読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

きまぐれ名画座年末年始スペシャル「閑古堂の年またぎ映画祭」その1

2021-12-30 14:05:00 | 映画のお噂
この年末年始は楽しく穏やかに過ごせそうかなあ・・・と思っていたら、オミクロン株とやらの「脅威」とやらを盛んに煽るマスコミ(いや、もうここは遠慮なく「マスゴミ」と言い切らせてもらいましょう)に踊らされる形で、またぞろ世の中がコロナだオミクロンだと錯乱しております。2年前からまったく、なんの進歩もしていない世の中の錯乱ぶりには胸くそが悪くなるばかりで、もうつくづく愛想が尽きます。
こんな胸くそ悪い気分を吹き飛ばすには、面白い映画を観るのが一番!ということで、年末年始にかけては、ここしばらく買い集めたDVDやBlu-rayで映画を観まくることにいたしました。名づけて「閑古堂の年またぎ映画祭」!
期間中はいくつかのテーマごとに作品を数本程度チョイスして、観ていくことにいたします。といいましても、そこはわたしの好みや趣味を反映した、かなり偏りのあるラインナップになるかと思いますが、そこはまあゴアイキョウということで。
ではこれより、観た作品を何回かに分けて、順次ご紹介していくことにいたしましょう。

まず最初の特集は「50年代SFクラシックス」。・・・と、いきなり趣味性全開のテーマ設定で恐縮なんですが(笑)。CG全盛の今からするとチープな面もあれど、SFの原初的な「センス・オブ・ワンダー」に溢れているのが、1950年代のSF映画であります。数ある中から、現在も高く評価されている3作品をチョイスいたしました。


年またぎ映画祭1本め『縮みゆく人間』(1957年 アメリカ)
監督=ジャック・アーノルド 製作=アルバート・ザグスミス 原作・脚本=リチャード・マシスン 撮影=エリス・W・カーター 音楽=ジョセフ・ガーシェンソン
出演=グラント・ウイリアムズ、ランディ・スチュワート、エイプリル・ケント
DVD発売元=ランコーポレーション

休暇の日、妻とボートでバカンスを楽しんでいたスコット・ケアリーは、海上に立ちこめた放射能を含んだ霧にさらされる。半年後、彼は自らの体が縮んでいることに気づく。それからも日々彼の体は縮んでいき、医学的な処置も縮小を止めることができない。ついには昆虫のように小さくなってしまい、飼い猫に追われて地下室へ転落してしまう。彼が死んだと思い込んだ妻は家を去って行き、ケアリーは一人地下室に取り残されることに・・・。
体が徐々に縮んでいく悲劇的な状況の中で、それでも生き抜こうとする主人公の闘いを描いた、リチャード・マシスンの小説の映画化です。可愛がっていた飼い猫が、まるで巨大な怪獣のように襲ってきたり、給湯器から漏れた水で溺れそうになったり、深い渓谷のようになった家具と家具のあいだを飛び越える羽目になったり・・・と、普段の何気ない生活の場が困難な別世界のごとく立ちはだかる状況が、巨大に作られたセットや大道具による撮影と合成技術との使い分けにより、なかなか効果的に表現されておりました。なかでも、自分よりも巨大になってしまったクモとの対決シーンは、ホンモノのクモを使って撮影されているだけに迫力がありました(クモ嫌いにはたまらないかも)。
ラストは救いのないものですが、悲劇的な状況を前にした主人公が「無限に小さいものと無限に大きいものは同一になる」といった哲学的な思考や、ちっぽけな人間にも存在する意味があると述べるところは、なんだか感動的でありました。


年またぎ映画祭2本め『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年 アメリカ)
監督=ドン・シーゲル 製作=ウォルター・ウェンジャー 脚本=ダニエル・メインウェアリング 原作=ジャック・フィニィ『盗まれた街』 撮影=エルズワース・フレデリック 音楽=カーメン・ドラゴン
出演=ケヴィン・マッカーシー、ダナ・ウィンター、ラリー・ゲイツ、キング・ドノヴァン、キャロリン・ジョーンズ
DVD発売元=ランコーポレーション

夜の救急病院に、錯乱状態となった一人の男が搬送されてくる。その男=医師のベネルは、自らが遭遇したという恐ろしい出来事の一部始終を語り始める。彼が開業医を営むカリフォルニア州の街サンタ・ミラの住人からは、近親者が別人のように変わってしまったという相談が相次いで寄せられていた。やがて、宇宙からの侵略者が送りこんだ大きな豆のサヤのようなポッドによって、街の人々の複製が作り出されていることを知ったベネルは、恋人のベッキーとともに街から必死に脱出を図ろうとするが・・・。
宇宙からの侵略者がもたらす恐怖を描いた、ジャック・フィニィの小説『盗まれた街』の映画化で、その後3度リメイクされることになる侵略テーマSFの古典的名作です。監督はクリント・イーストウッドのヒット作『ダーティハリー』(1971年)などで知られるドン・シーゲル。また、彼の弟子筋で『ワイルドバンチ』(1969年)『ゲッタウェイ』(1972年)などを監督したサム・ペキンパーが脚本に関わっています(メーターの検針をする男の役で出演も。ただしノンクレジット)。
愛する人たちや、慣れ親しんでいたはずの街の人々が、顔かたちはそのままでも徐々に人間性を失った異なる存在へと入れ替わっていき、それらに取り囲まれ、追い詰められていく過程がサスペンスたっぷりに描かれていて、実によくできたSFホラーでした。冷戦下での共産主義の脅威が、作品の背景にあるともいわれますが、いま観るとコロナパニックの中で進んでいる理性や人間性の喪失と全体主義化を想起させるものがあって、リアルな恐ろしさを覚えました。まさに、いま観られるべき一本といえましょう。
主人公のベネルがヒロインのベッキーに語ったセリフが、とても気持ちに響いてきました。

「みんな少しずつだが、心の優しさが失われているようだ。残った者は人間性のために戦う事が大切だと、僕は思う」


年またぎ映画祭3本め『宇宙戦争』(1953年 アメリカ)
監督=バイロン・ハスキン 製作=ジョージ・パル 脚本=バリー・リンドン 原作=H・G・ウェルズ 撮影=ジョージ・バーンズ 音楽=リース・スティーブンス
出演=ジーン・バリー、アン・ロビンソン、レス・トレメイン
DVD発売元=NBCユニバーサル エンターテイメント

ある日、地球のあちこちに隕石が落下してきた。そこから姿を現したのは、火星からの侵略者たちが操る円盤型のウォーマシンだった。ウォーマシンは光線を放ちながら人々に攻撃を加え、街を焼き払っていく。軍隊が出動して反撃を加えるものの、まったく歯が立たない。打つ手のなくなった人類は、存亡の危機に立たされる・・・。
『タイム・マシン』や「透明人間」など、現代SFの基礎となる名作を次々と生み出した作家、H・G・ウェルズの代表作の映画化作品で、今もなおSF映画の名作として名高い傑作です。火星人と人類との攻防戦を、83分というコンパクトな時間の中でテンポ良く描いていて、観る者を引き込ませてくれます。
美しいカラー映像で展開される、特撮を駆使した派手なスペクタクルも迫力いっぱい。白鳥を思わせる優美なスタイルを持ちながら、地球側の攻撃などまるで問題にせず(核兵器もまったくの無力)、無慈悲に破壊と殺戮を進めていく、火星人の円盤型ウォーマシンの存在感はまことに圧巻でありました。マシンが発する独特の音もまた、いかにも往年のSFっぽい感じがして良かったですねえ。

(「その2」に続く)

『THE MAKING』を(ほぼ)コンプリートで観てみた。 【その3】第21回〜第30回

2021-12-19 23:47:00 | ドキュメンタリーのお噂
さまざまな製品が製造されていく過程を、余分な要素を排したシンプルな構成で辿っていく科学技術教育番組シリーズ『THE MAKING』。その全317回(+スペシャル版)のうち、現在見ることができるすべての回を観た上で、ごくごく簡単な見どころ紹介と感想を綴っていくという、続きもの記事の3回目であります。


シリーズの詳しいご説明などは【その1】に譲ることにして、今回は第21回から第30回までを紹介していくことにいたします。これまでと同じく、サブタイトルの部分には「サイエンスチャンネル」の公式YouTubeチャンネルにアップされている該当回へのリンクを貼っております。ご覧になる際の参考にでもなれば幸いであります。なお、配信停止やリンク切れの節はご容赦くださいませ。
(2022年6月11日追記。該当回へのリンクを、画面埋め込みの形で新たに貼り直しました)


(21)万年筆ができるまで

手先どころか指先を駆使しての、実に細かく緻密な作業を重ねて作られる万年筆とは、もはや工業製品というより工芸品の域ではないか・・・と見ていて感じました。とりわけ、ペン先の小さな球(直径が1ミリ前後という「ペンポイント」)を作るところで、原料の粉末が電気アークによる3000℃以上の高熱で一瞬のうちに溶け、表面張力によって球形となるのは驚きでしたねえ。


(22)ぬいぐるみができるまで

ミニーマウスのぬいぐるみの製造工程。生地の打ち抜きから縫い合わせや綿入れ、仕上げまでを、ほぼすべて手作業で行っているのが印象的でした。こうやって人の手によって生まれる温かみが、ぬいぐるみの命なんだなあ・・・と妙に納得した次第であります。

(23)ランドセルができるまで

こちらもまた、縫い上げから組み立てまでのすべての工程を手作業で、それも町工場のような雰囲気のもとで進められていることに感慨深いものが。ランドセルがこれだけ、人の手によって丁寧に作られていることを知っていれば、子どものときにもっと大事に使ってたかもなあ・・・と、なんだかしみじみとした気持ちになったのでありました。

(24)蛍光ランプができるまで

電極のコイルの巻き取りやリード線の挿入などの細かい部分も含め、すべての工程をこなすオートメーション機械の働きぶりに目を見張りました。開発した人たちの知恵と苦労には、並々ならぬものがあっただろうなあ。普段当たり前のように使っていながら、実はよくわかっていなかった蛍光ランプの構造や光る仕組みも理解することができ、勉強になりました。

(25)歯ブラシ・歯ミガキができるまで

歯ブラシの先端に植毛する機械の、目にも止まらぬ速い動き(1つの穴に18本の毛を、1分間に25本の歯ブラシに植毛するのだとか)には、ただただ驚きで目を見張らされました。その一方で、歯ブラシの柄(ハンドル)が箱の中に残らないよう、箱を叩いて揺すぶる機械の存在には、ちょっと笑えました。クリーム状の原料が練りあわされて歯ミガキが作られているシーンは、なんだか美味しそうに見えましたねえ。

(26)トランペットができるまで

パーツの設計にコンピュータが用いられるなど、メカの力を借りる工程がある一方で、ハサミを使って真鍮板を丁寧に切り出したり、ヘラやハンマーを使って成型したりと、人の手によって行われる工程の存在感も大きいことがわかりました。管をU字型に曲げるとき、つぶれないように中に溶けたハンダを流し込む工夫には「なるほど〜」でありました。

(27)石けんができるまで

石けんのいい香りが漂っているであろう製造工程も、そのほとんどが自動化されていて無人(調合された材料を運ぶのも、無人で動く搬送車だったりいたします)。それを制御する、大きなパネルが並んだコントロールルームには時代を感じますが、今ではもっと進化、洗練されたものになっているかもしれませんねえ。

(28)スニーカーができるまで

こちらもパーツの設計にコンピュータが活用されている一方で、縫い合わせや組み立てのかなりの部分に、丁寧な手仕事が活かされておりました。靴底のゴムを作るときに硫黄を混ぜることで、弾力のあるゴムになるというのも「なるほど〜〜」でありました。

(29)オルゴールができるまで

温かみのある音を奏でる、手づくり感を持つ品物というイメージとは裏腹に、部品の製造から組み立てまでのすべてが機械によるオートメーション。振動板製造の工程で響く音が実に独特で、ボリューム上げて爆音上映したらスゴいことになりそうな気が(笑)。

(30)ストッキングができるまで

円形に並んだ約400本もの針で、片足ごとに一気に編み上げていく、自動編み機の動きの速さはオドロキでした。仕上げをする工程で、ストッキングを履かせた足型がズラリと列をなしてラインを流れていく光景は、ちょっとシュールで面白い絵面でありました。


これまでの回は以下のとおりです。↓


いつものお店でいつものように、呑み食いができることのありがたさを、週末の呑み屋街で噛みしめた。

2021-12-19 22:02:00 | 美味しいお酒と食べもの、そして食文化本のお噂
南国宮崎とはいえ、それなりに冬の寒さが身にしみるようになってまいりました。
昨日(18日)の午後、大切な方への贈りものを購入するため、宮崎市の中心部にある山形屋デパートへ。購入した後は地下へ降りて、おやつに「高千穂牧場」のソフトクリームをいただきました。ミルクのコクが詰まったなめらかなクリームが実に美味しくて、ここに来るたんびに買って食べております。暑かろうと寒かろうと。


そして呑み屋街に出る前に身を清めるべく(笑)、やはり街中にある天然温泉スパ施設へ。だいぶ寒くなってきたこともあり、あったかいお湯がことのほか嬉しいですねえ。ちなみにきょうは、養命酒とのコラボによる「クロモジの湯」がございました。なるほど、立ち昇る薬草っぽい香りがそれなりに養命酒ふうでございました。
わたしと同じように、冷えたカラダを温めたいと思う人は多かったようで、浴室内は入浴客でいっぱい。みなさん、それぞれ気持ちよさそうに、お湯に浸かっておられました。


そして呑み屋街へ足を運び、2週間ぶりとなる一人外呑みを楽しみました。ここ数年ほど、ずっと通っている、お気に入りの大衆酒場であります。


カウンターに座り、まずは生ビールとともに鶏と豚バラの串焼きを。シンプルな塩味で旨みが引き立つ串焼きに、ビールがぐいぐいと進みました。やっぱり湯上がりのビールは最高やねえ。




そして、旨味と飲み口の良さを兼ね備えた芋焼酎「橘」(麦焼酎「百年の孤独」の蔵元による芋焼酎で、このお店イチオシの銘柄でもあります)のお湯割りとともに、納豆とエビの天ぷらを。冷え込みが強くなってきた時期、やっぱり焼酎のお湯割りはいいですねえ。




気がつけば、最初はわたし一人だけだった店内は、お客さんでほぼ満席の状態。活気にあふれた店内で、大将をはじめとするお店の方々は忙しそうに、お客さんからの注文をさばいておられました。
「ようやくウチの店らしくなってきましたよ」・・・お店に入ったときにおっしゃっていた大将のお言葉を、わたしは思い返しました。昨年からこのかた繰り返された「緊急事態宣言」やらによる時短、休業要請のせいで、極端に客足が落ちていた時期を思えば、よくぞここまで持ち直したなあ、と感慨しきりでありました。それもこれも、大衆酒場としての本分を守ってきたお店の姿勢と、それを支持する多くのファンの存在あってこそなのではないか・・・と思いつつ、いい酔い心地でお店をあとにいたしました。

そのあとは、しばらく呑み屋街をぶらぶらと散策。通りは多くの人で賑わっていて、週末の夜の街らしさが感じられたのが、しみじみ嬉しゅうございました。



街歩きでだいぶカラダも冷えてきたので、こちらもずっと通っている馴染みのバーへ。冷えたカラダをホットのカルアミルクで温めたあとは、さっぱりとしたオレンジブロッサムを。そしてハイボールを立て続けに飲んで、深まる冬の夜を楽しく過ごしました。



隠れ家のような小さなバーの中もまた、お客さんで満席状態。隣に座った見知らぬ方と、ふとしたことで会話が弾んだりするのも、こういうお店で過ごす楽しみなんですよねえ。この楽しみをなくすようなことがあってはならないと、あらためて思うのであります。

もう2年近くにわたって延々と続く、新型コロナをめぐる異常なまでのヒステリー状況によって、ごくごく当たり前だった日常の社会生活や人と人との結びつきは破壊され、飲食や旅行、レジャーなどといったささやかな楽しみも、ことごとく奪われてきました。
それだけに、こうやっていつもの馴染みの酒場で、いつものように呑み食いを楽しみ、そこにいる人たちと交流できるということがどれだけありがたいことなのかを、コロナ騒ぎで再認識いたしました。

オミクロンなる新株騒ぎで、沈静化したかに思われたコロナヒステリーがまたぞろ、「専門家」やマスコミによる脅しや煽りもあって強まっているようです。もう2年近くにもなろうというのに、なんにも進歩していないヒステリーぶりには、もうつくづくウンザリさせられます。
とはいえ、この夜の呑み屋街の賑わいを見て、少しだけ希望も感じることができました。結局のところ、「専門家」やマスコミに踊らされているカワイソウな人たちをよそに、普段どおりの日常を普通に楽しもうとする、ごくごく真っ当で健全、それでいてしたたかでしなやかな感覚を持つ方たちが、最後には勝つのではないかと思うのです。
「コロナ禍」ならぬ「コロナ騒ぎ禍」が一日も早く終わり、普段どおりの日常を普通に楽しめる世の中が戻ることを、ただただ願うばかりであります。

『THE MAKING』を(ほぼ)コンプリートで観てみた。 【その2】第11回〜第20回

2021-12-10 22:33:00 | ドキュメンタリーのお噂
さまざまな製品が製造されていく過程を、余分な要素を排したシンプルな構成で辿っていく科学技術教育番組シリーズ『THE  MAKING』。その全317回(+スペシャル版)のうち、現在見ることができるすべての回を観た上で、ごくごく簡単な見どころ紹介と感想を綴っていくという物好きな(笑)続きもの記事の2回目です。


シリーズの詳しい説明等は【その1】に譲ることにして、今回はさっそく第11回から第20回までを紹介していきたいと思います。なお、配信停止やリンク切れの節はご容赦くださいませ。
(2022年6月11日追記。該当回へのリンクを、画面埋め込みの形で新たに貼り直しました)


(11)レンズ付フィルムのリサイクル

この回は、製品ができるまでを追っていく通常の回とは趣を変え、使用された製品が「リサイクル」されるまでを追っています(この後も数回、リサイクルを扱った回が製作されております)。
手軽に写真を撮ることができるアイテムとして、かつてはよくお世話になっていたのに、ケータイやスマホで写真を撮ることが当たり前となったいまでは、まったく使うこともなくなってしまったレンズ付フィルム。その最盛期にはこんなに大量に、それも完璧なまでのフルオートメーションによって再生されていたんだなあ・・・と、観ていて感慨深いものがございました・・・。

(12)口紅ができるまで

口紅の製造工程に、まさか電子レンジが登場してくるとは思わなかったな(笑)。口紅の充填のときにできる「収縮孔」(口紅を充填したあとにできてしまう溝のこと)の説明図が手描きのイラストというのも、なんだか微笑ましいものがございました。製造工程の中で何度も、カメラや人の目を用いたチェックが行われていることも印象的でした。

(13)ピアノができるまで

側板(がわいた)の製作など、機械の力を借りて行う前半の製造工程と、弦を張ったり調律をしたりといった、人の手と耳を使う後半の緻密な工程のコントラストが面白いですね。出荷する場所(国内はもちろん海外も)の湿度に慣らすための「シーズニング」なる工程があるのも興味深かったです。そして打鍵と打弦テスト場面の賑やかなこと(笑)。

(14)くつ下ができるまで

冒頭に登場する、回転させながら筒状に編んでいく「編み立て機」が、なかなかよくできているなあと感心。すべてを一気に縫い上げていくかと思いきや、つま先部分は別に縫い上げてから本体と縫い合わせるんですね。紙テープに打ち込んだ刺繍データをコンピュータに読み取らせるというあたりに、時代の流れをしみじみと感じさせられます・・・。
(この回が製作されたのは1998年)

(15)発泡スチロールトレーのリサイクル

この回もリサイクルがテーマ。発泡スチロールの9割が空気でできているということを、恥ずかしながらこれで初めて知りました(汗)。白いトレーと柄もののトレーをセンサーで識別し、柄ものをエアーで吹き飛ばして白いトレーだけを選り分けるラインが、実に見事でありました。

(16)アルミ缶のリサイクル

引き続いてリサイクルの回。回収されて溶かされたアルミからできた、厚さ50センチの巨大なアルミの固まり「スラブ」を、ローラーで薄く薄く(最終的には厚さ6ミリにまで)延ばしていく工程が見ものでした。あのスラブ、重さにしてどのくらいあるのやら・・・。

(17)自動車ができるまで

本体ボディの成形から、流れ作業での組み立て作業、そしてさまざまなテストを経て出荷されるまでの過程が、15分弱の尺でコンパクトにまとまっております。
見どころはなんといっても、本体ボディの溶接や塗装、部品の取り付けなどで稼働するロボットたちの働きっぷりでしょう。なかでスペアタイヤを取り付けるロボットの動きが実に見事なのですが、そのバックになぜかミッキーマウスのテーマが流れてるのには笑いましたな。

(18)時計ができるまで

各部品の製造の多くは機械によるもの。とりわけ、コイルの銅線を目にも止まらぬ速さで24000回巻きつける機械には、見ていて思わずため息が出るほどスゴかったですねえ。その一方で、細かい組み立て作業を正確に、かつ手早くこなしておられる作業員の皆さんの熟練の技もまた、なかなか見事でありました。

(19)ミシンができるまで

ミシン内部の形状やメカニズムが、想像以上に複雑であることに驚かされました。そしてここでも、組み立てにあたる人たちの熟練の技に感心することしきり。機械もスゴいけど、なかなかどうしてニンゲンもけっこうスゴいもんだよなあ。

(20)セロハンテープのできるまで

天然ゴムや樹脂、溶剤などからなる粘着剤を攪拌し、製造する工程で、静電気による火災を防ぐために水蒸気を使ったり(湿気があると静電気が起こりにくいので)、溶剤は蒸発させてから回収して再利用したり・・・と、普段何気なく使うセロハンテープの生産における工夫の数々に「なるほど〜」の連打でありました。


シリーズの過去記事は以下のとおりです。



【たまには名著を】 「精神のコレラ」に打ち克ち、真の幸福を実現するための羅針盤

2021-12-05 22:48:00 | 本のお噂


『幸福論』
アラン著、神谷幹夫訳、岩波書店(岩波文庫)、1998年


合理的・理知的なヒューマニズムに基づいた思想を展開していたフランスの哲学者アラン(1868ー1951)が、新聞に毎日連載し続けていた総数5000にのぼる哲学断章(プロポ)の中から、幸福に関する93篇を一冊にまとめたのが、この『幸福論』です。
数あるアランの著作の中で最も広く親しまれている本書は、ヒルティの『幸福論』やバートランド・ラッセルの『幸福論』と並ぶ「三大幸福論」としても名高く、岩波文庫版をはじめとしてさまざまな訳本が出されています。ひとつの項目が2〜4ページほどと短いうえ、語り口も実に平易なので、ちょっとしたスキマ時間を使って読むのにもぴったりでしょう。

アランは本書に収められたプロポの中で、気分や情念に囚われ、そこから生じる恐怖や怒りに振り回されることを、幸福を妨げる要因として繰り返し戒めます。そして、自らの意志によって幸福となることの大切さを説くのです。

「まちがっているのは、自分の考えが情念の言うなりになっていること、そしてどうにも手のつけられないような熱狂さで恐怖のなか、怒りのなかにとび込むことである。要するに、われわれの病気は情念によってもっと悪くなる」    (2 いらだつこと)

「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。(中略)ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」                (93 誓わねばならない)

とかくわれわれは、ものごとを悲観的に捉えることを「高尚」だとみなす一方で、楽観的な姿勢をことさら低く見る傾向があります。それだけに、アランの「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」という指摘には、目を見開かされるような思いがいたしました。
わたし自身マイナスの気分に囚われ、それに振り回されてしまうことがしばしばあったりしますので、それを克服する意志を持つことで、真の幸福を目指さなければいけないなあ・・・と自戒するばかりです。

もう一つ、自戒としなければいけないなあと思わされたのが「泣き言」と題されたプロポです。
このプロポでは、ものごとが何もかも悪くなっていくかのように考えたり、言ったりすることの弊害が語られます。「もっとも賢い人」が大げさな言い方で巧みに自分をだまし、悲しみや絶望に陥ることは「まるで精神のコレラみたいに」伝染する病気だと、アランは言います。

「ことばはそれ自体においてとほうもない力をもっている。悲しみをあおるやら、増大させるやらして、まるで外套でも拡げたように何もかも悲しみで包み込んでしまうのである。そういうわけで、結果だったものが原因となる。ちょうど子どもが、自分で友だちをライオンや熊の姿に扮装させておきながら、その姿がほんとうにこわくなってしまうようなものである」

これもまた「たしかにそうだよなあ」と思わされるものがございました。悲しみや怒り、そして恐怖を煽るような大げさなことばは、自分自身のみならず他者に対してもマイナスの影響を与えてしまい、多くの人がそれに取り憑かれ、病んだ状態となってしまうのです。まるでパンデミックのように。
そんな伝染性のある「精神のコレラ」にも効きそうなヒントを与えてくれるのが、本書のプロポの中でもわたしがとりわけお気に入りの「あくびの技術」。アランはこの中で、あくびは疲労のしるしではなく、「おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである」と、あくびがもつ効用と価値を述べます。
そして、やはり人から人へと伝染することによってひどくなる、自分自身へのさまざまな拘束からなる「伝染性の儀式」に対する「伝染性の治療法」こそあくびなのだと、アランは主張するのです。

「どうしてあくびが病気のようにうつるのかとふしぎに思っている人がいる。ぼくは、病気のようにうつるのはむしろ、事の重大性であり、緊張であり不安の色であると思う。あくびは反対に、生命の報復であり、いわば健康の回復のようなものである」

この2年ものあいだ、長々とうち続いている新型コロナウイルスをめぐるパニック状態は、ウイルスそれ自体の広まりがもたらす害以上に、「専門家」と称される人々やマスメディアが発する大げさな物言いからくる不安や恐怖が、「精神のコレラ」のごとく伝染してしまったことにより引き起こされているように、わたしには思えてなりません。
アランが説いている「あくびの技術」は、そんなコロナパニックに対処するためのヒントにもなりそうです。おなかに深々と空気を送り込み、思いっきりあくびをすることで、不安や恐怖に対する「生命の報復」を見せつけてやることこそ、コロナパニックによる「精神のコレラ」に打ち克つ最良の治療法となり得るのではないか・・・と思いました。
以下に掲げる一節もまた、とても印象に残りました。

「社会の平和は、人と人との直接の触れ合いやみんなの利益の交錯や直接に言葉をかわし合うことから生まれるであろう。組合や法人団体のようなメカニスムとしての組織によってではなく、反対に、大きすぎも小さすぎもしない隣人の結びつきによって、である」
                           (32 隣人に対する情念)

コロナパニックにより、多くの「人と人との直接の触れ合い」が破壊され、奪われてしまいました。まずは、「大きすぎも小さすぎもしない隣人」との触れ合いや結びつきを取り戻すことで、少しずつであっても社会に平和を生み出していくことが大事なのではないか・・・そう感じました。

「精神のコレラ」に打ち克ち、真の幸福を実現するための羅針盤として、折に触れて読み直したい名著であります。
・・・と、ここまで書いたところで緊張がとけたからか、特大のあくびが立て続けに出てまいりました。さあて、今回はこのへんで終わりにして、お茶でも飲んで寝るとしようかなあ。


【関連おススメ本】

『幸福論』
バートランド・ラッセル著、安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫)、1991年

アランの『幸福論』などとともに「三大幸福論」と称されるうちの一冊。こちらもまた、実に平易かつ理性的な語り口による幸福への処方箋であり、座右の書としてわたしを支えてくれる一冊でもあります。当ブログでも以前、詳しい紹介記事を書いております。→【閑古堂アーカイブス】わたくしに生きる力を与えてくれた名著③ B・ラッセルの『幸福論』
本書の中であらためて、いまのわたしの胸に響くものがあった一節を。
「不合理をつぶさに点検し、こんなものは尊敬しないし、支配されもしないぞ、と決心するのだ。不合理が、愚かな考えや感情をあなたの意識に押しつけようとするときには、いつもこれらを根こそぎにし、よくよく調べ、拒否するといい。半ば理性によって、半ば小児的な愚かさによって振りまわされるような、優柔不断な人間にとどまっていてはいけない」