読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

コロナパニックを乗り越えるための読書(その2) 新型コロナが露わにした「世間」の病理を明快に、そして鋭くえぐった『同調圧力』

2020-11-25 06:43:00 | 本のお噂


『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』
鴻上尚史・佐藤直樹著、講談社(講談社現代新書)、2020年


「新規感染者数」が増加に転じたことで、またもマスコミが「新型コロナの脅威」を煽りに煽っている今日この頃。新型コロナウイルスについて「怖い」という考えを持たない人間は、社会から爪弾きにでもされかねないような空気ではありますが、わたしには新型コロナよりも、パニックから冷静さと寛容さを失っていく一方の社会や人間のほうが、よほど脅威と恐怖を感じるものとなっているように、思われてなりません。
そのことを強く感じさせる要因となっているのは、「コロナ感染拡大防止」という名のもとに、社会活動や経済活動の「自粛」が陰に陽に強制され、それに従わない者を敵視し、排除するような現今の風潮です。そういった「多数派」の空気に従うことを命令し、異論を許さないことが「同調圧力」であり、それを生み出しているのが「世間」と呼ばれる日本特有のシステムです。
そのものズバリ『同調圧力』という書名がついた本書は、演劇や著作で「世間」の正体を追究してきた劇作家・演出家の鴻上尚史さんと、「世間学」などを専門領域とする評論家の佐藤直樹さんの対論をまとめたものです。それぞれの立場で「世間」の正体を見極める仕事に取り組んできたお二人が、新型コロナによるパニックで露わになった「同調圧力」と、それを生み出す「世間」というものの病理を明快に、そして鋭くえぐっていて、180ページというコンパクトな分量の対談形式の新書ながら、大いに考えさせられる内容を持った一冊でありました。

対論の冒頭、鴻上さんと佐藤さんはコロナ禍によって出現した風景を「戦時」下の光景になぞらえます。まるで〝戦果報告〟と見紛うかたちで連日伝えられる死者や感染者数。航空会社のキャビンアテンダントが防護服をつくるという〝まるで千人針〟のような風景。〝戦時スローガン〟と言ってもおかしくない「新しい生活様式」。「生活を変えろとか、いまは我慢すべきだとか、説教ばかりをくりかえす」テレビなどのメディア・・・。コロナパニックが表面化してからの世の中の空気に、「ああ、戦時中というのはこういう感じだったんだろうなあ・・・」というモヤっとした思いを抱き続けていたわたしにとって、お二人の話は我が意を得る思いがいたしました。

続いて、「世間」と「社会」の違いが論じられます。「会社とか学校、隣近所といった、身近な人びとによってつくられた世界」であり「日本人が集団となったときに発生する力学」でもあるのが「世間」。一方、「知らない人たちで形成された世界」であり「個人の結びつきが法律で定められているような人間関係」であるのが「社会」。そう定義した上で、日本では「世間」にがんじがらめに縛られていることで「世間」がホンネで社会がタテマエという二重構造ができあがっていて、現在の日本の社会問題のほとんどが、ここから発しているとして、「世間」を規定するルールの話へと移っていきます。
それらの「世間」のルールのうち、佐藤さんが挙げているのが「人間平等主義のルール」。「みんな同じ時間を生きている」との考えから感情的な連帯が生まれ、「世間」は皆同じという独特の人間平等主義につながる、というものです。
一見麗しく、結構づくめのように思えるのですが、それぞれの人が持つ能力や才能の差を認めない「一種の悪平等」でもあり、それが強いねたみ意識を引き起こします。そこから「出る杭は打たれる」とばかりに異質な者が外に排除され、差別の問題も生まれます(これは鴻上さんが挙げている「『同じ時間を生きること』が大切」というルールや「仲間外れをつくる」ルールとも対応しています)。コロナ禍においては、この「人間平等主義のルール」が「一部のパチンコ屋が開いているのは平等じゃない、公平じゃない」といった批判につながっていると指摘しています。

また、佐藤さんが「呪術性」と呼び、鴻上さんが「神秘性」と呼んでいるルールは、俗信や迷信に基づいた、論理的ではない神秘的なルールのこと。この呪術性は「ケガレ」という概念と結びつきやすい側面があり、病や犯罪をケガレ(=汚れ)と考えて、それらを「清浄」な「世間」から排除しようとします。それが(「世間」を騒がせた、迷惑をかけた、という論理とともに)コロナ感染者に対するバッシングという、理不尽きわまりない事態にも関係していることを指摘します。
これに関連して佐藤さんは、日本でマスクの着用が広がったのは「ソトのケガレた世界からウチの清浄さを守るという、呪術性からくる独特の衛生観念があるから」であるとした上で、「しかしその背後には、差別やバッシングを生み出す同調圧力の強さがあることを忘れてはならないと思います」とも指摘しています。科学的な効果などという次元とは関係なく、あたかも「おまじない」のようなマスクの着用が当然のこととされ、マスクを着用しない者は人間にあらず、とでも言わんばかりの扱いが横行している状況を思うにつけ、これにも深く頷かされるものがございました。
お二人の対論は、「社会」が欠落し「世間」をより濃密にしてしまったネットの問題にも触れています。鴻上さんは、「幼いころから「いいね!」の数やリツイートの数を気にしてせざるをえなくなり、自分がどう評価されているかということに関してすごく敏感になってしまった」がゆえに、自己肯定感や自己承認の欲求を満足させるべく、絶対に否定されない「正義の言葉」を振りかざすようになり、それが「自粛警察」にたどり着くということを指摘します。
それを受けた佐藤さんは、SNSとは「Seken Networking Service」、すなわち最初のSはSocialではなく「Seken(世間)」の略だと思うと語っていて、それもまた言い得て妙だなあと思いました。SNSも案外、息苦しくて自由の制限された場所であるということが、ときおり発生する「炎上」騒動などのさまざまなトラブルを通じて見えてきたりもいたしましたので。

個人を抑圧し、息苦しさをもたらす「世間のルール」としての同調圧力ですが、その一方で犯罪を抑制させるといったポジティブな面があることにも、お二人は触れています。その上で、「世間」を風通しのよいものにするために提示されるのが「社会」との回路、つながりをつくっていくという考え方です。
そのための方法論として挙げられていることの一つが「社会話」(しゃかいばなし)のスキルを伸ばしていくということ。お互いが同じ共同体にいることを確認し合うための「世間話」に対して、見知らぬとコミュニケーションを交わすための会話を指していうのが「社会話」です。
「社会話」の大切さを語る中で、鴻上さんは2008年に起こった秋葉原での無差別殺人事件の犯人のエピソードを例に挙げます。・・・犯人の男は事件前、ネット掲示板に「寂しい」「俺、どうすればいいかわからないんだよ」などと山ほどの言葉を書き込んだのだが、それらは全部「世間」に向けた言葉に過ぎず、結局その書き込みには誰からも反応はなかった。もし彼が「社会」に向けた言葉で(自分が置かれていた非正規という立場の大変さなどを)語りかけていれば引き返せる可能性があったのでは・・・というふうに。「だからこそ、どんな時も、私たちは「社会」に対する言葉を見つけていかなければと強く思うんです」と、鴻上さんは力説します。
このことはとてもよく理解できるように、わたしには思えました。「社会」に通じるような言葉で「社会」に向けて語りかけることは、自分が抱えるつらさや苦しさを理解してもらえる人と巡り合える機会となり得ることにとどまらず、自分の狭い世界でしか通用しない思いや考え方とは異なる考え方に触れるきっかけともなり得ます。そのことで視野が拡がり、自分が属する「世間」だけが全てではないと気づくことで、何らかの道が開けるでしょうから。
人と人とのつながりを制限し抑圧するコロナパニックは、「社会」とつながるための機会や回路をズタズタにしてしまいました。そのことで苦しんでいる人が大勢いるであろうことを思えば、いまこそ「社会」との回路をつなぎ直すための営為が必要なのではないか・・・そう思います。
このほかに、佐藤さんが作家の山本七平氏の言説を引きながら、「世間」の同調圧力に対して「水を差す」ことの有効性について語っているところにも、すごく肯ける思いがいたしました。

対論の終盤、お二人はこのように語っています。

(鴻上)世界は簡単には変わらない。世間や同調圧力を一気に消し去る特効薬があるわけでもない。ただ、「楽かもしれない」道を模索することは大事だと思います。
(佐藤)つまり、息苦しさを与えている「敵」の正体を知るということです。

そう。日本の社会に深く根差した「世間」や同調圧力が、簡単に消えてなくなるとは思えません。でも、本書が刊行後多くの人に読まれているという事実は、いまの世の中のあり方に「おかしい」という疑念を持ち、なんとかしなければと多くの方が思っておられることの証左でもあるのではないでしょうか。そのことに、わたしはささやかながらも希望を見ます。

角川ソフィア文庫で読む寺田寅彦随筆集(その3) 寺田流の「読み」と「学び」を概観できる『読書と人生』

2020-11-17 07:00:00 | 本のお噂


『読書と人生』
寺田寅彦著、KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、2020年
(原本は1950年に角川書店より刊行)


今年の5月以降、角川ソフィア文庫として刊行が続いていた寺田寅彦の随筆集。今回取り上げるのは、10月に刊行されたばかりの『読書と人生』です。
数ある寺田の随筆から、読書や書物、学問、ジャーナリズムといったテーマに関する作品で構成された本書は、いわば寺田流の「読み」と「学び」を概観できる一冊といえましょう。岩波文庫版『寺田寅彦随筆集』で読んだ作品もいくつかありましたが、今回初めて読んだ作品もけっこうあり、興味深く読むことができました。

日本橋の南北に位置する、書店の丸善と百貨店の三越を取り上げた「丸善と三越」(大正9年)は、角川書店創業者にして国文学者でもあった角川源義の言葉を借りれば「大患を契機とした寅彦随筆の転換」(本書巻末の解説より)となった作品です。それまで叙情的な写生文を得意としていた寺田は、この作品以降は科学的なものの見方をベースにしながら、近代の文明や社会、人間を巧みに、そして歯切れ良く論じるスタイルへと変化していくことになります。
「丸善と三越」ではまず、さまざまな国とジャンルの洋書が並んでいる丸善の店内の様子が細かく描写されます。そして、近代の人気作家のものが最も目につきやすいところに並んでいて、過去の作品はほとんど目につかない文学書のコーナーを見た寺田は、「古いものを新しい眼で見るのや、新しいものを古い眼で見るような閑(ひま)つぶしの仕事」が顧みられない「忙しい今の時代」に、控えめながらも違和感を含んだ感慨を記します。
そして後半、三越の店内に並んでいる呉服物から、「虚栄心という簡単な言葉」で説明される「婦人の美服に対する欲望」について考察します。ここでは、美服を万引してしまう行為を、単に「虚栄心」として片付けるような見方に疑問を呈した上で、その衝動の背後には卑近な物質的欲望だけではなく、「社会の組織制度に関するある理想に心酔して、それがために奪い殺し傷ける事をあえてする」ような「広い意味において道徳的な理想に対する熱烈な憧憬が含まれているかもしれない」と指摘し、こう記します。

「いったい普通に使われる利己と利他という両(ふた)つの言葉ほど無意味な言葉は少ない。元来無いものに附せられた空虚な言葉であるか、さもなければ同じ物の別名である。ただ人を非難したり弁護したりする時や、あるいは金を集めたり出したりする時に使い分けて便利なものだから誰れでも日常使ってはいるが、今自分の云っているような根本の問題にはなんの役にも立たないものである」

これはとても印象に残る一節です。一見すると違うもののように思える「利己」と「利他」が、実のところ根っこは同じであるという鋭い指摘を含んだ「丸善と三越」は、近代消費社会論のはしりとしても、非常に興味深い一篇であるように思います。

本書収録の作品のなかで、本格的な読書論といえる一篇が「読書の今昔」(昭和7年)。ここではまず、「商品」としての性格が強くなった、現代における書籍についての考察から始まります。
化粧品や売薬と同じように、広大な面積の新聞広告によって高められた「評判」によって、「商品」としての書籍が多くの人びとに選ばれ買われていく・・・。寺田が描き出す、昭和初期の出版をめぐる状況が、現代の日本とほとんど変わっていないことが見てとれます。
続いて寺田は、幼少期における自らの読書遍歴を振り返り、書物が容易には手に入らなかった頃の自分たちにとっては、書物は決して「商品」ではなく「尊い師匠であり、なつかしい恋人であって、本屋はそれをわれわれに紹介してくれる大事な仲介者であった」と述べます。その上で、「商品」として溢れている書物を多読することの弊害を、こう指摘します。

「読みたい本、読まなければならない本があまり多い。みんな読むには一生がいくつあっても足りない。また、もしかみんな読んだら頭は空っぽになるであろう。頭を空っぽにする最良法は読書だからである」

哲学者のショーペンハウアーが、「多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ」(『読書について』鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫版より)と語っていたことが思い出されて、実に耳の痛い思いがする一節であります。
耳が痛いといえば、客から問い合わせられた書物が眼前の棚にあるにもかかわらず、それを見つけ出すこともなく「ない」と答えるような書店の店員に接して「はなはだ淋しい気持ちを味わう」とあるところも、本屋に勤める人間の端くれとしてはまことに耳の痛い、自戒すべき話でありました。

本書にはジャーナリズム論も2篇収録されているのですが、寺田のジャーナリズムに対する見方は、けっこう辛辣なものがあります。
「一つの思考実験」(大正11年)は、のっけからこう切り出します。

「私は今の世の人間が自覚的あるいはむしろ多くは無自覚的に感じるいろいろの不幸や不安の原因のかなり大きな部分が、「新聞」というものの存在と直接関係をもっているように思う。(中略)私はあらゆる日刊新聞を全廃することによって、この世の中がもう少し住心地のいいものになるだろうと思っている」

寺田はこの考えのもと、日刊新聞が本当に必要なものなのか、そしてそれを全廃することによって生じる効果を「思考実験」という形で考察していきます。寺田は、新聞が日々報じているさまざまな記事の大部分は、「ある種のデマゴーグ的政治家、あるいは投機的の事業にたずさわるいわゆる「実業家」のうちの一部」を除く、多数の「善良な国民」がたとえ一ヶ月くらい遅れて知っても少しの不都合のないものである、と述べます。そして、深い思索に値するような事柄を、不完全、不真実な新聞の報道によって軽々しく見過ごしてしまうような習慣は、物事を追究する能力をなし崩しに消磨させ、本当に有益な書物を熟読するための熱心さと気力を失わせるような弊害があるのではないか・・・と説くのです。
実はわたしもしばらく前から、寺田が言うところの「思考実験」を、図らずも実行し続けております。新型コロナウイルスに関する多くの報道が、あまりにも不安や恐怖心を煽り立てるようなものとなっていることに嫌気がさし、新聞やテレビなどの報道から極力距離を置くようにしているのです。そのことにより、いささか社会の動きには疎くなってしまってはおりますが、普通に社会生活を営んでいれば、自分にとって本当に必要なニュースは自然と耳に入ってきますので、日々の生活を営む上ではそれほど不都合は感じません。
その上、余計なニュースをシャットアウトすることで読書の時間も増えて、ニュースでは得られないようなしっかりした知見に触れることができるのですから、もういいことづくめです。なので、寺田の「思考実験」の意義がとてもよく理解できます。「日刊新聞」を「テレビ」や「ネット(とりわけSNS)」に変えてみれば、現代でも十分通用することでありましょう。

もうひとつのジャーナリズム論である「ジャーナリズム雑感」(昭和9年)では、その日その日に起こる事件や出来事を、これまでに起こった同じような事件の類型に当てはめて報じていく、ジャーナリズムにおける「具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化」が論じられます。これについて寺田は、新聞が「世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き拡げ、あたかも世界じゅうがその類型で充ち満ちているかのごとき錯覚を起こさせ、そうすることによって、さらにその類型の伝播をますます助長するのである」と述べています。このくだりからも、毎日毎日「新規感染者数」を積み上げていき、あたかもそこらじゅうに新型コロナの感染者や死亡者が溢れているかのような錯覚を人びとに起こさせ、いたずらにパニック状況を増長させていく、目下のメディアの報道を想起させられました。
寺田は本論の最後で「毎日毎夕類型的な新聞記事ばかりを読み、不正確な報道ばかりに眼を曝していたら、人間の頭脳は次第に変質退化(デジェネレート)していくのではないか」と述べ、にもかかわらずジャーナリズムが類型的な報道をやめようとしないのは、「「定型」の永久性を要求する大衆の嘱望によるものであろう」と喝破します。これにもまた唸らされました。
思えば、新型コロナをめぐるパニック状況も、恐怖心や不安を増長させる洪水のごときコロナ報道によって、われわれの頭脳が「変質退化」させられていく過程でもあったように思われてなりません。それだけに、本書に収められた寺田のジャーナリズム論2篇が広く読まれることを、願ってやみません。

科学者に必要な資質を問う「科学者とあたま」(昭和8年)では、自分の頭の力を過信してしまうような、いわゆる「頭のいい人」の弱点が、巧みな比喩によって指摘されていきます。いわく「脚の早い旅人のようなものである。人より先きに人のまだ行かない処へ行き着くこともできる代りに、途中の道傍あるいはちょっとした脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある」。またいわく「富士の裾野まで来て、そこから頂上を眺めただけで、それで富士の全体を呑込んで東京へ引返すという心配がある」。そして、極めつけの名文句がこちら。

「頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打明けるものである」

寺田はこの一文で、人間の頭の力の限界を自覚して愚かな自分を投げ出す「頭の悪さ」とともに、観察と分析と推理の正確周到という意味での「頭のよさ」が、科学者には必要であると説いています。これは科学の研究に限らず、さまざまな分野においても参考になるような話であるように思います。
同じく、科学研究のあり方をテーマにした一文「科学に志す人へ」(昭和9年)のなかで、「自分はどうも結局自分のわがままな道楽のために物理学関係の学問をかじり散らしてきたものらしい」と書いている寺田が、物理学研究における師と仰いでいたのが、気体の密度に関する研究とアルゴンの発見によりノーベル賞を受賞したイギリスの科学者、レーリー卿です。「レーリー卿(Lord Rayleigh)」(昭和5年)は、レーリーの生い立ちから死までを辿った小伝です。
空の青さの謎を解くための研究から音響理論の研究、地下鉄の振動対策、航空力学の研究、さらにはカブトムシの色を調べたり、心霊現象に関する実験(!)まで行っていたというレーリーも、自分の楽しみのために学問と研究に取り組んだ人物でした。寺田のこの小伝の行間からは、レーリーに対する親近感と敬意がたっぷりと滲み出してきます。
なお、寺田とレーリーとの関係性については、理学博士で科学史家でもある小山慶太さんの著書『寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学』(中公新書、2012年)に詳しく書かれておりますので、関心のある方はそちらもぜひ。・・・といってもこの本、現在(2020年11月時点)では品切重版未定となっているのが、まことに残念ではありますが・・・。

本書には歌集や随筆集、科学啓蒙書を取り上げた書評文も収められていますが、その中でとりわけ興味を惹かれたのが「『徒然草』の鑑賞」(昭和9年)です。酒飲む人のだらしなさを描く一方で酒の効能を説くなど、一見矛盾するような記述をする兼好の姿勢について、「ものの両面を認識して全体を把握し」「可と不可とに対する考えをきめようと」する科学者のものの見方との共通性を指摘したりしていて、『徒然草』に対する新鮮な関心を呼び起こしてくれました。
また、さまざまな古紙を再生して作られた浅草紙を手がかりにして、文学や美術におけるオリジナリティについて論じていく小品「浅草紙」(大正10年)も、面白く読めました。

寺田寅彦流の「読み」と「学び」を集大成した『読書と人生』は、時代を越えて通用する豊かな洞察力で、考えるためのヒントをたっぷりと与えてくれました。

祝!第26回宮崎映画祭、開催決定!!

2020-11-15 20:12:00 | 映画のお噂
感染拡大だなんだかんだと、あいも変わらず飽きもせず、世の中がコロナコロナと錯乱している中で、空しく過ぎようとしている2020年。毎年秋に宮崎市で開催されている「宮崎映画祭」も、こんな状況ではやっぱり開催されないんだろうなあ・・・と思っていたら、来年の年明け早々に開催の運びとなり、前売り券の発売も始まっているとのこと。いやあ、実に喜ばしい限りであります。
会期は2021年の1月9日(土)から1月16日(土)までの8日間。会場は、宮崎市内中心部にある宮崎キネマ館です。





(↑画像2枚、宮崎映画祭ホームページより)

今度の映画祭で個人的に一番注目なのが、『シン・ゴジラ』(2016年)に『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)という新旧ゴジラ映画2作品に、劇場版『機動警察パトレイバー』第1作(1989年)、それに昭和を代表する2大スポ根アニメ『巨人の星』に『アタックNo.1』の5本立てである「宮崎チャンピヲンまつり」ですねえ。
(一応説明しておくと、東宝がかつて興行していた子ども向けプログラム〝東宝チャンピオンまつり〟を意識した企画でありましょう。〝オ〟を〝ヲ〟に変えた表記もいいですな)
また、わたしの好きな映画である、マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の『タクシードライバー』(1976年)や、まだテレビで国広富之さんによる吹き替え版でしか観ていなかったデイヴィッド・リンチ監督、ジョン・ハート主演の『エレファント・マン』(1980年)の4K修復版、さらには今年逝去された大林宣彦監督の『時をかける少女』(1983年)といった、懐かしの名作がプログラムに入っているのもそそられますねえ。3本とも、スクリーンで久しぶりにじっくりと観直してみたくなりました。ほかには、新進気鋭のアニメーション作家である岩井澤健治監督の『音楽』(2019年)と、短篇作品『山』(2018年)も、なんだか気になります。

・・・などと申してはおりますが、ここ3〜4年ほどはいろいろあって、映画祭の観覧をすっぽかしておりました(汗)。
なので不義理のお詫びと、大変な状況の中で開催してくれることへの応援を兼ねて、今度はしっかりと観覧してみようかなと思っております。といっても、やはり土日祝日がメインになると思うけれど。