飫肥城内の散策は続いておりました。
そしてもうひとつの見ものが、当時の人びとが入っていた「蒸し風呂」の複製です。外のかまどに薪をくべ、熱した水から生じる蒸気を湯殿で受けるという、今でいうサウナであります。この複製が見られるのは九州ではここだけだとか。屋根がちゃんと、昔の共同浴場の屋根にも見られた唐破風づくりなのが面白かったりいたしますな。
飫肥城内で最後に入ったのは「飫肥城歴史資料館」。飫肥城の初代藩主・伊東祐兵(すけたけ)が着用していた甲冑をはじめ、飫肥藩の版図を示した地図など、飫肥藩と伊東家の歴史を物語るさまざまな史料が展示されています。
ここには、古い町並みを活かした飫肥の町づくりの過程を説明したパネルも掲示されておりました。それによると、昭和49年に市民ぐるみによる飫肥城の復元事業にとりかかった日南市は、同時に市議会において「文化財保存都市宣言」を行うとともに、高山市、倉敷市、南木曽町といった町並み保存の先進自治体と「町並み保存に関する要望書」を国に提出。それが3年後に九州で最初となる「重要伝統的建造物群保存地区」の指定へと繋がっていったとか。
その名のとおり、武家屋敷の立ち並ぶ中にあるお店。建物自体、かつて武家屋敷だったものを改装しているとのことですが、中に入るとジャズが流れていてモダンな雰囲気。
まずはお刺身。しっかり脂ののった切り身を口に運ぶと、とろけるような旨味がいっぱいに広がって格別の美味さ。これは絶好のビールのお供になりました。
もともとは別の場所にあった建物を、平成16年に飫肥城の隣に復元したものです。実際に見ると、想像していた以上に質素でこじんまりとしていることに、軽く驚きを覚えました。このこじんまりとした家から、あれだけの偉大なる功績を残した人物が生まれたのか・・・と。
ここの入り口には、小村侯の実物大パネルが立っているのですが、156センチというその小柄なことに、また驚かされました。かくも小さな体軀の小村侯が、難しい時期の日本外交の舵取りを担い、大きな功績を歴史に残したということに、感慨深いものを覚えました。
運河にかかる石造りの「堀川橋」を望む風景、そしてその堀川橋の上から眺める運河沿いの風景は、ノスタルジックな気持ちを掻き立ててくれます。飫肥が江戸の歴史を体感できる町なのに対し、油津は大正から昭和にかけてのノスタルジーを感じる町、でありましょうか。
飫肥城の本丸があった場所をあとにして、次に入ってみたのが「松尾の丸」でした。身分の高かった武将が住んでいたという武家屋敷を再現したものだそうですが、建物を説明する文に「全国各地に残る資料を参考に建てられた」とあり、飫肥にあった屋敷を忠実に復元した、というわけではなさそうでした。とはいえ、室内をみて歩くと当時の武家の暮らしぶりが想像されて、なかなか楽しいものがありました。
広々とした一室には、昔の飫肥藩が参勤交代の時に利用していたという「川御座船」の大きな模型が設えられておりました。凝ったつくりに豪壮さが窺えます。
そしてもうひとつの見ものが、当時の人びとが入っていた「蒸し風呂」の複製です。外のかまどに薪をくべ、熱した水から生じる蒸気を湯殿で受けるという、今でいうサウナであります。この複製が見られるのは九州ではここだけだとか。屋根がちゃんと、昔の共同浴場の屋根にも見られた唐破風づくりなのが面白かったりいたしますな。
「蒸し風呂」の入りごこち、はたしてどんなもんだったんでしょうかねえ。
飫肥城内で最後に入ったのは「飫肥城歴史資料館」。飫肥城の初代藩主・伊東祐兵(すけたけ)が着用していた甲冑をはじめ、飫肥藩の版図を示した地図など、飫肥藩と伊東家の歴史を物語るさまざまな史料が展示されています。
ここには、古い町並みを活かした飫肥の町づくりの過程を説明したパネルも掲示されておりました。それによると、昭和49年に市民ぐるみによる飫肥城の復元事業にとりかかった日南市は、同時に市議会において「文化財保存都市宣言」を行うとともに、高山市、倉敷市、南木曽町といった町並み保存の先進自治体と「町並み保存に関する要望書」を国に提出。それが3年後に九州で最初となる「重要伝統的建造物群保存地区」の指定へと繋がっていったとか。
この過程を初めて知ったわたしは、風情ある町の景観を守ってきた日南市の取り組みに敬意を抱くとともに、大好きな町のひとつである倉敷と、ここ日南とが結びついていたことにも嬉しい気持ちがいたしました。
飫肥城から外に出てみると、町はいつのまにか観光客で賑わいを見せておりました。家族連れや友人同士と思われる小グループが道を行き交い、車もけっこう走ったりしています。ナンバーを見ると地元宮崎のみならず、福岡や熊本といった近県からのものもチラホラ。
コロナ騒動からこのかた、宮崎を含めた全国各地の観光地はどこも大きな打撃を受けてしまい、宿泊施設や土産物屋さん、飲食店などが休業、さらには廃業へと追い込まれているという状況に、気持ちが痛む日々が続いておりました。それだけに、この日の飫肥の賑わいには嬉しくなりました。
これから日本全体が正気と正常さを取り戻し、みんなが気兼ねなく旅やレジャーを楽しめるようになることで、飫肥をはじめとする各地の観光地も賑わいを取り戻すことができるよう、心から願わずにはいられません。
そうこうするうちにお昼の時間帯。美味しい昼食をいただくときがやってまいりました。何軒かあった食事処の中から「武家屋敷 伊東邸」に入りました。
その名のとおり、武家屋敷の立ち並ぶ中にあるお店。建物自体、かつて武家屋敷だったものを改装しているとのことですが、中に入るとジャズが流れていてモダンな雰囲気。
わたしがこの日最初の入店客だったようで、一人客にもかかわらず4人がけの広いテーブルに通していただきました。恐縮しつつそこに座ると、大きな窓から庭が眺められていい感じであります。
宮崎牛やチキン南蛮、椎茸をトッピングしたカレーなど、美味しそうなメニューが並ぶ中から、「生まぐろ丼まぶし」を瓶ビールとともに注文しました。近くの油津港で水揚げされたまぐろを、刺身とまぐろ丼、そして茶漬けという三つの食べ方で味わうという料理です。
まずはお刺身。しっかり脂ののった切り身を口に運ぶと、とろけるような旨味がいっぱいに広がって格別の美味さ。これは絶好のビールのお供になりました。
お次はまぐろ丼。ごはんの上にまぐろの切り身をのっけて、その上に刻み海苔やネギ、わさびといった薬味、さらに生卵を重ねて、特製のタレをかけてかっこみます。まぐろの旨味と薬味、卵、そしてタレが渾然一体となった味わいは、もう感動ものでありました。
そして最後に、熱い出し汁をかけてお茶漬けに。出汁に溶け出したまぐろの脂が染みこんだごはんがまた、いうことなしの美味しさ。ここのところ、ごはんを食べる量を減らしているわたしですが、久しぶりにごはんをたくさんいただきました。食べ終わった食器を片づけに来られた給仕の女性に、こんなにごはんをたくさん食べたのは久しぶりですよ、と申し上げると「そう言っていただけるとこちらも嬉しいです」とおっしゃいました。
食後の口直しに、ご当地産「日南レモン」を使ったレモンソーダを。爽快な酸味が、五臓六腑をスッキリさせてくれました。
日南の美味しさをたっぷりと味わうことができて、大満足の昼食となりました。このお店もまた来たいなあ。
お腹を満たしたあと、再び町を散策。明治日本の外交の舵取りに尽力したご当地出身の傑物、小村寿太郎の生家を訪ねました。
もともとは別の場所にあった建物を、平成16年に飫肥城の隣に復元したものです。実際に見ると、想像していた以上に質素でこじんまりとしていることに、軽く驚きを覚えました。このこじんまりとした家から、あれだけの偉大なる功績を残した人物が生まれたのか・・・と。
ちなみに、もともとこの家が立っていた小村侯生誕の地はここからすぐ近くにあり、東郷平八郎の筆になる碑文が刻まれた、大きな石碑が立っております。
続いて、小村侯の残した事績を顕彰するとともに、現地における国際交流の拠点ともなっている「国際交流センター 小村記念館」へ。
ここには、日露戦争におけるポーツマス条約の調印や、不平等条約の改定などといった、小村侯の功績を伝える資料が多数展示されています。ポーツマス条約調印に関するコーナーには、当時の調印の席で使われたテーブルの複製も。
ここの入り口には、小村侯の実物大パネルが立っているのですが、156センチというその小柄なことに、また驚かされました。かくも小さな体軀の小村侯が、難しい時期の日本外交の舵取りを担い、大きな功績を歴史に残したということに、感慨深いものを覚えました。
そんな小村侯が大事にしていた価値観が「誠」。館内には、小村侯が青少年に向けて行ったスピーチの一節が掲示されていました。
私が学生に望むことは「誠」である。
私が人よりすぐれたところがあるとは思わない。
もし私に万が一長所があるとすれば
それは「誠」の一字につきると思う。
人と人との関わりあいにおいても、そして国と国との関わりあいにおいても、「誠」の姿勢を大事にすることが必要なのだ・・・小村侯の遺したメッセージは、現代に生きるわれわれが改めて噛みしめるべきことであるように、思われてなりませんでした。
小村記念館を見学したあと、本町通りにある「商家資料館」へ。明治3(1870)年に建てられた白漆喰壁の土蔵を移築復元し、当時使われていた秤などの商売道具や、昔の写真機、幻灯機などを展示しています。城下町であり商都でもあった、飫肥の生活文化の一端を知ることができました。
飫肥の歴史散歩を満喫したわたしは、海側にある港町、油津へと足を伸ばすことにしました。油津はかなり前に行った記憶はあるのですが、まだじっくりと歩いたことがなかったので、油津にも立ち寄っておきたいと思っていたのです。
タクシーに乗ること15分ほど、油津の中心部に降り立ったわたしがまず向かったのは、堀川運河でした。飫肥藩の第五代藩主・伊東祐実(すけざね)により、貞享3(1686)年に開削された堀川運河は、名産である飫肥杉の積み出しなどに利用され続けられましたが、戦後に入ると埋め立てが取り沙汰されることに。しかし、市民有志による保存運動が功を奏し、運河はかつての石積み護岸を残す形で保存され、油津を象徴する名所となりました。渥美清さん主演、山田洋次監督の「寅さん」シリーズ第45作目である『男はつらいよ 寅次郎の青春』(1992年)の舞台として、堀川運河が映し出されていたのをご記憶の方もおられましょう。
運河にかかる石造りの「堀川橋」を望む風景、そしてその堀川橋の上から眺める運河沿いの風景は、ノスタルジックな気持ちを掻き立ててくれます。飫肥が江戸の歴史を体感できる町なのに対し、油津は大正から昭和にかけてのノスタルジーを感じる町、でありましょうか。
堀川橋からほど近い住宅地にも、大正から昭和にかけてのノスタルジーを感じさせる古い建物がいくつか残っていました。大正10年に倉庫として建てられ、文化庁の登録文化財に指定されている「油津赤レンガ館」。かつては宿泊客で賑わっていたという旅館だった建物。昭和初期に建てられたという病院だった建物・・・。
そんな貴重な建物の数々が、地元の人たちの生活感が息づく住宅地の中で、静かに時を重ねているというのが、なんだかいいなあと思いました。
ノスタルジックな雰囲気が漂う油津はまた、セリーグの広島東洋カープのキャンプ地でもあります。
油津駅の外観は思いっきりカープ仕様ですし、待合室の中もカープ一色。また、油津の中心にあるアーケード街の中には、カープファンの交流拠点と思われる「油津カープ館」があるほか、アーケード街からキャンプ地である天福球場へと至る道は赤く塗られていて、「カープ一本道」と名付けられている、といった具合。カープファンの皆さまはぜひ、油津へとお越しになってみてはいかがでありましょうか。
そうそう。アーケード街のあたりは呑み屋街でもあるようで、居酒屋やスナックの看板もたくさん目につきました。日中は飫肥で歴史散歩を楽しんで、夜は油津に宿をとって呑み歩きを楽しむ・・・そんなプランも良さそうだなあ。
こうして、飫肥から油津に至る日南プチ旅行は終わりました。日帰りではありましたが、思っていた以上に楽しく、充実したものとなって満足でした。
今回のプチ旅行で、たとえ地元の近場であっても、ふだんは足を運ばないエリアをじっくりと歩くことで、けっこう旅気分が味わえるもんだなあ、ということを実感することができました。おかげで、遠くに出かけられなかったここ半年ちょっとの憂さとウップンが、いくらかは晴れました。これからもときどき、日帰りのプチ旅行の機会をつくってみようかなあ、と思っております。
ですがそのことで、遠くへの旅の機会をなくしてしまうというのも、やっぱりイヤであります。そのうちまた、遠くの地へと旅してみたい・・・そうも思うのです。