『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』川上和人著、技術評論社(シリーズ 生物ミステリー)、2013年
1990年代以降、羽毛を持っていた恐竜の化石が次々と発見されるなどして、恐竜と鳥類には密接な類縁関係、すなわち恐竜が進化して生まれたのが鳥類である、ということが共通認識となってきています。
ならば、鳥類学者も「恐竜学者」といっていいのではないか?ということで、鳥類の研究を手がけている著者が「鳥類と恐竜の緊密な類縁関係を拠り所とし、鳥類の進化を再解釈することと、恐竜の生態を復元すること」を主題として書かれたのが、本書であります。
しかし、お固い研究書を想像しながら読み始めると、その先入観は「はじめに」で早々に、完膚なきまでに、いやというほどにぶち壊されます。
「この本では断片的な事実から針小棒大、御都合主義をまかり通すこともしばしば見受けられる。あくまでも、鳥の研究者が現生鳥類の形態や生態を介して恐竜の生活をプロファイリングした御伽噺だと、覚悟して読んでほしい。」 (「はじめに」より)
そして本文の至るところには、いささか人を食ったユーモアがちりばめられています。たとえば、恐竜の生活を探るためのよすがとなる足跡化石について述べたあとの締めの文章は、こんな調子。
「足跡化石は、本人の化石が残っていないゆえになおさら想像力を刺激する。なにしろ、織田信長の足跡すらみたことのない現代人が、1億年も2億年も前に恐竜が歩いた痕を、目の当たりにできるのだ。このことにロマンを感じる人は、ぜひ未来の古生物学者にも同じ感動を味わわせるため、今すぐにでも近所の沼地の泥の上にて裸足でスキップをするとよいと思う。」 (第3章より)
とまあ、前編こんな調子のユーモラスな文章が頻出していて、生真面目な向きは読んでいて怒り出すかもしれません。
ある種の脱力感があふれる人を食った語り口に、わたくしはユーモア系紀行エッセイなどで知る人ぞ知る存在である宮田珠己さんと通ずるものを感じました。え?宮田さんをご存知ないですと?そういう向きは今からでも遅くないので、宮田さんの衝&笑撃のデビュー作『旅の理不尽 アジア悶絶編』(ちくま文庫)を読むべし。•••えーと、何を話していたんだっけ。
人を食った語り口で大いに笑わせつつも、本書は化石などの残された手がかりをもとに、大胆な仮説と合理的な議論を展開しながら、恐竜の生態に迫っていきます。
恐竜は「トカゲの尻尾切り」をしたのか?身体の色が真っ白な恐竜がいたのか?鳴き声はどんなだったのか?毒を持つ恐竜はいたか?いかにして子育てをしていたのか?
その多くは断片的な形で発見される化石から得られる情報には、おのずから限界があります。そこに自由な想像の余地もあるのですが、著者の川上さんは絶妙なバランス感覚で、想像の向こうにある恐竜の実像に分け入っています。
そして、恐竜から鳥類へと至る道をたどることで、生物進化の妙と面白さをあらためて気づかせてくれます。
空を飛ぶという新たな能力を獲得することで、それまで重宝していたはずの腕や尾などを失っていった鳥たち。その一つ一つには、そうなるべき理由があったのです。
なにより、子どものころに図鑑や特撮ものなどで目にしていた恐竜たちのイメージがいまだ根強くあるわたくしにとって、近年の知見がもたらした恐竜像にはかなり新鮮な驚きがありました。これからさらに、新しい恐竜像が見えてくるかもしれないと思うと、すごくワクワクしてくるではありませんか。
本筋とは別のところで強く印象に残ったのは、以下のくだりでした。少し長くなりますが引用を。
「改めて考えると、恐竜の化石がなんの役に立つのだろう。なぜ私たちは、こんなに恐竜に熱狂してきたのだろうか。恐竜化石でダイエットに成功する。否。恐竜化石で病気が治る。否。恐竜化石で女性にモテる。否。恐竜化石でクリーンエネルギーができる。否。正直なところ、恐竜化石は実利的にはなんの役にも立たない。世界恐慌や第二次世界大戦の時代に、恐竜学が停止したのは、その証拠である。恐竜学は、生活に余裕がないと発展できない、平和のバロメータのような分野なのだ。」 (序章より)
そうなんですよね。実利一点張りの余裕のない社会になってしまっては、恐竜学の進展も、そこからもたらされる楽しさもなくなってしまうんですよね。恐竜を愛する者の端くれとしては、平和で余裕のある世の中が続いていくことを願うばかりです。
人を食った笑いに、好奇心と想像力がめいっぱい詰まった本書。自信をもってたくさんの人に「読むべし!」と声を大にしてオススメしたい、エンタメ系恐竜本の快著であります。