読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

別府→日田・2年ぶりの湯けむり紀行(第2回) 楽しかったけど、寂しさとほろ苦さも覚えた別府の夜

2022-02-28 18:46:00 | 旅のお噂
(第1回の記事はこちらであります)

別府タワーからの眺めを堪能したわたしは、タワーの北側に広がる的ヶ浜公園に隣接する「北浜温泉テルマス」に立ち寄りました。


海を目の前にした開放感あふれる温泉施設で、屋内の大浴場のほかに、男女共用で水着を着用して入る「屋外健康浴場」が目玉となっています。こちらも、何年か前に一度入ったことがありました。
脱衣場に入って着ているモノを脱ぎはじめたとき、壁に別府市温泉課からの「お知らせ」が貼られているのが目にとまりました。そこにはなんと、この「北浜温泉テルマス」が廃止される、と記されているではありませんか。
それによれば、利用者の減少や多額の維持管理コストの負担が課題だったため、民間事業者による指定管理者制度を導入したものの抜本的な経営改善には至らず、継続するのは困難と判断したことから、今年の3月いっぱいをもって廃止することになった・・・とのこと。泉都別府とはいえ、温泉施設を維持管理していくことはなかなか大変なのだなあ・・・と思いました。まことに残念なことであります。
屋内の大浴場でゆっくりと湯に浸かり、一度は上がろうと思ったものの、ここはやはり屋外の大浴場にも入っておかなければ、と思い、ロビーで水着を借り、それを着用して屋外の大浴場に入りました。ちょっとしたプールくらいはある広々とした浴槽には、先客の4人家族が楽しそうに入浴しておりました。目の前には、下の画像とほぼ同じような、風光明媚な別府湾と高崎山の景観が青空の下に広がっていて、思わず「ほぉ〜〜〜っ」と声が出ました。


ただ、目を左の方角に転じると、そこにはご当地にキャンパスのあるAPU=立命館アジア太平洋大学の関連施設らしき大きな建物がドーンと建てられていて、それがいささか、景観を損なっているようにも思われたのですが・・・。とはいえ、絶好の天気の中で入る開放感バツグンの大浴場は、やはり最高でありました。
大きな浴槽に張られていたお湯はけっこうぬるめで、アツアツの共同浴場のお湯に浸かった後では少々物足りなさを覚えましたが、しばらく浸かっていると気分が良くなってまいりました。ときどき別の浴槽に移っては少し熱めのお湯に浸かり、またぬるめの大浴槽へ・・・という具合で、気がつけばついつい長居してしまっておりました。もうこの大浴場でお湯に浸かることはできないんだなあ・・・という名残惜しさとともに、お湯から上がりました。
ロビーで水着を返却したあと、自販機で売られていたコーヒー牛乳をゴクリ。やっぱり湯上がりはコーヒー牛乳、それもビン入りに限りますなあ。


「北浜温泉テルマス」をあとにしたわたしは、海岸沿いの遊歩道をしばし散策いたしました。潮風はちょいと冷たかったものの、日差しがたっぷり降り注ぐ別府湾のパノラマは、大いに目を喜ばせてくれました。高崎山の方角には、白い帆のヨットが幾槽か浮かんでおりました。




日が少し傾きかけたころ、この日の宿泊先である「ホテルアーサー」さんにチェックイン。別府駅から歩いてすぐ、そして別府の呑み屋街が目と鼻の先にあるという好立地のホテルであります。チェックインして一息ついたあと、ホテルの大浴場でこの日4ヶ所目となる温泉に浸かったのでありました。

別府の街に灯がともる頃合いとなりました。さあ、お待ちかねの別府呑み歩きのときがやってまいりました。2年ぶりということもあり、気持ちもいっそう高ぶるのであります。
お目当てのお店へ向かいつつ、別府の繁華街を散策。アーケード街の中で、野菜や果物、お花などを並べて売っている露店があったりする、別府らしい生活感のある光景を久々に目にするのも嬉しいですねえ。


そしてたどり着いたのが「美乃里」さん。かつて別府にあった名大衆酒場にして食堂「うれしや」さんで働いておられたご主人が開業したお店で(「うれしや」さんで呑み食いしたときのことはこちらの拙ブログ記事に、2014年に惜しまれつつ閉店したときのことについてはこちらの記事に綴りました)、気取らない家庭料理や居酒屋料理を手頃なお値段で提供してくれる、別府でのお気に入りの一軒であります。


カウンターについてから、さっそく生ビールで別府さんぽの疲れを癒やします。カウンターの中におられたご主人が「ひさしぶり」と声をかけてくださいました。2年のブランクはありましたが、しっかりこちらを憶えていただいていて嬉しいのです。いやー、いろいろありましたけどようやく来れましたよー、と言いつつ、生ビールをグビリと飲みました。
カウンターに並んだ大皿料理から気になる品を選ぶのも、このお店でのお楽しみ。わたしはまず、鶏肉と里芋、大根の煮物とポテトサラダを注文。


しっかりと味の染みた、庶民的で懐かしい美味しさの煮物と、「うれしや」時代からのお気に入りである余計なモノのない正統派ポテサラでビールも進み、お次は大分の麦焼酎をお湯割りで。スッキリした飲み口の麦焼酎もまた、別府で呑むことのヨロコビを感じさせてくれるのであります。


このあたりまでくると、週末の「美乃里」の店内は地元の常連さんを中心にしたお客さんで満席状態になっていて大賑わいに・・・となるはずなのですが、店内はわたしのほかには先客の男性おひとりさまと、ご常連と思しきご夫婦のみ。それらの方々が帰ってからは、なんと店内の客はわたしひとりという状態になってしまったのです。なんだなんだ、いったいどうしたというのか・・・。
「いやこりゃいかんわ・・・。週末の、しかも3連休の初日というのにこれとは・・・。いままでコロナがひどかった時でも、こんなにヒマだったことはなかったわ・・・」ご主人が思わず、そう嘆き節を口にされました。ご主人によれば、街中にもほとんど人が歩いていないというのです。たしかにここにきて、大分県を含めた全国でコロナ陽性者が増加傾向に転じてはいたのですが、それがこうまでストレートに呑み屋さんや繁華街の人出に響くとは。
いやもうほんと、みんなあまりにもビビり過ぎだと思いますよ・・・とわたしは言いました。コロナ騒ぎは実際の感染状況の問題という以上に、人々の気分や空気の問題であるということを、あらためて実感させられ、なんだか情けなさとやるせなさが湧いてくるのを覚えました。
おりしも店内にあったテレビからは、地元テレビ局のローカルニュースが大分での「感染者」の増加を伝えておりました。こうやってマスコミがわーわー騒ぐのもいけないんですよホント!と思わずわたしがわめくと、ご主人とともにカウンターの中におられたお店の女性が苦笑いされました。
ええい、こうなったらせめてお店にいるあいだは美味しく呑み食いしなければ・・・そう思ったわたしは、「本日のおすすめ」が記されたホワイトボードから、あさりの酒蒸しを注文いたしました。あさりの旨味が詰まった出汁とともに美味しくいただいたあと、さらに大皿に乗っていたおでんを注文し、麦焼酎をおかわりいたしました。



わたしは呑み食いしながら、しばしご主人と会話を交わしました。宮崎にはだいぶ前にゴルフで来たことがある、とおっしゃるご主人に、わたしはかつてお気に入りだった「うれしや」さんの流れを汲むお店ということを知って、こちらにお邪魔するようになったんですよ・・・ということを申し上げると、ご主人は「おお、そうかあ」とおっしゃりつつ少々照れくさそうにお笑いになりました。このあと「オードビー」という老舗のバーに行くのが楽しみでして・・・とわたしが言うと、ご主人は「地元なのにその店は知らんかったな。こんど探してみようか」とおっしゃいました。
考えてみれば、こうやってご主人とゆっくりと会話を交わしたことはあまりなかったなあ・・・と思いました。これまで訪ねたときにはいつもお店は大賑わいで、ご主人らとゆっくりと話すことはなかなか難しいものがありましたから(それでもちょこちょこ、気さくに声をかけてはいただけましたけども)。こうやっていろいろと話せたことが嬉しかった反面、そうせざるを得なかった目下の状況には、やはり寂しさを覚えずにはいられませんでした。近くに住んでいたならば、コロナだろうがなんだろうがちょくちょく、このお店に通いたいところなのですが・・・。
また来年もぜひ来るつもりですので、それまでなんとか持ちこたえていただけたら・・・お勘定のとき、わたしはそう申し上げるのが精一杯でした。ご主人は「どうもありがとうございます」と言いつつ、元気に送り出してくださったのでありました・・・。

それからしばし、別府の呑み屋街をぶらついたのですが、たくさんの細い路地が入り組んでいる、実に魅力的な別府の呑み屋街を歩く人は、「美乃里」のご主人がおっしゃっていたようにたしかにまばらでありました。これほどまでに人がまばらな夜の別府の呑み屋街を目にするのはわたしにとっても初めてのことで、さらにやるせない気分が湧いてまいりました。





このやるせない気分を、次の「オードビー」で晴らさなければ・・・わたしはそう思いつつ、期待を込めて「オードビー」に向かいました。しかし、そこで目にしたのは思いもよらない、そして信じられない光景でありました。


2年前まで「オードビー」があったはずの雑居ビル一階の入り口横には、「入居者募集」のプレートがかかり、入り口は固く冷たいシャッターが下されていました。むろん、中に人がいる気配などありません。信じられない思いとともにGoogleで「別府 オードビー」と検索をかけると、そこには見たくもなかった「閉業」という2文字が・・・。
「オードビー」はすでにお店を畳んでいたのです。ウソやろウソやろ・・・と、わたしの頭の中は真っ白になりました。つい2年前には、普通に元気に営業していたはずだったのに・・・2年前の旅の記事【その2】を参照)。
70代ながらもバリバリの現役だったマスターさんと、明るくて気さくだったその娘さんとで切り盛りしていた、別府でも老舗の本格派バーであった「オードビー」。「美乃里」で呑み食いを楽しみ、夜の別府の呑み屋街をぶらついたあとは、このお店で別府八湯をイメージしたマスターさんオリジナルのカクテルを何杯か呑んでは別府情緒に浸り、それからウイスキーの水割りをじっくりと傾ける・・・というのが、夜の別府における大きな楽しみでありました。カウンターにおられた他のお客さんたちと、ふとしたことで意気投合して会話を楽しむことができるのも、また大きな楽しみでした。思い返すほどに、楽しい思い出ばかりが蘇ってきます。
コロナ騒ぎによるお客さんの減少や休業要請が閉店の原因なのか、あるいは何かほかの要因があったのか、それを知る由はありません。いずれにせよ、わたしにとって、そしておそらくは多くの方々にとってもかけがえのない場であった貴重なお店が、別府から失われてしまったのです。
いつしか、わたしの目には涙が浮かんでまいりました。1ヶ月半が経ったいまも、その時のことを思い返すと悲しく寂しい気持ちがして仕方ありません・・・。

でも、このままホテルに引き揚げるわけにはいきません。せっかく2年ぶりに訪れた別府での夜が、ただただ寂しく悲しい思い出になってしまうことは、なんとしてもイヤでした。わたしはもう一軒、心当たりのあるバーに向けて歩き出しました。
そのバーへ向かう途中、もう一度「美乃里」さんの前を通ってみました。店内を覗くと、カウンターには3人のお客さんが。少ないとはいえ、まったくお客さんがいないわけではなかったことを確認できて、ほんの少しだけホッといたしました。
そこからしばらく歩いた先に、そのバーが見えてきました。

昭和レトロな懐かしさのある遊園地「別府ラクテンチ」へと一直線に伸びる、流川通り沿いにある「MILK HALL」(ミルクホール)が、そのお店でした。呑み屋街のはずれに位置する、1階に家電量販店「エディオン」が入ったマンションの2階。一見、呑み屋さんなどなさそうなところにあるお店なのですが、ここも別府で長く営業しているバーであります。
古き良き酒場の雰囲気を感じさせつつも、けっこう広々とした店内。カウンターに腰をかけると、マスターさんは「前にも来られたことがあったのでは・・・たしか6〜7年ぶりですよね」とおっしゃいました。
そう、実は「オードビー」を知る前は、別府での2軒目にはもっぱらこのお店に寄っていたのです。あとで確認したら、前回お邪魔したのはまさしく6年前のこと。マスターさんの記憶力のスゴさに驚かされます。なにはともあれ、しばらく不義理だったわたしのことも憶えていてくださっていて、実に嬉しいことでありました。
最初の一杯にラムベースのカクテルをいただいたあと、数種類のウイスキーを選んでゆっくりと飲みました。あまり馴染みのない銘柄も含め、たくさんのウイスキーが揃っていて選ぶのに迷うくらいであります。
(飲んだ銘柄を覚えていればよかったのですが・・・酔いにまかせてすっかり忘れてしまいました・・・。嗚呼)



おつまみとして、このお店の自家製というレーズンバターを。レーズンの甘味に、バターのコクと塩気が相まって、洋酒のおともにうってつけなのであります。


ふと、「オードビー」の件について何かご存じかもしれない・・・と思い、マスターさんに訊ねてみようとも思いましたが、これ以上悲しく寂しい気分になりたくはなかったのでやめました。それに、この夜の「MILK HALL」はお客さん(そのほとんどが地元のご常連さんのようでした)がけっこう入っていて、マスターさんと久しぶりの会話をゆっくり楽しむというわけにもいきませんでした。
とはいえ、活気のあるざわめきに溢れた店内でゆっくりお酒を傾けているうちに、いつしか悲しく寂しい気分はだいぶ和らいでいきました。やっぱり、ここに来てよかったなあ・・・そう思いました。
楽しかったけど、ちょっと寂しくほろ苦い思いも味わった別府の夜は、こうして更けていったのでありました・・・。

翌朝。6時ごろには起床して身支度をしたあと、ホテルの最上階にある展望レストランで朝食をいただきました。朝食を美味しくいただきながら、日が昇っていく朝の別府の風景を窓から眺めるのは、まことに気分のいいものでした。




朝食のあと、すぐさまわたしはホテルをチェックアウトして、まだ8時にもならない早い時刻に別府をあとにいたしました。次なる目的地である日田へと向かうために。


遠ざかっていく朝の別府に別れを告げながら、来年別府に来るときには楽しい思い出ばかりになるといいなあ・・・という思いが募ってきたのでありました。

                              (第3回につづく)



陰鬱になりがちな気持ちを和ませてくれた岩合光昭さんの写真展「こねこ」と、美味しい天ぷら定食のこと。

2022-02-27 17:20:00 | 宮崎のお噂
宮崎県総合博物館にて、先週末(2月19日)から開催中の、岩合光昭さんの写真展「こねこ」、本日(2月27日)観覧してまいりました(会期は4月10日まで)。




岩合さんが日本各地、そして世界各地で捉えた、数多くのこねこたちの写真を集大成した展覧会。県立博物館では2016年にも、岩合さんの写真展「ねこ」が開催されたことがあります(そのときのことは、こちらの拙ブログ記事に記しました)。今回も前回同様、午前中の早い時間帯に観覧したのですが、会場内は家族づれを中心に多くのお客さんで賑わっておりました。
岩合さんのカメラが切り取ったこねこたちの愛らしさに、猫好きのわたしは魅了されっぱなしでした。母ねこの頭上をぴょんと飛び越えたり、水面から飛び跳ねた瞬間を捉えた写真も実に見事で、まさに岩合マジックといったところであります。
こねこはどの表情も仕草も愛らしいのですが、とりわけ母ねこのそばで安心しきって目を閉じているときの表情(閉じた目が逆八の字型になってるのね)が、もうたまらなくってたまらなくって。目の前にいるこねこを、さも愛おしそうに眺めているイヌの写真にも、種族を越えた親愛の情が感じられてほんわかした気持ちになりました。一見いかつい感じのメキシコのおじさんが、こねこがクルマに轢かれないようにと見守っている写真にもほのぼの。
写真に映り込んでいる、各地の風景・風物との取り合わせも興味をそそりました。青森のりんご農園や、「猫島」として知られる宮城県・田代島の漁港。漁のときに腰掛ける「竹馬」が海面いっぱいに立てられているスリランカ・ゴールの海岸。スイスの山あいの村と草原。ペルーの湖に浮かぶ草を編み込んだ浮島。エジプトはルクソールの古代遺跡・・・。
それぞれの場所の風景と風土の中で生きるこねこたち(そして、彼ら彼女らとともに生きるヒトたち)の暮らしぶりに思いを馳せるのも、また楽しいのであります。こねこを抱きかかえて喜んでいるエジプトの少年の素敵な笑顔も、実に印象的でした。
いつまでもダラダラと続く「コロナ禍」ならぬコロナ騒ぎ禍やら、ウクライナでのキナ臭い動きやらで、ともすれば陰鬱になりそうな気持ちを、岩合さんが捉えたこねこたちが和ませてくれました。いろいろと難儀な世の中だけど、このこねこたちのようになんとか頑張って生きていかなくっちゃな・・・そういう思いが湧いてきたのでありました。



観覧後は、博物館から伸びる、街中とは思えない鬱蒼とした森の中の道を通って、久々に宮崎神宮へ参拝。早くコロナ騒ぎ禍が終わってまともな世の中に戻るよう、祭神である神武天皇に祈ってまいりました。きょうは天気が良かったこともあってか、神宮への参拝客も思いのほかたくさんおられました。

宮崎神宮へ参拝したあとは、神宮前の通り沿いにある天ぷらのお店「江戸っ子 神宮店」さんで、お昼ごはんをいただきました。


宮崎市中心部にある老舗の天ぷら専門店「江戸っ子」の姉妹店で、今回が初めての入店となります。けっこう人気のあるお店のようで、お昼どきの店内はお客さんで賑わいを見せておりました。カウンターの中には、注文された天ぷらのタネに次々と衣をつけ、テキパキと揚げておられるご主人の姿が。





カウンターについて天ぷら定食を注文。天ぷらはエビ2尾をはじめ、ふんわりした食感のハモ、大葉の香りが心地よいタイの紫蘇巻き、さらにかき揚げ、レンコン、まいたけ、ナスの全7品。それら揚げたての天ぷらひとつひとつがまことに美味で、ごはんも進むこと進むこと。「ごはんのおかわりどうですか?」というお店の女性の勧めについつい、かなり久しぶりにごはんのおかわりまでしてしまいました。ふと気づけば、カウンターのお隣で同じく天ぷら定食を召し上がっておられた女性客も、ごはんをおかわりしておられました。やはり美味しいものには男女を問わず、食欲が刺激されるものなんですねえ。
ついてきたお新香もなかなか美味しく、食を進ませてくれる名脇役といった感じ。おかげさまで、大いに満腹&満足いたしました。今度はぜひとも、一杯やりながら堪能してみたいものだのう。繁華街の路地の奥にある本店にも立ち寄ってみたくなってきたねえ。
美味しい天ぷら定食もまた、なんだかんだで陰鬱になりがちな気分を和ませてくれたのでありました。

別府→日田・2年ぶりの湯けむり紀行(第1回) ワクワク、ヒヤヒヤする旅のはじまり

2022-02-23 22:38:00 | 旅のお噂
ワクワクしながらも、どことなくヒヤヒヤするような感じを覚える・・・2年ぶりとなるその旅は、初めて味わうそんな気分の中で始まりました。
先月(1月)の9日(土曜日)から11日(月曜日)にかけて、わたしは大分県の別府と日田へ向けた、2泊3日の旅行に出かけました。これから4回にわたって、2年ぶりとなった旅のお噂を綴っていきたいと思います。

もう2年近くにも及ぶ、新型コロナの感染の広がりをめぐる集団ヒステリー的な社会のパニック状況は、自由に飲食を楽しむ機会はもとより、旅行やレジャーを楽しむ機会もことごとく奪い去りました。年に2〜3回、気分転換のために旅行に出かけることを最大の楽しみにしていたわたしにとっても、この2年間の状況は本当に苦痛で、苛立ちとフラストレーションが溜まるものでした。
思えば、前回旅行に出かけたのはちょうど2年前の2020年2月下旬のこと。やはり別府と、同じく大分の山あいの温泉郷・湯平温泉への旅でした。そのときにもすでに、新型コロナの感染拡大のことがメディアで連日のように騒がれてはおりましたが、旅行に出かけること自体にはとりたてて支障もありませんでしたし、マスクなしで行動しても別段、咎め立てされることもありませんでした(そのときのお噂は、当ブログでも全4回にわたってご報告いたしました。→【その1】【その2】【その3】【その4】)。
しかしその後、状況は急激に悪化。飲食店で美味しいお酒を楽しむことや、県境をまたいで移動したりすること自体が「感染拡大の元凶」と言われかねないような、実にイヤな世の中と成り果ててしまいました。
そうこうするうち、昨年の秋以降は状況も落ちつき、大手を振って飲食や旅行を楽しめるような雰囲気へと変わっていきました。わたしは「やれやれ、これでようやく旅行に出かけられるわい」と、11月ごろから旅行の計画を立てはじめました。直近でまとまった休みが取れそうな1月の3連休に出かけることとし、寒い時期ということで温泉天国の別府と、そして江戸時代の古い街並み情緒が味わえる(そしてやはり温泉もある)日田へ出かけることにいたしました。
宿泊先の予約も済ませ、3連休を心待ちにする日々が続きましたが、年が明けるころになるとまたぞろ、マスコミは「オミクロン」なる変異株によるコロナ感染の増加を(さも嬉しそうに)騒ぎたてるようになりました。異常事態や社会の混乱、他人の不安や不幸をメシの種にして顧みないマスコミの煽り報道と、それに情緒的に流されてヒステリックになってしまう世論のありさまに、つくづく忌々しさが湧きあがってまいりました。
ですが、もう2ヶ月前から計画してきたせっかくの旅の機会を、これ以上奪われるようなことはまっぴらでありました。出かけるのに支障がないのであれば、何があろうと決行するぞ!とあらためて決意を固めました。
幸いにも県外への移動を妨げられるような事態にはならなかったので、9日は予定どおり出発することにいたしました。とはいえ、出かけたあとになって旅行を妨げられるような動きが出やしないだろうか、そして現地の皆さまはヨソ者であるわたしを普通に迎えてくださるだろうか・・・そのことが気がかりで、久しぶりの旅行にワクワクしつつも、いささかハラハラした気分を覚えていたのでありました。

そして迎えた出発の日。一番早い時刻に出る特急列車に乗るため、早朝5時前に起床。急いで身支度したあと、呼んでいたタクシーに乗って宮崎駅へ向かいました。
これまでの旅行だと、ウキウキした気分丸出しで「これから◯◯へ旅行に行くんですよ〜♪」などと、訊かれもしないのに運転手さんに話したりしていたのですが、今回はどうにも、そういう気分にはなれませんでした。そういうことでも言うと、コイツこういう時に県外に行くのか?とでも思われそうな気がして。まあ幸いにというか、この時の運転手さんはことさら話しかけてくるようなタイプの方ではなく、わたしからも何も申しませんでしたけれども。ともあれ、タクシーはつつがなく宮崎駅に到着。6時少し前、わたしの乗り込んだ特急列車は大分へ向けて出発いたしました。
列車が動き出すと、わたしは駅近くのコンビニで買った朝ごはんの弁当とともに(本当は宮崎駅名物駅弁の「椎茸めし」といきたいのですが、あまりに早朝なので駅構内の弁当屋さんが開いていないもんで・・・)、さっそく缶ビールを開けてグビリ。まだ外は真っ暗ではありますが、こうして車内で缶ビールを呑んでいると、ああ旅に出るんだなあというヨロコビと感慨が、軽い酔いとともにひたひたとカラダを満たしていくのを感じますねえ。今回は2年ぶりの旅ということもあり、そのヨロコビと感慨もひとしおなのであります。

やがて列車は宮崎から大分へ。8時ごろ、日が昇っていく外の風景(たしか佐伯あたりでした)を見ていると、海から蒸気のようなものが立ち昇っておりました。もしかしたらこれが、海水温と外気温との差によって生まれる「気嵐」(けあらし)というやつなのでしょうか。

見えたのはほんの少しの間だけでしたが、ふだんの生活ではなかなかお目にかかれない景色に、気持ちも思わず高揚したのでありました。

特急列車は大分駅に到着し、そこから別の列車に乗り換え。そして9時を少々過ぎたころ、別府駅へ到着いたしました。

これまでの別府訪問では、初日は決まったように「♪はじ〜まり〜はいつも〜雨〜」(by ASKA)的な状況だったのですが、この日の別府は素晴らしいくらいの快晴。2年ぶりの旅の初日としては、実に嬉しいスタートでありました。真っ青な空をバックにして立つ別府観光の立役者・油屋熊八さんの銅像を見ることができて、感慨無量なのでありました。
「熊八さん、ご無沙汰しておりました。久しぶりに別府にお邪魔できて嬉しゅうございます!」
熊八さんに向かって心の中でそうご挨拶して、2年ぶりの別府の街へと足を踏み出したのであります。

なにはともあれ、別府に来たらまずは朝風呂。ということで、別府駅から伸びる駅前通りに立つ「駅前高等温泉」に立ち寄りました。

大正13(1924)年に建てられたというレトロな洋館建築が目を惹く「駅前高等温泉」は、「竹瓦温泉」と並んで別府温泉を象徴する共同浴場です。別府に来たらまずはここの「あつ湯」で朝風呂を楽しむのが、わたしの別府旅のスタートなのであります。
別府の共同浴場でよく見かける、脱衣場から少し低いところにある「半地下式」の浴室には、地元のご常連と思しき先客の方が2人。小判型の浴槽にたたえられたお湯は熱めながらも浸かれないほどではなく、熱めのお湯が多い別府の温泉に慣れるのにも最適なのであります。ここのお湯に浸かっていると、ああ別府に来たんだなあ・・・というヨロコビと感慨がしみじみと湧いてまいります。
ふと浴室の壁を見ると、風変わりなマスク姿の自分を自撮りしたアーティストの写真作品が、いくつか展示されておりました。ちょうどこの時、別府では街のあちこちにアート作品を展示したイベントが開催されていて、この展示もそのイベントの一環というわけでした。
古き良き銭湯の風情あふれる共同浴場の中に展示された現代アートというのは、いささか唐突感もございましたが、昔懐かしい街の中にこうした新しい要素が交わっていたりするのも、別府という街の面白いところかもしれないなあ・・・と思ったことでした。

「駅前高等温泉」から上がり、カラダを少し休めてから、2ヶ所目の温泉に入りました。こちらも駅からほど近いところにある共同浴場「不老泉」であります。

建物こそ新しいものの、開業は明治時代の初期という歴史と由緒のある共同浴場で、訪れるのは4年ぶりのこととなります。
ここの「あつ湯」の熱さっぷりは格別で、一番最初に訪れた時にはものの1分と浸かれなかったのですが、4年前に入った時には5分足らずながらも浸かることができ、おおオレもついにここのお湯の熱さに慣れてきたのかのう、とウレシサを覚えたものでした。
ところが、今回久しぶりにここの「あつ湯」に入ってみると、カラダから出汁でも取るつもりかい?とでも言いたくなるようなキョーレツな熱さ。あまりの熱さにまたもや、ものの1分と浸かれずに出るハメとなってしまいました。やれやれと思いつつ、仕方なく「ぬる湯」に入りましたが、ぬる湯とはいってもそこそこ熱く、「駅前高等温泉」の「あつ湯」くらいの熱さはありそう。いやはや、別府の実力と底力をひしひしと感じる、まことにストロングな温泉であります。
こういうお湯に毎日のように浸かると、「不老泉」という名前の通りに老いや衰えを知らない人生を送れそうな気がいたします。もう2年も経つというのに、いまだに「コロナ怖い怖い」から抜けられない臆病かつ軟弱なミナサマは、1〜2週間ほど朝昼晩の3回ずつ、ここの「あつ湯」に浸かって、心身の抵抗力を高めるといいんじゃないでしょうかねえ。
・・・などと言っているわたしでありますが、このあと何回か「あつ湯」にトライしてみたものの、結局は1分のカベを破ることなく終わってしまったのでありました。わたしもまた、この2年の間にだいぶ軟弱者になったものよ・・・嗚呼。

「不老泉」を出るころにはちょうど昼時分。久々の泉都別府を満喫したら、今度は美味しいものに恵まれた「食都」別府を満喫せねば!ということで、昼食はやはり別府駅の近くにある、魚介料理メインの和食のお店「とよ常」別府駅前店にいたしました。海沿いのホテル街にある「ホテル雄飛」の食事処「とよ常」の支店であります。
席についたらまず、なにはなくとも生ビール。熱〜い湯から上がったあとの生ビール、それもプレモルの美味さはほんと格別であります。

次に運ばれてきたのは「りゅうきゅう」。魚の切り身をタレに漬け込んで作る大分の郷土料理で、お店ごとに味の違いがあります。このお店のは胡麻ベースのタレで、魚に絡む香ばしい風味でビールも進みます。

さあさあ!ここでやってまいりましたのは「関あじ」と並ぶ大分のブランド魚「関さば」!けっこう久しぶりとなるご対面であります。透明感のある白と鮮やかな赤のコントラストは目に美味しく、口に含んで噛み締めるとしっかりした弾力のある身から旨味がじわじわと染み出してきて、もうサバ好きにはたまらないのでございます。

こうなるとやはり日本酒が欲しくなってまいります。ということで、大分の地酒である「ちえびじん」純米吟醸を。すっきりした飲み口に米の旨味が感じられて、いいお酒ですねえ。
美味しいお酒でほろ酔い気分になったところで、仕上げはこのお店の名物「特上天丼」!揚げたてアツアツの大きめ海老天2尾と、ナスやカボチャなどの野菜天が乗っかったごはんに染みたタレの甘辛さが、食欲をぐいぐいとそそってくれる逸品。おかげさまでお腹は満腹、気分は満悦でありました。

別府ではけっこう人気のあるお店のひとつである「とよ常」さん。店内は観光客と思しきお客さんで賑わっていて、お店を出ると空席待ちのお客さんも何人かおられました。世はいろいろと騒々しい中でしたが、そこは3連休の初日だけあって、別府にはそれなりに観光客が来ているように見受けられたのでありました。

なにか食後のデザートを・・・ということで、駅前通りから伸びるアーケード街のひとつ「ソルパセオ銀座」の入り口近くにあるジェラートのお店「ジェノバ」さんへ。こちらも、別府に来るといつも立ち寄っているお店であります。
多彩な種類のフレーバーが揃うジェラートから、今回選んだのは「ストロベリーキュービック」。ミルク感たっぷりのアイスの甘みとコクに、凍ったイチゴ果肉の酸味が相まって、食後のお口直しにはうってつけでありました。


デザートもいただいたところで、腹ごなしに別府の街を歩くことにいたしました。向かったのは、別府のシンボルとなっているランドマーク「別府タワー」です。
1957(昭和32)年に完成した、高さ90メートルの展望施設で、2007年には国の登録有形文化財にも指定されております。雲ひとつない真っ青な空に向かって堂々と聳え立つ姿に、あらためて惚れ惚れいたしました。
設計したのは早稲田大学名誉教授だった内藤多仲(たちゅう)という人物。この方、別府タワーのみならず東京タワーや大阪の通天閣、札幌と名古屋のテレビ塔、さらには博多ポートタワーの設計に携わったという、まさに日本のタワー建築の総元締めみたいなスゴい人物なのであります。
別府タワーを訪れるのも4年ぶりのこと。エレベーターの入り口で入場券を買い、高さ55メートルのところにある展望階に足を踏み入れると、真っ先に目についたのはなんと「白蛇様」。4年前までには一度も目にしたことのないものでした。

受付のところにおられた女性に訊ねてみると、この「白蛇様」はタワーの運営会社が変わった昨年の3月からここにおられるとの由。ふーんそうなのか、と思いつつ「白蛇様」をしげしげと見たのですが、水槽に絡みついた状態でピクリとも動かず、「なんだコイツ?」とでも言いたげな視線を、じーーっとこちらに向けておられました。
展望階をぐるりと回りながら、わたしは眼下に広がる別府のパノラマをじっくり、たっぷりと堪能いたしました。




快晴の空の下、陽の光を浴びて広がる別府のパノラマは最高で、2年ぶりの旅の気分を大いに高めてくれたのでありました。

                             (第2回へつづく)


忘れかけていた、美味しいものを食べることの楽しさと喜びを再認識させてくれた、宮崎市の小さな定食屋さん

2022-02-20 20:33:00 | 美味しいお酒と食べもの、そして食文化本のお噂
飲食店をはじめとする各業界や、地域経済に対してダメージを与えるばかりで、さして効果や意味があるとは思えない、くそいまいましいばかりの「マンボウ」こと「まん延防止等重点措置」とやらのせいで、わが宮崎では外での呑み食いもままならないという、なんとも面白くもない日々が続いております。
つまらなさと息苦しさで鬱々とした気分を、美味しいもので少しでも晴らしたいと思い、宮崎市中心部の若草通アーケード街の中にある、細い路地を入ったところにある「おいしい亭」さんへお昼ごはんを食べてきました。気立てのいいご夫婦が営んでおられる、6〜7人が座れるカウンターだけの小さな定食のお店であります。




いくつかある定番の定食メニューから選んだ、和風ハンバーグ定食は実に美味しく、大満足でした。大根おろしと刻んだ大葉が乗った、和風ソースの絡んだ焼きたてハンバーグはもちろんのこと、小鉢に盛られたおかずやお漬物のひとつひとつ、そして食後のコーヒー(定食についてきます)もまた、しみじみと美味しいのです。


「マンボウ」が続いていることに加え、おりしも開催中の北京オリンピックで、日本チームが臨んだ女子カーリングの決勝戦が行われていたためもあってか、宮崎市の中心街は日曜にもかかわらず人出は少なめ。ですが、ここ「おいしい亭」さんの店内にはご常連さんと思しき奥さま2人や、カップルのお客さんひと組が入っていて、こじんまりした店内は賑わいを見せておりました。食事とともに、お店のご夫婦やご常連さんと会話を交わしたりもして、おかげさまでホッとする時間を過ごせました。美味しい料理だけでなく、そういう人と人との触れ合いを楽しむことができるのも、飲食店で過ごすことの楽しさと喜びです。
「マンボウ」のせいで忘れかけていた、飲食店で美味しいものを食べながら過ごす時間の楽しさや喜びを、「おいしい亭」さんは再認識させてくれました。

そのあとしばし、宮崎市の中心街をぶらついて、山形屋デパートの地下街にある、菓子店「味のくらや」の支店で、看板商品のひとつである宮崎名物「チーズ饅頭」を買って帰りました。



ふっくらした和風蒸しパンの生地に、コクのあるクリームチーズが入ったここのチーズ饅頭は、数ある宮崎のチーズ饅頭の中でも一番のお気に入りなのであります。
(あ、買ってきた6個全部をひとりで食べたワケではございません、為念)

やっぱり、美味しい食べものと飲みもの、そしてそれらを提供してくれる飲食店などのお店があってこそ、人は幸福感を得て生きていくことができるのですし、地域にも活気と活力が生まれてくるんですよ、「マンボウ」に固執するばかりで進歩のない知事さんよ!

気負った若書きながら、早くも荷風文学のスタイルが確立された佳作『地獄の花』

2022-02-13 22:36:00 | 本のお噂


『地獄の花』
永井荷風著、岩波書店(岩波文庫)、1954年


もうすでに2年以上も経つというのに、社会はあいもかわらず、コロナコロナでおかしくなったままであります。
わが宮崎でも、〝感染拡大防止〟を錦の御旗にした「まん延防止等重点措置」とやらが先月(1月)から適用され、さらにそれが延長されるに至りました。旅行やレジャーはおろか、美味しいものを好きなように呑み食いできる楽しみまでもが、1ヶ月以上も奪われるという異常かつ理不尽きわまりない状態が続くことになります。感染力は高いものの、陽性者のほとんどは無症状か軽症にすぎない「オミクロン株」を相手に、社会は真っ当さと正気を失ったまま。
こんなおかしな状況が延々と続く世の中にあっては、こちらの精神までおかしくなってきそうです。実際ここ1ヶ月近くの間、ものを読んだり書いたりする意欲や気力も失せてしまっておりました。
こんなときには、確固とした自我とポリシーを持った書き手の書物を読んで、精神の活性化を図るに限ります。永井荷風は、わたしにとってそんな書き手の一人。ということで、まだ未読のままだった初期の作品『地獄の花』を読みました。

女学校の教師をしている園子のもとに、黒淵家の息子の家庭教師の話が舞い込んでくる。黒淵家は巨大な富を持ちながらも、それが公明正大な手段で得られたものではなかったことを理由に、世間からは白眼視され排斥されていた。はじめのうちは決断しかねていた園子だったが、黒淵家に出入りしていた知己で宗教家である男のたっての頼みもあって引き受けることに。黒淵家の置かれた境遇に同情を寄せるようになった園子は、その息子の教育に熱心に取り組んでいくが、やがて過酷なまでの運命のいたずらに翻弄されていくことに・・・。

明治35年、当時24歳だった荷風さんが文芸誌の懸賞小説の募集に応じて書き上げた長篇小説(とはいえ文庫本で100ページ少々という長さですが)で、この作品の出版により新進作家として認められることとなりました。
完全なる理想の人生を形造るためには、人間の持つ暗黒なる動物的な一面を研究しなければならない・・・と冒頭の一文で述べているように、本作は教育家や宗教家などといった、世間からは「崇高な人格者」とされている人間たちが持つ欺瞞や醜悪な俗物性を、容赦なく暴き出していきます。その語り口はまことにストレートすぎていて、若書きらしい青臭さが感じられるのは否めません。
ですが、コロナ騒ぎで明らかにされた、権威や世間体、キレイゴトの裏にある世の中の偽善や欺瞞に嫌気が差しまくっていた今のわたしには、いささか気負っていて青臭い本作の語り口が、想像以上に気持ちに響いてまいりました。
とりわけ魅力的に映ったのが、黒淵家の娘である富子という人物でした。本家から離れ、ひとり向島の別荘に住む富子は、世間における体面や名誉といったものをとことん否定し、自由な生き方を志向する気高い女性として描かれています。その富子が語る人生観が実にいいのです。
(以下、引用文はあえて旧字旧仮名のままとします。カッコ内は引用者による補足です)

「社會から受ける名譽とか名望とか云ふものは果たして何であるか。名望を得やうと思つたら、表面の道徳とか道義とかを看板にして、愚にもつかない事にまで自分の身を欺く偽善者にならねば成らぬ。其様(そんな)事より世の中から卑まれ退けられた自由の境に、悠々として意(こころ)のまゝに日を送る方が何(ど)れ程幸福で愉快で、そして又心に疚(やま)しい事が少いか」
「自分はもう世の中は馬鹿々々しいものである、何様(どんな)美しい名誉の冠を戴いて居やうが、其は皆見せかけばかりであると云ふ事を悟りきつて、自分は自分である。世間は世間である。自分は世間の評判なぞには決して心を向けずに自分の爲(し)たいと思ふ事を少しの遠慮もなく自由に振舞つて行けば可い」

浮薄な名誉や世間体を排する、凛とした痛快さに満ちた富子の語りには、荷風さん自身の人生観が反映されているようで興味深く思われました。
過酷なまでの運命のいたずらによって、園子は身も心も傷つけられていきます。それでも園子は、富子や黒淵家の息子・秀男とともに、「世間が云ひ囃す汚い地獄の中」で毅然として生きていく道を選びます。その決意表明がまたいいのです。

「今は如何なる汚行も自身を欺く事はない。人は此の自由自在なる全く動物と同じき境涯にあつて、而して能く美しき徳を修め得てこそ始めて不變(変)不朽なる讃美の冠を其の頭上に戴かしむる價値を生ずるのである。否始めて人たる名稱(称)を許さるゝのである」

運命に翻弄されながら、それでも前を向いて生きていこうとする女性像。「成功者」「人格者」などとして世間で持て囃されている存在ではなく、むしろ世間から疎まれ、蔑まされている存在に人間としての価値を見ようとする姿勢・・・。それらは、のちの荷風さんの作品群にも共通して見られる要素でしょう。
『地獄の花』は青臭く気負った若書きでありながら、早くも荷風文学のスタイルを築き上げた佳作ではないかと思います。