読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『大相撲と鉄道』 鉄道ファンの行司が綴った、並々ならぬ鉄道愛と師匠への想いが詰まった一冊

2021-04-14 06:44:00 | 本のお噂


『大相撲と鉄道 きっぷも座席も行司が仕切る⁉︎』
木村銀次郎著(能町みね子・イラスト)、交通新聞社(交通新聞社新書)、2021年


毎月発行されている『JR時刻表』をはじめとした、鉄道に関わる雑誌や書籍を出版している交通新聞社。そこが刊行する「交通新聞社新書」は、鉄道の魅力や面白さをバラエティ豊かな切り口で取り上げた、鉄道好きならずとも興味をそそるような書目がいろいろとあって、最近気になる新書レーベルです。今回取り上げる『大相撲と鉄道』も、その一冊であります。
本書は現役の幕内格行司で、大の鉄道ファンでもある木村銀次郎さんが、大相撲と鉄道との関わりの歴史やエピソードを、自らの体験を織り交ぜながら綴った一冊です。いわゆる雑学本の一種ではありますが、知らなかったことがたくさん記されていて、「へぇ〜」というオドロキとともに楽しく読むことができました。

力士が土俵に上がり、勝負が決まって勝ち名乗りを上げるまでの一切を取り仕切る行司さんですが、行司さんが担っている仕事は多岐にわたります。土俵上の仕切りにとどまらず、番付表や館内の電光掲示板などに独特の書体で記されている「相撲字」を書いたり(「行司は習字」といわれるほどだとか)、土俵上の勝敗や決まり手、来場者への案内などの場内アナウンスを行ったり、地方巡業の時には勧進元(興行主)との折衝を補佐したり、さらにはイベントやパーティーの受付や司会進行を務めたり・・・。行司さんのお仕事がこれほどまでに幅広いということに、まずは驚かされました。
そんな多岐にわたる行司さんの重要な役目のひとつが「輸送係」。年3回の地方場所(このときの移動のことを「大移動」という)や、各地への巡業時における親方衆や力士、行司、呼出し、床山といった面々の移動手段を勘案し、手配するのがその仕事です。

「大移動」時には180人から280人にのぼるという多くの人びとを、いかに安全に、かつ合理的に輸送するかを、地方場所や巡業のスケジュール、鉄道の運行状況をしっかりと把握した上で計画し、必要な人数のきっぷを手配する「輸送係」の仕事は、土俵上の仕切りに劣らないくらいの責任が伴う大変な役目であります。本書では過去の事例を挙げながら、その仕事の内容が詳細に語られています。
なかでも神経を使うのが、登場する人たちの席の割り振り。親方衆の隣には、力士を座らせないように配慮するといいます。身体の大きな力士が隣に座ることは物理的に窮屈な上、力士のほうも隣が親方衆ではゆっくり寛ぐどころではなくなってしまうから・・・というのがその理由です。また、3人掛けの座席に体重160kg超の力士がきっちり3人で座ることは不可能なので、身体が大きな力士の隣には体重100kg未満の幕下以下の力士などを「パズルのピースを埋めるように」配していくのだとか。・・・いやはや、これはかなり大変そうだわ。

一方で、相撲の世界は番付がモノをいう厳しいタテ社会でもあります。窮屈な思いをせず、ゆったりと座れるグリーン車に乗れるのは十両以上の関取衆。それ以下の力士は、1両に最大で100名を乗せるという「大移動」の車内で、窮屈さに耐えなければなりません。そんな「大移動」にまつわるエピソードで印象的なのが、元大関琴欧洲(現・鳴門親方)が味わった苦労話です。
平成15年(2003)の大阪場所でのこと、入門して間もなかった頃の琴欧洲が、ケガをして松葉杖をつきながらの痛々しい姿で改札口へとやってきたのを目にした銀次郎さんは、2人掛けの通路側にあたる席のきっぷを手渡しました(「大移動」では座席割りは行わない)。しかし、乗車後に見まわってみると、なんと琴欧洲は3人掛けの、しかも真ん中の席で身体の大きな兄弟子に挟まれ、トイレにも立つことすらできない状態で座らされていました。兄弟子に座席を交代させられていたのです。
厳しいタテ社会とはいえ、なんとも理不尽な仕打ちに「悔しくて腹が立って、絶対にこの人たちより強くなってやろうと心に誓った」という琴欧洲は、その大阪場所で6勝1敗という好成績を残し、その後大関にまで上りつめていくことになったのです。そんな屈辱をバネに奮起したからこそ、琴欧洲は多くの人たちに愛されるお相撲さんになったのかもしれません・・・。
そのほかにも、鉄道の運転士に転身した力士のお話や、大の相撲好きでもあったという建築家・辰野金吾が設計した東京駅は、横綱の土俵入りをイメージしたものという話なども、実に興味深いものがございました。平成29年(2017)の九州北部豪雨で被害を受けた、福岡県東峰村にある「大行司駅」のエピソードには、ちょっと目頭が熱くなりました。

本書を読んでいると、著者である銀次郎さんの並々ならぬ鉄道愛がじんじんと伝わってきました。輸送係を離れていたとき、相撲列車として運行していた本州〜北海道間の寝台車連結の特別仕様列車に乗ることができず「胸の奥から妙な悔しさがこみ上げて」きたと回想していたり、機械で印刷される券よりも手書きの券のほうが「温かみや独特の旅情を掻き立てられる」とお書きになっていたり。
本書には、銀次郎さんの師匠である峰崎親方(元幕内・三杉磯)との師弟対談も収められています(聞き手は、本書のイラストを描いている能町みね子さん)。
兄弟子の席を取ろうと、ホームに入ってきた車両に飛びついてグーパンチで扉を破ったり、通路を挟んで麻雀をやってるのでトイレに行けず、やむなく網棚を通って(!)移動したり・・・と、相撲列車をめぐる、今では考えられないような抱腹絶倒のエピソードを語っておられる峰崎親方もまた、鉄道模型をたくさん持っていたほどの鉄道好きといいます。
その峰崎親方は、先だっての三月場所をもって停年を迎え、部屋も閉鎖されることになったのだとか。銀次郎さんは、本書が「師匠の停年へのはなむけ」になれれば・・・と後書きでお書きになっていて、なんだか暖かな気持ちになったのでありました。

世の中が新型コロナウイルスをめぐるパニックで狂ってしまった昨年(2020)以降は、年3回の地方場所や巡業もなくなってしまいました。昨年走った相撲列車は、2月23日に東京から大阪を走った1本のみだったとか。お相撲さんと地方の人びとが触れ合うことのできる貴重な機会が、コロナ騒ぎのせいでことごとく奪われてしまったことは、まことに残念なことであります。
一日も早く世の中がまともに戻って、お相撲さんと地方の人びとを繋げる相撲列車が走れるようになることを、願わずにはいられません。

【たまには名著を】歳を重ねることでさらに味わえる、社会と人間の虚飾を剥ぐことばの数々『ラ・ロシュフコー箴言集』

2021-04-11 18:45:00 | 本のお噂


『ラ・ロシュフコー箴言集』
ラ・ロシュフコー著、二宮フサ訳、岩波書店(岩波文庫)、1989年


17世紀フランスの名門貴族のひとりであったラ・ロシュフコーが書き綴った、人間と社会の本性を鋭く突いたアフォリズムを集めた箴言集です。
「フランスのモラリスト文学の最高傑作」と称えられる一方で、「後世の多くの高名な読者に反発、怒り、苛立ちを感じさせ、槍玉にあげられる光栄に浴してきた、あくの強い刺戟的な古典」(いずれも巻末の解説より)でもある本書。20代のはじめに読んで以来、かなり久しぶりにじっくりと再読してみたのですが、あらためてその鋭いことばの矢に射抜かれ、うーむと唸らされたのであります。

再読してあらためて唸らされ、かつ頷かされたのは、きれいごとに満ちている人間と社会の虚飾を、容赦なく剥ぎとっていく箴言の数々です。

「あらゆる立場でどの人も、みんなにこう思われたいと思う通りに自分を見せようとして、顔や外見を粧っている。だから社会は見かけだけでしか成り立っていない、と言える」
「われわれはあまりにも他人の目に自分を偽装することに慣れきって、ついには自分自身にも自分を偽装するに至るのである」

他人に向かって「こう思われたい」という自分をアピールするあまり、自分の本当の姿を見失ってしまう・・・。そんな人間の振る舞いは、現代のSNSでもお馴染みの光景でありましょう。
そのSNSにおいて、正義感ぶって他者を非難したり、自分が他者よりも優れているかのようにアピールする、いわゆる「マウントをとる」ような人物への皮肉をこめた箴言も見受けられます。これにもまた、苦笑いとともに「あるある」と頷くばかりであります。

「人が不正を非難するのは、不正を憎むからではなく、そのために自分が不利益を被るからである」
「われわれは、自分と同じ意見の人以外は、ほとんど誰のことも良識のある人だとは思わない」
「人は他人の欠点をすぐ非難するが、それを見て自分の欠点を直すことはめったにない」

ラ・ロシュフコーは、自分は他者よりも優れているかのように思い、傲慢にも他者を非難したがるような精神構造に、痛烈な矢を放ちます。そしてその矢に、わたし自身も射抜かれるような思いがいたしました。

「傲慢はすべての人間の心の中では一様なのであって、ただそれを外に表す手段と趣に相違があるに過ぎない」
「精神の狭小は頑迷をもたらす。そしてわれわれは自分の理解を超えることを容易に信じない」
「他人に対して賢明であることは、自分自身に対して賢明であるよりもたやすい」

いくら他者に向かって自分を偽装し、他者より優れているように思いこんだところで、しょせんは自らの欠点から逃れられないわたしたち。ラ・ロシュフコーは、そんなわれわれに痛烈な矢を放つ一方で、ある意味で勇気づけられるようなことも言ってくれています。

「欠点の中には、上手に活かせば美徳そのものよりもっと光るものがある」

そして、すでに人生後半戦に突入しているわたしが勇気づけられたのは、以下のことば。

「われわれは生涯のさまざまな年齢にまったくの新参者としてたどり着く。だから、多くの場合、いくら年をとっていても、その年齢においては経験不足なのである」

歳を重ねるとついつい、自分はもう衰えていくだけでたいしたこともできないだろうと、自分の可能性にフタをしてしまいがちになります。ですが、いくら歳をとってもその年齢においては経験不足ということであれば、その年齢に応じた経験を積み重ねていくことで、充実した人生を送ることができるのではないか・・・。上に挙げたことばは、そんな希望を与えてくれるように思えました。
とはいえ、くれぐれもいい気にならないよう、ゆめゆめ気をつけなければなりませぬ。本書には、こんな箴言もあるのですから。

「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」


本書後半の「考察」は、人間と人生の諸相について論じた、少し長めの文章が収められています。ここでは、「交際について」と「会話について」の2篇が、とりわけ印象に残りました。
「交際について」では、交際の楽しさのためには「少なくとも利害が相反しないことが必要」とした上で、「物を見るためには距離を置かねばならないのと同じに、交際においても距離を保つ必要がある」と説きます。また「会話について」では、「自分が傾聴して欲しかったら人の話に耳を傾けるべきである」と述べた上で、どうでもよいことに異議を唱えたり、権威ありげに喋ったりすることなどを戒めています。いずれの文章も、現代のわれわれにとっても有益であるように思いました。

資生堂の名誉会長であり、財界人きっての読書家・教養人でもある福原義春さんは、堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』や、『箴言集』の別訳である『箴言と考察』の冒頭に収められた田辺貞之助の文章を引きながら、『箴言集』のバックとなっているラ・ロシュフコーの人物像について述べておられます(『本よむ幸せ』求龍堂刊より。実は本書を再読しようと思ったのも、この本にある『箴言集』の紹介文を読んだのがきっかけでした)。それによれば、ラ・ロシュフコーは陰謀によって戦いの渦中に巻き込まれ、銃で両眼を撃たれて40歳にして失明の淵をさまよったといいます。また、陰謀を牛耳った女たちにあざむかれ、何度か煮湯を飲まされる経験もしていたとか。
20代のはじめに読んだときには、ただただその辛辣な語り口に痛快さを覚えていたのですが、ラ・ロシュフコー自身が歩んだ波乱に富む人生を知った上で本書を読むと、辛辣さの裏に隠された苦さが、じんわりと感じられてまいりました。加えて、わたし自身が年齢を重ねたことで、おのずと本書の読み味も変わってきたのではないかと感じるのです。

昔も今も変わることのない、人間の本質を突いた洞察に満ち、その時々の年齢で違った読み味を感じることのできる本書は、まさしく今に生きる古典としての価値を保ち続けている一冊であると思います。

〝怠け者〟だからこその鋭い洞察と、飄々としたユーモアに魅了された、梅崎春生の『怠惰の美徳』

2021-04-11 11:08:00 | 本のお噂


『怠惰の美徳』
梅崎春生著、荻原魚雷編、中央公論新社(中公文庫)、2018年


一読するとたちまち、心を鷲掴みにされてしまいました。自らの戦争体験をもとにした、シリアスな純文学の書き手、という印象の強かった梅崎春生が、こんなにユーモアに満ちた愉快な随筆や短篇小説を書いていたとは!

本書『怠惰の美徳』は、梅崎自身の「怠け者」としての生き方から生み出された随筆26篇と短篇小説7篇、そして2篇の詩を文筆家の荻原魚雷さんが選び、一冊にまとめた文庫オリジナルの作品集です。
作家になる前の小役人生活を回想した表題作「怠惰の美徳」。ここで梅崎は、「仕事がさし迫ってくると怠け出す」自らの傾向について触れ、

「仕事があればこそ怠けるということが成立するのであって、仕事がないのに怠けるということなんかあり得ない。すなわち仕事が私を怠けさせるのだ」

などと語るのです。なんという堂々たる屁理屈(笑)と思いつつも、実は似たような傾向があるわたしとしては、なんだか妙に頷けるところがございました。
食後に横になることを禁じられた幼少時のきびしい家庭教育や、満足に横になって寝ることすらできなかった軍隊生活の反動から、だらしなく横になって寝るのが好きになったと語る「只今横臥中」。ここでは一日十時間、これに夏のあいだの昼寝の時間が加わると年間平均は十時間を上回る、という自らの横臥好きを告白し、「そんなに眠っては、起きている時間がすくないから、一生を短く生きることではないか」という問いに対しては、

「起きてぼんやりしているよりも、眠って多彩で豊饒な夢を見ている方が、はるかに有意義である。はるかに人生を愉しく生きていくことになると、私は思っている。それに十時間も眠れば、休養が充分にとれて、長生きができようというものである」

と、これまた胸を張って(?)主張するのです。これはこれで、妙な説得力のようなものがあるかもなあ、と思ったのでありました。

たっぷりと横になる中で、頭に浮かんできた妄想を綴った随筆にもまた、面白い味があります。
ズバリ「閑人妄想」と題された随筆では、狭い国土に一億人もの人間がひしめき、仕事はおろか釣りや登山といった遊びをするのにも忙しい思いをしなければならない日本の状況を嘆きます。その上で、思い切って体質改善(?)して背丈を1メートルぐらいにすれば、電車も混まないし、ゴルフ場も三分の一に縮小でき、建物も五階建てが十階分に使えるのでは・・・と、過密する人口問題への珍妙な〝解決策〟を妄想するのです。
「チョウチンアンコウについて」も、短いながら愉快な一篇です。体の大きさがメスの十分の一しかないチョウチンアンコウのオスは、メスの体に唇で吸いついたあとはメスの体の一部と化し、不要となった消化器官や眼、脳などが退化して「いぼ」のような形に成り下がってしまうが、精巣だけは残っていて、メスの産卵に合わせて精子を放出すると、深海ゆえ洗い流されることもなく卵にくっつく・・・という知見を紹介した上で、「この瞬間のことを考えると、私はなにか感動を禁じ得ない」と記すのです。・・・どういう「感動」なんだか(笑)。

ユーモアに溢れる愉快な随筆がある一方で、「怠け者」だからこそ見えてくる「規則通りに動いているかのようにおもえる世の中のおかしさ」や、「人間の本能、あるいは理性や知性の脆さ」(いずれも、編者である荻原魚雷さんの巻末解説より)を鋭く突いた随筆も、いくつか収められています。それらの作品に籠められたことばがより一層、わたしの気持ちを鷲掴みにいたしました。
「エゴイズムに就て」と「世代の傷痕」では、われわれの、そして梅崎自身も持っているエゴイズムとの向き合い方が語られています。梅崎は、すべての人が生きていくために多かれ少なかれ、他者の犠牲の上に成り立っている自分のエゴイズムを容認しながら生きているにもかかわらず、小説などにおいて善意への郷愁や待望ばかりが語られるということの嘘っぽさといやらしさを鋭く突いた上で、このように述べるのです。

「ルネッサンスが個人の自覚に始まったと言うなら、今の時代はエゴイズムの自覚と拡充から始まる。どの途(みち)現世の頽廃は底まで行き着かずにはおかぬ。生き抜く事が最高の美徳であり、犠牲や献身が最大の欺瞞であることを僕等は否応なしに思い知るだろう」  (「エゴイズムに就て」より)
「私とても自らのエゴイズムを良しとするわけではない。しかしそれを認容しなければ生きて行けないから私はそれを肯定する。肯定する処から新しく出発したい。もし現世に新しい倫理があり得るなら、人間の心の上等の部分だけでなれ合ったようなかよわい倫理でなく、人間のあらゆる可能性の上に、新しく樹立されるべきであると私は思う。私は既に日常生活に於(おい)て、私自身に対して前科数百犯の極悪人だ。だからこそ私は自分の悲願の深さを信じる。そして血まみれの掌を背中にかくして、口先ばかりで正論めいた弁舌を弄する論者や、果敢(はか)ない美をうたう詩人や、うそつきの小説家を憎む」  (「世代の傷痕」より)

思えば、今もなお続いている新型コロナウイルスをめぐるパニック状況は、わたしたちの中に潜んでいた醜いエゴイズム的本性が、マスコミが煽り立てる恐怖や不安によって白日のもとに晒される過程でもあったように思われてなりません。
マスクやトイレットペーパーなどを買い占めてはそれを平気で転売する。感染した人やその周囲の人たちを村八分扱いにする。〝自粛〟に従わない人や店舗を〝正義〟の皮をかぶりながら誹謗中傷する。そんなことが横行するような世の中を前にして、当たり障りのないきれいごとや理想論を、上から目線で述べるばかりの〝文化人〟や〝知識人〟・・・。この一年あまりの世の中の状況は、われわれ人間が「生」を脅かすような不安や恐怖心に駆られることでエゴイズムをむき出しにする存在である、ということを否応なしに、あらためて思い知らされることとなりました。
こういうわたし自身もまた、エゴイズムと無縁であるはずもなく、もしかしたら他者よりも一層、強いエゴイズムを底に秘めているのかもしれません。そもそも、他からの干渉や抑圧に抗し、「個」として生きようとすることもまた、ある種のエゴイズムに基づいているでしょうし。
それだけに、自らを含む人間の中にあるエゴイズムを自覚、肯定することから出発することを決意した梅崎の鋭利なことばが、いまのわたしの気持ちにぐいぐい、食い込んでまいりました。

「衰頽からの脱出」と題した一篇では、梅崎が「精神の本質的な衰頽である」と言い切るところの日本的気質に鋭くメスを入れています。その気質とは、「自我を埋没して他によりかかろうという」「自我の壮大な完璧さをいとう」封建的な精神のこと。それは戦後になってもなお、日本全体をおおっていて、「最も進歩的」であるはずの団体ですら、その内部は「親分子分の関係」でつらぬかれていたり、文化面にも徒弟制度という形で存続したりしていることを、梅崎は指摘します。
そして、そんな気質を有する日本的衰頽を嫌悪しながらも、それに惹かれる気持ちも充分にあるということを梅崎は認めた上で、そこから出発して「できることなら脱出を完成してみたいのである」として、次のごとく宣言するのです。

「私は日本人であることよりも、人間であることに喜びを感じたいのだ。もし日本人というのが、日本的衰頽を身につけた人間という意味であるならば」

自らは「自我を埋没して他によりかか」りながら、自我を持って立とうとする人間を侮蔑し、さらには迫害までするような日本的気質の悪い面も、目下のコロナ騒動によって炙り出されているように思えてなりません。ゆえに、日本的気質からくる「精神の本質的な衰頽」と向き合い、それを超克していくことも、また必要であるように感じました。
日本の文学で主流となっている「リアリズムと称する自然主義や、私小説的精神や、花鳥風月の精神や、日本的ロマンティシズム」と決別して、「何物にも囚われることを止そう」という決意を語った「茸の独白」の終わりのほうで、梅崎はこう言います。

「私は今まで誰をも師と仰がなかったし、誰の指導をも受けなかった。それは文学上のことだけでなく、生活の上でもそうだった。私は何ものの徒弟でもなかった。また私は徒党を組まなかった。曲りなりにもひとりで歩いて来た。今からも風に全身をさらして歩きつづける他はない」

「自我を埋没して他によりかか」ることを拒否して、曲がりなりではあっても自らの足で立ち、歩きつづけようという梅崎の決意が、感銘をともなって気持ちに響いてまいりました。

短篇小説では、中間小説誌『小説新潮』が初出の「猫と蟻と犬」がとりわけ気に入りました。家の者をやたらに引っ掻いたり、火鉢に糞をするなどの悪行をほしいままにする飼い猫「カロ」のエピソードを軸にして、庭に生息するアリたちの生態観察や、いやに神経質で臆病な飼い犬の行状を絡めた本作は、ユーモラスな書きっぷりが際立っていて実に愉しい一篇。「カロ」を捨てにいこうと悪戦苦闘するくだりには、もう抱腹絶倒でありました。
また、戦時統制下にあってささやかな酒と肴を提供する酒場に並ぶ人びとの生態を描いた「飯塚酒場」や、防波堤へ釣りに集まる人びとを通して、普通の人びとが持つ醜い一面を描き出した初期の作品「防波堤」も、印象に残る作品でした。

「怠け者」だからこそ見えてくる、人間社会の歪みを突いた洞察と、飄々としたユーモアに溢れた梅崎春生の文学。これを機会に、代表作である「桜島」「日の果て」といった戦争文学をはじめとする、ほかの梅崎作品も読んでみたいと思っております。