『チリの闘い』の上映が始まっていて、残念ながら第1部の冒頭部分を観ることはできませんでした。が、それでも作品の大部分をしっかりどっぷりと鑑賞することができたのは嬉しいことでした。


『チリの闘い』第1部「ブルジョワジーの叛乱」第2部「クーデター」第3部「民衆の力」(1975、1976、1978年 チリ・フランス・キューバ)
監督・脚本・製作=パトリシオ・グスマン(ドキュメンタリー)

1970年代はじめ、社会主義に基づく急進的な政策を掲げるサルバドール・アジェンデ大統領のもと、まさざまな改革が進められていたチリ。1973年に行われた総選挙でも、労働者から支持されていたアジェンデの左派政権与党が43%という高い得票率を得たものの、ブルジョワ企業家らに支持された右派の反アジェンデ勢力と、それを影で支援していたアメリカ合衆国は、さまざまな手段でアジェンデ政権の弱体化を図ろうとする。そして9月11日、CIAの全面的な支援を得たピノチェト将軍が軍事クーデターを決行して政権は崩壊、アジェンデ大統領は死亡することに・・・。
『チリの闘い』は、アジェンデ政権と右派勢力との激しい攻防を経て、クーデターに至るまでのチリの数ヶ月間を(アジェンデ政権を支持した立場から)克明に記録した、全3部構成、総上映時間が263分に及ぶ伝説のドキュメンタリー映画です。

第1部から第2部にかけては、総選挙の前後からクーデターに至るまでの出来事の連鎖が、広範な階層や立場の人びとへのインタビューを織り込みつつ、ほぼ時系列どおりに綴られていきます。閣僚の弾劾からデモやストライキ、暴動を扇動するなど、政権の弱体化のためなりふり構わぬ手段をとる右派と、それを裏で支援していたアメリカの影。政権側と右派政党の一部との協調の模索とその失敗、左派内部の意見対立。それらの連鎖の末に起こったクーデター・・・。
当時のチリの状況について、決して十分な予備知識を持っていないわたしではありましたが、克明で膨大な記録の集積が立体的な構成で綴られていて、当時の状況がリアルな感触をともなって伝わってきました。

第3部では、アジェンデ政権誕生からまもない時点まで時間を遡り、労働者や農民らが協力し合いながら多くのグループを組織し、右派の仕掛けた工場経営者らのストライキに対抗しつつ社会の変革に挑もうとする姿を、ここでも労働者や農民らの声を豊富に織り込みながら描いていきます。アジェンデ政権を支持する立場からの記録ということもあり、ある種の党派性を帯びていることは否めませんが、それでも当時のチリの民衆たちもまた、歴史の主役として動いていたということが、ひしひしと伝わってきました。
中でも印象的だったのは、経営者のストライキにより動かなくなった工場の生産を守ろうと集まった労働者たちへのインタビューの場面でした。アジェンデ政権とその政策を支持する立場の労働者が多いなか、「特に政権を支持しているわけではないが、労働者として工場を守るために協力したい」という趣旨のことを語る人が何人かいたのです。そこからは、立場の違いを越えて協力し合う、労働者としての誇りのようなものを感じて、ちょっと胸熱な気持ちにもなりました。

歴史と人間がさまざまに絡み合っていくダイナミズムにひたすら圧倒された、掛け値なしのすごいドキュメンタリー映画でした。宮崎はもちろん、九州でも初めてという今回の上映を成し遂げた映画祭の実行委員に、惜しみない拍手を贈りたいと思います。

『チリの闘い』の終映は午後5時半。ちょっとばかりお腹が空いておりましたがここはガマンして、引き続き上映された『メッセージ』を鑑賞いたしました。

『メッセージ』(2016年 アメリカ)
監督=ドゥニ・ヴィルヌーヴ 原作=テッド・チャン「あなたの人生の物語」 脚本=エリック・ハイセラー 撮影=ブラッドフォード・ヤング 音楽=ヨハン・ヨハンソン
出演=エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、フォレスト・ウィテカー

世界の12ヶ所に突然、謎の巨大な宇宙船が飛来する。攻撃を仕掛けるわけではないものの、なんら意図を明確にしないまま浮遊し続ける宇宙船に動揺と不安が広がる中、各国はそれぞれ調査とコンタクトを試みる。アメリカ側の調査に加わった言語学者のルイーズと理論物理学者のイアンは、宇宙船の中にいる7本足の地球外生命体「ヘプタポッド」の文字言語の解読に挑む。少しずつ解読が進み、ヘプタポッドとのコミュニケーションは進展するかに思われたのだが・・・。

テッド・チャンのSF小説『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF)を原作にして、宇宙からやってきた地球外生命体と人類とのファーストコンタクトと、両者のコミュニケーションをテーマに描いた、21世紀版の『未知との遭遇』ともいえそうな本作。監督を務めたのは、こちらも名作SF映画である『ブレードランナー』(1982年)の35年ぶりの続編となる『ブレードランナー2049』の公開が控えている新鋭、ドゥニ・ヴィルヌーヴです。
言葉も意図もわからない地球外生命体と人類とが、少しずつ相互理解を進めていこうとするプロセス。現実の国際情勢が反映された、国と国との思惑の違い。そして、劇中幾度も繰り返される、ルイーズとその娘とのシークエンス・・・。これらが一気に収束していくラストには、深い感動が湧き上がってきました。
われわれがふだん、当たり前のように行なっている言語によるコミュニケーションと、それによる相互理解。それがいかに大事で尊いな営為なのかをしっかりと伝えてくれる、素晴らしいSF映画でした。
・・・それにしても登場する宇宙船のカタチ、ほんとにおせんべい菓子の「ばかうけ」にソックリだったなあ(笑)。

『メッセージ』を観終わって外に出ると、お昼まで大荒れだった天気もすっかり落ち着いておりました。わたしは映画の感慨とともに空腹とノドの渇きを癒すべく、近くの繁華街へと足を向けたのでありました・・・。

第23回宮崎映画祭観覧記 ① 『イレブン・ミニッツ』のあまりの面白さと驚愕のラストにぶっ飛ぶ

2017-09-17 10:17:43 | 映画のお噂
今年で第23回を迎える宮崎映画祭が、昨日9月16日から宮崎市内中心部の宮崎キネマ館を会場にして始まりました。
先月27日にアップした拙ブログ記事「バラエティ豊かな作品が揃う第23回宮崎映画祭、閑古堂的見どころポイント」でもお伝えいたしましたように、内外の名作から最新の話題作、アニメーション、ドキュメンタリーといったバラエティに富んだ作品が揃ったラインナップだけに、開幕前から大いに楽しみにしつつ、ついにきょうの日を迎えることができた・・・のでしたが、実に間の悪いことに大型で勢力も強い台風18号が、じりじりと九州に向かって接近している中での開幕となってしまいました。なんでまたよりによって、こういう時期に九州に向かってやってくるんだか。北朝鮮のミサイルといい、映画祭を狙いうちにするように接近してくる台風といい、まことに迷惑極まりないのであります。
何はともあれ、今回の宮崎映画祭で鑑賞した映画のご紹介と感想を、これから何回か綴っていくことにしたいと思います。初日の今日は、今年2月に逝去された鈴木清順監督の回顧企画として上映された『東京流れ者』と、ポーランドのサスペンス映画『イレブン・ミニッツ』の2本を楽しみました。

この日の朝は、まだ台風が来ていないにもかかわらず、宮崎市内にはものすごい大雨が降りました。市内の一部では避難指示が出たほか、一気に降った大雨により道路が冠水し、車の通行に支障をきたすような箇所も。実はわたしの勤務先の周囲の道路も驚くほど冠水していて、半ドンでこなすはずだったきょうの仕事も取りやめとなるハメになりました。
そんなドカ降りの雨も、お昼前にはウソのようにピタリとやみました。風のほうもまだそこまで強くは吹いていなかったこともあり、「よしそれなら出かけよう!」ということで、午後から映画祭の会場である宮崎キネマ館に出向きました。


会場に入ると、ちょうどオープニング上映作品であったアニメーション映画『この世界の片隅に』が終わったところでした。評判の作品だけあって、観終わって出てきたお客さんの数はけっこう多め。足元の悪い中でも、少なくない方々が来られていたことに、なんだかホッとする思いをいだきつつ、プログラム2本目であった『東京流れ者』を観たのであります。

『東京流れ者』(1966年 日本)
監督=鈴木清順 原作・脚本=川内康範 撮影=峰重義 美術=木村威夫 音楽=鏑木創
出演=渡哲也、松原智恵子、川地民夫、吉田毅、二谷英明

かつては「不死鳥の哲」との名が轟くスゴ腕のやくざだった本堂哲也。やくざ稼業から足を洗い、堅気となる決意をする哲也だったが、親分として慕っている倉田と、その持ちビルを狙う大塚組とのいざこざに巻き込まれる形となってしまい、東京から新潟、佐世保と流れ歩いていくことに・・・。
日活でプログラム・ピクチャーの作り手として活躍していた頃の鈴木清順監督を代表する本作。任侠ものとハードボイルド、ミュージカル、そしてドタバタコメディと、さまざまなジャンルの要素を詰め込んだ作劇術と、随所に見られるポップな色使い・・・。内外の多くの映画作家たちに影響を与えたという、清順監督ならではの映像美学が冴え渡りつつも、娯楽映画としても十分楽しめる作品となっておりました。
なんといっても、主演の渡哲也さんがカッコよくてカッコよくって。心ならずもさすらいの旅路を行く流れ者を演じる若き日の渡さんには、大門団長とはまた違う意味でシビれました。また、渡さん演じる「不死鳥の哲」と不思議な友情で結ばれた「流れ星の健」を演じた二谷英明さんの渋いカッコよさにも、またシビれました。
劇中、幾度も流れてくる主題歌(歌うはもちろん渡さん)も、映画の雰囲気を大いに高めてくれておりました。

『東京流れ者』のあとに観たのは、ポーランドとアイルランドの合作による宮崎初公開のサスペンス映画『イレブン・ミニッツ』でした。

『イレブン・ミニッツ』(2015年 ポーランド・アイルランド)
監督・脚本=イエジー・スコリモフスキ 製作総指揮=ジェレミー・トーマスほか 撮影=ミコワイ・ウェブコスキ PSC 音楽=パヴェウ・ムィキェティン
出演=リチャード・ドーマー、ヴォイチェフ・メツファルドフスキ、パウリナ・ハプコ、アンジェイ・ヒラ

午後5時のワルシャワ。アイルランドから来た映画監督のいるホテルの一室に向かう女優と、それを半狂乱になって追う嫉妬深い夫。仕事を終えるホットドッグ屋の主人。ヤク中のバイク便配達人。ホテルの一室でポルノ映画を見る登山家の男女。産気づいた女性を病院に搬送する救急隊員たち。河原で映画の撮影現場に出くわした老人。質屋に強盗に入るもしくじった若者。パンクヘアの少女と、彼女に連れられた犬・・・。それまでなんの繋がりもなかったはずの登場人物たちの人生が重なろうとしていた午後5時11分、彼ら彼女らの人生を一変させるような出来事が・・・。
作品についてまったくの予備知識もなく、この日も正直なところ、これといった期待もないままに観はじめたのですが、そのあまりの面白さにぶっ飛びました。これは本当にいい拾いものでした。
それぞれの事情や問題を抱えつつ、別々に生きていた人々の人生が徐々に重なっていく11分間の過程を、映画はときおり時間を巻き戻しつつ描いていきます。81分というコンパクトな上映時間の中で展開していくドラマは、謎めいた緊迫感とともに疾走感たっぷりで、スクリーンから目が離せませんでした。
そして、登場人物たちの人生が一変してしまう驚愕のラストには「まさかこんな着地の仕方をするとは!」と唖然としつつ、スクリーンに釘付けになって固まってしまいました。いやー、ほんとスゴかった!
ポーランドの巨匠といわれるスコリモフスキ監督のこともほとんど知らなかったのですが、観終わった頃には「おそるべしスコリモフスキ監督」と思ったわたしでした。この作品を観ることができただけでも、この日に観に出かけた甲斐がありました。必見の傑作です。

『イレブン・ミニッツ』を観終わって会場の外を見ると、まだそれほど風雨は強まってはおりませんでした。それなら次に上映される『ラ・ラ・ランド』まで観て、そのあと軽く飲食して帰ろうかなあ・・・と悩みましたが、結局この日は上の2本を観ただけで帰宅したのでありました。
これを書いているきょう17日午前、台風18号の暴風域にかかっている宮崎市はだいぶ風雨が強くなっております。しかし、このあと午後からはなにがなんでも上映2日目の会場に向かうつもりです。なんせきょうは、伝説の大長編ドキュメンタリー映画『チリの闘い』と、評判のSF映画『メッセージ』と、個人的には観逃すわけにはいかない2作品が上映されるのですから。鎮まれ台風!!

物事を正しく見極める統計的な考え方を、文系人間にもわかりやすく解きほぐした『Newtonライト 統計のきほん』

2017-09-13 12:45:50 | 雑誌のお噂

Newton増刊『Newtonライト データがわかる 数字に強くなる 統計のきほん』
ニュートンプレス、2017年


毎号美しい写真とイラスト、そしてわかりやすい語り口で、驚きに満ちた科学の面白さを伝えている老舗の科学雑誌『Newton』が、この夏から増刊号として『Newtonライト』という新しいシリーズをスタートさせました。
『Newtonライト』は、これまでの『Newton』本誌および別冊に掲載された記事を再編集し、読みやすくカジュアルな形にまとめたワンテーマ・マガジンです。大きさは『Newton』本誌よりちょっと小さめで、ページ数も60ページほどなので、ちょっとした時間を使ってサクッと読むことができます。定価も680円(プラス税)とお手頃価格なのも嬉しいところです。


その『Newtonライト』の第1弾として刊行されたのが、今回取り上げる『データがわかる 数字に強くなる 統計のきほん』であります。
さまざまな現象からデータを集め、その意味するところを一目でわかるように示すとともに、そこから未知の結果を予測していく・・・。そんな「複雑な自然界や社会にあらわれる出来事を正しく読み解き、さまざまな問題を解決する道具」(前説より)である統計と、その考え方の基本を、『Newton』ならではの豊富なイラストとともに解説しております。
「正規分布」や「標準偏差」「相関」といった、統計における基本的な概念でありながら、その理解となるとイマイチ「?」であった事柄や、偏差値や生命保険の算出法、世論調査や選挙の当確報道といった、身近ではあるけれども、その仕組みとなると「??」であった事象について、数字や数式に弱い文系人間のアタマにもすんなり入るように解きほぐしてくれています。・・・中学・高校時代にさんざん数学のテストで赤点を取ってきたわたしが申し上げるのだから間違いございません(笑)。

取り上げられたトピックの中には、統計学と意外な人物とが結びついた面白いエピソードも。データが左右対称の山のような形となる「正規分布」の節では、フランスの数学者ポアンカレが、1年間毎日買ったパンの重さを表したグラフが正規分布からずれていたことで、パンの重さをごまかしていたパン屋のうそを見抜いたのだとか。宇宙の形の証明という壮大な難問を提示した数学者の天才っぷりは、パンの重さの違いという身近で極小な事象においても発揮されていたようですな。
生命保険の算出に用いられる、年齢ごとの死亡率の一覧表である「生命表」を発表したのが、ハレー彗星にその名を残すイギリスの天文学者、エドモンド・ハレーであったということも、この『統計のきほん』で初めて知りました。

物事を正しく把握するために役立つ統計データも、読み方を誤ればかえって、間違った認識と判断につながってしまうことがあります。『統計のきほん』は、統計を読み解く上で陥りやすい「落とし穴」についてもしっかり触れております。
統計でよく使われる「平均値」という概念。その字面から、「平均値=多数派」だと勘違いしやすいのですが、平均値には極端なデータ(外れ値)の影響を受けやすいという欠点があることが、日本の勤労者世帯における貯蓄額のグラフを例にとって明快に説明されます。
また、Aの要素とBの要素に相関関係があることで、二つの要素に因果関係があるように見えてしまう「疑似相関」についても、例を挙げてしっかりと説明しています(たとえば「理系か文系かということと、指の長さの間には相関関係がある」といったような)。二つの要素以外の、因果関係に影響を及ぼす第3の要素(潜在変数)の可能性を、常に念頭におく必要がある、と。
二つの要素が相関関係にあることだけをもって、二つには因果関係があるのだ!と決めつけてしまうような物事の見方をしばしば目にしますが、それがいかに危ういことなのかがよくわかり、とても勉強になりました。

新しく始まったシリーズ『Newtonライト』に冠せられているキャッチコピーは「理系脳を鍛える!」。そう、数字や数式に弱いバリバリの文系人間であっても、適度な頭の体操をしつつ理系的な知識と考え方を身につけておくことは、世に溢れる怪しげな言説に振り回されないためにも大事なことだと思います。なにより、科学によって広がる驚きに満ちた世界を知ることって、とても楽しいことでもあるのですから。
統計についてもしかり。バイアスのかかった印象操作による誤った認識で判断を下していては、肝心の問題解決にも悪影響を与えてしまいかねませんし、数字に苦手意識があって近寄り難かった統計学の世界も、意外と面白く奥深いものであることがよくわかりました。
統計の基本的な考え方とその奥深さを、文系人間にもわかりやすく伝えてくれる『Newtonライト』第1弾『統計のきほん』、大いにオススメであります。
実はこの『統計のきほん』、買い込んではいたもののずっと積ん読のままであった統計についての本2冊を読むための「予習」のために読んだ次第でした。その2冊もなかなか興味深そうなので、おいおい読んでご紹介したいと思っております。

シリーズ『Newtonライト』は、第2弾となる『大宇宙への旅』がすでに発売中。第3弾の『超ひも理論』も、来週9月19日に刊行予定とのこと。今後も期待したいと思います。

『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』 たかが文体模写。されど文体模写。

2017-09-07 06:32:14 | 本のお噂

『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』
神田桂一・菊池良著、宝島社、2017年


パロディやもじり、パスティーシュ(模倣)といったものが大好物なのです、ワタクシ。
一見するとバカバカしく、軽いものに見られがちなこれらのお遊び。でも、原点となる作品や作家の特徴やクセといったものをしっかりと咀嚼した上で、それらを効果的に真似たり、換骨奪胎して面白いものに仕上げるということは、実のところそんなに簡単ではございませんし、誰にでもできるというわけでもないんですよね。なので、面白いパロディやもじり、パスティーシュをものにするということは、相当に高度で洗練された知的遊戯なのではないか、とわたしは思いますし、それを上手くやれる方を尊敬してやまないのです。
その意味でもなかなか面白く、良くできていると思ったのが、今回取り上げる『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』であります。カップのフタの一部を剥がしてお湯を注ぎ、5分(もしくは3分)間待ってお湯を切り、ソースをからめて食す・・・という、カップ焼きそばを作って食べるまでの過程を、さまざまな作家や形式の文体模写で綴った、少し前から話題になっていた一冊です。

模倣されている面々は、太宰治、村上春樹、コナン・ドイル、ドストエフスキー、大江健三郎、夏目漱石、シェイクスピア、三島由紀夫、川端康成、アンドレ・ブルトン、宮沢賢治、芥川龍之介などといった古今東西の文豪たちから、星野源や又吉直樹といった新進の書き手、松尾芭蕉や相田みつを、俵万智といった俳人歌人詩人、さくらももこなどのエッセイスト、小沢健二や尾崎豊などのミュージシャン、そして人気ブロガーやYouTuberに至るまで多士済々。さらには『週刊文春』や『VERY』などの雑誌文体や新聞記事、求人広告、そして迷惑メールの形式まで模倣されており、全部で100通りのバラエティ豊かな文体で、カップ焼きそばを作って食べるまでの過程が描写されていきます。

太宰治『人間失格』や夏目漱石『坊っちゃん』、芥川龍之介『羅生門』といった、大作家のド定番作品の文体模写もそれぞれ面白いのですが(とりわけ宮沢賢治『よだかの星』の模倣は傑作でした)、それぞれの書き手(もしくは語り手)に合わせた面白い趣向が随所に凝らされているあたりも、なかなかお見事です。
たとえば、ジャーナリスト・池上彰編は、劇団ひとりなどのタレントを相手にしたニュース解説のやりとりを「カップ焼きそばの作り方解説」に置き換えたもの。また、村上龍&坂本龍一の対談は、お二人の対談集『EV.Cafe 超進化論』のパロディになっていて、いかにもこのお二人が「言いそう」なやりとりをうまく再現しております。
『ニューロマンサー』などの作品で知られるアメリカのサイバーパンクSF作家、ウィリアム・ギブスンの模倣は、炭水化物に “スピード”、作り方に “コード” などとルビが振ってあったりして、これまた実に「ソレっぽい」雰囲気で楽しませてくれます。また、官能小説家の宇能鴻一郎編では、食欲と性欲との密接で濃厚な絡み合い・・・もとい、関係が実によく表されておりました。
「麺の細道」と題した松尾芭蕉の模倣では、芭蕉の代表句4句がネタにされております。いずれも傑作なのですが、とくに「閑さや 部屋にしみ入る 啜る音」には、思わず声を上げて爆笑させられました。
中には「これはちょっとイマイチかなあ・・・」と思うような模倣もいくつかございましたが(コラムニストにして消しゴム版画家のナンシー関編は、ナンシーさんの大ファンであったわたしにはいささか物足りなさを感じました)、それぞれの書き手のクセや雰囲気を、総じてうまく再現しているように思いました。
とりわけよくできていると感じたのが、建築史家の井上章一編。ひらがなと読点(、)を多用した、井上さんの柔らかな文体が、実にうまく再現されておりました。こんな感じです。

「そっちょくにこう書くのも、どうかと思うが、おいしいとは思えないのである。めんはパサパサしていて、ソースもしょっぱい。しかしながら、おいしいと思う人のほうが多い。これは私がおかしいのだろうか。じぶんの味覚をおとしめられたような気がして、ずいぶん、きずついた。」

雑誌記事の模倣も傑作揃いなのですが、中でも『暮しの手帖』のそれは、この雑誌が持つある種の臭み(良くも悪くも)がしっかり活かされていて、なかなかの仕上がりでありました。また、ロック系音楽誌『rockin'on』の定番記事「2万字インタヴュー」の模倣も秀逸で、大いに笑わせてくれました。

文体模写のみならず、さまざまな漫画家の画風で文豪たちを描いた、漫画家の田中圭一さんによる「画体模写」イラストもなかなかの出来です。
「もし西原理恵子が宮沢賢治を描いたら・・・」も爆笑ものでしたが、わたしが一番のお気に入りなのが「もし青木雄二が川端康成を描いたら・・・」。青木雄二タッチの絵がこれほど川端康成にぴったり合うとは。背景の掛け軸に書かれた文言がまた、いかにも青木さんっぽくてイイ感じでした。

書き手に対しても、相当に高度で洗練されたセンスと、原点となる対象の咀嚼力が要求されるパロディやもじり、パスティーシュですが、書き手のみならず読み手も試されるところがあるので、なかなか油断ができません。
小説家・劇作家の井上ひさしさんは、自らが編んだ『児童文学名作全集』(福武文庫、1987年刊。残念ながら現在は絶版なので、どこかで復刊して欲しいところです)の最終巻である第5巻のあとがきで、読み手の「受信能力」について述べています。「書き手という発信機が送り出してくる電波=文章を、受信機=読み手がしっかりと受け止めること、これが読書である」と語った井上さんは、「理解できないのは、おもしろいと感じないのは、自分の受信能力に問題があるのではないか」という自己点検の余裕をもちながら、自己の受信能力=読みの力を鍛えることの重要性を説いていました。
井上さんがいう「受信能力」を鍛えて高めることは、パロディやもじり、パスティーシュを楽しむためにも必要なことのように思われます。なにしろ、原典となる作家や作品のことを知らなければ、その模倣を楽しむことができないのですから。
『もし文豪たちが〜』に話を戻すと、本書で模倣されている100通りの文体のうち、わたしが元ネタとなった原典を知っていたのは全体の8割5分程度、といったところでした。わたしの「受信能力」も、いまいち鍛え方が足りないようであります(とくに、最近の書き手には知らない人が多かったからなあ・・・)。
本書で初めて存在を知った書き手の中で、とりわけ興味が湧いたのは、北園克衛という詩人でした。戦前から1970年代にかけて創作活動を続けていた前衛詩人とのことですが、その模倣に現れる詩の形式がかなり独特なのです。こんなふうに。

カップ焼きそば
の蓋
のなか
のかやく
の袋
そして

やかん
のなか
のお湯

かける
さらに

湯切り

して
ソース

まぜる

一人

食べる

の食事


こういう独特すぎる形式の詩を書いていたという北園克衛という人の詩を、なんだかやたら読みたくなって仕方なくなったわたしであります。

たかが文体模写。されど文体模写。大いに笑えながらも、読み手として試されているようなある種のコワさも感じる、なかなか侮りがたい一冊でありました。そして読んでいると間違いなく、無性にカップ焼きそばが食べたくなります。