読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『外来種は本当に悪者か?』 人間の一方的な都合と理屈による自然観の変革を迫る刺激的な一冊

2016-11-20 08:21:24 | 本のお噂

『外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD』
フレッド・ピアス著、藤井留美訳、岸由二解説、草思社、2016年


本を読むことの楽しみの一つは、これまで自分が抱いていた思い込みや、信じて疑わなかった「当たり前」「常識」が揺さぶられ、新しい視野とものの見方が拡がっていくことではないか、と思います。
今回取り上げる『外来種は本当に悪者か?』は、最近読んだものの中でもっとも、わたしの抱いていた思い込みや「常識」を揺さぶってくれたスグレモノの一冊であります。

「外来種」というコトバはたいてい、あまり良い文脈で用いられることがありません。外から侵入してきて、平穏に暮らしている在来の動植物を脅かし、ひいてはその生態系をも破壊してしまう、おそるべき「エイリアン」的な存在・・・。「外来種」とされる動植物にはおおかた、そんなマイナスのレッテルが貼られ、忌むべき存在として駆除の対象になったりしています。
イギリスの環境ジャーナリストである著者、フレッド・ピアス氏による本書は、とかく「善玉・悪玉」という単純な二元論で捉えられがちな外来種と在来種の関係性を再考し、実は外来種が自然の復元力に大いに寄与しているのだ、ということを、世界各地の実例を多数挙げながら解き明かしていきます。

まず最初に紹介されるのは、ブラジルとアフリカのちょうど真ん中に位置する、南大西洋の火山島、アセンション島です。ここにそびえるグリーン山に生い茂る植物はすべて在来種ではなく、島にやってきた人間たちによって持ち込まれたものだといいます。そこには南アフリカやブラジル、中国、ニュージーランド、ヨーロッパなど、世界中から持ち込まれた植物に交じって、なんと日本のサクラも茂っているのだとか。
チャールズ・ダーウィンがビーグル号で立ち寄った1836年当時は「丸裸の醜悪な姿」だったアセンション島の林は、この200年間に持ち込まれた「外来種のよせあつめ」による「人工の生態系」だったのです。にもかかわらず、ここでは偶然この地で出会ったにすぎなかった植物や昆虫、ほかの生き物が密接な関係を築き、多様性の豊かな生態系が完全に機能しているというのです。そういった場所では、「外来種」や「在来種」といった人間による区別など、何の意味もなしません。
動植物の相互作用は、長い進化の歴史を経て初めて成立する、という「共進化」の考え方を覆すアセンション島の存在は、いきなりわたしに大いなる驚きを与えてくれました。

このあと本書では、世界各地で起こった外来種の爆発的な増加の事例を多数挙げながら、その背景にあるものを探っていきます。
1980年代から90年代にかけて、東アフリカのヴィクトリア湖で大繁殖した、水草のホテイアオイと淡水魚のナイルパーチ。貨物船のバラスト水に紛れ込んでアメリカからやってきて、黒海で大繁殖したクラゲの一種。いずれも原因は、水質汚染による環境の悪化により外来種が勢いづいただけで、外来種が環境を変えたというわけではない、といいます(ちなみに船のバラスト水は、外来種が世界中に広がる最大の要因だとか)。

日本からアメリカに持ち込まれ、南部で大繁殖している植物のクズ。当初は園芸用植物として人気でしたが、成長が早く荒れた土地にも根付く特性から、家畜飼料や旱魃対策として栽培が奨励されました。しかし、家畜が飼育場で肥育されるようになり、葉を食べられることがなくなったクズは増えていく一方となり、厄介者扱いされるに至りました。
ここでも、大繁殖の原因はクズそれ自体にあるのではなく、人間の側の都合の変化でした。しかも、生態系への影響については「風聞ばかりが広がっていて、数量的なデータがほとんど」ないという状態なのだとか。「クズは悪者という決めつけが集団ヒステリーを生みだし、客観的な調査でその真偽を確かめる必要を誰も感じていなかった」と。

決めつけによる風聞を広めるのは、良いニュースより悪いニュースを取り上げたがるメディアや、原理主義的な環境保護論者だけではありません。客観的なデータやエビデンスに基づいているはずの科学界にも、感情論が先行した「外来種悪玉論」がはびこっているということを、本書は具体例を挙げながら指摘していきます。
ひとつの場所でともに進化してきた動植物の緊密な連合体、という生態系の定義のもと、「よそ者は害悪」と主張する「侵入生物学者」たち。その「挑発的な文体、戦争用語のたとえ、外国嫌悪の感情をあおる表現」から見えてくる偏見や、局地的なデータを地球全体にまで広げてしまうような詭弁には、正直唖然とさせられました。さらには、侵入生物学者による根拠薄弱でずさんなデータを、国連で環境問題に取り組む機関までが取り入れたり広めたりしているというのですから、もう何をか言わんやです。
「二流ジャーナリズムは『事実かどうかよりおもしろさを優先』とうそぶくことがある。科学界もそれにならっているとしたら、残念というよりほかない」というピアス氏の指摘に、ただただ頷かざるを得ません。

わたしたちの多くがありがたいものとして称揚する “手つかずの自然”。それも実は神話でしかないということを、本書は指摘します。
一見、何百年前からまったく変わっていないかに思われるアマゾン川の熱帯雨林には、つい500年前までは「新世界で最も高度に発達した先住文化のひとつ」とまで言われるような都市文明が存在していました。また、野生動物の楽園といえるアフリカの草原は、アジアからやってきた牛疫ウイルスにより牧畜民の飼っていた牛が死に、それがもとで人口も減ったことにより牧草地がなくなっていった結果、生み出されたものでした。
ピアス氏はこう述べます。少々長くなりますが、引用させていただきます。

「いまは地質年代でいうと『人新世』、つまり人類が地球環境に著しい影響を及ぼしている時代だ。私たちはこの現実を受け入れるべきだが、気落ちする必要はない。『手つかずの自然』はもはや存在しないけれど、自然はそれだけ回復力があり、したたかにやっているということなのだ。(中略)自然にとって、人間の存在はかならずしも悪とはかぎらない。どこかの森が枯れはてても、別のどこかで新たな森が育っている。作物や家畜の交配は遺伝的多様性に貢献してきたし、世界各地に新しい動植物を持ちこんだことで地域の生物多様性を高め、ときには進化の引き金にもなった。人間の影響が長期にわたり、範囲も広かったことがわかるにつれて、自然の底しれぬ回復力も強調されるのだ」

人間によって傷つけられたり、変容を余儀なくされた荒廃地でも発揮される自然の回復力と、それにより生み出された新しい生態系。ピアス氏はそれを「ニュー・ワイルド」と呼び、本書の最後でその可能性を論じていきます。
史上最悪の原発事故により広大な面積が無人となった、ウクライナのチェルノブイリ。強い放射線の影響が今も続き、一見すると生命とは無縁の場所となってしまったかに思えるこの地も、事故前より生物の数も種類も豊富となっている「野生生物の宝庫」となっているといいます。また、テキサス工科大学の研究チームが立入禁止区域のハタネズミの遺伝子を解析した結果は、遺伝子変異は通常の範囲内であり「大量の放射線が突然変異を引きおこすという主張を『裏づけることはできなかった』」とも。
もちろん、原発事故はもう二度と繰り返してはならないのは言うまでもないことなのですが、放射線と自然・生命との関係についても、偏見や感情論、イデオロギーを抜きにした調査と研究から冷静に見ていく必要があるのではないか、とわたしは感じました。

自然とはまったく変化しないのではなく、変遷と偶発性とダイナミズムを持った存在である、というピアス氏は、老齢林をはじめとする歴史ある自然=オールド・ワイルドは「人間の介入にますます頼らないと存続できなくなる」「博物館の展示物であり、タイムカプセルであり、実験室でしか成り立たない自然」だと言います。さらに希少動物の保護については「あくまで人間の欲求を満たすためであって、自然が求めているわけではないのだ。自然はもう別の方向に動き出している」と言い切ります。
そして以下のように、これからの環境保護に必要とされる考え方を訴えます。

「自然は受け身でかよわいものというロマンティックな幻想を、私たちはそろそろ捨てなくてはならない。むしろ自然はダイナミックで、やる気満々なのだ。それを認めれば、自然保護への取りくみも変わってくるし、むしろこれまでの方法が逆効果だと気づくだろう。(中略)自然の再生を後押しするのであれば、変化を抑えこもうとするのではなく、むしろ助長しなくてはならない」

旧来型の環境保護のあり方を徹底して問い直す『外来種は本当に悪者か?』。ときおり辛口の物言いを交えつつ展開されるピアス氏の主張は、読む人(とりわけ、旧来型の環境保護のあり方が「正しい」と信じ切っているような向き)によっては、反発を覚えるかもしれません(わたしも、希少動物の保護についてのくだりには、正直「何もそこまで言わんでも・・・」と思ったりしました)。
ですが、単純な「善玉・悪玉」の二元論に乗っかった外来種や在来種という区別や、“かよわい自然” といった自然観が、結局は人間中心の都合や理屈を反映した、一方的な思い込みであることは、認めざるを得ないように思いました(“地球にやさしい” という物言いなどは、その最たるものでしょう)。そして、そんな思い込みに立脚した環境保護のあり方には限界がある、ということも。
そして、自然は傷つけられたり変容を余儀なくされたとしても、変化を繰り返しながら再生し、復活していく、たくましくてしたたかな存在であることを示した例証の数々は、読んでいて嬉しくなるような希望を感じました。
そもそも、アフリカで誕生して地球の各地へと旅を続け、各地の気候風土に適応しながら広まっていったわたしたち人類も、れっきとした「外来種」の一つ。だからこそ、現在のような繁栄を謳歌することができたことを考えれば、他の外来種を目の敵にするのは人間の身勝手、というものでしょう。わたしたちは理性と知恵をもって、“仲間” でもあるこれら外来種との共存共栄の道を模索していく必要があるのではないか、そう思いました。

自然と人間との共存のあり方を考える上で、有益な刺激を与えてくれた本でした。多くの方に読まれることを願いたい一冊であります。

【積読本は宝の山】『40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。』 「半径五十㎝の人」で終わらないために

2016-11-08 19:42:18 | 本のお噂

『40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。 新・ミドルエイジ論』
成毛眞著、PHP研究所、2013年
(書籍版は現在品切れ。Kindle版は販売中)


読書家ならぬ「積読家」のわたくし。これは読まねば!と勇んで購入したのはいいものの、その後はキチンと読むこともなく書棚に押し込んだり、積み上げたまんまになっている書物が山のように・・・というか、山脈のようにございます。で、積読本の山脈から発掘した本を遅まきながら一読して、「あゝこれはもっと早く読んでおくべきだった」と歯噛みすることも少なからずございます。
そんな「積読山脈からの発掘本」には、今でも鮮度を失わず、十分読むに値するような名著といえる書物が、これまた少なからずございます。あるいは、そこまではいかなくとも、わたしにとっては大いに参考となるような知識や知恵を授けてくれるような本もあったりいたします。今回取り上げる『40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。』も、後者にあてはまる一冊であります。

ノンフィクション系おすすめ本紹介サイト「HONZ」の代表としても知られる、実業界きっての読書家である著者の成毛眞さん。本書で成毛さんは、40代から50代にかけてのミドルエイジ世代(不肖わたくしもその端くれなのですが)に向けて、外の世界を切り開きながら「〝全力で〟脱力系の生き方を追い求める」ための方法論を伝授しています。
日本のいちばんいい時代を生き、日本的経営の崩壊や年金制度の破綻からかろうじて逃げ切れた、60代以上の「団塊の世代」のあとに続くミドルエイジ世代は、社会のレールのない時代を生きる「逃げ切れない世代」だが、それは同時に「人生を軌道修正できる最後のチャンスでもある」と成毛さんは言います。
本書では、したたかでしなやかな会社や仕事との向き合い方をはじめ、精神を軽やかにする方法、サイドビジネスの秘訣、道楽=趣味の楽しみ方、過剰でもなく無頓着でもない程良い健康維持法・・・といった、後半生を楽しく生きていくための方法論と知恵が語られます。

わたしが本書でとりわけ力を入れて読んだのが、精神の軽やかさを保つための考え方や方法論を説いた第2章です。
ここで成毛さんは、FacebookやTwitterといったSNSで「今日はこの店に行って、これを食べた」「家族と、どこそこに出かけた」といった日記みたいな投稿ばかりするような向きや、人のコメントに過剰反応して議論を吹っかけてくる輩を「半径五十㎝にしか興味をもたない人」と呼びます。そして、リアルタイムであらゆる情報が流れ、国内外ともに激動している世の中にありながら、「何も感じず、関心も示さず、自分の身の周りのことしか興味をもてなくなったら、おしまいだ。綾小路きみまろ風にいうなら、『老いが進むと眼は遠くしか見えなくなり、心は近くしか見られなくなる』といったところか」と痛言します。

その上で第2章では、視野を広く持ち心を軽くするための方法論が説かれます。SNSは発信しているだけでは利用する意味はない、積極的に情報を収集するために使うべし。旅行するなら変化率の高いアジアやアフリカの街に出かけて好奇心を磨こう。同世代とばかりつき合っていたら感性が鈍くなる。肩書きに頼らない「自分ブランディング」で、ほかの人とは違う自分アピールを、など。
中でもわたしが印象に残ったのは、「記憶力」よりも「忘れる力」の必要性を説いた節でした。ここで成毛さんは次のように書いておられます。

「毎朝、新しい人生をスタートさせるようなつもりで、過去のしがらみを捨て去る。それぐらいの心構えで暮らしていれば、心に知らず知らずのうちにゴミが溜まって重くならずに済むだろう」

そして、さまざまな未練や失敗、トラブルなどで悩み続けることに意味はない、とも言い、こう続けます。

「私は悩むのが面倒なので、すぐに投げ出してしまう性格だ。それで困ったことはない。それぐらい心を軽くしておかないと、新しい情報は入ってこないし、新しい感動も得られないのだ」

ああ、確かにそうかもしれないなあ、と思いましたね。
実のところ、ここしばらくのわたし自身も小さなことにとらわれ過ぎて、精神の軽やかさや伸びやかさが失われてきていることに、危機感を抱き続けておりました。それだけに、好奇心や感性を磨くことで精神の軽やかさを保つことを説いたこの第2章は、大いに参考となりました。

道楽=趣味を追い求めることの大切さを語った第4章にも、いろいろと参考になるところがありました。
「趣味は、人生であと回しにすべきものではない。最優先させるべき重要課題なのだ」という成毛さんは、三日坊主でもいいので片っ端からやってみることを勧めます。とにかく何にでもチャレンジして、あとから考えればいい、と。
中でも熱く勧めているのが、歌舞伎や能、文楽といった日本の伝統芸能です。「伝統芸能を途絶えさせたとしたら、経済政策で失敗した以上に罪は重い」と力説しつつ、ミドルエイジ世代に伝統芸能を観に行くことの意義を強調しています。少々長くなりますが、引用いたしましょう。

「われわれ一般人が伝統芸能を守るには、せっせと舞台を観に行くしかない。ミドルエイジのみなさんにはぜひ、その一員になってもらいたいと思う。
伝統芸能は、何の予備知識もないまま観に行ったら、わけがわからずに眠ってしまって終わりだろう。あらかじめ基礎知識を調べて演目の内容を把握しておけば、芝居にしっかりついていける。これを教養というのかもしれない。
ミドルエイジの趣味には、知識がないとできないようなものこそふさわしい。カラオケやカメラなど、あまり知識を必要としないものを趣味にしたところで、感動は得られない。心の琴線に触れるような体験をしないと、感性は錆びついてしまうだろう」


カラオケやカメラの愛好者からは抗議の声が上がりそうな一節もあるのですが(とはいえ、このあたりの率直な物言いもまた、成毛さんの魅力のひとつなのであります)、知識を深めながら楽しむ趣味を持つこともまた、大人の嗜みというものかもしれませんね。わたしも伝統芸能、勉強してみようかなあ。

おしまいの第6章では、ミドルエイジには最強の「七つの武器」があるという話がなされるのですが、それは以下のごとし。

①未来がない
②ハングリーではない
③冒険心がない
④体力がない
⑤記憶力が弱い
⑥感性が鈍い
⑦ずるい

・・・とまあ、ものの見事に、一見するとマイナスにしか思えないコトバが並んでいるわけなのですが、それらも使いようによっては武器にできると説いていくところも、逆張り思考の持ち主である成毛さんらしくっていいですね。ここに挙げられているマイナス面のかなりの部分が当てはまってしまう(苦笑)わたしも、大いに勇気が湧いてくるのであります。

「半径五十㎝の人」で終わることなく、これからの後半生を楽しく生きていきたいと願う、われわれミドルエイジ世代(もしくはその予備軍)の背中を押し、元気にしてくれる素敵な一冊でありました。ほんと、もっと早く読んでおけば良かったなあ。

・・・で、積読にしているあいだ、残念ながら本書の書籍版は品切れとなってしまっておりました。まだ刊行から3年ほどしか経っていないというのに、眞に、もとい、誠に遺憾であります。
もし、これをお読みいただいて興味を持ってくださった皆さまは、古書市場や図書館でお探しいただくか、現在も販売中であるKindle版にてお読みになってみてくださいませ。

『猫』 なりふり構わぬ猫への愛が、古風な文章とともにたっぷり詰まった愉快な一冊

2016-11-06 09:53:20 | 本のお噂

『猫』
石田孫太郎著、河出書房新社(河出文庫)、2016年
(親本は1910年に求光閣書店より刊行、1980年に誠文堂新光社より復刻刊行)


勤務先の書店に入荷していた河出文庫の新刊の中にあった、この『猫』という本。表紙となっている、気持ち良さげに寝ている猫の写真とともに、猫好きの端くれとしてはなんだか気になるものがあり、パラパラとめくってみました。
初刊は今から106年前の1910(明治43) 年。猫の種類や性質、毛色などの基礎知識をはじめ、食事や睡眠、病気と治療法などといった日常生活全般にわたる注意点、猫の知恵や感情についての考察、猫と人間社会との関わり、猫にまつわる美談や伝説、「猫」という言葉を使った慣用句やことわざ、さらには猫を詠み込んだ俳句集・・・と、まさしく猫についてのさまざまな事項を盛り込んだ「猫百科」といった趣きの一冊。これはなんだか面白そうだわいと購入し、読んでみました。いやあ、これが確かになかなか、面白かったのであります。

冒頭の「自序」にて、著者の石田孫太郎が語った本書執筆の動機によれば、「悉(ことごと)く嘲罵憎悪で美談は実に少な」く、「残酷なる批評を受けている」猫の「冤を雪(そそ)ぐ」、つまり「汚名を晴らす」べく、本書を著したんだとか。しかしながら、著述にかかったものの知らないことも多いゆえ、「知らぬことは知らぬとして後日の研究に譲り」「猫の科学的研究を公にするものではな」い、とも記しております。
確かに本書は、猫についての正確で科学的な知識を得ようとする向きには、いささか首をひねるような箇所も散見されます。自分の飼っている3匹の猫に赤、白、青の紐やリボン、よだれかけを引き摺ったり首に巻いたりして行った「調査」をもとに、「猫は赤色を好む」と言い切っておきながら、そのすぐあとに「或いは偶然の結果かも知れぬのであるから、間違っても責めは負わないのである」なんて言っちゃってたりしてますし。

ですが、猫の魅力と素晴らしさをこれでもかと語った博物誌的な随筆として読むと、これがまことに愉しくて味わい深いのであります。たとえば、子猫の愛らしさを述べた、こんな一節。

「妙な顔をしたり、妙な手付きをしたり、上になり、下になりして、戯れ廻るところの愛らしさ実に言語に絶する。猫の子の戯れ廻るところは誠に一つの楽園である」

猫好きの方なら「うんうん、すっごくわかるわかる!」と、首が痛くなるほど頷きたくなるような一節ではないでしょうか。
また、猫の色彩や勢態について述べた節では、猫の勢態は愛着を引くのに適していると語った上で、こう続けます。

「美わしき少女(おとめ)が小猫を懐けるを見よ、いかなる猫嫌いの男も振り返って見るであろう。猫を見たのではない、乙女のみを見たというのは一場の弁疏(べんそ)に過ぎぬ」

美わしき乙女の抱いた子猫を振り返って見た猫嫌いの男の「猫を見たのではなく乙女のみを見た」という言葉は、その場限りの言い訳だ、ですと。ここまで言われると、ちょいとヒイキの引き倒しという感じがしなくもないのですが・・・。まあ、気持ちはわからなくもありませんけども。

著者・孫太郎さんの猫かわいがりっぷりが遺憾なく発揮されているのが、猫の皮と毛の用途について述べた節でしょう。
その節の冒頭で孫太郎さんは、「猫の皮と毛の用途については、直ちに猫を殺すことを意味しているから陳述すまいと思ったけれども、これまた猫の用途の一つであるから忍んで記述することにした」と断った上で、猫の皮が三味線に、毛が筆に用いられていることを述べます。そしてその節の結びには「皮や毛の精製法は我輩においてこれを記するの勇気がない。しかり猫の皮が三絃(しゃみせん)に用いられて高価に売れることを述べるさえも不快の極みである」と、まことに率直な言葉を綴っているのです。
猫についての書物を上梓する以上は仕方なしに書くけど、猫が殺されるなんて酷いことはわしゃ大嫌いじゃ、てなことを臆することなく記述するという孫太郎さんの猫かわいがりっぷりに、わたしはニャンとも、もとい、なんとも好ましいものを感じたのであります。

猫について語りつつ、卓抜なる人間批評がところどころで顔を覗かせているのも、本書の面白味のひとつでしょう。
時に猫が怒って獰猛なる一面を見せるのは、なにも猫の本性が獰猛なわけではなく、人間が怒らせるようなことをするからだ、という孫太郎さんは、以下のように自説を展開します。少々長いのですが、引用いたしましょう。

「先祖代々彼らが忿(おこ)るように仕向けておいて、また彼らが爪牙(そうが)を磨がねばならぬようにしておいて、忿りて爪牙を出せば獰猛なりとするは道理に合わぬ。則ち人間の本性が柔和である如くに獅子も猫もみな本性は柔和である。獰猛なるは忿怒(ふんど)の状態においてのみしかりである。明治の人間にこれぐらいなことを知らぬ者はないはずであるけれども、(中略)特に一言しておく次第である。爪牙を有する猫を以て猛悪なりとする人は、銃砲を以て戦争する人間を以てただちに獰悪なりとする謬見(引用者注:びゅうけん=誤った考え)を懐ける者である」

いやはや、まことにごもっともな卓見ではありますまいか。上のようなことって、「明治の人間」のみならず、平成の御代に生きるわたしたちにとっても、もっともっと知られていいことのように思いますねえ。
また、一見弱肉強食の関係にあるような、犬と猫といった異なる種類の生きものを「親友」にすることはそれほど難しいことではない、と述べたあと、こう続けます。

「弱肉強食は永久に真理であるけれども、また或る強者と或る弱者との親和も必ずなしうることであってみれば、世の中は弱者なるが故に嘆ずべきではない。いわんやその弱者もまた或る者に対しては強者たるにおいてをやである」

このくだりもまた、動物同士の関係性を超えた真理を語っているかのようで、深くふかく頷かされたのであります。

後半に収録されているのが、雑誌での連載中で孫太郎さんが亡くなったために未完となった「虎猫平太郎」。孫太郎さんの飼い猫だった「平太郎」の口を借りて、猫についての薀蓄を綴ったものです。
猫を「語り手」として設定した著作というと、本書の数年前に発表された夏目漱石の『吾輩は猫である』が直ちに思い浮かびますが、この「虎猫平太郎」では『吾輩〜』のことを、やれ「あながち猫でなくてもよいのではなかろうか」だの、やれ「俳味がどこにあるのやら解らない」などとクサしていたりして実に痛快というかなんというか。
さらには、「ねこ」の語源についての貝原益軒や荻生徂徠、賀茂真淵、新井白石といった錚々たるメンツのご高説を「国文学者なんていう者はコジツケを言う者で、我輩不学ながらおかしくなる」と一笑に付したりもしております。孫太郎さん、なかなかしたたかな御仁ですな。
この孫太郎さん、本職である養蚕研究のかたわら、猫に対する愛と情熱で猫の研究にもいそしみ、本書を著したとか。その他の著作はほとんどが養蚕関連のようですが、その中になぜか『嫉妬の研究』なる一書も。なんだかいろんなコトを研究しまくっておられた、この孫太郎さんという人物自体、けっこう興味を惹かれるものがありますねえ。

明治時代に上梓された本ということもあり、文体や言葉遣いは現代の感覚では古めかしくわかりづらいところがあるのも確かですが、それもまた本書の味わいを増してくれております。
本書を執筆していた当時には、ドイツの細菌学者コッホの提唱により、ペスト菌を媒介するネズミを駆除するために猫を飼養することが奨励されていたようで、本書にはコッホが発表した「猫を使用して鼠を駆除せしむるの注意」7か条が紹介されています(「毎戸必ず猫を飼養すべき制度を設け、時々警察官をして臨検せしむること」とか「家屋建築中に一定の制限を設け、必ず鼠の棲息する屋根裏等に猫の出入口を開かしむること」など)。
また孫太郎さんは、当時の東京市内各区の戸数とそれぞれにおける飼猫の数から割り出した「飼猫比例」の一覧を掲げて、猫とペスト病との関係を考察したりしています。こういったところにも、当時の世相が窺えたりして興味深いものがあります。

孫太郎翁の猫への愛と熱意が、なりふり構わないまでにたっぷりと詰め込まれ、読んでいて実に愉快で楽しい気分になる本書『猫』。106年の時を経て文庫として蘇ったことを、猫好きの端くれとして喜びたいと思います。
猫を読み込んだ俳句を取り上げた第九章では、小林一茶の句をはじめとして、けっこう多くの猫俳句が集められております。最後にそこから、わたしお気に入りの句を3つ挙げることにいたしましょう。

猫の尾の何うれしいぞ春の夢 賢明

爺も婆も猫も杓子も踊かな 蕪村

異見聞く耳すぼめけりねこの恋 蓼太