読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

大分・湯平温泉「旅館 つるや隠宅」の皆さまへ。

2020-07-28 23:32:00 | 旅のお噂
大分県の湯平温泉に初めてお邪魔したのは、今年の2月下旬のことでした。
歓楽街的な雰囲気の別府や、リゾート的な感じの由布院とは対照的な、山間の小さな温泉町。でも、江戸時代に敷かれた石畳の坂道に沿って、旅館や土産物屋さん、そして共同浴場が立ち並ぶ情緒ある町並みに魅せられました。
夜になると、町中に張りめぐらされた提灯が赤く灯り、石畳と温泉街を幻想的に照らし出します。その夢のような光景の中を散策するのは、もう至福としか言いようのない素敵な体験でした。わたしは一気に、湯平温泉のとりことなりました。



その湯平温泉で泊まった宿こそ、「旅館 つるや隠宅」さんでした。
明治時代創業という歴史のあるお宿でありながら、旅館オリジナルのキャラクター「電脳女将・千鶴」さんを前面に出し、SNSなどを通じて展開させることで、多くの若い世代を惹きつけるという、ユニークかつ斬新な試みにも力を入れておられました。
とはいえ、家族4人で営んでいた小さなお宿の雰囲気は、実にアットホームで心地よいものでした。信楽焼の陶器に張られた温泉は、体と心の奥まで効くような気持ちよさでしたし、お楽しみの食事は夕食も朝食も最高に美味しく、旅館に泊まる醍醐味をたっぷりと味わうことができました。そのときのことは、当ブログでも2回に分けてご報告させていただきました。








また必ず湯平温泉に行って、「つるや隠宅」さんに泊まらなくては・・・そんな思いとともに湯平を離れて、まだ半年も経っていないというのに、その湯平と「つるや隠宅」さんに、あんなことが起こるなんて・・・。
熊本をはじめとする九州各地に、多大なる被害をもたらした7月はじめの豪雨は、この湯平にも恐ろしい牙を剥きました。温泉街に沿って流れている花合野(かごの)川が増水し、沿岸の旅館や共同浴場に大きな被害をもたらしたのです。
テレビやラジオを通じて、各地の被害が伝えられる中、大分の状況を報じたニュースの一節が耳に止まりました。
「増水した花合野川に車が流され、乗っていた4人が行方不明となって・・・」
なんだか胸騒ぎがしました。ツイッターを開き、フォローしていた「電脳女将・千鶴」名義の旅館公式アカウントを見ると、そこにはこんなツイートが。


「スタッフも一時避難しました」「湯平温泉は無事です」
その文面を見て、ああ湯平も「つるや隠宅」さんもひとまずは無事なんだな・・・と、その時はちょっと安心しました。しかし、その後なかなかツイートが更新される気配がありません。大雨のあとだし、きっといろいろと立て込んでいるのかもしれないな・・・そう思っておりました。
その5日後、7月12日の夜に見かけたニュースの見出しを目にして、頭の中が真っ白になりました。

「大分 老舗旅館の4人被災 “電脳女将”の声優「帰ってきて」」(7月12日づけのNHK  NEWS  WEBの見出し)

大分の「老舗旅館」で「電脳女将」とくれば、もう当てはまるのは一軒しかありません。花合野川で車ごと流されてしまったのは、ほかでもない「つるや隠宅」のご家族4人だったのです。後になってわかったことですが、上のツイートから数時間後の深夜には花合野川の状況は一変し、身の危険を感じた「つるや隠宅」の皆さんは車で避難する途中、決壊した道路から転落して流されたのでした。
この時点で、大女将さんだったおばあさんは遺体で見つかっていて、残る女将さんご夫妻と、その息子さんである若旦那さんの行方がわからなくなっている、ということを知るに及び、あまりのことに大きなショックを受けました。何かの悪い冗談であってほしい・・・そんな思いがいたしました。
そのニュース記事は、この春から「電脳女将・千鶴」さんの声を担当することになった大分県出身の声優・種崎敦美さんが、ツイッターで「つるや隠宅」の皆さんへの思いを綴ったメッセージを発信したことを伝えていました。該当ツイートを検索してみると、そこにはこのようなお言葉が。
「千鶴さんが旅館で待っています。早く帰ってあげてください」
その文面を目にして、涙を抑えることができませんでした。
なんとか残るお三方だけでも、どこかで無事でいてほしい。そして、また旅館に戻って、千鶴さんとともに旅館と湯平温泉を盛り上げてほしい・・・わたしもそう願い続けました。

しかし、そんなせめてもの最後の望みも打ち砕かれました。
先週末の25日、若旦那さんに続いて、女将さんも亡くなっていたということが確認されました。女将さんの旦那さまのみ、今も行方がわかっておりません。
「つるや隠宅」さんに泊まったとき、客室の窓から眺めた花合野川の流れは、まことにいい感じでありました。小さな温泉町の風情にぴったりなその光景は、「つるや隠宅」さんにとっても、そして湯平温泉にとっても欠くことのできないものだったことでしょう。


その花合野川を荒れ狂わせて湯平温泉を襲わせたうえ、「つるや隠宅」の皆さんをその濁流に飲み込ませるとは・・・なんという残酷なことを仕向けるのかと、天を呪わずにはいられません。

湯平駅に到着したわたしを迎えに来ていただき、温泉街に向かう車の中で、「電脳女将」の試みを通じて若い世代を取り込む旅館経営への意欲を、穏やかな口調で語ってくださった、好青年の若旦那さん。
旅館に到着して受付票に記入したわたしの年齢をご覧になり、「あら、わたしと同じくらい・・・かも」とおっしゃって、一気に親近感が湧いてきた女将さん。
そしてチェックアウトのとき、すごく優しい笑顔で送り出してくださった大女将さん・・・。
「つるや隠宅」の皆さんのお一人お一人が与えてくださった素敵な思い出が、いまも昨日のことのように頭に浮かんできます。その方たちがこの世にいなくなってしまったということが、もう悔しく、悲しく、辛くて仕方ありません。
でも、誰よりも皆さんが一番、悔しくて無念な気持ちだったことでしょう。千鶴さんに声が与えられたことで、もっともっと多様な層に向けて「つるや隠宅」の、そして湯平温泉の魅力を発信すべく、意気込んでおられたはずだったでしょうから。
いまはただ、いまだ行方がわからない女将さんの旦那さまが早く見つかることを願うばかりです。また一家が揃って過ごすことができるように・・・。

「つるや隠宅」の皆さま。
素敵な思い出をつくってくださったこと、心より感謝申し上げます。またそちらに泊まりたいという願いが叶わなくなってしまったことは本当に、本当に残念でなりませんが、いろいろなことが落ち着いたら、また絶対に湯平温泉にお邪魔させていただくつもりであります。ささやかではありますが、皆さんのお弔いをするために。そして、復活に向けて動いていく湯平温泉を見届けるために。
最後に勝手なお願いを。もしよろしければ、天国でもまた「つるや隠宅」のような素敵な旅館をやってくださると嬉しいです。わたしが天国に行けるかどうかはわかりませんが、もし行けたら絶対泊まりに伺って、美味しい料理とともにゆっくり過ごすつもりでおりますので。
でも、まずはどうかゆっくりと、安らかにお眠りください・・・。

『欲が出ました』絵本だけでは窺い知れない、ヨシタケシンスケさんの多面的な魅力と人間性が詰まったスケッチ解説エッセイ

2020-07-25 15:19:00 | 本のお噂



『欲が出ました』

ヨシタケシンスケ著、新潮社、2020年



子どもと大人のワクを超えた絶大な人気を誇り、2020年も新作が次々に刊行されるなど快進撃が続いている、絵本作家のヨシタケシンスケさんが今月(7月)に刊行したばかりの新著『欲が出ました』。ヨシタケさんが折に触れて描きためてきたスケッチの数々を選び、それらを描きとめた意図をエッセイ風に語っていく一冊で、同じ版元から昨年刊行された『思わず考えちゃう』の第二弾に当たります。前著はスケッチを解説するエッセイのみでしたが、今回はスケッチのみで構成されたページも設けられております。

独特のセンスで切り取られた、日常のふとした光景から、その時々の心情を反映させた呟きのようなものまで。ヨシタケさんならではの愛嬌たっぷりのスケッチの数々にニンマリさせられつつ、時にいろいろと考えさせられるような洞察も散りばめられていて、第一弾同様、面白く読むことができました。

お気に入りのスケッチがいろいろある中でいちばん好きなのが、トラックの上に乱雑に積み上げたソファのような椅子の上で、下にいる先輩らしき人物に向かって「途中まで完璧だったんスよ」と弁解している若いお兄ちゃんを描きとめたもの。「その一言でこの二人の上下関係だったり、今まで何があったのかだったり、すべてわかるっていう、非常に情報量の多い一瞬」に満足した、とヨシタケさんは語っていますが、そのときの情景を想像すると、無性に笑いを誘われます。

ヨシタケさんの次男くんが「ハイチュウたべていい?」とせがんでいるところを描いたスケッチも、わたしのお気に入りです。とにかく甘いものを食べるのが好きだという次男くん、それでも勝手に食べたりはせずに、毎回律儀に許可をもらいに来るとのことで、なんだかとてもカワイイなあと顔がほころんでくるのであります(これに限らず、次男くんネタのスケッチはどれもカワイくて好き)。
愛嬌があってクスッとさせてくれるところも、ヨシタケ流スケッチのお楽しみです。天狗の顔の形になっていて、長く伸びた鼻を下げると「ピンポーン」と鳴る〝テングチャイム〟や、ホウキを持って二本足で立っている〝雑用犬〟のスケッチは、カワイくていい感じです。椅子の頭を噛んでいる子どもに〝イスカンダル〟と添書きしているスケッチは、他愛ないといえば他愛ない上わかる人にしかわからないシャレ(笑)だったりするのですが、そういうのにもまた、えもいわれぬ味があったりいたします。

クスッとさせてくれる愛嬌とユーモアが溢れるスケッチだけでなく、考えさせられたり深く頷けたりするようなスケッチも。
大きく輝いている星の近くを飛行している宇宙船のイラストに〝引力の強すぎるものには近付かないようにしています。離れられなくなっちゃうから。〟と添書きしたスケッチ。それについてヨシタケさんは、世の中には「影響力の強い人や、思想だったり、団体だったり、ものの言い方」といった「すごい引力が強い」存在があるといい、年をとってそういった引力の強いものから逃れる体力が減ってきたこともあって、最近は引力の強すぎるものには近付かないようにしている、と語ります。
わたしはこれには大いに共感いたしました。確かに、そういった引力の強いものから刺激をを受けることで自分をステップアップさせることができるのも、一面の事実ではありましょう。しかし、それらに過度に影響されることで自分を見失い、おかしな方向へ行ってしまう危険性があることも、また事実であるように思うのです。
影響力の強い存在から取り入れられるものは吸収しつつ、それらに過度に飲み込まれないようなバランス感覚も、生きる上での大事な知恵であると感じました。

「大吉」と書かれたおみくじを手に持ってニコニコするおじいちゃんの絵に、〝実際にいいことがなくても、「幸せの予感」さえあればどうにかやっていける〟と添書きしたスケッチ。これについて、ヨシタケさんはこう言います。

「現実に、幸せかどうか、満ち足りてるかどうかではなくて、この先満ち足りるかもしれないっていう予感が心の中で発動するかどうかで、実は幸せって決まるのではないかと。
実際には、起きたいいことなんかすぐ忘れちゃうし、すぐあきちゃうし、この先いいことが起こる確率なんてすごく低いはずだけど、でも、それだけじゃないはずだ、もっと楽しいことだって起きるかもしれないって、大した根拠もなしに思えるかどうか。希望って、つまりそういうことだと思うのです」



このことばにもまた、深く深く頷かされました。目下の新型コロナパニックの中では、ともすると「幸せ」と思えるような感覚を忘れてしまいそうになります。そんな世の中だからこそ、「もっと楽しいことが起きるかもしれない」という「希望」を持ち続けることの大切さを、ヨシタケさんのことばで痛感いたしました。

ヨシタケさんが創作において心がけている〝流儀〟を語っているところもいくつかあり、それらにも興味を惹かれます。
この世界のいろんなところに出ている「しっぽ」を丁寧に手繰り寄せるという話や、大事そうなものを「おもしろおかしいもの」として表現する努力が必要という話にも興趣が湧きましたが、とりわけ気持ちに響いたのは、「その問題に一番興味のない人々の視点」を保ち続ける、という話でした。そういった視点こそ大事にしなきゃいけないし、したいなと思っている、とヨシタケさんは語り、こう続けます。


「内輪からの言葉だけしかないと、絶対それは「外側」には届かないだろうから。
一番興味のない人に興味を持たせるには、じゃあどういう言い方があるのか。「一番届いてほしい人」に届けるためには、そうとう工夫が必要なはずです。
「遅刻しないように」って朝礼で言っても、遅刻してる人はその朝礼にいない、みたいな話ですね」


何かを主張するときに、「内輪からの言葉」ばかりで語ってしまっている向きを、しばしば目にします。同じような考え方を持つ「内輪」の人たち同士でそうだそうだと頷き合ったり、単に自己満足に浸りたいというのであれば、それでもいいのでしょう。しかしそれでは、異なった考え方や興味を持つ、多くの「外側」の人びとに届くことも、伝わることもないことは明らかでしょう。
その事柄に興味がない人たちに向けてどう伝えるのか、それを考え工夫することの大切さは、創作に関わる人のみならず、さまざまな人たちにも当てはまることのように、わたしには思われました。

クスッと笑えるユーモアと、思わず膝を打つ洞察をスケッチとエッセイで見せる『欲が出ました』。絵本だけでは窺い知れない、ヨシタケさんの多面的な魅力と人間性を感じることができる一冊であります。



【関連おススメ本】


『ヨシタケシンスケスケッチ集 デリカシー体操』
ヨシタケシンスケ著、グラフィック社、2016年


『しかもフタが無い』
ヨシタケシンスケ著、PARCO出版、2003年


『そのうちプラン』
ヨシタケシンスケ著、遊タイム出版、2011年

ヨシタケシンスケさんのスケッチをたっぷり楽しみたいという方におススメなのが、この3冊です。
『デリカシー体操』は、ヨシタケさんが2002年に自費出版したスケッチ集に新作を加えて復刊したもの。『しかもフタが無い』は、ヨシタケさんの記念すべき商業出版デビューとなった一冊。そして『そのうちプラン』は、コンパクトな文庫版サイズにスケッチがたっぷり詰め込まれております。
絵本ほど知名度が高くはないこれらスケッチ集ですが、独特なセンスで切り取られた日常の光景や、クスッと笑わせてくれるユーモアと愛嬌があるスケッチの中に、ヨシタケさんのホンネや創作の原点が窺えたりもして、けっこう面白いです。



『寺田寅彦の科学エッセイを読む』 新型コロナパニック下の現代にも示唆を与えてくれる、寺田寅彦の慧眼を味わう

2020-07-20 06:43:00 | 本のお噂


『寺田寅彦の科学エッセイを読む』
寺田寅彦著、池内了編著、祥伝社(祥伝社黄金文庫)、2012年
(1998年に夏目書房より刊行された『椿の花に宇宙を見る 寺田寅彦ベストオブエッセイ』に、前書きと解説を加えて文庫化)


日本における日常的な現象から着想を得た、独特の物理学理論を研究した科学者であり、夏目漱石門下の文人として、科学的なものの見方と芸術的センスが融合した随筆を多数遺した寺田寅彦。寺田についての本も何冊か出しておられる、宇宙物理学者の池内了さんが、寺田の科学随筆の中から35篇を選んで解説を付したのが、本書『寺田寅彦の科学エッセイを読む』です。
寺田寅彦の随筆集といえば、岩波文庫に収められている全5巻の『寺田寅彦随筆集』があり、わたしもそれを座右に置いて愛読しているのですが、本書にはその岩波版『随筆集』には未収録の作品が11篇収められていることもあり、購入して読んでみた次第です。

茶碗の中のお湯の動きや湯気の上がりかた、温度の変化などの観察から、地球規模の気象へと話を広げていく「茶碗の湯」。混雑して遅れた電車のあとに空いた電車が来るという現象を、実地での観測に基づいて解明しようとする「電車の混雑について」。『古事記』などの記紀神話にみられる記述を、地球物理学の視点から検証した「神話と地球物理学」・・・。寺田流科学随筆の名作といえる作品が並ぶなか、わたしがとりわけお気に入りなのが「線香花火」です。
先端に点火され、しばらく静かに燃えていったのちに無数の火花をあたりに放ち、やがてまた静かに燃え尽きていく・・・そんな線香花火の挙動を細かく描写したあと、寺田はそれを音楽に喩え、こう表現します。

「荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで哀れに淋しいフィナーレに移っていく」

そして、近代になって流行り出した花火について「焔の色は美しいかもしれないが、始めからお終いまで、ただぼうぼうと無作法に燃えるばかり」と評した上で、「線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である」と述べていきます。音楽の比喩を巧みに織り込んだ語り口はさすが、さまざまな芸術にも深い造詣を持っていた寺田ならではという感じです。
さらに寺田は、線香花火に見られる現象は興味ある物理学上ならびに化学上の問題であるにもかかわらず、わが国においてはきちんと研究されることもなく放棄されている理由がわからない、とした上で、このように述べるのです。

「西洋の学者の掘り散らした跡へ、はるばる遅ればせに鉱石のかけらを捜しに行くもいいが、我々の足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う」

茶碗の湯や椿の花、藤の実、尺八といった、日本の風土の中における身近な存在から、地球や宇宙全体にも通じる独自の物理学を切り開いていった、寺田寅彦の面目躍如なことばだといえましょう。

本文庫版が刊行されたのは2012年のこと。その前年に起きた東日本大震災と福島第一原発事故を受け、「もう一度、現代の科学を見直すため」の「格好の道標」(いずれも、編者である池内了さんによる「まえがき」より)としての、寺田随筆の再評価の流れの中で文庫化されたものでした。
本書に収められた寺田の科学随筆には、震災や原発事故後の状況のみならず、新型コロナウイルスが引き起こしている、現在のいささかヒステリックなパニック状況にも十分通じる、と思われるような作品もありました。「蛆(うじ)の効用」と「こわいものの征服」の2篇です。
「蛆の効用」は、腐肉などに群がったり伝染病の運搬者として毛嫌いされている蛆と、その成虫である蠅が、実は動物の死骸を処理したり、化膿した傷をきれいにするという「市井の清掃係」としての側面があることを指摘します。そして、そのような側面がある蛆や蠅を絶滅させれば、そこら中で腐敗したものがいろいろな黴菌(ばいきん)を繁殖させ、それがまわりまわって人間に「仇をする」かもしれないとして、このように述べます。

「蠅が黴菌を撒き散らす。そうして我々は、知らずに年中少しずつそれらの黴菌を吸い込み呑み込んでいるために自然にそれらに対する抵抗力を我々の体中に養成しているのかもしれない。そのおかげで、何かの機会に蠅以外の媒介によって多量の黴菌を取り込んだときでも、それに堪えられるだけの資格がそなわっているのかもしれない」
「例えば、野獣も盗賊もない国で安心して野天や開け放しの家で寝ると、風邪をひいて腹をこわすかもしれない。◯を押さえると△が暴れ出す」

新型コロナに対する最低限の対策は必要だとは思いますが、不安と恐怖心から来る過剰な除菌対策やゼロリスク思考がわれわれの免疫力を脆弱にし、そのことで思わぬ副作用がもたらされる可能性を忘れてはいけないのではないか・・・ということを、この「蛆の効用」は警告しているように思えました。

もう一篇の「こわいものの征服」(岩波版『随筆集』に未収録の作品のひとつ)は、子どもの頃に雷鳴を恐れ続けたのちに電気の研究に進み、「恐ろしさの変形したものと思われる好奇心と興味」によって雷への恐怖心がなくなったのみならず、やはり子どもの頃に恐れていた地震に対する恐怖心が、地震現象の研究を手がけることで恐怖が「全く忘れたようになくなってしまった」という「ある年とった科学者」(おそらくは寺田自身)の経験談が綴られます。

「もちろん、烈震の際の危険は十分わかっているが、いかなる震度の時に、いかなる場所に、いかなる程度の危険があるかということの概念がはっきりしてしまえば、無用な恐怖と狼狽との代わりに、それぞれの場合に対する臨機の処置ということがすぐ頭の中を占領してしまうのである」

そう語った上で、「私は臆病であったおかげで、この臆病の根を絶やすことができた」という「ある年とった科学者」の話を綴ったあと、寺田はこれが子どもを教育する親たち、そして「すべての人々にとっても、『こわいもの』に対する対策の一般的指導原理を暗示するようにも思われる」と結んでいます。
連日のように新型コロナの新規感染者の増加ばかりを強調し、危険性と恐怖心を煽るようなマスコミの報道もあって、多くの人々が過剰なまでの不安と恐怖を募らせています。しかし、ただただ恐怖を募らせて狼狽するばかりの状況では、真に有効な対応や対策をとることすらできなくなるのではないでしょうか。
正確な知識で「こわいもの」の正体をしっかりと見極め、恐怖心を「征服」することで、新型コロナはもちろんさまざまな災厄に対する有効な対応ができるのだ、ということを「こわいものの征服」は今の世のわたしたちに教えてくれます。

やはり岩波版『随筆集』には未収録の作品である「蜂が団子をこしらえる話」の末尾の一文も、今のわたしの気持ちに響くものがありました。獲物である毛虫の体を噛みちぎり、団子にして巣へと持ち帰る蜂の生態を観察した寺田は、「虫のすることを見ていると実に面白い。そして感心するだけで決して腹が立たない」と述べた上で、「私は人間のすることを見ては腹ばかり立てている多くの人たちに、わずかな暇を割いて虫の世界を見物することをすすめたい」と締めくくります。
新型コロナパニックによりさまざまなことが制限され、それにより生じている抑圧的で重苦しい雰囲気の中で、多くの人が不安と苛立ちを募らせ、「自粛警察」なる醜悪な存在がはびこったりもしている現在。われわれは虫の世界をはじめとした別の世界に、もっと目を向ける必要があるのではないか・・・そう痛感させられました。

いくつもの時代を越えてもなお、読むものに随筆を読む愉しさと興趣、そして汲むべき示唆と教訓をたっぷりと詰めこんだ、寺田寅彦の慧眼が光る名科学随筆の数々。本書を含め、あらためて多くの人たちに読まれて欲しいと思います。