読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『文体練習』 内容の面白さと翻訳の妙味、そして紙の本でなければ味わえない愉しさに満ちた一冊

2021-05-09 17:08:00 | 本のお噂


『文体練習』
レーモン・クノー著、朝比奈弘治訳、朝日出版社、1996年


混雑する正午のバスの車内。編んだ紐を巻いた帽子をかぶった首の長い若い男が、隣に立っていた乗客に文句をつけ始める。誰かが横を通るたびに乱暴に身体を押してくる、というのがその理由だった。しかし、若い男はそれをすぐにやめると、慌てて空いた席に腰をかける。その2時間後、駅前の広場で再び若い男の姿を見かける。彼は連れの男から「きみのコートには、もうひとつボタンを付けたほうがいいな」というアドバイスを受けていた・・・。
「事件」と呼ぶことすら大袈裟に思えるような、そんな他愛ない出来事を、多種多様な文体や形式を駆使して書き分けていくのが、本書『文体練習』です。以前からその存在を知ってはいたのですが、遅まきながらようやく読んでみました。一読してみると、もう笑いと驚きの連続。こんなに愉快で面白く、刺激的な本と出逢えたのは、実に久しぶりのことでありました。
著者のレーモン・クノーはフランスの作家。ルイ・マル監督により映画化された『地下鉄のザジ』などの、奇想天外なユーモアに満ちた小説を発表する一方、自ら立ち上げた「ポテンシャル文学工房」、略称「ウリポ」なるグループを通じて「ことば遊びによる文学的実験の試み」(巻末の「訳者あとがき」より)を行っていたのだとか。本書『文体練習』は、その試みを代表する成果というわけなのでしょう。

本書に盛り込まれた多種多様な文体と形式は、なんと99通り。末尾に加えられている3つの「付録」まで含めると103通りもあります。出来事の一部始終を淡々と記した【1・メモ】に始まる、趣向を凝らしたことば遊びの饗宴から、一部を紹介してみますと・・・。


【2・複式記述】
「昼の十二時の正午頃(中略)公共乗合自動車バスに乗り込んで乗車した。ほぼだいたい満員でいっぱいなので・・・」という調子で、同じ意味のことばを重複させて記述したもの。

【5・遡行】
「もうひとつボタンを付けたほうがいいな、きみのコートには、と連れの男が彼に言った」から始まって、そもそもの発端であるバスの中の出来事へとさかのぼって記述。

【11・以下の単語を順に用いて文章を作れ】
「持参金 銃剣 敵 チャペル 空気 バスティーユ広場 手紙」という7つの単語を、問題の出来事の記述へ巧みに・・・というか、半ば強引に入れ込んだもの。

【14・主観的な立場から】
帽子をかぶった若い男の主観で、問題の出来事を振り返るという内容。逆に、若者に文句をつけられた男の主観から出来事を振り返る【別の主観性】や、当事者である二人以外の第三者から見た【客観的に】というのも。

【20・アナグラム】
「S統計のロバ扇子のなか、雑婚する佳人。がなひょろい首をして・・・」といった調子で、文字を並べ替えた語句によって記述。

【24・新刊のご案内】
出版社が新刊書を宣伝する案内状の形式で、問題の出来事を記述。

【27・念には念を】
「ある日の正午頃、わたしはほぼ満員のS系統のバスに乗った。ほぼ満員のそのS系統のバスには、かなり滑稽なひとりの若者が乗っていた。わたしは彼と同じバスに乗り合わせたわけだが・・・」と、文中で同じことを何度も何度もくどくど繰り返す。

【34・同一語の連続使用】
「わたしは納税義務者でいっぱいのバスに乗った。車内には、納税義務者たちが納税義務者なりの旅ができるよう便宜をはかる納税義務者がいて・・・」というふうに、〝人〟をさすことばをすべて〝納税義務者〟に置き換えたもの。

【35・語頭音消失】
「 たしは とで っぱいの スに った」というように、単語の頭の音を消して記述。バリエーションとして【語尾音消失】【語中音消失】【語頭音付加】というのも。

【41・荘重体】
ホメロスの叙事詩のごとき仰々しい文体で、問題の出来事を記述。
「曙の女神の薔薇色の指がひび割れを起こしはじめる時刻、放たれた投げ槍もかくやと思われんばかりの素早さでわたしは乗り込んだ、巨大な体軀に牝牛のごとき眼(まなこ)を備え、うねうねと蛇行する道を行くS系統の乗合バスに。・・・」

【44・コメディー】
問題の出来事を、三幕六場からなる寸劇の台本にして、台詞とト書きにより記述。

【48・哲学的】
「非蓋然的時間的偶然の本質性を現象学的精神性に提示する事は大都会にのみ可能で有る。S系統のバスと言う無意味かつ道具的な非実存的存在物中に時として身を置く哲学者は・・・」と、小難しい哲学用語を散りばめた文章。

【53・ソネット】
ヨーロッパで用いられる14行の定型詩の形式を借りて、問題の出来事を語るもの。
 仏頂面に 憂鬱を 浮かべて苦虫 噛みつぶす
 鼻もちならぬ 田舎者 首の長さは まるで筒
 ・・・・・・

【74・品詞ごとに分類せよ】
もとになっている文章を分解して、それらを助詞や名詞、形容詞、動詞などに分類して列記したもの。

【87・医学】
「ちょっとした日光療法を受けたあと、隔離の必要なしと診断されたわたしは、救急車に担ぎ込まれた・・・」といった感じで、医学に関することばで問題の出来事を記述。バリエーションとして【植物学】【食べ物】なども。

【95・幾何学】
幾何学の問題形式で出来事を記述。「方程式84x+S=yによって示される直線上を移動する直方体の内部において、人体面Aは・・・」

【99・意想外】
カフェに集まって問題の出来事を語り合う5人の仲間たちのやりとりが、最後の最後に思いがけないオチがついて終わる。

【付録2・俳諧】
問題の出来事を俳句の形に凝縮したもの。「バスに首さわぎてのちのぼたんかな」。


・・・とまあ、こんな感じなのです。他愛ないダジャレのようなのがあるかと思えば、さまざまな文体と形式を取り入れたパロディやパスティーシュ(模倣)があったり、さらにはけっこう高度な言語改変があったりと、よくぞここまで多彩なバリエーションを考えついたものであります。
語られていることは同じであるはずなのに、語り口や形式を変えることで一つの出来事が違う相貌を見せていく・・・。ことばの持つ面白さとスゴさには笑かされたり、うーむそうくるかあと感心させられたりすることしきりでした。

本書のユニークな趣向もさることながら、これを実に巧みに、ときにはアクロバティックな離れ業を駆使しながら翻訳した訳者の朝比奈弘治さんの力量にも、またつくづく唸らされます。
本書の巻末には、朝比奈さんによる長めの「訳者あとがき」が付されているのですが、本書を日本語に訳す上での苦労や工夫が存分に語られていて、これもまた面白い読みものとなっています。本書には、原文をそのまま訳しても無意味になる部分や、そもそも翻訳自体が不可能な箇所がたくさんあったそうで、それらについては対応する別の日本語に「置き換え」たり、時には原文とはまったく違う形式を借用したりもしたのだとか。
たとえば【古典的】と題された断章。これはギリシア語系の単語や語根をふんだんに使った「きわめて意味の捉えにくい衒学的で気取った文体」で書かれていて、そのままでは訳しようがなかったので、「昼は、バス。満員のころはさらなり。やうやう乗り込んだデッキぎは、人あまたひしめきて・・・」と、『枕草子』の文体を使って訳したのだとか。また、【いんちき関西弁】という断章の原文はフランス語とイタリア語の混合文体という、これまた翻訳不可能なものだったので、東京かどこかの人間が関西弁らしきものを真似ているという設定のもと、「お昼ごろやったかいなあ、バスのうしろん方にデッキいうもんが付いてまっしゃろ」という文体で訳したそうな。
朝比奈さんは、このように一筋縄ではいかなかった本書の翻訳は「フランス語以上に日本語を探検する良い機会になった」といい、「日本語は相当に奥の深い柔軟なことばである」ことを実感したと語ります。翻訳という営為が、単に異なる言語を同じ意味を持つ別の言語に移し替えるだけにとどまらないということ、そして優れた翻訳者は語学に堪能なだけではなく、日本語をよく理解し巧みに使いこなせる人でもあるんだなあ・・・ということを、本書の「訳者あとがき」で認識することができました。

そして、視覚的な美しさと遊びごころを兼ね備えた、仲條正義さんによる凝った造本とレイアウトも、本書をさらに愉しいものにしています。
文字の一部が大きくなっていたり、フォントが別のものになっていたり、赤く印刷されていたり。そうかと思えば文末の活字があらぬ方向に飛んで行ったり、ページの文字列全体が傾いていたり・・・。同じことをくどくどと繰り返す【念には念を】では、章番号も「27・27・27」とくり返しているだけでなく、ページ数のノンブルまで、ごていねいに3回ずつくり返しになっております。本体価格3398円とちょっと高めな本書ですが、ここまで凝りまくった造りであればそれも納得だなあ、と思わされました。
内容の面白さと翻訳の妙味はもちろんのこと、紙の本でなければ味わえない愉しさにも満ちた一冊でした。これからも折にふれて取り出しては、ニヤニヤしながら読みふけることになりそうであります。

『汽車旅の酒』 忘れかけた旅の楽しみと意義を思い出させてくれる、吉田健一の極上汽車旅エッセイ集

2021-05-05 07:44:00 | 旅のお噂


『汽車旅の酒』
吉田健一著、中央公論新社(中公文庫)、2015年


旅はやっぱり鉄道が一番だなあ、とつくづく思いますねえ。
そりゃ、行きたい場所へピンポイントで行ける自動車での旅行は便利ですし、遠く離れた場所へ出かけるには飛行機が重宝いたします。船旅なんてのも風情があっていいものです・・・船酔いさえしなければ。ですが、鉄道での旅というのは、旅気分をより一層引き立ててくれて格別なものがあるんですよね。
列車の座席に腰を下ろし、列車が動き始めた頃合いを見計らい、まずはおもむろに缶ビールをプチン。外を流れていく風景と、駅弁に盛られたおかずをツマミに、これから向かう旅先に想いを馳せつつビールを飲むと、旅へと出かけることができるヨロコビが酔いとともにじわじわと、心と体を満たしていくのを感じるのであります。そんなわたしにとって、本書『汽車旅の酒』は、読んでいて大いに共感と愉しさを覚える一冊でした。
元首相・吉田茂の長男でもある英文学者・吉田健一は、美酒と美食、そして汽車旅をこよなく愛した人物でもありました。本書は、そんな吉田が遺した鉄道旅行と、それにまつわる酒と食をテーマにしたエッセイ25篇に、やはり旅をテーマにした短篇小説2篇を加えた上、巻末には吉田との金沢への旅の思い出を綴った能楽師・観世栄夫のエッセイを付した、文庫オリジナルの作品集であります。

本書に収められた中で、とりわけお気に入りの一篇なのが「或る田舎町の魅力」と題された紀行文です。
名所旧跡で知られている場所は旅人を慌ただしい気分にさせるから、何もないけれど落ち着いている場所に出かけよう・・・そう考えた吉田は、かつて講演で来たことがあった埼玉県の児玉という町(現在は本庄市の一部)へ、八高線の列車に乗って出かけます。
昔は秩父街道筋の宿場町として栄えながらも、名所旧跡といえるのは国学書『群書類従』を編纂した塙保己一の生家ぐらいという静かな町。それでいて一向に寂れている感じもなく、戦災を免れた落ち着いたたたずまいの家が並ぶ、土地に根付いた文化が感じられる児玉の町。そこにある唯一の旅館の眺めのいい部屋から「百年は経っただろうと思われる銀杏の大木」や、「どの屋根も上質の瓦で葺いてある」家並みを見ながら、一人ゆっくりと地酒を傾ける・・・。
現在の児玉の町は、この文章が書かれた頃からすれば変わっているのかもしれませんが(本作の初出は1954年=昭和29年のこと)、名所旧跡や観光地らしい場所はなくても、その土地ならではの文化や生活感に浸りながら、時を忘れてゆっくりと過ごす・・・そういう旅もなかなかいい感じだなあ・・・としみじみ思ったことでありました。

「道草」という一文にも大いに共感を覚えましたね。ここで吉田は、駅の食堂でビールを飲んだり、蕎麦屋でかけ蕎麦を食したりするなど、「しなくてもいいことをする機会が幾らでもある」ことが旅の楽しみだという一方で、売店で雑誌を買って読むのでは家にいるのと同じであり、「兎に角、旅行している時に本や雑誌を読むの程、愚の骨頂はない」と言い切ります。まさしくまさしく。旅先に行ってまで書物を読むくらいなら、旅気分を引き立てるような「しなくてもいいこと」を楽しみたいものですよねえ。
このくだりを読んで思い出したのが、吉田とはまた違った意味でのこだわりとダンディズムの持ち主だった伊丹十三のエッセイ「走る男」の一節です(新潮文庫『日本世間噺大系』および岩波書店『伊丹十三選集』第二巻に所収)。いわく、「私は相当の活字中毒であるが、窓際の席にある限り、およそ書物を必要とせぬ。窓外の風景が書物に百倍する楽しみを与えてくれるからである」。これもまたまさしく。移動する車内で本を読むよりも、窓の外に広がる風景を眺めるほうがよほど面白いし、興趣をそそるものがあるのですよ。

「旅と味覚」という一文で、のっけから「旅行するのと食べること、及び飲むことは切っても切れない関係にある」と記す吉田の真骨頂といえるのは、やはり旅先での飲み食いの楽しみについて綴ったエッセイの数々でありましょう。
その名もズバリ「酔旅」と題された一文。ここではまずハシゴ酒について、「やたらに新しい所ばかり探して歩く」よりも、安心できる店を四、五軒、少なくとも二、三軒見つけて、それらの店を「天体の運行」のごとく回ることの良さを説きます。その上で、「旅を少しばかりハシゴ酒の範囲を広くしたもの」とみて、「勝手を知った町から町へと、汽車もなるべく頭を悩まさない為に同じ時間のを選んで渡り歩く」という旅の楽しみを語るのです。これはいいなあ。わたしもこういうハシゴ酒旅、やってみたくなってまいりましたねえ。
そして、この一文中、いや、本書全体の中でも一番シビれたのが、このことば。

「全く、旅先で一晩旨い酒を飲むことほど、我々の寿命を延ばしてくれるものはない。後は寝るだけで、そう考えただけで夜はとてつもなく前方に向って拡る」

そうそうそう!さすがはケン一氏(うじ)、よくわかっていらっしゃる!と手放しで快哉を酒び、もとい、叫びたくなりましたよアタシは。これがいかに幸福なことなのかが理解できないような野暮天とは、お近づきになりたくはないですねえ、ホントに。

駅弁や食堂車、各地の旨いもの、さらには駅前の食堂で食べた親子丼に至るまで、旅で味わう食べものの魅力を語り尽くした「旅と食べもの」もまた、琴線に触れまくりのいいことばがてんこ盛り、どころかメガ盛り。あれもこれも引いてみたいのですがキリがございませんので、この一節を。

「旅に出るのならば、金をなるべく沢山持って行くことである。でなければ、行く先々の土地で食わして貰う覚悟でその土地に馴染むか、どっちかで、宙ぶらりんの予算の旅程つまらないものはない。食事をするのにも、何をするのにも、こうすれば安く上るなどということを考えていたのでは日常生活の延長で、それ位ならばどこか手近な場所で飲んだほうがいい」

これもホント、その通りだと思いましたよ。わたしも、どこかへ旅行に出かける時には宿泊や土産にはそこまでお金を使わなくても、飲食にはたっぷりとお金をかけるクチだったりいたしますので。せっかく日常の生活から解放されるというのに、その土地の美味しいものをたっぷり味わうこともしないのであれば、こんなにつまらないことはないですよ。
「旅に出ると、旨いものは益々旨くなり、そう大してどうということはないものでも、やはり旨い」という吉田は、「安っぽくてそして旨い味」がする駅弁の魅力についても存分に語ります。「駅弁の旨さに就て」という文章では、「駅弁を買うのを旅行する楽みの一つに数えることが出来れば、そういう人間は健康であって」「駅弁などまずくて食えないというような通人の仲間入りを我々はしたくないものである」などと書いていて、これにも快哉を叫びたくなりました。駅弁のおかずをツマミに酒を飲む楽しみなくしてなんのための鉄道旅か、とわたしも思いますよ。

本書の後半に置かれた「帰郷」という小文は、日常を離れて旅に出ることの意義が切々と響いてくる、短いながらも感動的な一篇です。
ここで吉田は、旅先で我々が見るものは「我々の日常の苦労を離れて他所の、他人の生活と結び附き、ただぼんやりとそこにも人間が住んでいるという感じ」を抱かせるといいます。そして、「余り一つのことに追い詰められていると、それが我々の生活であっても、我々は疲れてくる」ともいい、こう続けるのです。

「旅行をしていると、我々が毎日繰り返している生活に対する見方も違ってくる。第一、我々が旅行して帰って来た我々の町や村は、まだそこに帰って来るまでの気持ちで眺めることが出来て、ここにも我々の個人的な生活の立場から見ただけではない人間の生活があることが解る」

もうすでに一年以上にもわたってダラダラと続く、新型コロナをめぐるヒステリックな状況の中で、われわれは旅をすることの楽しさや意義をすっかり、忘れてしまっているのではないかと思えてなりません。それどころか、別の土地へ移動すること自体、「感染拡大防止」という、誰も逆らえない大義名分のもとで「やってはいけない」と罪悪であるかのように言われるという状況は、落ち着いて冷静に考えれば実に異常で、かつ異様なことでありましょう。
でも、時には日常から離れ、ふだん住んでいる場所とは違う場所に身を置いて、そこに住む他者の生活と結びつくことは、異なる場所に住む他者への想像力を育むとともに、自分の生活や生き方を新たな目で見つめ直すことにもつながるということを、「帰郷」という小文は教えてくれました。
だから、われわれはやはり、旅することを忘れてはいけないし、やめてもいけないのだ・・・つくづく、そう思います。

コロナ狂騒の中ですっかり忘れかけていた、旅の楽しみと意義を思い出させてくれる、愉しくも大事な一冊でありました。
今年の秋はなにがあろうと、どこかへ旅に出かけるつもりであります。1年以上にわたって旅することができず、このゴールデンウィークの予定すら奪われてしまった、腹立ちと悔しさを晴らすためにも。・・・もちろん、その時にはこれまで以上に飲み食いにはお金をかけるからな。



【関連おススメ本】

『舌鼓ところどころ/私の食物誌』 吉田健一著、中央公論新社(中公文庫)、2017年

日本各地を訪ね歩いて味わった旨いものを、食欲をそそる語り口で綴った吉田健一の食味随筆集2冊を、再編集の上で合本としたものです。北海道のじゃが芋、広島の牡蠣、長崎のカステラなどのよく知られた名産から、石川県の鰌の蒲焼き、青森の数の子の麹漬けなどの知る人ぞ知る珍味まで。日本にはまだまだ、味わってみる価値のありそうな旨いものがたくさんあるんだなあ、ということを再認識させてくれます。


『News Diet』 ニュースの呪縛から自由になり、充実した人生を送るための知恵と哲学が詰まった一冊

2021-05-03 07:04:00 | 本のお噂


『News Diet(ニュース ダイエット) 情報があふれる世界でよりよく生きる方法』
ロルフ・ドベリ著、安原実津訳、サンマーク出版、2021年


2021年がまだ半年も経っていないうちから、こういうことを申し上げるのもなんなのですが、今回ご紹介するこの『News Diet』は、今年読んだ中で最も重要な一冊となるのは間違いない!と言い切りたい本であります。
テレビやラジオ、新聞、さらにはデジタル機器を通じて、わたしたちは毎日毎日、膨大な量のニュースにさらされる日々を送っています。しかし、日々大量のニュースを消費する習慣がいかに心身に悪影響を及ぼすのかを、心理学などの学術研究をもとにして明らかにしながら、ニュースを消費する習慣を断ち切る「ニュースフリー生活」の効用を説いていくのが、本書『News Diet』です。

スイス生まれの実業家にして、日本でもベストセラーとなった『Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法』(サンマーク出版)を出した著述家でもある本書の著者、ロルフ・ドベリさん自身、10年以上前までは「ニュース中毒」といえるような状態だったといいます。
手に入る新聞を最初から最後まで読み通すのみならず、外国の新聞や雑誌にも手を伸ばすほどの「貪欲な読者」だったドベリさんは、新聞を読んでいるあいだは「自分は情報に精通し、日常の些細なことには煩わされない」「高い知識を誇るインテリ」なのだという気分に浸ることができた、と当時を振り返ります。
やがてネットニュースにも手を広げ、膨大な時間をニュースのために費やしたドベリさんは、自分自身に問いを投げかけます。「ニュースのおかげで、私は世界をもっとよく理解できるようになっただろうか?よい決断ができるようになっただろうか?」と。
そして、ニュースを消費することが気持ちをいら立たせ、注意力を低下させていることに気づいたことで、「完全に。きっぱりと。即座に」ニュースと決別する「荒療治」に踏み切ります。
はじめのうちは、ニュースを断つことにつらさを感じたというドベリさんでしたが、ニュースなしの生活は「人生の質が向上し、思考は明晰になり、貴重な洞察が得られるようになり、いらいらすることが減って、決断の質が上がり、時間の余裕ができ」るという、劇的な効果をもたらすことになります。2010年以降、ドベリさんは日刊紙を購読していないだけではなく、テレビやラジオのニュースも視聴せず、ネットニュースに浸ることもしていない、とか。

身の回りにあふれているニュースの洪水。それに依存することはアルコールと同じくらい、いやむしろアルコールよりも危険度が高いと、ドベリさんは言い切ります。本書は、ニュースに依存することの危険性が、さまざまな心理学的な知見や各種の調査結果をもとにしながら、明快に説明されていきます。
たとえば、ニュースを消費することにともなう時間の浪費。ニュースを見聞すること自体にかかる時間もさることながら、ニュースによって逸れた注意をまたもとに戻すための「切り替えコスト」にも時間が費やされます。さらに、頭の中から離れないニュースの内容について考え続ける時間も考慮に入れれば、少なくとも1日あたり1時間半、1年あたりだとまる1ヶ月もの時間を無駄にしている、とドベリさんはいいます。軽い気持ちで日々行なっているニュースチェックが、かくも大きな時間の損失につながっていたとは!と驚かされました。
多くの時間を費やしながら膨大なニュースを消費したところで、物事や世界に対する理解が深まるかというと、決してそうではありません。メディアはただただ「事実」を並べ立てるだけで、それらの出来事同士の複雑な関連性や因果関係を説明することはほとんどありません。そのようなニュースを消費することは、自分の確信を後押しする情報に敏感になる「確証バイアス」や、すでに頭の中にあって取り出しやすい情報を優先する「利用可能性バイアス」といった、心理的な思い違いを強化することにつながっていきます。これでは、物事や世界に対する理解は深まるどころか、かえって歪められたものにしかならないでしょう。

ニュースを消費することは物事や世界の見方を歪めてしまうのみならず、心身にも有形無形の害が及ぶことを、本書は指摘します。
ネガティブな内容のニュースを日々消費することは、悪いことは良いことよりも重要だと感じられる、人間が生存のためにもともと持っている習性である「ネガティビティ・バイアス」による反応を強めてしまい、それが個人的な心配ごとを深刻化させてしまうといいます。また、自分ではどうしようもないニュースばかりを連日聞かされることで「学習性無力感」に陥ってしまうことで気力を奪われ、ふさぎ込みがちになるという弊害も。
ニュースの消費によって生じる慢性的なストレスは、ひいては心身の健康をも危険にさらすことになると、本書は警鐘を鳴らします。不安症状が現れたり、攻撃性が高まったり、物事を見る視野が狭くなったりといった精神面の副作用に加え、消化不良や成長障害(細胞や髪や骨に対して)、さらには感染症に対する抵抗力を弱める原因にもなる・・・と。
さらにゾッとすることには、ニュースの消費は情報にすばやく目を通すことに適した脳の領域こそ鍛えられるものの、注意力や倫理的な思考などを司る前帯状皮質の脳細胞は退化してしまい、深く掘り下げた内容の本を読むことができなくなってしまう、というのです。そのことを、さる研究者はこんなふうに表現しているとか。「私たちは、くだらないものに注意が向くように、自分たちの脳をトレーニングしているのだ」。
そうならないためにも、ドベリさんは「いますぐに」ニュースを生活から排除し、ニュースから自由になるよう呼びかけます。テレビや新聞、そしてネットでニュースを視聴、閲覧することをやめるかわりに、「世界の複雑さを伝えられるだけの能力や情報源を持ち、事実をしり込みせずに伝えている雑誌や本」を読もう、と。

とはいえ、ニュースが空気のようにわれわれを取り巻く中にあって、「世界で起きていることを知るためにもニュースは重要」という固定観念を覆すのは、容易なことではないでしょう。
そんなわたしたちに対して、ドベリさんは「あなたの人生における重要なこととニュースには、なんの関連もない」と断言します。ニュースの重要度とメディアの関心の高さは反比例していて、むしろ「報じられていない出来事のほうが、重要度は高い場合が多い」と。そして、こう訴えます。

「あなたにとっての重要事項を、メディアから見た重要事項と混同してはならない。メディアにとっては、読者の注意を引くものはすべて重要なのだ。ニュース産業におけるビジネスモデルの核をなすのは、この欺瞞である。メディアは、私たちとは無関係なニュースを重要なこととして私たちに提供しているのだ。
「重要なことVS新しいこと」ーーそれこそが、現代に生きる私たちの戦いの本質なのである」

さらに、ニュースを遠ざけていることに対する「世界の貧困層の苦しみや、戦争や残虐行為にはまったく関心がないということですか?」といった非難については、ニュースで報じられている以外にも起きているであろう、別の大陸やほかの惑星でのもっとひどい残虐行為には「関心を持つ」必要はないのか?と問いかけ、「メディアの消費を通して世界の出来事に関心を持つ」ことが、いかに大きな自己欺瞞なのかということを鋭く突きます。

「覚えておこう。あなたの人間性は、悲惨なニュースをどのくらい消費するかで測られるわけではない。その際に覚える同情の大きさで決まるわけでもない」

そもそもニュース自体が、事実や真実から遠ざかっていく方向になっていくであろうことにも、本書は警鐘を鳴らします。アルゴリズムにより、個々の消費者の嗜好に合わせたフェイクニュースをコンピュータプログラムが自力でつくるようになれば、どんなに批評眼がある人でも抵抗するのは不可能になるだろう・・・と。コンピュータプログラムの手でこしらえられたフェイクニュースを見て「世界や物事を理解した」つもりになるとすれば、これほど馬鹿げたことはありますまい。

ニュースの洪水に溺れることなく、重要な情報とそうでない情報を選別する上で必要な考え方として、本書では「能力の輪」という概念が紹介されています。これは著名な投資家であるウォーレン・バフェット氏が提唱しているもので、人は能力の輪の内側にあるものには習熟できる一方で、輪の外側にあるものは理解できないか、ほんの一部しか理解できない、とする考え方です。ドベリさんはこの考え方をキャリア形成のみならず、メディアが発する情報の選別にも活用するようアドバイスします。「能力の輪」の内側にある価値ある情報だけを取り入れて、輪の外側にある情報はすべて無視したほうがいい、と。

ドベリさんは、本書の基調となっている人生哲学を、次のように言い表しています。「ものごとには自分が影響を及ぼせることと、及ぼせないことがあるということ。そして、自分が影響を及ぼせないことに対して感情を高ぶらせるのは愚かだということだ」。
そのような人生哲学を踏まえた上で語られる以下のくだりは、わたしの心に強く響くものがありました。

「自分にとって何が重要かを自分で決断する自由は、よい人生の基本要素だ。言論の自由よりもさらに根本的な基本要素だ。
重要な最新情報だと喧伝される報道に、いちいち頭のなかを乱されるのを拒む権利は誰にもある。すでに私たちの頭のなかはいっぱいだ。
新しいものをもっと詰め込むのはやめにして、頭を浄化し、解毒し、いまあるごみを取り除こう。情報を追加するより、削減するほうが得られるものはずっと大きい。
現代では「より少ない」ことにこそ豊かさがあるのだ」


ニュースを消費することを無意識に行い、それに疑問を抱くこともない多くの現代人にとっては、『News Diet』の主張はいささか突飛なものに映るかもしれません。しかし、わたしには自然に納得でき、かつ強く共感できるものがありました。実はほかならぬわたし自身も、この一年以上テレビやラジオ、新聞などのニュースを極力遠ざける「ニュースフリー生活」を実践している身なので。
そのきっかけとなったのが、すでに一年以上にわたって延々と続いている、新型コロナウイルスをめぐる過剰なまでの報道の氾濫です。中国・武漢での「未知のウイルス」によるパニックの発生を皮切りに、メディアは多くの時間とスペースを割いて、新型コロナをめぐる報道に狂奔し続けています。その膨大な量もさることながら、内容のほうも冷静さを欠いたセンセーショナルな煽りばかりが目立ち、そのことが社会の混乱に拍車をかける結果となっています。
全体に占める割合や、他の病因との比較もなにもないまま、毎日毎日大本営発表のごとく一日あたりの「感染者」の人数とその累計を繰り返す。全体の数からすればレアケースであるはずの「重症化」や「後遺症」の事例ばかりを強調する。特定の業種を「感染の温床」であるかのように言い募り、それらに対する規制や「自粛」を正当化するかのような雰囲気を醸成する・・・。そんなメディアの新型コロナがらみのニュース報道は人びとの心を蝕み、社会を息苦しいものにしています。他者に対して不信感を募らせ、攻撃的になる人たちが増える一方、心を病んだあげく自ら死を選んでしまう人の数も増えてきています。そんな社会の現状を見るにつけ、News Diet』のプロローグに記されている「いまやニュースは無害な娯楽媒体から人間の健全な理解力を損なう大量破壊兵器に変化している」ということばは、なんら大げさなことには思えませんでした。
わたしは早い段階から、洪水のようなメディアのコロナ報道のありように異様なものを感じ、テレビやラジオ、新聞などでニュースを追うことを極力控えるようにしてきました。そのおかげで気持ちが病んでしまうこともなく、比較的落ち着いた気分を保つことができています。なによりも読書の時間が増えて、込み入った内容の本とじっくり向き合えるようになったことは、大きな収穫でありました。なので、News Diet』が説くところの「ニュースフリー生活」が、どれだけ楽しく充実した人間らしい営みであるのか、身をもって実感することができます。

News Diet』の原書が刊行されたのは新型コロナの流行以前でしたが、コロナ流行の真っ只中に刊行された日本語版の巻頭には、日本の読者に向けた序文が掲げられています。その中でドベリさんは、「ニュースメディアは私たちになんらかの付加価値を提供することも、まとまった知識や深みのある分析をもたらすこともできないということを、コロナは示してくれた」と述べます。
そして、「そもそも私たちは、すでに数百万年も前からパンデミックとともに生きている」といいます。そのパンデミックとは「死」。ドベリさんは、古代ギリシャ起源でローマ帝国に最盛期を迎えたストア派の哲学を踏まえ、死はわたしたちの人生の一部であることを意識し、「心のなかで最悪のケースに備えていれば、不安は減って、心の平静は深まり、より明晰な思考ができるようになる」と語り、コロナばかりを過剰に恐れる現代人を戒めます。
ここに限らず、本書ではセネカやエピクテトス、そしてマルクス・アウレリウス・アントニヌスといったストア派哲学者たちの叡智が、「思考の道具」として至るところで援用されています。本書を読むうちに、ストア哲学にも俄然興味が湧いてまいりました。

コロナ騒ぎによって、ニュースが社会や人心を破壊する「大量破壊兵器」であることがはっきりしてきた昨今。ニュースの呪縛から自由になり、より良い人生を送るための知恵と哲学を平易な語り口で説くNews Diet』は、まさにいま、多くの人に読まれてほしい、いや、読まれるべき一冊であります。


【関連おススメ本】
『読書と人生』 寺田寅彦著、KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、2020年

独創的な研究を残した物理学者であり、夏目漱石門下の文人でもあった寺田寅彦の随筆の中から、読書や書物、学問といったテーマの作品を一冊にまとめたものです。
本書に収められているジャーナリズム論「一つの思考実験」は、あらゆる日刊新聞を全廃することのメリットとデメリットを思考実験という形で検討していくというもので、まさしくNews Diet』の先駆けといってもいい内容。いまから100年近く前の大正11年という時期にこのような問題提起を行なった寺田の慧眼は、本当に見事だと思うばかりです。当ブログの紹介記事はこちら。→ 角川ソフィア文庫で読む寺田寅彦随筆集(その3) 寺田流の「読み」と「学び」を概観できる『読書と人生』


『デジタル・ミニマリスト スマホに依存しない生き方』 カル・ニューポート著、池田真紀子訳、早川書房(ハヤカワ文庫NF)、2021年(元本は2019年に早川書房より刊行)

人をスマホに依存させる巧妙な罠から脱け出して、本当に大事なことに集中するための「デジタル片づけ」の方法論を説き、デジタルデバイスとの適切な付き合い方を提案する良書です。手放すべきことを手放すことで真の豊かさを得る哲学という意味で、News Diet』とも共通するものがありそう。あらゆることがオンライン化している今だからこそ、本書もあらためて読まれる価値があるように思います。単行本で読んだときの、当ブログの紹介記事はこちら。→『デジタル・ミニマリスト』 人生を充実させるための、テクノロジーとの適切な関わりかたの知恵が得られる良書

『FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』 ハンス・ロスリング&オーラ・ロスリング&アンナ・ロスリング・ロンランド著、上杉周作&関美和訳、日経BP社、2019年

刊行から2年以上が過ぎた現在も好調に売れ続けているベスト&ロングセラー。マスメディアの報道によって刺激される「ネガティブ本能」や「恐怖本能」「過大視本能」などの歪みやバイアスを排し、データに裏打ちされた事実に基づいて世界の姿を捉えるよう訴える本書も、いま改めて読まれるべき一冊といえましょう。


『リスクにあなたは騙される』 ダン・ガードナー著、田淵健太訳、早川書房(ハヤカワ文庫NF〈数理を愉しむ〉シリーズ)、2014年(元本は2009年に早川書房より刊行)

恐怖の感情に支配され、リスク判断を誤ってしまう心のメカニズムを心理学の知見から解き明かすとともに、国家や企業、活動家、そしてメディアがいかにして恐怖本能をあおってきたのかを、豊富な実例とともに暴き出していく一冊です。「X人が死亡した」という分子の部分は伝えるけれど、「Y人のうちの」という分母については伝えないという「分母盲目」の話など、まさしく目下の新型コロナ報道そのものでしょう。
わたしはコロナ騒ぎがヒートアップし始めた昨年春ごろの段階で本書を読んだおかげで、メディアの過剰な報道には距離を持って接することができました。その意味で、本書はわたしにとって「恩人」ならぬ「恩書」であります。


『ジャーナリストの生理学』 オノレ・ド・バルザック著、鹿島茂訳、講談社(講談社学術文庫)、2014年(元本は1986年に新評論より刊行、1997年にちくま文庫に収録)

『谷間の百合』などの名作で知られるバルザックが、19世紀のパリに跳梁していたジャーナリストたちの生態を類型化し、皮肉を効かせた語り口で徹底した批判を加えた一冊です。場所や時代は違えども、「社会正義」を掲げるジャーナリズムの欺瞞はまったく変わらないということが、実によくわかります。当ブログの紹介記事はこちら。→『ジャーナリストの生理学』 昔も今も変わらないジャーナリズムの病理を、完膚なきまでに暴き出したバルザックの怪著にして快著